てんとう虫と田毎の月
藤泉都理
てんとう虫と田毎の月
なだらかな山の斜面に段々になって広がる大小の田んぼの水面に、月影が映し出されていくさまを
繋いだ手を引っ張って、
幸い、月は雲に隠れている。
忍び笑いをしながら、早く、早くと、後ろの子どもを急かすも、父親から怪我をするからゆっくり歩けと言われてしまい、ほんの少しだけ速度を落とした。
早くしないとお月様が姿を見せるのに、
ふくれっ面になるも、懐中電灯で照らしているとは言え、確かに夜道、しかも幅の狭い畦道は危ないので、父親の言う事を素直に聞き入れたのだ。
先頭に立つ子どもは、
革に手を引かれている子どもは、
革の父親の友人が恭佳の父親で、泊まりで革の家に遊びに来ていた。
三泊四日。今日は二日目の夜である。
一日目は一日中雨が降っていた為、家の中で遊ぶしかなかったが、革は残念がらなかった。
雨が降ってくれるおかげで、見られる光景があったからだ。
もっと降れと念じながら、迎える二日目。
雨が降ってくれたおかげで、土も植物も綺麗に輝いて見えた。
空気だって、いつもより美味しく感じられた。
泥団子や泥の城を作ったり、投げ合ったり、小さな神社に案内したり、近所のおばちゃんに枇杷をもらったり、竹藪の中を突っ切った先の秘密基地に招待したりと、恭佳を色々と連れ回した革。
高揚感を抱いたまま、夜を待ち望んだ。
恭佳にもっと、もっと、綺麗な光景を見せたかった。
驚くだろうな。喜ぶだろうな。
目を爛々に輝かせながら、辿り着いた頂上。
今まで歩いてきた道を見下ろせば、おあつらえ向きに、雲がお月様から離れて行った。
すれば、
地上に、
昨夜降り注いだ雨で満たされた大小さまざまな田んぼの、その一つ一つに、
月影が投影される。
革は勢いをつけて恭佳を見た。
早く喜ぶ顔が見たかった、驚く顔が見たかった。
そして思った通りの表情を浮かべていた恭佳だったが、無言だったので、革は首を傾げた。
「恭佳。すごくない?田んぼの中にお月様がいるの」
革の言葉に、恭佳は一度だけ小さく肩を揺らして、何度か頭を振った。
「うん、すごい。すごく、きれい」
革は悲しくなった。
言葉通りの表情を、恭佳が浮かべていなかったから。
後ろにいる父親も、いつ見ても綺麗だなあと感嘆しているのに、恭佳だけはまるで、この光景を見えていないかのようだった。
帰宅して、布団を並べて寝る中、革は恭佳に見えていなかったんじゃないかと率直に疑問を口にした。
短くない静寂の後、恭佳は口を開いた。
田んぼには、そこだけ穴を深く掘ったかのような真っ黒な円が浮かんでいた事。
その周りには、小さな光が舞っていた事。
小さな光の正体が、キイロテントウだった事。
「きっと、キイロテントウがお月様の影を食べちゃったんだ。綺麗だったよ。でも、革の見た光景は見たかったし、革にも恭佳が見た光景を見せたかったなーって思ったら、ちょっとだけ悲しくなったんだ」
「じゃあ、キイロテントウにお願いしようよ。一日だけ。一日だけ我慢してって。今日はもうだめだけど、明日の朝。だって、明日しかチャンスはないし」
「う、ん」
翌日。朝食を半分残した革と恭佳は急いで田んぼに向かい、手を合わせて、キイロテントウにお願いをした。
どうか、今日だけはお月様の影を食べないでくださいと。
自分たちも、ご飯を半分ですけど我慢しますと。
両親に半分ご飯を残す事で体調を悪くしたんじゃないかと心配される中、違うと元気に振る舞って、昼食を食べて昼寝をして、バーベキューをしながら迎えた夜。
昨日は革の父親一人だけだったが、今日は革と恭佳の両親も一緒に畦道を上って、頂上へ向かった。
しゃがみ込んで田んぼを凝視する恭佳を心配しながら見つめた革。
見えると、少しだけ震えながら尋ねると、恭佳が少し笑って革を見た。
どっちなのと、再度尋ねると、小さく頭を振られ、涙が込み上げそうになったが、握られた手に、それと、すごく優しい笑顔に。
不思議と涙は引っ込んでしまった。
キャーキャー騒ぐ両親の声が遠くに聞こえる。
すぐ背後にいるはずなのに、
「見えないんだけどね、うんと、キイロテントウはお月様の影を食べているんじゃなくて、ベッドにしているだけだったみたい。すごく気持ちよさそう」
「ねえ。革たちも触ってみない?」
突然の思い付きだったが、革はそうする事がいいと思ったのだ。
両親に許可を求めると、抱っこをしながらねと言われたので、それぞれの父親の両手に支えられながらの形で、まずは革がそっと水面に映る月影に触れた。
お月様に触ったという多幸感と、キイロテントウの睡眠の邪魔をした罪悪感を感じながら、次は恭佳が触ってと促した。
恭佳は、恐るおそる手を伸ばした。
表情はこわばっていた。
実は少しだけ、否、とてつもなく、怖かった。
お月様の影を食べてしまうキイロテントウも、キイロテントウが食べてしまってできた穴も。
自分さえも食べられてしまいそうで、怖かったのだ。
もう、誰とも会えない奥底まで落ちて行きそうで、怖かったのだ。
それでも、嫌だと断らなかったのは、革が触ろうと言ったから。
それに、怖い思い出を持ったまま、革とさようならをしたくなかったから。
少しずつではあるものの手を伸ばし続ける最中、不意に感じる温もりと感触に、それでも、恐怖は拭えず、
だが、胸に占めるのは恐怖だけではなくなっていた。
恭佳は意を決して、そっと、キイロテントウの群集に、手を触れさせた。
途端、水柱を揚げるように、キイロテントウは地上へと、満月へと昇った。
光の雨に光の柱。
綺麗で、優しくて、心温まる光景。
見せたいなあ。
革に見せたい。
切望するも、叶わず。
けれど、
「見えたよ、革」
田んぼに映る月影を、たった一つだったけれども、確かに見て。
次に、満面の笑みを浮かべる革を見て。
恭佳は
一筋の涙を流しながら。
どうして涙を流したか。
恭佳はわからなかった。
てんとう虫と田毎の月 藤泉都理 @fujitori
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