絆~きずな
まきや
第1話
少年の気配を感知して、照明の光が暗闇に灯る。
明かりはリビングルームと、そこに置かれた大きな縦長の箱を映し出した。無機質なたたずまいの直方体のボックスは、天井まで届きそうなぐらい、高さがある。
住居に置かれたこの黒い箱。初見では異常な光景に思えるはずだ。ただ部屋に入ってきた少年には、それが日常の光景だった。
彼はその構造物の正面に進み、備え付けられた丸いボタン式のスイッチを押した。
音もなく扉が開いた。臆することなく、箱の中に足を踏み入れる。扉が閉じ、外との境目が消えて、少年が箱の中に閉じ込められた。ただ彼に恐怖の表情はない。
ボックスの中身は外壁と同じ材質で、飾りはひとつもない。正面にあるのは、たったひとつ備え付けられた大型のビデオスクリーン。そこにはまだ何も映っていなかった。
「母さん」
彼の呼びかけの言葉が『対話』の合図だった。
すぐに返事は来ない。でも結果を知っている彼は口を閉じ、しばらくのあいだ辛抱強く待った。睡眠状態から起動のシークェンスを終えると、だんだんと画面が色づいてくる。やがて
ディスプレイはいつのまにか黒から灰色へ、乳白色から淡い水色へと色が変わり、やがて中央の波紋の輪を契機に、表面にひとつの像を結んだ。
女性の姿だった。銀色の短く髪を刈った中年の上半身の映像。誰にも好まれるよう、この世のあらゆる顔を集めてブレンドし、その
「おはよう、
「おはよう、母さん」
「今日の体の調子はどうですか?」
「うん、すごくいいよ。睡眠プログラムがちゃんと効いているおかげだね」
「よかった」
母、と呼ばれた女性は心底嬉しそうに笑った。
「では今日の会話を初めましょう。昨日から変わったことはありましたか? あなたが疑問に思ったこと、知りたいことはありましたか?」
「ひとつ、あるよ。昨日の夜、ヴァーチャル・ビジョンで映画を見ていたら、ニュースが割り込んできた。それがショックな内容で、続けて番組を見ていも、内容が頭に入ってこなかったんだ」
少年は考える時の口癖で、無意識のうち、下唇に人差し指をあてていた。
「どんなことが気になったのですか?」
「教えて、母さん。『家族』って何?」
一瞬、沈黙があった。映像の中の『母さん』の表情は変わらなかったが、目が質問の意図を探ろうとしているように見えた。やがて彼女は口を開いた。
「一般的に、
家族は親族を含みますが、主に血縁者や養子関係にある者が、ひと所に集まった集合を指します。住む場所が離れていても、認められた者同士であれば、それは家族です」
「法律的って、どういう意味? 他に何があるの?」
「残りは生物学の話です。法律が定義した結び付きというのは、あくまで手続き上の、古めかしく言えば、書類上で関連があるかの話になります。
でも生き物として見れば、違います。父親とその息子、母親とその娘には遺伝的なつながりがありますよね? けれど父と母を比べてください。この二人は婚姻の契約で結び付いていても、生物学上は赤の他人なのです。
ただこのふたりは同じコミュニティで生活する事を選択した。この事実だけがあります。これが家族なのです」
「人間はどうして家族を作ろうとするの?」
「人が狩りをしていた時代から、群れることは生存の確率を上げる最良の手段だったからです。
彼らは体の大きさや力で負ける獲物を倒すため、数で立ち向かいました。時には群れの一部を犠牲にしてでも、残りが生き残りグループとしての全滅を避ける道を選びました。
そうした生命の知恵が、家族という集団の行動を生み出した――まあこれはあらゆる生き物が持つ性質でしょうけれどね」
「そっか……うん。ありがとう、母さん」
渚は複雑な表情でうなずいた。
「渚さん。質問はもうひとつ、ありそうですが」
「うん、実は、昨日僕が見たニュースっていうのはね……」
渚は語りだした。ぞれは十二歳になった少女が、誕生日に母親をナイフでメッタ刺しにして殺害した、という速報についてだった。逆上した娘によって、母の義体は四肢が引きちぎられ、頭部ユニットは修復不可能なまでに破壊されたらしい(この子の母親は実体のある、旧型のロボットタイプだった)。
幸い母親の脳のベースイメージは、『対話』直前の状態でバックアップが残っていた為、簡単に修復できるとの事だった。ただ娘は犯行後、母親との面談を頑なに拒んでいるという。
渚は深い溜め息をついた。感極まり、震える声で母に向かって訴えた。
「とてもショックだった。どうしてこんな事が起きるのかわからない。僕には、大事な母さんを傷つけること自体が信じられないんだ!」
母は少年の言葉を優しく受け止めた。ただ彼女の回答はとても的確で冷たかった。
「『子殺し』という言葉を知っていますか? 渚さん。自分が産み落とした子を親が殺す――とても残酷な行為です。子に食事を与えず餓死させたり、虐待したりする、人の通念上、許されないとされてきた行いでした」
「子殺し……」
渚がゆっくりと意味を理解する間も、映像上の母は言葉をついだ。
「たしかに子殺しは残虐非道に思えます。ただこの行為は自然界にも存在するものです。より強い子孫を生かすために、弱い子を犠牲にしてでも、その糧を残りに与える。それは生き物に刻まれた命令なのかもしれません。下等生物にとっては、ただの共食い的な感覚なのかもしれませんけれど」
渚にはそのとき母が何を伝えたいのか、よく分からなかった。
「しかし『親殺し』は、自然界には存在しない事象です。人間だけの特性と言えましょう。力でも頭脳でも敵わない絶対的な存在の親を、知性という道具を手に入れた子供が殺してしまうという大罪が、です。
子どもたちは気づいてしまったのです。親というラベルを剥がしてしまえば、そこにあるのは自分と同じむき身の人間のひとり、だということに。
この少女の罪は許されるものではありません。相応の裁きを受けるでしょう。でも今回の事件で不幸だったのは、彼女の母親が
でも安心してください。あと数年のうちに、こうした旧式の母親は根絶されるでしょう。
渚さん。人の親が子育てから開放されるのも、もうすぐです。これから人類は、親殺しも子殺しも気にする必要はありません。
こうしてプログラムされた
うっすらとしか意味が分からなかったのに、体の震えが止まらなかった。渚はこの映像だけの母親が浮かべた笑顔に、初めて
渚の顔色の悪さに気づいたのだろうか。このあと母が続けた声は、これまで口にしたどの問いかけよりも、優しく温かかった。
「渚さん、大丈夫ですか?」
少年は必死に自分を取り繕った。
「か、母さんは、何でも知っていますね。いつも尊敬しています。優しくて知的で、冷静です」
「渚さん……私を母と認めて頂くことに、あらためて感動しています。私が『
映像の母親は本当に感動しているようだった。人差し指で、涙をぬぐう動作をしてみせる。
「いまこうして、あらためて感じます……あなたと……本当の
渚は表情を見せず、下を向いたまま答えた。
「わかってる……
「さて、そろそろ時間ですね。今日も学校のクラスルームにサインインしてください。授業が終わったら、あなたの好きなハンバーグを調理して、お待ちしていますから」
(絆~きずな おわり)
絆~きずな まきや @t_makiya
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