第4話 生きるために必要な理由とは何か(中編)

 それでは赤子など死を認識しない者にとっては、苦痛からの逃避だけが生きている理由なのだろうか。ではもし赤子が何らかの障害で、一切の苦痛を遮断してしまったとき、その赤子は生きていけなくなってしまうのだろうか?実はそんなことはない。何故ならば赤子は、大人によって無償的に面倒を見てもらえるからだ。このように考えると、赤子は生きるための理由を必要としない。これらのことを考慮すると、生きるということは、あらゆる行為の中でも、理由に先立つ特別な行為であると言える。しかしこれは赤子など精神が未発達な者に限られる。何故ならばある程度に精神が発達してしまえば、死ぬことに理由を見出すようになってしまうからだ。人間はある程度に精神が発達してしまえば、生きるための理由がないことを、死ぬための理由に変化させてしまう。生きるための理由が皆無ならば、人間は死ぬための理由をその虚無に見出してしまうはずだろう。なぜならば人間は、一つの理由もなしには、どのような行為をすることも拒んでしまうに違いないからだ。この不思議な化学反応による自殺願望の表れは、人間の本能的な鬱的状態の一つだろう。しかしこれがどの年齢層から成り立つものであるのかは、心理学の専門家に意見を伺うことにしよう。これを語りだすと、私が今に話したいことと論点がずれてしまう。いや、そもそも私にはそのようなことが考察できるほどに、専門的知識を持ち合わせてはいない。




 私は赤子のように他者からの世話だけで生きていける存在のことを、依存的存在者と呼ぶ。そして依存的存在者ではない全ての人間のことを、私は自律的存在者と呼ぶ。


私がこれから論じていくことは、この依存的存在者を対象とはしないので、読者は注意して欲しい。私が言う全ての万人とは、自律的存在者を対象にしたものである。


 全ての万人は、生きるために必要な理由として、精神的理由か肉体的理由かのどちらかを持っていることになる。もしどちらも失ってしまえば、その者は死ぬ理由を生きる理由がないことに見出してしまうはずだ。


 私は全ての行為は理由が先立っていると初めに述べた。これは理由が存在しなければ、行為そのものが存在しないということにある。しかし生きるという行為は状態的なものであるので、私が生きる理由を全て失ってしまっても、私の生きるという行為は、私が自ら命を落とすまで持続することになる。これはなかなか興味深いことではないだろうか?


 生きるという行為だけが、それ以外の行為と異なって、生きている自分が理由に先立っている。これは何度、考えてみても不思議なことだ。この奇妙な差異を考察するためには、時間性というものを追加して、更なる考察を練ることが必要である。


 今に私が生きている理由を全て失ったとしよう。それでも私の生きるという行為は、私が生きることを放棄して死ぬまでは持続される。これは生きるという行為には、時間性というものが含まれているからである。生きている理由を全て失った私を仮定してみよう。私は生きるための理由を全て失った。しかしその行為をするための理由を過去に持っていたので、私は今も生きるという行為をすることができるのだ。要するに私たちが今、生きるという行為をしているということは、過去に私たちが生きるための理由を持っていたからである。生きるための理由と言うものは、過去から現在に、現在から未来に、持続性を伴って反映される。これが他の行為とは全く異なるのだ。この特徴的な差異を見つけると、生きるための理由には、時間性というものが関係してくることが分かる。


そもそも生きるということは、時間を体感するということではないだろうか?これは依存的存在、自律的存在にも共通することであるが、人間は誰しもが時間を受動的に体感しながら生きている。そう考えると、生きるという行為を観察するためには、時間というものを観察する必要が出てくるのだ。




 私は万人に共通するための生きる理由を、心が苦痛と死から逃れるためであると先ほどに述べた。これらの理由のことを、私は否定的理由と呼ぶ。ではこのような否定的理由が、本当に私達人間が生きるために必要としている理由なのだろうか?


 実はそうではないと私は考える。そもそも否定的理由だけで生きるということは、とても危険な状態であり、私はこのことを絶望状態と呼ぶ。人間は否定的理由だけで生きてしまうと、絶望状態になってしまうのだ。そもそも否定的理由とは哲学的思考によって導かれたものであり、私達は本来、否定的理由を生きていくための理由として、普段から見なすようなことはしない。否定的理由とは、理由としては認識されない理由であるのだ。では私達は生きていくための理由を、否定的理由以外から導き出さないといけないことになる。


 私が考える否定的理由と対なる理由は、肯定的理由という理由である。私達は絶望状態に陥らないためにも、その肯定的理由をどうにかして導き出さなければならない。


 肯定的理由を導き出すためには、生きるという行為を、時間的観点から解釈し直す必要がある。先ほどにも述べたが、生きるということは時間の流れを体感するということだ。そしてこの受動的本質を能動性という観点から言い換えれば、時間の体感が時間の使用に変化するのだ。

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