4/22(木) 晴れ

 目覚ましの方が早起きなのは珍しい。最近はもっぱら僕の方が早い。昔のように気の赴くままに半日寝て過ごしたいと思っても体が受け付けない。

 目覚ましを止めようと枕もとの時計に手をやるが、スイッチを押しても一向に止まらない。頭の方も起きてくるとそれが目覚ましからではなく携帯からであることに気づく。

 「もしもし。」

 「もしもし、父さん?ごめん、寝てた?」

 言葉でこそ謝っているが、何らの罪の意識がないことは声を聴いていれば分かる。我儘な姉と神経質な母に板挟みでの生活は大層窮屈であったはずだろうに、彼はなぜか自由気まま、奔放な人間に育った。自分のことも大好きなようで、楽しそうに生きているのは親として何よりだが、如何せんこういう時は大層困る。

 「誕生日おめでとう、って言いたくて。仕事前だと今くらいの時間しか難しくて。」

 「誕生日2日前なんだけど…」

 「2日なんて誤差の範囲内でしょ。もう何年生きてるのさ。」

 確かに60年も生きていれば2日は誤差と言えるかもしれない。だが、こと誕生日において2日を誤差というのはいかがなものか。

 「それでね、誕生日プレゼント送っといたから。多分昼頃には着くんじゃないかな、それじゃ!」

 返事の間もなく電話は一方的に切られていた。凡そ人の誕生日を祝うような電話ではなかったことは確かだが、彼らしいと言えば彼らしい。何より久しぶりに息子の声が聞けた気がした。

 「おはよう、電話?」

 寝ぼけ眼で妻は問う。

 「うん、阿保から。誕生日おめでとうだって。」

 「二日前じゃない。ふふ、相変わらず阿保ね。」

 起き抜けに嵐が過ぎ去っていったようだった。


                  〇


 予告通り、昼下がりに宅配のお兄さんが我が家の呼び鈴を鳴らした。少々小ぶりな箱を手渡され、受け取りのサインをする。中身は僕の名前が入ったビールグラスと数冊の本、それとメモ程度の書置きだ。曰く、

 「父さんが料理を始めたということで、僕が学生時代に使ってたレシピ本をあげる。それと最近読んだ面白かった本も何冊か入れといた、持ってたらごめん。では、良い一年を!」

 若干新年の挨拶が混じっていたような気もするが、何よりも感じるのは時の流れのはやさである。肩たたき券や似顔絵を誕生日にもらっていた頃がまだ昨日のことのように思い出せるというのに、気づけばそれなりの値段がしそうなものを送ってくる年になったのだ。

 レシピ本は「セイシュン食堂」という名前だそうで、漫画調でレシピが簡単に書かれている。調味料などの分量については詳細に書かれてはおらず、割合程度にとどめてあるのは適当にやっても美味しくなるというメッセージか。しかし、初心者からするとその決められた分量がどれだけ大事だろうか。

 パラパラとページをめくっていると「ティー豚」なるものを見つけた。つまりは紅茶豚だ。

 妻の作る料理には薄味が多かった。彼女自身が薄味を好んだことは間違いないが、何よりも息子を思ってのことだろう。息子はアトピー持ちであり、食生活がそのまま皮膚の調子に現れた。痒そうにしている彼を見ていてつらかったのだろう。医者に連れていく中で、妻もまた自分にもできることを探し始めた。その頃から我が家の食卓はやけに健康的になった。栄養バランスのみならず、少しでもいいものをとオーガニック食材まで使われた。それはそれは大変なことだったはずだ。自分で作るようになって痛感する。彼女は「老い先短いジジババなんだから、そこまで気を使わないで好きに食べたらいい。」というようになったのも、我が子が一門の大人となったからだろう。

 横道にそれたが、濃い味が好きな僕のために妻が稀に作ってくれたのがこの紅茶豚であった。これを自分で作れたら妻はどんな顔をするだろうか。今日の夕飯は決まった。


                   〇


 紅茶豚に必要な材料を買いそろえ、台所に向かう。外は台風一過のように暑く、これでは桜も散るわけだ。

 まずは豚の下準備だ。買ってきたのは豚バラのブロック肉。これを丸めてタコ糸で形が崩れないように適当に縛っていく。あとはレシピ本の手順通りだ。肉が隠れるくらいにたっぷりの湯を鍋に沸かし、ティーパックを2,3個と先ほどの肉を入れて一時間ほど煮る。その間別の鍋で酢、酒、醤油を1:1:2の割合で混ぜたものを煮立たせておく。小口切りにしたネギも一緒に入れるとより一層ご飯が進むだろう。肉が煮立ったら、調味料に漬け込み、そのまま粗熱が取れるまで待つ。薄く切って盛り付ければ完成だ。

 「いただきます。」

 二人で随分広くなった食卓を囲む。

 「紅茶豚作ったの?」

 「うん、二郎のくれたレシピ本に載ってたんだ。」

 味は悪くなかった。ご飯との相性も良い。しかし、何かが違う。妻が作ったそれとは決定的に何かが違う。

 「うん、美味しい。けど、私のとはちょっと違うわね。」

 「そうだね、ちょっと残念。どうやって作ってるの?」

 えー、と彼女は言う。どうやら教えたくないようだ。教えるのが面倒くさいという方が正しいかもしれない。

 「いいじゃない、これはこれで。あなたの紅茶豚ということで。」

 それもそうかもしれない。少しくらい自分を好いてみるのもいいのではないか。二郎に倣え。それでもあの味は恋しいのだ。

 「そうだね。でも次作るときは一緒にね。」

 「しょうがないなぁ。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

退職した、飯を作る 健康丸 @kenkomaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ