五章 うつろにおひおもふ
空虚だった。ただひたすらに空虚だった。
墨彦がいることにすっかり慣れてしまった頭は日がな一日彼のことを考えているし、墨彦の声に親しんでしまった耳は、ありもしない彼の言葉を琴音に届ける。
女房達は菓子や着物を運んでくる。取って付けたように甘い言葉を口にしながら、姫様姫様と琴音に寄り添うのだ。
家人達は様々な道具類を持ってくる。父や母、祖父の名を出して琴音の気を引こうとする。
だだっ広い部屋は、今や引っ越しの支度品でいっぱいだ。所狭しと並べられた櫃や長持が忙しげな雰囲気を醸し出している。自分の部屋でないみたいな、そんな様子。
琴音はかたり、と首を傾げた。不自然な動きで部屋中を見渡し、反対方向にまた、首を傾げた。
変なの、と思う。外はいつの間にか色づいた葉と花が豪奢に明るく揺れているのに、部屋は歪なほど、暗い。
***
あっという間だった気もするし、長かった気もする。よく分からない。つまるところ、本邸に移るまでの日々を、琴音はよく覚えていない。
北園の家で鬢削ぎを済ませ裳着を執り行い、意識せぬ間に琴音は大人になっていた。
白々とした部屋の中、琴音は両手を広げてみた。常と変わらぬ、小さく白い手。何一つ変わっていないのに―望んでもいないのに、大人になってしまった。大人になれば何か変わるのか。そう思っていたのに、心に空いた穴は、塞がってもくれない。
ぼんやりとした琴音とは裏腹に、周りを固める女房達はきゃらきゃらと楽しげだ。
「まあ、姫様の何とお綺麗なこと」
「本当に。こんなに美しい女子は世におりませんわね」
「まるで、咲き初めた白椿のようですわ」
彼女らは口々に琴音を褒めそやす。琴音は無表情に笑う。嬉しくもなんともない。なぜなら、彼女らの賛辞を受けているのは、琴音であって琴音でない姫様だから。彼女らが仕えているのはあくまでも北園家であって、琴音という存在は仕事の道具でしかない。親身なようでそうではなく、敬っているようでそうではない。
―墨彦だったら。
そう思わずにはいられなかった。
―こんな風に飾り立てられたあたくしを見たら、貴方は何て言うのかしら?
「さあさ姫様、花簪はどれにいたしましょうか?」
いつの間にか、たおが目の前にいた。にこにこと笑う彼女が広げているのはたくさんの小箱。白木の箱に、螺鈿や蒔絵の箱。どれも絢爛豪華で目がくらみそうだ。どこか冷めたようにそれらを見ながら、琴音は周りが急かすままに箱を覗いた。
花…?
まばゆいばかりの箱の中に収まっているのは、これまたまばゆいほどに輝く玉や金銀の細工物である。なるほど、玉は花そっくりだし、金銀は茎や葉を模して優美にたわめられている。桜に牡丹、梅や芍薬。季節外れに咲き誇る、春の花。
綺麗ね、と呟けば、「そうでございましょう?」と、たおが得意げに胸を張った。「どれも腕利きの職人に誂えさせたのですよ。きっとお似合いになりますわ」
そうなの、と琴音は気のない返事をした。
綺麗。でも、綺麗なだけ。
翡翠の葉より、本物の葉の方が鮮やかな緑をしていた。
金銀の枝より、本物の枝ぶりの方が温かかった。
真珠でできた蕾より、本物の蕾の方がふっくらしていた。
玉を削った花より、本物の花の方が透き通って美しかった。
―こんなの、花じゃない。
叫びかけて、琴音は慌てて口元を押さえた。女房の前で、こんなこと言えるはずがない。
贅沢だと分かっていた。こんなにも恵まれているのに文句を言うなんて我が儘だと理解してはいた。頭では分かっていても、心はそう大人ではなかった。
贅を尽くした玉も、繊細な細工も、琴音にとってはがらくたも同然だった。どれもこれも、琴音がほしい花とは似ても似つかない。彼が持ってきてくれたあの花々には及ばない。
陽の光と墨彦の笑顔が、脳裏をかすめて消えた。
彼の面影に向かって、ねえ墨彦、と呼び掛ける。ここには、貴方の花はないのね、と。
口を押さえて微動だにしない琴音を、悩んでいるとでもとったのだろう。女房達は明るくはしゃいで、取っ替え引っ替え簪を当ててみている。これが似合う、あれは駄目だ、と助言してくれているらしい。
好きにしてよ、と呟きたかった。
かしましい女房達にもみくちゃにされる琴音の視界の端、小さな薄紫が控えめに揺れていた―気がした。
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