四章 あせゆくいろ
輿がゆるりと進む度、しゃらんと鈴の鳴る音がする。
狭い輿だ、と琴音はため息をつく。何も変わっていない、何もかも変わっていない―むしろ今の方が窮屈だ。輿だけではない。衣装も決まりも、己の立ち位置さえも。
琴音の体を包む絹装束は纏わりつくようだし、絹の打掛はずしりと重い。薄く刷かれた白粉も、ちょんと差された紅も、焚き染められた香も、全てが煩わしい。婚礼衣装だからと言って、ここまで気を張る必要があるのかとすら思う。
同時に、もうあの頃には―髪をなびかせて、衣の袖を翻して、軽やかに振る舞い笑ったあの頃には戻れないのだという諦念が琴音の胸を占めていた。
一年と少しの期間だったのに、随分と昔のことのような気がする。北本邸で過ごした日々を思う度に心が悲鳴を上げる。空虚で何もなくて、虚ろで寂しくて。目の詰まった籠の中のように鬱屈したあの日々を、琴音はそっと思い返していた。
***
「お父様。墨彦を見ていらっしゃらない?」
思い出すのも嫌なあの日。朝露に濡れた紫陽花の傍らで、琴音は父にそう問うたのだった。
「墨彦?」
父は琴音に問い返した後、はっと悲しそうな顔をした。
「お父様…?どうかなさったの?」
父は唇を噛み締め「実はな、」と、言いにくそうに切り出した。
「…里の親御が調子を崩されたようでな。看病のため、下がらせてほしいと」
「…下がらせてほしい?」
「北園の庭師を休む、ということだ」
え、と乾いた呟きが漏れた。気付けば琴音は父に噛みつく勢いで詰め寄っていた。なぜなら琴音は知っていたから。
「墨彦がそんなことを言ったというの?」
「…あぁ」
「お父様の嘘つき」
「琴音?」
「お父様は嘘つきです」
「琴音。そなた何を」
「だって…墨彦に親御様はいらっしゃらないもの…!」
琴音が絞り出すように言うと、父の顔から一気に血の気が引いた。
「墨彦が前に言っていたわ。ずっと小さい頃にご両親を亡くして、仁弥と二人で生きてきたのだって」
「琴音」
「そんな中でお父様に会って、北園の家に召し抱えてもらったのだって」
「琴音」
「そのお蔭でようやく平穏に暮らせているのだって!」
「琴音!」
思わず琴音は声を荒げる。そこにまるで呼応するかのように父が怒鳴った。父の怒声を聞いたのはあれが初めてだった。
「そなたはまだ幼い…なにも分かっておらぬのだ」
「何がです!」
「墨彦を退けねばならぬ理由など、そなたに分かるまい!」
父は最早開き直ったようであった。しかし琴音はそんなことどうでも良かった。なにも知らぬただの子供だと言われたのに怒りが沸き上がった。
琴音が怒鳴り返そうとしたとき、「お屋形様!」という声と共に何人かの足音と裾捌きの音が聞こえてきた。
「何事でございますか」
家人達の先頭にいたのは母であった。例のごとく取り澄ました表情だ。己の脇に佇む青い花など目にも入らない、そんな表情。
「…先日下がらせた庭師について話しておった」
「庭師?」
いぶかしげに呟いた母はすい、と目を細めて琴音を見た。
「琴音」
「…」
「庭師がどうかしたのですか?」
「…」
「庭師がどうかしたのですか?」
俯いた琴音に母の顔は見えなかった。ただ、その声に思いやりを感じたような気がして心が緩んだ。
「す、墨彦に、会いたかったのです」
「…」
「いつもなら庭にいるのに、今日はいないようだったから、何かあったのかと」
「…」
「そうしたら、お父様が、」
「わたくしは貴女をそんな風に育てた覚えはなくってよ」
聞いたこともないような母の低い声が背筋を冷やした。え、と顔を上げると、まるで能面のような平たい表情で母はこちらを見つめていた。
「おかあ、さま?」
「そんな風に、庭師ごときに恋慕するようなはしたない娘に育てた覚えなんてありません」
「庭師ごとき…?」
ぷちん、と弾ける音が聞こえた気がした。
「どうして…どうしてですか!?お父様もお母様もなぜ急に墨彦を邪険に扱うのです!墨彦が、何かしたのですか!」
「何かしてからでは遅いのです!」
母が絹を裂くような怒声を上げた。びくん、と跳ねた琴音の肩を母はがし、と掴んだ。
「貴女は北の希望なの。南に我々が抗える最後の砦なの。貴女はいずれ、将軍様にお輿入れし、ご寵愛の下お子をなし、北の家の栄華を築くことを期待されている女子なのです。それまで綺麗な体でいてもらわねばいけないのよ」
「綺麗な体…」
「本家の養女となる前に下男風情に汚されてはいけないの」
「…何ですって?」
琴音はばっと母の手を振り払った。母がよろける。
「下男風情?汚される?墨彦にそんなこと言わないで!あの人はそんなことしない、あの人を悪く言わないで!」
「琴音!」
「それに、養女?あたくしが?何のことですか、そんなの聞いてません!」
「琴音、いい加減になさい!」
「どうして全て勝手に決めるのですか、あたくしの意思はないの?あたくしは従うしかないの?どうしてあたくしばかり、我慢しなくてはならないの!!」
さらに言い募ろうとした琴音の頬を小さな衝撃が叩いた。びっくりして頬を押さえる。目の前の母がぶるぶると震えながら右手を抱え込んでいた。
「…恩を、仇で返す気ですか…っ!」
母の瞳からほろほろと涙が溢れ落ちる。後ろにいた父がその肩を支えたようだった。
「琴音」
「…」
「部屋に戻りなさい」
「ぃや…です」
「戻るんだ」
腹立たしくて悲しくて情けなくて、壊れたようにぶんぶんと首を振っていると、「お前達、姫を部屋に」という父の命に従った女房達が、蜜のように甘ったるい、優しい仕草で琴音をいざなった。手を尽くして放心した琴音の気を引こうとする。そんな女房の姿を見ていると、何だか心が白く色褪せていくような、そんな気持ちになった。
―あぁまた籠の目が狭められてしまった。
一粒の涙さえ出てこなかった。
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