春の果て

草薙 至

春の果て


 実家から徒歩で約十七分。高校入学時から大学卒業を控えた今も、毎日のように利用している最寄り駅。

 いつも使う西口には大きなロータリーがあって、朝のラッシュ時には何台もバスが並び、駅の改札では、通過する人々が単調なリズムで電子音を鳴らす。美味しかった地元のパン屋はなくなってしまい、かわりにどこで買っても同じ味がするチェーン店のパン屋ができた。

 

一方東口は、改札を出るとすぐに商店街がある。叔父が住むこの東口に出るのは、きっと今日が最後だ。

 写真家や画家という仕事に就く彼は、海外を飛び回りながら、知人から譲って貰った一軒家を改装し、アトリエ兼住居にしている。そこは、子どもの頃からしょっちゅう通っていた場所だ。


 駅前スーパーの入口に置いてあるガチャガチャは私が子どもの頃からあって、叔父は当時私が好きだったアニメのキャラが当たるまで硬貨を入れてくれた。そしてお互いのポケットに、丸いカプセルをパンパンに詰めて帰った。


 義理の姉にあたる母は、少し粗野なところが目立つ叔父を好んではいなかったが、私は彼がしてくれる肩車から見える世界が大好きだった。

 商店街を進むと、昔ながらの駄菓子屋がある。ここではよくアイスを買ってもらった。二人で食べながら歩き、途中でアタリが出ると、叔父は店に戻るかまた今度にするか聞いてくれた。あの頃の私にとって、アタリの棒はまた会える約束の棒だった。


 人が行き交う中、後方で鳴る自転車のベルを聞きながら、通い慣れたクリーニング店で叔父の服を引き取る。普段は着衣に頓着のない彼も、画廊など仕事で出向く場にはスマートカジュアルを身にまとう。

 髭を剃り、きちんと髪を整えた見慣れない姿。初めて見たのは高校一年の夏の終わり。

 

 私の頭に浮かんだのは「大人の男」という言葉。

 

きつい煙草の匂い、絵の具のついたヨレヨレの部屋着、嬉しそうにカメラをいじる大きな手、制作に行き詰ると腕を組み、指の腹で喉仏を撫でる癖……。

 猛烈な憧れは、大学に入った頃から胸の苦しさへと変わっていった。

 絶対に叶わない初恋の苦しみと、それなのに名前を呼ばれるだけで、嬉々と鳴る自分の胸を何度も恨んだ。


 商店街を抜けて、左に曲がる。

 夏がくる度に花火をした公園。捨てられていた子猫を拾った駐車場。その先に見えてくる、古めかしい一軒家。

 これまで重ねてきた、彼との記憶をめくりながら歩く道には一人分の影が伸びている。


 叔父は数年前から熱心に呼ばれていた海外へ、ついに拠点を移すことになった。きっと、今頃は引っ越しの為の家財整理に飽きてしまい、カメラでも触っている頃だろう。


 家に上がったら、いつも通りに言えばいい。

「叔父さん、コーヒー淹れようか?」

 これまでに何度も言ってきた言葉を小さく呟きながら、私は玄関の扉に手をかけた。

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