第5話 生きるために必要な理由とは何か(後編)

 生きるということと時間を使うということは同一の意味である。生きるためには時間を使うし、時間を使うということは生きているということである。生きるという行為の総称を人生というならば、それは費やした時間から導き出した一つの結論と呼べるはずである。要するに時間は人生とも表現できるし、人生は時間とも表現できるはずである。では私達はその人生という時間を、いったい何に使えば良いのだろうか。


 私は時間の使い方を考察することで、私達に必要な生きるための肯定的理由を導き出そうと思う。まず生活するために時間を使うというのは肯定的理由にならない。生活をするために時間を使うというのは、ではどうして生活をしなければいけないのか。という問題に発展する。すると生活をするための生活という曖昧な答えが、いつの間にか否定的理由となって、私達を絶望状態に陥れてしまう可能性があるのだ。


 ではもう一度、万人に対して共通する肯定的理由について考察しよう。当たり前ではあるが、愛する人と共にいるため、家庭を守るため、というものは共通的な理由になりえない。


 先ほどに、生きるとは時間を使うことであると述べた。生きることと時間を使うことは、言うまでもなく密接に関わっている。では生きることを充実させるということは、自らに与えられた時間を有意義に使うことだと理解はできないだろうか?




 私は絶望状態と対なるものを充実状態と呼ぶ。人間は自らが使用する時間に価値を見出すことで、生きるということに満足し、充実状態になることができるのだ。


 しかし価値のある時間とは、いったいどのような時間のことなのだろうか?そもそも有意義な時間というものは千差万別で、その意味は人の数だけ存在するに違いない。だがその意味を解釈することに関しては、肯定的理由において余り重要ではない。肯定的理由において最も重要であるのは、人間が心に持つ充実状態への希望であるからだ。


 時間に意味を見出して価値あるものとするには、人によってその価値観が全く異なってくるため、万人に共通するような対象は存在しない。しかし時間を何かによって良く使いたいという抽象的希望は、おそらく万人に共通する、生きるための理由に成りえるのではないだろうか?これこそが私の考える万人に共通する肯定理由である。


 時間を良く使いたいという抽象的希望自体は、誰しもに一つしか存在しないものである。しかしその抽象的希望は、時間の経過と共に具体的希望に変化する。具体的希望とは、先ほどに述べた、愛する人と共にいること、家庭を守ること、趣味、などといった人によっては複数存在するものである。


 抽象的希望と具体的希望は全く異なる。抽象的希望とは燃料のようなものであり、それは私達人間が生きるためのエネルギーである。


 人間は誰しもが初め、抽象的エネルギーのみしか持ち合わせていない。しかし私達は成長と共に抽象的希望という生きるための燃料を、より明確な具体的希望に変えていく。ここで重要なことは、抽象的希望が具体的希望に変化するということだ。人間が持つ抽象的希望は人それぞれによって質量が異なるのだが、おそらく殆どの人が、大人になると共に抽象的希望を殆ど失ってしまう。人間は抽象的希望に関する感覚が余りにも鈍いので、少量の抽象的希望は私達に殆ど影響を与えない。それどころか私達の精神的視力は、自らに残された抽象的希望を認識することさえしてくれないのだ。


抽象的希望が具体的希望に変化することに関しては、大いに結構なことに思えるのだが、具体的希望だけを頼りに生きるとは、実際、不安定な生き方になってしまう。これは余りにも理解しがたいことではあるが、肯定的希望は、抽象性が具体性という言語で説明可能な対象に変化するとき、まるで物のように失ってしまう可能性が表れてくるのだ。


具体的希望は一つの不条理で全てを失う。そして不条理に具体的希望を全て奪われた人間は、その非常事態に自らの抽象的希望を認識できないと、否定的理由のみを抱えた絶望状態と成ってしまうのだ。これを避けるためには具体的希望を、一つでも多く持てば良いように思われるが、先ほどにも述べた通り希望というものは、抽象性が具体性に変化するとき、その全てが血の流れる肉体を持ってしまうために、今までにはなかった寿命のようなものを持ち、具体的希望の全てが不条理という悪魔からの略奪対象となってしまう。


 それではいったい、私達はどうすれば良いのだろうか。答えは簡単明快である。私達は不条理と対面して絶望状態とならないために、日頃から抽象的希望を生成するための訓練をすれば良いのである。




 私は抽象的希望とは何かについて、まだ明瞭な説明を一度もしていない。抽象的希望とは、理想的な未来に対する欲求心のことである。そして未来を欲するということは、未知を求めるということである。私達は抽象的希望を持っているとき、未来にある未知に対して興味を抱き、その好奇心を動的燃料とすることで、人生を価値あるものであると肯定することができるのだ。そう考えると、抽象的希望とは未知に対する好奇心とも言い換えられる。そして抽象的希望は知的欲求心を鍛えることで、個人差はあるが生成可能であるのだ。更に言えば知的欲求心は、考えるということである。要するに希望とは思考で、思考とは希望であるのだ。


 思考とは自立的なものであるので、誰かに与えてもらうものではない。それは自ら鍛錬に励むことでしか、決して手にすることができないものである。更に思考する力とは、日に日に弱くなる一方であるので、私達の希望は無意識下の悪循環によって、ふと気が付いた時には失ってしまっているのだ。


 抽象的希望は必ず必要な生的エネルギーである。私達は抽象的希望というものを、生きている以上は、それが希望であるということを見失わないようにしたいものだ。私達はかつて、誰しもが抽象的希望という、未来に対する可能性を思案する力を、溢れるほどに持っていたはずである。そのときの自分があったからこそ、今の自分が存在しているはずだ。


抽象的希望は誰もが持ち合わせている。しかし私達は傲慢であるのか、微々たる希望を希望であるとは認識しないのである。それを見失わないためには、私達はいつ何時も、未来に存在する未知に対する好奇心を持ち続けなければいけない。そしてそれの源はあらゆるものに対する知的好奇心であり、私達はあらゆるものに興味を持つという好奇心を持つことによって、万人に共通した、生きていくために必要な理由を、これが間違いなく真的なものであると肯定することができるのだ。この抽象的希望こそが、生きていくために必要な理由であると私は信じている。そしてこの理由こそが、私達の人生をより良いものにするということを、私は心の底から信じて、今日も未知なる観察対象との出会いを、まるで恋に恋する乙女のように求めて、考え続けることを止めないでいようと思うのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪魔の思考薬(随筆集) 藤原優也 @HikariAikawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ