リフレイン
紅林みお
第1話
その日は朝から滝のような雨が降り、近くの川が氾濫して大洪水が起きた。
大量の茶色い泥水が勢いよく流れ、みるみるうちにのどかな町や家庭を呑み込んでいった。そして、私の家庭も例外ではなかった。
家の屋根がバリバリと音をたてて剥がれたかと思うと、庭に止めていた車が流され、壁に体当たりし、外壁を破壊して家の二階にまで泥水が浸食した。母が大切にしていた家庭菜園も庭の土ごと濁流にのみこまれた。
父と母、私と妹の真奈は、庭に生えていた大きな木に掴まった。その大きな木ですら、水の流れに前後左右し、非常に不安定であった。町中にサイレンが鳴るが、誰も助けは来ず、強い雨が全身を濡らして体温を奪っていった。
「もう疲れたよ」
妹の真奈は、愚痴を吐いた。
「真奈、もう少しだから、我慢しなさい」
母が疲れ切っている真奈を元気づける。
「もう少しって……もうずっとこうしてるよ。腕が痛いよ」
真奈には昔から忍耐力というものがまるで無かった。勉強も部活も全てを放棄し、そのぶん姉の私に期待がかかって迷惑するという人生だった。
「ちょっとぐらい我慢しなよ! 今どういう状況か考えなよ、真奈。皆、頑張ってるんだよ?」
「出た~、お姉ちゃん、すぐリーダーになろうとする癖」
私は、むっとした。別にリーダーになるつもりなんてない。ただ皆を励まそうとしただけなのに、この言い方は無いと思った。いつもなら「そうだね」と笑って流すところだったが、私も命懸けの状況下、余計に腹がたった。
「咲樹の言うとおりだぞ。真奈は我慢が足りないな。こういうときこそ、お父さんが、面白い話をしないとな」
父は、どんな時も危機感が無い。というのも、重大な時に限って誤魔化す癖があった。昔、私が学校で苛められていると勇気を出して相談したときも、「そんなの気の迷い」「ギャグで笑い飛ばせ」と、的はずれな回答をした。
「面白い話とか、誰も頼んでねえ~。あ、前髪が……」
真奈が悪態をついたかと思うと、掴まっていた木から手を滑って離してしまった。真奈の口に汚水が入り、ごぼごぼと溺れている。
「真奈……!」
私が叫ぶと、真奈はなんとか大木から伸びていた枝に掴まったようだった。
「この馬鹿! もう少しで流されるとこだったぞ!」
父が真奈に怒鳴る。
「だって、一時間かけて作った前髪が……」
真奈は、バラバラになった前髪を触った。真奈は洪水が無ければ、最近出来たという彼氏とデートに行く予定だった。そのためにわざわざ前髪を一時間もかけてアイロンやらワックスやらでセットしていたのだ。
その時、遠くで聞こえる誰かの悲鳴が聞こえた。
「あれ、笹川さんじゃないか? ほら、お隣の」
見ると、泥だらけのおばさんが濁流に流されていくのが見えた。
それを目で追う父、母、私と真奈。
おばさんは、口から泥水を吐いて、白目をむいていた。やがて、水面下に見えなくなった。死んだのだ。
その状況を見て、凍りつく母親。とっさにこんな言葉を口にした。
「咲樹、お願いだから真奈の手を握っててあげて」
「え……」
私は母親の言葉を疑った。彼女が掴まっている大木の位置から、妹の真奈が掴まっている枝の位置まではかなりの距離があった。一旦私が手を離して真奈のほうに泳いでいかなければ、真奈の手を握ることは不可能だったからだ。しかし、この濁流の中、泳ぐという行為は自殺行為に近かった。
「そんな……無理だよ……届かないよ」
そう、恐る恐る言うと、母は激昂した。
「ちょっと頑張れば届くでしょ! 真奈、あのままだと流されちゃう! あんたが一番近いんだから、妹の手をとりなさい」
「……」
「待ってろよ、真奈。咲樹がすぐ助けに来るからな」
父が額に汗を浮かべて、私と真奈を交互に見た。私に期待している顔だった。
「嫌だ」
私はぽつりと言った。
「なんだって?」
父が驚いている。私は町中に響き渡るサイレンと洪水の轟音に負けじと叫んだ。
「嫌だ! やりたくない!」
父と母、真奈が私を凝視した。
「さ、咲樹? ……」
「お姉ちゃん?……」
私はいつの間にか泣いていた。大量の雨で耐えきれなくなって氾濫した川のように、私の感情は爆発した。いつも何があっても姉だからという理由で我慢してきた悔しさが押さえきれなくなったのだ。
「嫌っていったら駄目なの? 妹の嫌は許されるのに、私は許されないの? そんなに生まれてきた順番で変わるの? くだらない。アホすぎる。こんな順番!」
「咲樹! いいかげんにしなさい! この家の主は誰だ?俺だ。妹を守るのが姉の役目だろ。お父さん、昔から言ってたよな。お父さんの言う事聞かないのか」
父が昔から嫌というほど言ってきた「正論」をふりかざす。いつも何かあると「姉だから」「役目」などといって、私のSOSのサインを無視し続けてきた父。それは、災害があっても変わらないことだった。
そんな父親をなだめるように、母が言った。
「さ、さ、咲樹、お父さんの言うとおりよ。お父さんが家で一番偉いんだから、お父さんの言うことに従いなさい」
母はいつもこうだった。自分の意見をもたず、父に味方する。私の家はそんな家庭だった。
「……もう家なんてないよ!」
私は、握っていた小石をびゅんと父親に投げる。石はこつんと父親の額に当たった。
「無いんだってば……もう、流されて家なんて無いんだってば!」
父が顔を歪めて私を軽蔑した目付きで見つめた。
「……咲樹、おまえ、いつからそんな子になったんだ」
真奈は口元を固く結んで父と私を見ていた。私はなりふりかまわず叫んだ。
「お父さん、いつも威張ってばっか! なのに、こういう時、何も役に立たないじゃん。口だけのお父さん、大嫌い」
その時、遠くから黄色と黒の縞模様の何かが流されてくるのが見えた。
「何、アレ」
「虎だ……近くの動物園の。洪水で流されてきたんだよ。あの動物園、確か虎の中でも一番大きなベンガル虎じゃなかったかな」
私は真顔で淡々と話した。
「虎って泳ぐのすごく上手いんだって」
父が恐怖におののいた声でわめく。
「アレ、こっちにくるぞ!」
それでも私は淡々と説明を続けた。
「虎は水の中の獲物でも、上手に獲物を捕獲するんだって。虎は肉食。一度捕まえたら息の根をとめるまで絶対に獲物を離さないんだって」
「お父さん……! お父さんのほうに来る!」
母が注意を促している間にも、大きな虎が大口を開けて、父親に迫って来た。何本もの鋭い牙が私の涙のように唾液で輝いていた。
「おいおいおいおいおいおい!」
体長4メートルはあるかと思われる大きな虎は、父親の左腕に噛みついた。そして、腕を食いちぎろうと首を左右に頭を大きく振った。
「いたいいいたいいたいいたいたいいいいた」
父の周辺の泥水が、みるみるうちに鮮やかな赤に染まった。ぶちん、と音がすると、父の腕がちぎれた。虎は、もぎとった父親の片腕を加えて、そのままスイスイ泳いで行った。私はそれを見て失笑した。
「ほら、役立たずじゃん」
顔面蒼白な父親が、弱弱しく私を一瞥する。
残っていた右手が痙攣し、捕まっていた大木から離れた。すると父は、濁流に流され、見えなくなった。
「咲樹、あなた、なんてことを……」
母が充血した目で私を睨んだ。
「は? 私は何もしてないよ? お父さんが勝手に虎に食べられただけだよ?」
「お父さんが死んだのよ! あなたのせいで! あんたが変なこと言ったから!」
「お母さんは、いつもすぐそうやって、家庭の問題を全部私のせいにした」
「……お姉ちゃん、こんな時に何言ってるの」
妹が口論する母と私を見かねて言ったが、私は言い返した。
「おまえだって、さっき前髪触ってただろ。人生の全部、空気読まないできたくせに。尻拭いはいつも私だよ!」
「今まで、どんな思いでお母さん達が……どんな思いで、あなたを……」
母親がしゃくり泣きをはじめた。いつも通りの安い涙だった。私はそんな母を見て、また淡々と言いたいことを言った。
「クソババあ。お父さんがいないと生きていけないくせに。男に依存してばかりの、芯の無い弱い女」
「そんな……そんな、咲樹、あなた、そんな子じゃなかったはずよ。いったいどうしたの」
「あーあ、また人のせいにする。家族って本当疲れるよ。こんな集団は」
私がため息をつくと、母は訳のわからない言葉をわめき散らした。そして、大木から手を離した。
「お母さん!」
真奈が、叫んだがもう母の姿は大木にはなかった。母は何かを諦めたような顔で、流されていった。
「嫌だ! 嫌だ! お母さん!」
真奈は、身を乗り出して流されていく母親を捕まえようと、手を伸ばすが、届かなかった。水しぶきに遮られた。
母はたくさんのゴミと一緒に流され、見えなくなった。
「お姉ちゃん」
そう呼ばれたが、私は、真奈を無視した。こんなやつと話したくなかった。
「私、この間彼氏ができたの……知ってるよね」
洪水の流れが速くなった。
遠くから、誰かの二階建ての家が流されてくる。それは妹のほうに確実に流れていった。
「真奈、危ない」
そう言ったが、濁流で私の声が聞こえていないようだった。真奈は会話を続けた。
「お姉ちゃんのこと、彼氏に話したらね、今度お姉ちゃんも入れて、三人で一緒にご飯たべようって、素敵なお姉ちゃんだから紹介した……」
真奈はそう言いかけて、流されてきた家の壁にぶつかった。真奈の頭が一瞬ゴムのように歪んだかと思うと、轟音とともに水に飲みこまれた。
私は茫然として、真奈がいた枝の先を見つめていた。そして、真奈が最後に言っていた「素敵なお姉ちゃん」という言葉が頭の中に残って消えなかった。その言葉は重りのように私の頭の中で痛く、何度も響き続けた。
***
夢を見ている気がする。
父と母、私と真奈が大木に掴まっている。
激しい洪水の流れがあって。
なぜかその音が聞こえなくて、四人とも笑っているのだ。楽しい家族の団欒をしているのだ。でも、なぜかとてもうすっぺらいのだ。
***
私は岸で目覚めた。
洪水は夢ではなかった。母と父、妹が流されて死んだのも。そうわかった瞬間、胸がずんと重くなった。
周りには、ぽつぽつ人がいた。
皆、同じ方向を目指して歩いている。沈んでいく太陽を追いかけている。暗い顔をして、泣いていた。
私も、皆にあわせてトボトボ歩きはじめたけれどふと脚を止める。
汚水にまみれた砂利の中に、白い花が咲いている。三輪の花が、必死に泥水の中で生き残っていた。
「バカ野郎」
私はそう言うと、三輪の花を踏み潰そうとした。でも、出来なかった。代わりに夕暮れに伸びた自分の影をめちゃめちゃに踏み潰した。どうしていいかわからなかった。あの状況下で、抑えられなかった自分の本音、今までのうすっぺらかったけど、楽しかった家族との思い出。最後の妹の言葉。だけど、自分を卑下し続けたあの三人。洪水、父の腕を食べた虎。いったい私にどうすればいいというのだろう?
私は、人々とは反対の方向に歩き始めた。
いつまでもいつまでも、一人きりで歩いていくしかなかった。太陽が照らさない日陰の暗い地面を、一歩ずつ踏みしめた。
洪水は三日後におさまったが、誰の死体も見つからなかった。
その代わりに、お腹をすかせた鮮やかなベンガル虎が、灰色の瓦礫の中をうろうろとさ迷い、餌を探していたという。
END
リフレイン 紅林みお @miokurebayashi
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