雨通宿(うとじゅく)

@chihe1

雨通宿

二人は、家の中から窓を開けて外を見ていた。外は雨が降っている、ザーザー降りだ。

「いやねえ」 コトエが言った。

「雨ばっかりねえ」 シズが応えた。

 日曜日の午後、二人はうらめしそうに暗い空を見上げた。シズの家のすぐ横に小学校がある、二人はそこに通う六年生だ。家の人は、みんな田んぼの仕事に出かけている。晴れていたら、いっぱい外で遊ぶことができるのだが、雨の日は家の中で何もすることがない。


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 長崎県五島市に、雨通宿というところがある。いつも雨が降っているところという、「うとじゅく」と読む。昔は、福江市吉田町雨通宿、という地名だった。郵便配達の人が、バイクで通るんだけれど、あそこは名前んとおり、いつも雨が降っとる、そん手前も先も雨は降っとらん、そんとき降っとらんでも、地面がぬれとるんじゃ、地元の人たちはそんなふうに話す。

 島の東端、福江市街から西に向って行き、猪掛トンネル(平成2年、開通)を通り過ぎると、山の中を通る道となる。昔は、トンネルの上の猪掛峠を越した。すぐに、右手に本山小学校の分校跡があり、雨通宿になる。道は、雨通宿を過ぎると、島のほぼ中央に位置する、二本楠に至り、そこをまっすぐ西に行くと荒川、北は岐宿、南は富江とつながる。

 本山小学校は、昭和21年に雨通宿に分校をおき、猪掛峠の上り口につくった。小さい校舎と、小さい運動場だった。

 一の川(いちのがわ)は、福江島中央部を南から北へほゞ縦断し、北岸の河務湾(岐宿湾)に注ぐ、二級河川である。下流域は一の河川(いちのこがわ)とも呼ばれ、上流域は、二里木場川と呼ばれる。翁頭山(おうとうさん)西麓の繁敷ダムを源流とする二里木場川の流域に、雨通宿の田畑が拓けている。繁敷(しげしき)ダムは昭和53年に完成した。福江島では、西に並んで流れる鰐川を上回る最大の川で、延長15.3kmは、長崎県内で第6位である。

 シズは四月から中学生になった、それで、猪掛峠を越えて翁頭中学校に通学した。そこは、本山小学校と道路をはさんだ、ま向かいにあった。猪掛峠を上って下るのに一時間かかる、それから右手に翁頭山を見ながら、水田が広がる平地を35分歩いて学校に着く。シズは、毎日行きも帰りも、峠は登りから始まることに感謝した、これが逆だったら歩けるかどうかわからないと思った。

 五月、二里木場川にホタルが舞う。一年の始まりを知らせるように、田植えの始まりを祝うように。

 シズの両親は、米作りと野良仕事でいっぱいいっぱいだった。朝から晩まで働いた、きつい仕事だった。だから、シズはばあちゃんに育てられた、ばあちゃん子だった。


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「いつも、ごめんね」 シマが言った。入り口のすぐ前の部屋で、ふとんに横になっている。

「なんでもないって」 そう言って、カズは土間で持ってきた荷物を解いた。

「わたし、カズちゃんが来てくれて、どんなにうれしいか」

「わたしは、シマちゃんに会いたくてくるとよ」

「いいや、ここに来たって、何も楽しいことなんかない、こんな病人の世話ばしてもろうて、申し訳なか」

「ううん、こんなことぐらい、わたしシマちゃんに何もしてやれない、病気もなおしてやれない、だから、わたしは、シマちゃんといっしょなの、そう思ったら、わたしの気持ちが楽になった、気負いもなく来れるようになったの」

 シマは、カズの顔を見て、カズの話声を聞いて、言っていることと気持ちが本当かどうかわかる。カズは本心から言っている。

「だから、シマちゃんも、ごめんなんて思わんでね、ごめんなんかないんだから、いっしょなんだから」

 カズは、作業している手を止めて、やさしい顔でシマを見た。シマは、小さくうなずいた。

「わたしは、家でいっぱい食べているんだから、シマちゃんもっと食べてね」 いつも昼ごはんをいっしょに食べた。

「健康のためには、腹八分目がいいんだって」

 シマは、そう言ってみんな半分ずつ分けた。カズには、シマのそうする思いやりが痛いほどかなしかった。


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 昭和の初め頃まで、島の西の端、東シナ海に面している貝津は、三井楽の表玄関として、貝津→高浜→頓泊→丹那→荒川→二本楠→雨通宿→福江、と人がやっと通れるような山道を歩いて、福江に往復したと言われている。

 福江・荒川線の、猪掛と雨通宿の間は、猪掛峠を越える。九十九(つづら)折りの道を辿らなければならなかった。この道路の難所だった。

 翁頭山は、父ヶ岳(461m)、七岳、に次ぐ、福江島第3の高山である。昭和24年、戦後の学制改革で、本山村・大浜村組合立翁頭中学校が開校された。

 六月、梅雨の時期に入った。

「ばあちゃん、どうしてここは雨ばっかり降るの」 シズが聞いた。

「よくわかんねえけんど、山と風のぐあいじゃろうなあ」

「そう」 気のない返事だった。

「雨雲が山にあたって、山の斜面をのぼっていくとき雨が降るんじゃよ」

「ふーん」 これもまた愛想のない返事だった。

「風のあんばいで、だいたい雨が降るのがわかるよ」

「あん」 もう聞いていないようすだ。

「雨ん日は、学校に行く道は、またいろいろ大変だろうなあ」 ばあさんがいたわるように言った。

 シズは黙っていた。

「シズ、雨が嫌いか?」

「うん」

「シズ、学校まで歩くのが嫌か?」

「うん」

「シズは雨通宿が嫌いか?」

 ばあさんはやさしく問いかけた。シズは下を向いたまま、小さくうなずいた。

「そうか、そうか、いいんじゃよ、それでいいんじゃよ、シズがそう思うのは、それでいいんじゃよ」

 二人、窓から外を見た、霧雨が降っていた。

「わしも、子どもの頃は、ここが好きになれんじゃた、雨が好きになれんじゃたよ、シズと同じじゃったよ」

 あしたは日曜日、雨はやみそうな気配だった。

「シズ、あしたばあちゃんに付き合わねえか」

 シズは黙っていた、返事をしなかった。

「海ば見にいかんか、弁当もってな」

「うん、行く」

 朝、ばあさんとシズはいっしょに弁当をつくって、家を出た。一の河川に沿って歩いた。右に川の流れを見ながら、流れる方向にゆっくり歩いた。サワサワと水の流れる音と小鳥の鳴き声が聞こえる、山間の静かな空間だった。35分ほどで大坂峠のふもとに着く、福江市街からの道で、川をまたぐ〈一の河橋〉が架かっている。(平成6年に、大曲トンネルが開通する)

 二つの道が合流して、そこから川幅も広くなり、道から数メートル下になった。道はやはり川と並行に続く、山あいのずっと平坦な道で、一時間ほど歩くと川の横に田んぼが広がり、すぐに海の河口が見える、河務口である。

 潮が引いた広い磯の脇に、二人腰を下ろした。

 海をま正面に見ながら、おにぎりを食べた。潮風が吹いて、気持ちよかった。

「シズ、来てごらん」 ばあさんが立ってうながした。シズは、ばあさんの雰囲気が変わったのがわかった。ついて行ったら、小さい空き地の前でばあさんは立ちどまった。

 そこは、昔は家が建っていたことはわかった。小さい庭だった場所もわかる。

「ここに、シマちゃんていう女の子が住んでいたんじゃ、病気になって、ここでひとりで住んでいた、ばあちゃんの大好きな友だちじゃった」

 昭和の初め、日本では肺結核という伝染病が流行った。かかった人は治らない人が多かった、若い人たちがたくさん命をとられた。病院に入院できない人は、人里から離れたところに移された。シマちゃんは、雨通宿から、この河務に来させられた。小さい空家だったところを少し手入れした、でもあばら家だった。

「ばあちゃん、泣いちょっとね」 うつむいているばあさんに、シズが声をかけた。

「こん家に、ここにあった家に、シマちゃんがおったとよ、こん家に、ひとりでさびしく住んじょったとよ」

 シズは、ばあさんが泣くのを初めて見た。そして、シズも涙が出てきた。

 帰り道、ばあさんはシズに話して聞かせた。

 二人は同じ歳で、小さいときからずっと大の仲良しだった、いつもいっしょに遊んだ、お互いの家に泊まったりもした。

「わしは、雨通宿から卵や野菜をもって行った。二人でご飯をつくって食べた。子どもの頃を話しながら食べたよ」

 お盆のとき、正月のとき、祭りのとき、一年の行事が待ち遠しくて、楽しかった。二人お菓子をほおばった、おいしいねって、顔を見合わせた。そのシマちゃんの笑顔を覚えている。

 カズは、週に一度は訪ねて行った。一日がかりだったが、両親はいつも快く送り出してくれた。

「シマちゃんは、雨通宿に帰りたいと話した。こうして離れてみると、雨通宿はいいところだってな。わしも、それを聞いていて、シマちゃんの言うことが正しいと思った」

 ――わたし、雨通宿のよかったことばかり思い出すの、雨に濡れた草や花、木々の葉や枝や幹、流れていく霧の帯、かすむ山々、そんな風景ばかり思い出す。晴れた風景は、あまり思い出さない。雨の風景が、雨が、何かを語りかけていたんだと思う。

 晴れた日の、満開の山桜や、一面紫色になるレンゲソウ畑も思い出すけれど、ただきれいだったと思うだけなんよ。

「そんな話を聞いてから、わしも雨通宿が好きになった、雨通宿のどの場所も、雨通宿の雨も、大好きになったんじゃよ」

 行くときと違って、シズはばあさんの話を真剣に聞きながら歩いた。もうまわりの景色は見なかった、ばあさんの話す声に、そのかなしい思いがわかった。ばあさんは、話をしながらタオルで涙をふいた、涙を止めようとはせず、あふれるままふいていく、それがシズを真剣にさせた、初めて大人の世界を知るようだった。

「おまえの名前は、わしがつけたんじゃよ、おまえの親がわしにつけてほしいと言ったんだ、わしゃ、明治生まれだから、女の子の名前は、カタカナしか思いうかばんというても、それでいいと言った。長女から五女まで、アサ、サチ、チヨ、ヨシノ、ノブと、しりとりみたいにつけた家もあったもんじゃ。でも、わしのシマちゃんを想う気持ちを知っとったんじゃ、それでわしにつけさせてくれたんじゃよ、わしは礼を言うた、そのシマちゃんの一字をつけたんじゃよ」

 二人は、雨通宿に着いて、墓地によった。

「シズ、ここがシマちゃんのお墓だよ」

 ばあさんは線香を持ってきていた、ろうそくにマッチで火をつけた、そして線香に火をつけた。線香の煙が空の方へあがっていった。

(シマおばさん、はじめまして、おばさんの名前の一字をもらったシズです、よろしくお願いします)

 そう心の中で話しかけて、手を合わせた。

 それから、シズは今までと違う思いで、雨を見た、違う気持ちで雨を感じた、雨をいとおしく思った。

 歩くことも苦にならなかった、あの道を、あの山道を、ばあちゃんは歩いた、シマおばさんに会いに一時間半の道のりを歩いた。ばあちゃんの気持ちを考えたら、シマおばさんの気持ちを考えたら、歩けることに感謝した。


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「シマちゃん、わたし、うそは言わない、シマちゃん、わたし、シマちゃんがいたから雨通宿が好きになった、シマちゃんがいたから、本当のしあわせがわかった、お礼を言ったら、シマちゃんにしかられるから言わないけれど、これは本当のことなの」

 カズがずっと思っていたことを口に出した。シマに感謝したいと思っていた、話さなかったのは、シマが病気になったからというふうにとられることが心配だった。

「そう」 シマはほほ笑んでいた。からだの具合がいいのだろう、ずっとふとんの上に座っている。

 カズの気持ちは、御見通しだった、ずっと前からわかっていた。

「わたしも、お礼は言わないね、お礼を言ったら、カズちゃんにしかられるけんね」

「うん」

 そうして、二人はほほ笑み合った。心の中で、お互いいっぱいお礼を言った。


 シマは、雨通宿の米はおいしいと言って、ご飯を食べた。雨のおかげだね、きれいな水のおかげだね、と言った。本当においしそうに、大事そうに食べていた。シマは、ご飯の米粒の一粒も残さなかった。炊いたご飯は、みんな食べた。それでも腹八分目なのかと、カズは疑った。それが、かなしゅうて、かなしゅうて。

 戦争が始まった、何で人間同士が殺し合わなけばいかんのか、カズにはわからない、そして、シマがどんなに思うことだろう。

 カズは、河務からの帰りの道をずっと歩いて来て埃まみれになって、雨通宿に着いて雨にうたれた。何と気持ちのよいものか、空気がひんやりした、自然が生き生きとしている。

(ああ) カズは初めてシマの話した気持ちがわかった。

 このことだったんだ、シマの好きな雨通宿は、このことだったんだ、そう思ったら涙が出てきた、ここに帰ってこれないシマがかわいそうでたまらなかった。

 カズは、雨に打たれながら泣いた、顔にあたる雨が涙を流してくれた。


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「シズ、雨が降るのを嫌だと思うなよ、いいことだと思え、シズ、学校まで歩いていくのをきついと思うなよ、喜んで歩け」

 ばあさんは、事あるたびに話した。シズは言われて、嫌だとは思わなかった、ばあさんの自分を思う気持ちがわかった。

「シズ、楽ばしようと思うな、楽ばしたらからだがなまる、からだは使え、からだば大事にしろ」

 秋の運動会に、両親とばあさんは中学校に行った。シズの走りにたまげた、走るのも速かったが、その精一杯の顔に涙が出た。シズががんばっているとわかった。

 日本は高度経済成長のときだった、土地を離れる人が多くなった。百姓をやめて都会に出て行った。

カズは残った。――何ば、心の支えに生きていくかだよ、一番大切なことは何か、そっば誤ったらいかん。

 昭和39年、東京オリンピックが開催された年、雨通宿分校は、休校になった。

 この年、シズは高校生になった。そして、雨通宿の学生はバス通学ができるようになった。

「シズ、自分のためと思ったら、がんばりがきかんとぞ、誰かのためと思ったら、がんばれるもんたい、その誰かばさがすんじゃよ」

 ばあさんはよく話して聞かせた。

「シズ、勉強はそんなにせんでもよかぞ、からだばしっかりつくれ、強いからだをつくれ、たくさん歩いたり、走ったりしろよ」

 シズは、ばあさんの言っている意味が、少しずつわかるようになった。

「わしゃあ、一度も歩くのをきついとは思わなかった、シマちゃんのことを思えば、きつくもなんともなかった、シマちゃんは歩きたかった、元気になりたかった」

 ばあさんの話には、必ずシマおばさんが含まれているということもわかった。

「シズ、しあわせと思わん方が、いいんだよ、しあわせと思わん方が、本当の生き方なんだよ、しあわせは、あしたに求めていくんじゃよ」

 今でも、ばあさんはシマおばさんといっしょにいるんだと思った。

「かなしみにある人ばみるんじゃよ、かなしみにある人から教えてもらうんじゃよ、そん人をいっときも忘れないんじゃよ」

 見ようとするんじゃよ、会いに行くんじゃよ、自分から出かけて行くんじゃよ、何はさておいて、それを一番にするんじゃよ。

 お腹を減らすんだよ、満腹にはならないんだよ、腹八分目だ、後の二分は減らしておくんだよ、そして、その二分を求めるんだよ、満腹になったら、出かけて行けないんだよ。

 米作りは大変な作業だ、農家は機械を買って規模を拡大するようになった。ばあさんとシズの両親は、手作業を続けた、機械に頼ったら、稲への愛情が、自然への感謝がなくなると思った。

「シズ、本当のしあわせは、楽なこっばすることじゃなかとぞ、シズ、本当の喜びは、きつかことや、苦しかこっからもらうんど」

 春、仕事の最初は、苗作り、田んぼのほうは、田打ち、肥料まき、それに水を入れて、代掻き、と続く。そして田植え。夏、稲熱病の予防剤の散布、それから生育を見て追肥をする、溝切り、畦畔の草刈り。秋、稲刈り、乾燥、籾摺り、田んぼでは、秋打ちをして、堆肥を入れる、そして脱穀となる。

「どこをみて生きていくのか、そこんところを間違ったら、失敗するんじゃよ」

 耕耘機は買わず、牛で田打ち(田起し)をした。田植え機も買わず、除草剤も使わなかった。

「わしは、いくつもいくつもかなしみをもっているんだよ、自分のかなしみじゃない、わしが知っている人たちのかなしみなんじゃ、それを思っては、わしの心の中で勇気がわいてくる、ありがたいことじゃ、そしていつか、わたしがお役に立てることがあればと思うとる、そうして生きとるんじゃよ」

 わしはシマちゃんのことを考えたら、かなしいことしか見れんやった、楽しいこととか、しあわせなことは考えたくなかった。


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「カズちゃん、昔のことばかり話さんで、先のことば話そう」 シマが明るい声で言った。でも、カズはそう話すシマの本当の気持ちはわからない。

「シマちゃん」

「よかとよ、わたしは死ぬことばかりば考えとらん、生きることも考えとる、ね、カズちゃん、大人になったら何になりたい」

 カズはもう涙をこらえきらず、話そうとしてもことばが出なかった。そうして、二人泣いた。涙がなくなるまで泣いた。


 雨通宿から河務までの往復の道のりを、ひとり歩いていると、カズはシマのことだけを考えることができた。ふだん家で考えているときとは、違う気持ちがした。真剣にどれだけでも、そしていろんな考えがうかんできた、それがうれしかった。

 歩くことが、歩くことで、こんなに普段と考えも気持ちも違ってくる。そして、もう一つ、自然をゆっくり見ることができた。草や花、虫や鳥、山や空や雲、ひとり無心に対峙することができた。

 春には、山桜の白色があちこちに山肌を彩る、夏には、道の脇の草むらに白ユリや鬼ユリが群れをなして咲いている、秋には、ススキがなびき、トンボが飛び交う、冬は冷たい風が身を引き締める、雪景色のなんときれいなことか。どの季節も、知らない間にやってきて、わからないうちに去っていく、そのつつましさ、そのいさぎよさ、自然は寡黙であり、そして、たくさんのことを教えてくれる。


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 シズは、高校を卒業して、長崎の有名な菓子本舗に就職した。すぐに、東京の支店に配属された。東京行きと言われても、シズは少しも動じなかった。自分で、そんな自分が誇らしかった。

(ばあちゃん) 心の中で、そう言って、ばあさんに感謝した。

 工場の中で、ささやかな新入社員の歓迎会があった。自己紹介になって、場が静かになった。

「山本シズです、よろしくお願いします。長崎県の、五島列島福江島の雨通宿から来ました、うとじゅくとは、雨が通る宿、と書きます、字のとおり、周辺は晴れてても、そこだけは雨が降っているという場所です」

 私の自慢は、へこたれないことです、どんなことがあってもへこたれません、これは生きていく気持ちを強くもっているということです、これは、私のばあさんから教えてもらいました。

 中学生のとき、学校まで峠を越えて、長い道のりを歩きましたから、からだにも自信があります。

 その明るい元気なあいさつに、会場は和んだ。


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「わたしは、何もなかった、わたしは、つまらない人生だった」 シマがいつもにない口調で言った。カズは、シマのからだが弱っているのに気づいていた。

「こんな歳で死んでしまう、大人になる前に死んでしまう」 荒っぽい声だった。

「シマちゃん、ちがう、ちがうの」 カズは思わず口をはさんだ。

「ちがわない、わたしはくやしい」

「シマちゃん」

 そうして、二人は泣いた。


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「住んでいるところで、天気だって歩く道だって、みんな違う。人間の不公平は、当たり前の話じゃ。世の中は公平なことはない、不公平ばかりじゃ、だとしたら、それを笑って受け入れたほうがいい」

 ばあさんは話した。

「つらいと思ったときは、どうしようもないと途方にくれたときには、シマちゃんがそばにきてくれるんじゃ、そして、言うんじゃよ、――わたしは何にしてやれんけど、何にもでけんから、あんたと同じだよ、いっしょに耐えるよ、そばにいるよ、いっしょにがまんしような、そう言ってなぐさめてくれるんじゃよ」

 シズはしんみりと聞いていた。

「シズ、シズも、シズのシマちゃんば、さがせよ、そして、そん人といっしょに生きろよ、そん人ん、お世話ばしろ、役に立てな」

 ばあさんは、一字だけでも同じ字のシズを見ていると、シマと重ね合わさってくる、シマちゃんが元気に生きているように思える、そしてうれしくなる。

「シズ、雨を嫌いだと思うな、かなしみを嫌だとは思うな、雨を大事に思え、かなしみをありがたく思え、シズ、雨から何かを教えてもらえよ、かなしみが大切なことを教えてくるっとぞ」


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 夜更け、カズの家の戸をたたく音がした。みんな床についていた、父さんが起きていって、戸を開けた。シマが倒れるように入ってきた。父さんが抱きかかえて板張りに寝かせた。母さんがすぐにふとんを出した。カズは青ざめた。

「シマちゃん」

「カズちゃん、・・・わたし会いたくて、・・・歩いてきた」

 カズは泣けて泣けて見ているだけだった。父さんがシマの親の家に走った。母さんがお湯でしぼった手ぬぐいを渡してくれた。シマは歯をくいしばって、シマの擦り傷と泥だらけの足を拭いた。

「ここまで歩いてきたの、・・どんなに遠かった、・・どんなにきつかった、・・」

「お礼を言いたかった、・・」

 シマは、カズの腕の中で息をひきとった。

 ――シマちゃん、お疲れさんだったね、よくがんばったね、わたしが見ていたからね、すばらしい生きざまだったよ。

 葬式のとき、カズはそう声をかけて、手を合わせた。


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 シズに田舎の家から電話がかかってきた。アパートの玄関の横の管理人の部屋の電話を、ガラス戸を開けて廊下で受話器をとることができた。

 母親から、ばあちゃんが話したいということが伝えられた。

「シズかあ・・」

「ばあちゃん、大丈夫ね、寝込んだって聞いて、心配で心配で、・・」

「おうお、すまんのう、シズ、ばあちゃんは大丈夫だ、心配せんでよかぞ」

「ばあちゃん、遠くて帰りきらん」

「なんばいうとか、よかとよ、もう、ばあちゃんも、よかとよ、わしゃ、うれしか、シマちゃんと会えると思うと、うれしかとよ」

「ばあちゃん」

「シズ、ぎばれよ、シズ、ありがとうね」

「ばあちゃん」 シズは何も話せなかった。母親が、ばあちゃんが安心して横になったことを伝えた。


 次の日、母親から電話があった。ばあちゃんが今朝亡くなったと言った。きのうのシズとの電話の後、ずっと眠り続け、一晩で静かに息をひきとった。

「シズ、おまえがばあちゃんを看取ってやったんだよ、きれいなお顔だよ、ありがとうね、よくしてくれたね」

 シズは、部屋にもどって正座した。窓の外に向かって手を合わせた。

 ――ばあちゃん、この都会の中にも、かなしみにある人がいる。私はよく気づくようになった。私はその人たちの手助けをしようと思っている。ばあちゃん、天国から見ていてね。


 東京のデパートの地下一階は、食料品売り場になっている。長崎のカステラの店も一角にあった。

 中年の婦人がひとり展示品の前に立ちどまった。

「いらっしゃいませ」 シズが前に立ってあいさつをした。

「この二個セットを、ひとつください」

「はいっ、ありがとうございます」

「贈答用にしてね」

「はいっ、かしこまりました」

「ふふふ、あなた、元気があるわね、話をしてると、こっちまで元気になるわよ」

「はいっ、ありがとうございます」

「あなた、長崎の出身かしら?」

「はいっ、長崎の五島です」

「そう、いいところなんでしょうね」

「はいっ、とっても、とっても、いいところです」



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