エピローグ


 暖かな春の陽射しが窓から差し込むオフィスを喧騒が満たす。今朝の気温はそこまで高くなかったが、右往左往する刑事達は額に大粒の汗を浮かべている。ともすれば『四季折々』などという言葉を忘れてしまいそうになるほど、この光景は年中変わらない。


「……もう一ヶ月か」

 

 空になったカップを見つめる綾城の漠然とした呟きに、千尋は同じく漠然とした答えを返す。


「あっという間、でしたね」


 綾城は黙って頷く。


 あの夜の出来事は今でも鮮明に思い出せるし、一生忘れることはないだろう──などと余韻に浸る猶予が出来たのは本当につい最近のこと。拳銃発砲の報告書だの関係者の精神鑑定だの、この一ヶ月間のほとんどは事件の後処理で東奔西走していたのだ。


 結論から言うと、事件の捜査は打ち切りとなった。

 証拠が挙げられないのはもとより、そもそも犯人の確保が不可能なのだから当然と言えば当然だが、それを伝えるのが如何に困難なことか。

 この町を襲った未曾有の集団失踪事件はある日を境にパッタリと止み、実態は明らかにされず、事件は『未解決』のファイルにそっと綴じられた。

 警察の威信も何もあったものではない。被害者親族を含めた関係者からの問い合わせは止まず、メディアからの突き上げも相当なものだったが……やがては落ち着いた。例の感染症のワクチンが普及し始め、世間の興味はそちらに移ったのだ。

 

「これで……良かったんでしょうか」

「何がだ?」

「御家族や友人を失った人達からすれば、事件は終わってなんかいません。……彼らはこれからも探し続けるんでしょうか? 消えてしまった人達のことを」


 事件は誰もが与り知らぬところで幕を閉じた。被害者達の行方も、千尋達が何と出会い、何と戦い、何を失ったのかも。彼らに知る術は無いし、説明のしようもないのだ。


「さぁな。俺達は神父じゃないんだ、これからどう生きて行くかまで示してやれんさ。酷なようだが、各々で折り合いをつけて行くしかない。……俺達もな」

「……そうですね」


 千尋が視線を落とす。その先にはどこにでもある小さなパイプ造りのスツール。今はいない誰かさんがよく座っていたものだ。


「少なくとも田村君は救えた。俺もお前も生きて帰ったし、もう原因不明の失踪者は出てない。今は、それで良しとする他ないだろう?」

「分かってはいる……つもりです」


 その時、入り口からパタパタと急ぎ足の足音が聞こえた。この今にも躓きそうなそそっかしい足音は事務員の大木だろう。


「綾城部長、お客様です!」


 案の定、オドオドした様子の大木がひょっこりと顔を出した。来客の予定は無かった筈だが。


「ああ、噂をすればだ。行くぞ」

「え、私もですか?」



 何の説明もなく連れて行かれたロビーの応接コーナーで待っていたのは意外な顔だった。


「田村君!?」

「あ……お久しぶりです」

「やあ。身体はもう良いのかい?」

「はい、調子は良いです。暫くはちょっとぼんやりしてたんですけど……。やっと、受け入れられて来たのかなって」


 もう一人の生き残り、田村圭太。

 彼はあの後中々目を覚まさず、警察病院に運ばれたのだ。外傷は軽いかすり傷程度だったが、医者によれば心的なショックが大きかったためであろうとのことだった。

 そして、翌日目を覚ました彼はあの夜のことをほとんど覚えていなかった。心を守るための防御反応か、それとも。

 

「そうか。そう言えば引っ越したんだって?」

「はい。前に言われた通り、実家の方に。……今日はお礼が言いたくて」

「お礼?」


 予想もしていなかった言葉に思わず千尋が訪ねる。この日初めて正面から見た彼の顔は想像と違い、憑き物が落ちたような笑みを湛えていた。


「はい。今こうして生きていられるのはお二人のおかげですし、僕も前に進もうと思って」

「前に……」

「……実は、一つだけ覚えてることがあるんです」


 彼は膝の間に組んだ手を見つめながらポツリと語る。


「一言だけ、『ありがとう』って。……確かに奈緒の声でした。それで、何だか色々分かった気がして。……すみません、訳分かんないですよね」


 はにかみながら言う田村に、千尋は首を振る。


「ううん、分かるよ。……私も、今分かった」


 そう言うと、彼はまた微笑んだ。



「──今日はお会い出来て良かったです。それでは」

「ああ、元気でな」


 鷹揚に手を振る綾城の隣で署を後にする田村を見送りながら、千尋が呟く。


「結局、何だったんでしょうね。今回の件って」

「ホントのところは分からんさ。ただ、ここまで大きな事態になった原因は何となく予想がついてる」


 言いながら綾城が何かの書類を手渡す。


「……これは?」

「生安の坂田に調べてもらってた。失踪した人達が残したSNS記事だ」


 ブログ、チャット、非匿名のネット掲示板等々。そこに記されていたのはあの日澤田奈緒のブログで見たような、見えない何かを怖れる人々の助けを求める声だった。


「こんなに……やっぱり、綾城さんの見立ては正しかったんですね」

「重要なのはそこじゃない。もっと前だ」

「……? どういうことですか?」


 千尋が怪訝そうに問うと綾城は資料を横からめくり、失踪事件以前の記事をいくつか見せる。

 そこには友人や恋人、家族に会えない寂しさや世情に対する不安を吐露する言葉の数々が並べられていた。


「例の感染症。あれが流行ってから社会には『繋がり』を絶たれた人が溢れ、夜の街からは灯りが消えていた。……あいつがこの町に来たのは偶然だろうが、この人達が狙われたのは恐らく偶然じゃない」

「『寂しい人、怖がってる人、助けてあげて、連れてきて』……か。やり切れないですね」


 そう言うと、綾城が少し複雑そうな顔をした。


「実情は多分、もっとやり切れない。お前が言ってた、橋田が正気を保ってた理由を覚えてるか?」

「それは……私が、生きてると思ってたから……」

「……悪い。思い出させたな。とにかく、澤田奈緒が俺達を助けてくれたのも恐らく似た理由だろう。……なら、他の人達はどうだ?」

「あ……」

「さっきも言ったが、実際のところは分からん。ただ、その法則に当てはめるなら……『繋がり』ってのが何なんだか分からなくなるよな」

「これも、現代社会の闇、ってやつなんでしょうか?」

「言い得て妙だな。今回の件はまさに『闇から闇へ』だ。自分の無力さが嫌になる」


 自嘲する綾城を尻目に、千尋は思い出していた。 

 月の消えた夜空を。影から溶け出すように這い寄る無数の腕を。

 あの黒い塊は闇から生まれ、この町の夜に人々の恐怖を具現化させて猛威を振るった。が、結局は自分自身もそれに呑まれてしまったのである。

 闇から闇へ。

 彼がこの世界に迷い込んだことは『きっかけ』に過ぎなかった、ということだ。


「……また似たようなことが起きるかも知れない、ってことですか?」

「可能性はある。……心配するな。次はもっと上手くやれるさ」

「もう二度とごめんですよ……まあでも、度胸は付きました」

「その調子だ。これからも頼むぞ、相棒」


 そう言って綾城は千尋の頭を軽く叩き、オフィスに戻る。千尋は彼に気取られないよう少しだけ頬を緩め、後に続く。



 ──彼女の背後に佇む女に、気付くものはなかった。

 

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影向 水上祐真 @mizkamiUma

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