六章 おのれをあきらむ
あたくしは、あたくしの生まれた季節に、あたくしを捨てなければいけないのだなと思った。
あたくしが生まれたのは、こんな、燃え立つように曼珠沙華の咲き誇る晩秋の
―ああ、今日もまた、そんな夕だ。
「…さ…、ことねさま、琴音様」
「えっ」
呼び掛けられて振り向くと、綺麗に切れ長の瞳があたくしを覗き込んでいた。その左下には小さな泣き黒子が添えられている。
「…
名を呟けば、由良は目尻を緩めて微笑んだ。
「ああ良かった。お顔の色が戻っておいでですね、琴音様」
由良の温かな手がふわりとあたくしの頬を撫でてくれる。くすぐったくて、あたくしは思わず身をよじった。
「…しばらく休んだから、もう大丈夫よ。心配掛けてごめんなさい」
「いいんですよ。輿に揺られることなんてそうそう慣れるものじゃありませんからね。酔っても不思議じゃありませんわ」
お体が冷えますよ。由良はそう言って自分の打掛を脱ぎ、あたくしに着せ掛けた。薄桃のそれは厚く、散り舞う紅葉の様が刺繍されている。温かい。
「由良も、風邪を引いてしまうわ」
「大丈夫ですよ。私、頑丈ですから」
「流行り病にかかったんでしょ?水瀬に聞いたわよ」
「…お兄ちゃんたら…」
そう。由良は墨彦の友人、水瀬の妹なのだ。ふうとため息をつく由良である。
「でも、今はもう大丈夫ですから」
「じゃあ、お言葉に甘えるわ。ありがとう」
あたくしはお礼を言って、由良の打掛にくるまった。笑みを浮かべてそれを見ていた彼女は「そう言えば、何を見ていらしたんです?」と問うてきた。
「…曼珠沙華よ」
少し離れたところを指差すと、由良はああ、と納得したようだった。
「ちょうど、そんな時期ですね」
「ええ」
「琴音様がお生まれになったのもこの頃ですよね?」
「そうよ。知らぬ間に大人になってしまったわ」
「琴音様」
「…もうあたくしは、あたくしではいられないのよ」
曼珠沙華。またの名を彼岸花。
曼珠沙華を見ていると、なぜかあの人の笑みが脳裏に蘇る。朗らかで柔らかい眼差しに、微かな諦めを宿した笑みが。
今はそれすら、どこか遠くにある。まさしく彼岸のごとき遠くに。
「琴音様は、琴音様です」
「由良?」
「大人になっても、誰かの奥方となられても琴音様は琴音様なのですから…ご自分をお捨てになる必要は、ございませんよ」
見えない何かを辿るように言葉を繋ぎ合わせて、彼女はそう言った。細い眉を愁わしげに歪めた由良は、どうしてか必死だった。
「由良が、お側におりますから」
―この人は、分かっているのだ。
何を言うわけでもないけれど、頼りない風をも受け止める柳のように、僅かに触れただけで察してしまう聡い人なのだ。そして、それを、口上を述べるようにすらすらと口にしないあたり、人の心というものを慮ることのできる優しい人。
姉がいたら、このようであったろうか、と思う。この人のようになりたい、とも思った。
あたくしは由良の手を取る。
「ありがとう」
寄せられた眉根をゆるりとほどき、由良は柔らかく笑んだ。
「いいえ」
由良の笑顔は、素敵だ。兄に似た怜悧な面立ちが華やかに温かく緩む。心がほどかれるような笑みだと思う。
「何をやっておいでです!」
背後から怒鳴り付けられた。恐る恐る振り返ると、鬼の形相をしたたおが仁王立ちしていた。
「由良、私はお前に姫様を連れ戻せと申した。だと言うに、来てみれば一緒になって話しているではないか。ただ連れ戻すだけのことが、なぜできないのか」
たおはもっともらしい顔で威圧的に語り掛ける。由良は申し訳ございません、とうつむいている。
「たお、由良はね…」
「貴女様もですよ。輿に酔ったですと?将軍の妻ともあろう御方がさようにか弱くていかがなさるのです。将軍が都にて首を長くしてお待ちなのですよ?明日の昼前には到着していなければならぬのに、これでは予定が狂いまする」
言い差したあたくしを遮り、たおはあたくしを詰った。
心の柔らかい部分が、ひんやりと冷たく硬くなってゆく。ちょうど、ほどけかけた紐を少しの手違いで結び直してしまったように。
たおはいつもそうだ。遠い上つ存在を敬うがために、あたくし達のことは見ていない―否、見えていないのだ。
「…姫様」
たおの、地を這うような声があたくしを呼ばう。
「な、何…?」
「あれは」
たおの指先が示したのは、紅い花―あたくしが見ていた曼珠沙華だった。
「え、曼珠沙華よ」
「見れば分かります、そんなこと。あれを見ておられたのですか」
「…そうよ」
その刹那、たおの顔が朱に染まった。
「縁起でもない!!」
金切り声が、夕闇の
「輿入れ道中に曼珠沙華ですって?なにゆえめでたき日にわざわざ
たおはひと息にそう怒鳴って「由良!」と矛先を変えた。由良は反射的に立ち上がる。
「お前、あれをむしっておいで!」
「え、ですが」
「あんな花を、我らが姫様にお見せするでない!むしって、埋めておしまい!」
たおは由良の背を押し、「さあ戻りますよ、お風邪を召されてしまう」とあたくしの腕を引いた。
痛いくらいの強さで引っ張られながら、あたくしは由良を振り返る。由良は寒そうに震えながら、躊躇の色も露わな手つきで曼珠沙華の茎を手折るところだった。ぱきん、という音がいやに大きく聞こえた。あたくしは自分の首を折られたような気分になる。
―冷たい風が、責めるように、あたくしの髪へと吹きつけた。
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