赤鼻の権兵衛

一齣 其日

赤鼻の権兵衛

 丑三つ時はとうに過ぎた。暗がりの獣道を、赤鼻の目立つ男がひそりひそりと歩き行く。

 今にも魔が顔を出しそうな雰囲気だが、これが微塵も怖くはない。大の男が迷信めくものを怖がるのもどうかという話だが、これから相対するモノと比べれば魔なんぞ大したことはない。

 月明かりも雲間に隠れ、明かりはひとつたりともない。火を焚いても良かったが、それでは居場所を知らせるようなものだ。

 息は極めて潜めよ、気配は確実に殺すべし。

 細っこい木々を抜け、その姿を現したるは随分と寂れた廃寺だ。門は朽ち果て、成すべき仕事を果たしちゃいない。幾十年も前に主を失ったという話だから、これもまた仕方ない話ととるか。

 しかし、奥にはまだ仏がいるだろう。この朽ち果てゆく寺の中、一尊静かに何を思うか。招かれざる客を前に、何を思うか。

 権兵衛は、朽ち果てた門に一礼だけすると、訳もなく門の向こうへと踏み入っていく。進めば進むほど、目も当てられぬ朽ち果て具合。僧たちが生活していたであろう御堂などは、屋根には風穴、柱には幾多のひび割れが見える。崩れ落ちるのも時間の問題であろう。

 だが、彼の足が向くのはかつての本堂である。その歩みに、迷いは一片も見受けられない。何故、彼はそこへと足を進めるか。実の所、それを言葉で綴れというのは難しい話。

 ただ、なんとなくそこに居ると言っているのだ。己の勘が、言っているのだ。事実、進めば進むほど震え立つは鳥肌よ。その扉を開いた先に、恐怖せずにはいられない何かをひしひしと感じてならないものがある。

 それでも、権兵衛の顔は涼しげを装っている。恐れなんぞ、臆面にも出しやしない。己を奮い立たせようとして、無理に心も昂らせない。高鳴りは、命取りにもなりかねん。


 絶好のこの機会、逃すわけにゃあいかんのよ。


 彼の脳裏に思い出されるは、血霧が篭った雨のあの日。

 血に塗れ、泥を被った友の死に顔。

 その瞳には、まだ敵を映しているかのような、鬼気迫るものがあった。足の腱は断たれ、腕は斬り飛ばされ、しかし、口に脇差を咥えなお戦わんとしたのだろう。

 だが、彼は死んだ。

 その屍はなますに斬られ、嘲るかのように刀が一本置き土産のよう彼が首へと突き立てられていた。

 できた友であった。

 口数は少なかったが、真面目で気が利き、己の鍛錬も忘れない男であった。同じ公儀の隠密として、この大平の世に蔓延る悪を時には暴き、時にはこの手で討ってきた仲であった。剣の腕もなかなかだったが、とりわけ正義感が強く、その姿勢には権兵衛も襟を正す思いであった。そろそろ嫁さんを貰うという話もあり、ついつい揶揄ってしまったが、嬉しそうに顔を綻ばせた姿は昨日のように思い出せる。

 いい男であった。


 そんな男が、死んだ。


 泣いた、男は泣いた。

 同僚として、切磋琢磨してきた友として、男は泣かざるを得なかった。地に額を擦り付け、おうおう、おうおうと泣きはらした。泣きはらさずにはいられなかった。

 仕事柄、下手を打って命を落とすことはザラにある。むしろ、皆が皆その覚悟をもっているのは当たり前だ。権兵衛も、彼もそれは同じだった。だとしても、背を預け、力量を競い合い、世のために戦った日々を思い出せば、涙はどうにも止まらなかった。


 取ってやるぞ。仇は、この手でとってやるぞ。


 戸に手をかけ、息を一つ。

 ふるふると慄く手を、今にも昂らんとする心を鎮める。

 覚悟は決めたか、そんな自問は最早愚問。

 ここでしくじれば、あの世で友に顔向けはできまい。

 己を一生許せまい。

 とうの昔、覚悟はあの日に決めたのだ。退路は無く、あるは前進のみよ。


 故に、いざ参らん。


 踏み出すは足、狙うは扉! 朽ち腐りゆくそれを蹴破るには十分だ。

 間髪入れず抜かれるは刀、襲い来た敵を入りざまに抜き打ち一閃! それで命を取れずとも、手傷を負わされば上等だ。


「そんなけったいな真似するかよ……待っていたんだぜェ赤鼻の。ここは、ようこそと茶の一杯もくれてやりたかったところなんだがよ」


 しかし、そこで待っていた者は襲い掛かりも、ましてやこの命を獲ろうともしなかった。

 本堂の奥に奴はいた。この頃にしては長身で、露わな上半身は随分と引き締まった逞しさが窺えられる。だが、その顔はいかにも悪辣。この寺の本尊であろう仏の頸に腰をかけていることからも、体は心を現すとでも言おうか。

 その悪辣な面が、権兵衛の顔を見るや長年の友が来たとでも言いたげな表情を見せる。それは、当の権兵衛に鋒を向けられても変わらず。

 このにへらへらとふざけた男に今すぐにでも斬りかかりたい、それが権兵衛門 の正直なところであった。

 しかし、力量が分からない。あの男を、友を一方的と言わんばかりになます斬りにしたと思われる男だ。油断なんぞは欠けらもできない。

 そして今、実際に相対してみても、その実力がどうにも見えない。へらりとふざけた笑みの内が、どうにも探りきれない。

 男の何もが見えない。見えないなりに、男の恐ろしさだけはこの体がひしひしと感じ取って仕方がない。

 間合いを測り、鋒を奴が首に向け相対しても、どうにもそれが無駄であるような気がしてならなんだ。


「真面目になりなさんなよ、赤鼻の権兵衛。貴様のことは知っているんだぜ、ホントにそのデカ鼻が赤いことは知らなんだが。公儀の隠密としてその刀で一体何人斬ってきたんだァ? 十人二十人たァ話じゃねェだろ。そんなお前さんが、今更俺を恐れるってェのは、おかしな話だぜ。これじゃあ、待ちくたびれ損になるじゃあねぇかい」

「……話が見えん」

「見えんのじゃなくて、見ようとしてねェ。んじゃあないのかい? 赤鼻の」

 言葉は出なかった。実の所、その男の言葉通りなのかもしれなかった。

 喉に骨が突っ掛かるような気は確かにあった。殺害当初こそは、感情が堰き止められずそこまで考える余裕が無かったが、今にして思えばどうにも不自然が過ぎた。

 友は、別段この男を追っていたわけではなかった。なにせ殺された当時、この男とは無関係の仕事についていたのだ。しかも、別の者がその仕事を引き継いだが、関連した者は彼の殺害に対し全く関与してなかったという。

 そもそもの話、下手人が目の前の男だと分かったのも、この男があまりにも杜撰に証拠を残していたわけで、挙げ句の果ては目撃者すらいたという始末。まるで、見つけてくれよと、そう残しているかのような。

 しかし、それが事実とすれば……。


「まァ……お前さんが奴さんを殺したと言ってもおかしくねェから、見ようとしねェのも分かるけどな」


 全ては権兵衛を誘き出すための罠……いや、果たし状とでも言いたいのか。友を屍としてまでして、否が応に権兵衛のみを引っ張りだす果たし状とでも。


 案外、これは今まで己が犯してきた業への贖いかしれん、か。


 ……考えても、埒はあかない。

 実力はわからぬ。流派も知らぬ。むしろ、知られているは己の方。

 しかし、ここで奴を討たねばならぬことだけは明白だった。友の無念を晴らさんが為には、この男を討たねばしょうがない。

「ちいとはその気になったかい。正直、茶の一杯よりも死線の交わし合いこそ本望……なぁ、赤鼻の」

 立つや否や、男は陰で隠れていた場所から己が得物を抜き取った。

 長さ三尺以上、それはかつて戦国の戦場で活躍したといわれる野太刀であった。しかし、今となっては戦は見るべくもない。当然、野太刀も活躍の場を見失った。

 逆に言えば、野太刀相手に戦った者も殆どいまい。それは、相対する権兵衛も同じこと。元から戦い方が見えぬ男であったが、これは余計に予測がつかない。

 間合いは当世風の打刀より広いが、広い分この本堂という屋内では柱などが邪魔になり、思うように振り回せないだろう。そんな常識ぶった読みをすれど、さてその男が定石通りに動いてみせるか。

 事実、奴は構えという構えを見せず、顎でかかってこいよ、などという仕草を見せる。どこからでも斬ってみせろと、そんな馬鹿にした物言いすら感じさせる。

 だからこその慎重だ。どちらにせよ間合いの長さは向こうが上、下手に踏み込んだら獲られるは己が頸。

 ならば、どうする。

 奴を、どう討つ。

 この刃、どう届かせる。


「じれってえのは変わらずかい……だがよ、ソイツは違ェだろ」


 不意に開く、男の口。

「……違う?」

「俺らは、討つだとか届かせるとかじゃねェってことさ」

「……ならば、なんだ」


「殺すか、殺されるか……だろォなァ!」


 間を破るは、仏の頸。

 転がっていたそれを、奴は躊躇の欠片もなく蹴り飛ばす。狙うは、権兵衛の赤鼻一点だ。

 予想外の一手、だとしても反応できない権兵衛ではない。咄嗟の柄尻が、仏の頸を難なく捌く。

 と、同時に迫るは一閃。奴が振り込んだ野太刀が、間合いの外から襲い来る。流石の権兵衛も、こいつを読むまでには至らない。

 その鋒が駆けるは、権兵衛のガラ空きの胴。見事に腹を掻っ捌いたかに見えたが、無理矢理に体勢を崩し後ろに退くことでこれを躱す。

 というわけにもいかなんだ。着物と皮一枚……腑がこぼれなければまだマシか。

 だが、安心にはまだ早い、ここからこそ本番よ。

 奴が勢いは止まらない。躱されたとなれど、次で斬ればそれで良い。

 次で殺せればそれで良い。

 そう言わんばかりの刃の嵐が、権兵衛を狙い来る。

 そこに技は無いが、しかしどうして速さに重さが乗っている。下手に刃を交わしたなら、その重さに絡め取られるは必定。

 かといって刃を躱し続けるとなれば、勢いはなお加速して止まない、いずれはこの頸も飛ばしてみせるだろう。

 本堂の柱を盾にしようにも、紙細工のように斬ってみせるのだから度肝を抜かれる。死角に入ろうものなら、軽やかに身を翻しまたしても一薙ぎ。

 しかも奴め、右手左手と取っては替えを繰り返し、勢いを殺さずなお重さを重ねてみせるものだから、一撃一撃が必殺よ。


 確かに、当たれば次で殺せる一撃かい。


 刃風は、一撃ごとに確実にこの身へと迫っている。

 本堂という場所を最大限に利用しようにも、奴が一撃の前では無意味。しかして、奴を前にして逃げるなど、己が覚悟が許さない。

 ならば、どうする。

 どうしたら勝てる。


 どうするもこうするもあるかよ!


 出るは勝負、踏み込むは刃の嵐。

 受けるれば敗北。

 躱すも敗北。

 斬られたならば言うまでもなし。

 なれば打つ手は一つ、届く前に届かせる。

 時は、一陣の刃風を潜り抜けたその刹那、左から右へと取り替える一瞬こそ奴が隙。

 そこにこそ入れよ、渾身の一撃を! 

 いざ果たせよ、友の無念を!


「莫迦が」


 瞬間、迅雷は突き抜ける。

 顎先から脳天へ、奔り過ぎた一撃は脳髄を揺らし視界を歪ませる。

 しかして、なお止まぬは衝撃の雨霰。膝は覚束ず足捌きもままなりやしない。

 どうやら得物は、野太刀だけではなかったらしい。顎を撃ち抜き立て続けに蹴り込む脚もまた、奴は得意とするとみえた。一刀二脚流とでも言おうか、だが、感心する余裕なんざあったものではなかった。

 せめて刀だけはと離さぬが、震える脚は地面を掴み立つので精一杯。捌きも受けもままならぬ、骨身は何度軋んだことか。何より、頬が弾けただけでも倒れかねぬ様相は、我ながら情け無しとさえ思える始末。

 けれど、意地という名の支え杖は、なおも脚を挫かせぬ。


 ならば結構! 歯を食いしばり目を剥き開き、この痛みに耐えた先に活路を見出せ権兵衛!


 そう自らに言い聞かせ、も一度込めるは己が覚悟。

 覚悟さえ決めれば、揺らぐ脳髄でもこの腕一本は動かせる。

 窮鼠猫を噛むという。追い詰められし生死の狭間、この刻こそ一分の閃き瞬かん。


「やっぱり、同類だぜアンタ」


 奴が蹴りとを重ね、刃風はいざ轟く。

 窮地の一閃は右の切り上げ、しかし紙一重に奴が鼻先を掠めてみせた。

 ここで終わりと思うなかれ。空を斬る刃と天を向いた鋒とをとって返し、今度は脳天直下の一太刀よ。権兵衛の身は既に奴の懐にあり、返すも捌くもままならぬ。

 故に、奴も奴で身を翻し一旦の間をとってみせる。しかし、権兵衛を映す瞳は、どこか歓喜に満ち溢れた装いだ。

「……殺せなんだ癖に何をそんなに」

「何をそんなに……ってェのは俺の方だぜ赤鼻の。アンタ、どうして笑っているんだい……どうして笑って『いられる』んだい、なァ?」

 見せつけるように翳すは、奴が刀身。丁度差し込む月光が、映る権兵衛のよくよく顔を露わにする。


 笑み、そこにあるはどうしようもなく笑みだった。


 それこそ、眼前の男に負けじ劣らずの歓喜の笑みよ。もとよりの赤い鼻はなお赤みを輝かせ、剥き出しの歯は今にも獲物を食わんとする様。友の仇を前にするには、どうにも不似合いな笑みだった。

 だが、権兵衛は呆れこそすれど、驚きはしない。


 己が業は、己が一番解っている。


「愉しいだろォ、赤鼻の。結局俺たちは同類なんだァ、戦って、そして、人を殺したくて、しゃあない……同類なんだァ、俺たちァ」

 噂はかねがね聞いていたと、男は語る。

 幕府公儀の隠密として、犯罪者から疎ましい御要人まで、人を選ばす殺してきた権兵衛という男のことを、知っている限り語ってみせた。

 人を斬ったその時の顔は、見事に快感に打ち震えていたと。刀を手にすれば、たまらず心の昂りを抑えられず、そいつが口元に現れていたと。

「それが、ようやっと相対してみれば普通の武士と変わらない……いや、普通を装っていたのかね。友の仇として、真面目に討とうとしていたのかね……笑わせるぜッ」

 討つも殺すも、結局のところやることは変わらない。そこに大義があろうが無かろうが、言葉を変えようが変えまいが、やることは同じなのだ。

 斬る。殺す。斬り殺す。

 だが、友の仇を仇として討ちたかった想いも本物である。あの時流した涙も、本物である。

 業は業なれど、しかしいつまでもその業に身を委ねてもいられない。友を想うのならば、業を抜きにしてかの男を討ちたかった。

 しかして、真面目になればなるほど、自分の剣が鈍るのを感じていたのもまた事実。余計な事に気を配って、勝負だなんだと格好をつけて、それで追い詰められてちゃ仕方がない。

 それで死んでは元もない。


「そうさな……お前さんの言う通りだ。少し、ガワを被っていた」


 遂に男は腹を割る。己を騙すなんざ、やはり向いちゃいなかった。

 窮地の閃きは歓喜の現れ。

 死合いに胸は昂り、命の奪り合いに心が高鳴る。

 この身を震わす恐れすら、今となっては甘美な蜜。

 歓喜は、もはや抑えられずにはいられない。

 身の内の業は、最早隠すべくもない。

 正直になれよ権兵衛、友の仇だろうがなんだろうが、愉しみたいのがお前だろう。

 迷い惑いは捨て去った。心に決めたるはただ一つ。


 ここで殺さにゃしょうがない。


「仕切り直しだ……行くぞォ!」

「望むべくもねェよ……赤鼻ァ!」

 間合いだとか実力だとか、そんな思考はかなぐり捨てた。一心不乱に踏み込み刃風を轟々と鳴らすや否や、花火に勝らん火花を散らす。

 そして、鍔迫り合い……などという拮抗はつまらない。一歩踏み込み抜いてはまた一合、なおも届かねばまた一合、それでも仕留め損ねばまた一合。

 刀だけじゃあ済まさない、隙あらば握った拳もお見舞いだ。

 怒涛の蹴りも忘れるな。

 腰の得物はもう一つ、抜かなきゃ銘が泣いちまう。

 いざとなれば、この頭蓋すら立派な凶器となり得よう。

 そこに、技も無ければ術も無い。あるは、殺さなけりゃしょうがない、そんな叫びを刃に乗せて、ただただぶつけ合う獣が二匹。

 遂には届いた互いの刃、しかして奴等は傷付くことすら厭わない。斬られようが貫かれようが、振るう刃は止まらない。

 腕や脚などは放っておけ、最後の勝ちは命を獲ったか奪られたか、それで全ては決まるのだ。ならば、止まるべくもなし。

 死合いというのは、そういうものじゃあないか。

 これでこそ、愉快というものじゃあないか。


 だからこそ、俺は友のようには成れまいて。


 見事なまでの快音とともに、刃は飛んだ。

 交わす刃は全て渾身、どれもが必殺と呼ぶべき代物。故に、刀の方がもたなんだ。むしろ、ここまで撃ち合って見せたことこそ、褒めて然るべきだろう。

 しかして奴らめ、折れてもなお戦いはやめぬらしい。いや、むしろここで勝負を決める腹づもりよ。

 くるくる、くるくると面白いように空を舞う刃を、互いが互いに咄嗟に掴む。

 そいつで狙うは腹か、胸か、それとも頸か。


 否! 否! 否! 

 狙うは命! 奪るは魂! 

 殺さなしょうがない我等故に!


 永久に続くかに見えたこの死合いも、遂に幕は閉じられる。

 生死を決めるこの一合こそ、やはり笑わずにはいられない。

 まさにこの刻よ、歓喜の絶頂極まるは。


 ………………

 

 斬りたいから斬るのだ、殺したいから殺すのだ。

 公儀隠密となって、人を斬り続けてどれほどの月日が経ったか。

 人と死合う事に、人を斬り殺す事に魅了され、どれほどの年月が流れたか。

 時代にそぐわぬ業を背負ってしまったと、権兵衛は自らのことながら痛感する。

 十三の時、不意に出くわした辻斬りを斬ってから、この身はずっと狂気に苛まれ続けてきた。

 木刀竹刀などは玩具にしか見えず、道場試合は生ぬるい遊びのように感じられて随分と久しい。まるで、呪いか何かかとでも笑いたくもなる。

 しかし、抑えられぬものは抑えられなんだ。

 継ぐはずだった家も弟に譲り、自らは公儀の隠密としての生き方を選んだ。

 さすれば、人と死合えるのだから。

 さすれば、人を斬れるのだから。

 だか、決して友のように正義感が無かったわけではない。むしろ、世のためにもなり、そして己の為にもなるならば一石二鳥じゃないかと、名案でも思いついたかのような心地すらあった。彼なりの、業と世の擦り合わせとでも言おうか。


 正義の為に戦い斬れば、この業も満たされるだろうて。


 その代償が、今まさに線香を供えたこの墓石であった。

 自身に纏わりついた死臭が、奴を呼んだと言っても過言ではないだろう。奴が望んだは権兵衛との勝負……いや、死合い。

 望みを果たした者は、見事に笑って死んでいった。紙一重に斬り伏せた奴を見て、男もまた笑わずにはいられなかった。

 全てが終わり、友の墓に参ってみて、後に残るは悔いばかり。

 斬りすぎたやもしれん。

 殺しすぎたやもしれん。

 結局のところ、眼中には愉しみしかなかったのかもしれぬ。

 ここで眠る友のように、真に世を思い悪と戦ったとは、今となっては口が裂けても言えやしない。

 今回の戦いを経て、それはより重く、深く突き刺さる。

「結局、俺はお前のようには成れんよ……お前の仇討ちですら、俺は己が愉しみとしちまうくらいだからな」

 全ては今更である。悔やみに悔やんだところで、溢れた水は盆に帰ることはない。

 ならば、男は進むしかない。

 己が業を背負って、男の道を進むしかない。


 己が選んだ道なら、尚更。


 合わせた手を解き、男は立つ。

 ぽつ、ぽつりと降りたる雫。折角供えた線香も、どうやら台無しになりそうな雲行きであった。

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