6 酒々井鏡と元吉求美
池の浄化が終わり、用が済んだ楯条は、自宅へと帰っていった。
酒々井は、女が寝ている隣のベンチに腰かけ、姫の目覚めを、かれこれ20分ほど待っている。
朝早い時間に出歩いていたわけだから、もしかすると彼女も寝不足気味だったのかもしれない。そして図書館前の広場でうっかり気を失ったものだから、睡眠不足を解消するべく、こうしてぐっすりと眠っているのだ……。
そんな空想をしながら寝顔を眺めていても、一向に女は起きなかった。
もしかすると、彼女は永遠の眠りについてしまったんじゃないだろうか。倒れたときに頭の打ち所が悪かったのかもしれない……。
どんどんと悪い方向へと思考を進めたが、それは彼女の寝息によって遮られる。酒々井鏡は、鼻から息を長く吐き出した。死んだわけではなさそうだと、ほっとしたようである。
窓際で悲しげに佇むお姫様というよりは、元気に庭を走り回る、活発なお姫様という感じだな。
酒々井は、彼女のくせ毛――のびのびと飼育された動物から獲れたような、ふわふわとした金髪を見ながら、そんなことを考えた。そうだ、お姫様というより、何か動物のような【のどかさ】を感じる。外敵のいない広々とした牧場で、寝転んだり駆け回ったり、牛よりも小さな――そう、羊のような……。
「――うん?」
穏やかで青々とした牧草地に思考がトリップしていた酒々井は、その彼女から発せられた小さな呻き声にハッとする。もぞもぞと、隣のベンチで彼女が動いた。目覚めた、のかもしれない。彼はしばらく、様子を見ることにした。
いったい、自分はどのような声をかけるべきなのだろう。酒々井は、様々なシミュレーションを行った。心配が先か、謝罪が先か。名前を聞くべきか。あるいは名乗るべきか。いっそ、あの素っ頓狂な歌について掘り下げるのはどうだろう。さっきの歌だけど、途中から別の歌のフレーズが混じっていたんだよ……。
「あっ」
などと考えていたら、ついに女が目を覚ました。酒々井はびくりとして、体を向き直す。シミュレーションの途中だったので、結局どう声をかけたものか決められないでいる。口をパクパクとさせながらも、何も音が出てこない。
女はしばらく、それを不思議そうな目で眺めていたが、やがて「ああ!」と声をあげ、片方の握り拳をもう一方の手の平にポンと打ちつけた。
「もしかして、私と友達になってくれるの!?」
酒々井は変わらず、口を開けたままでいる。しかしそれは、かけるべき言葉を未だに探しているからではなく、全く予想していなかった言葉に、衝撃を受けたためであった。
彼にはその笑顔があまりにも輝いて見えたため、率直な感想が漏れそうになる。それを封じ込める形で、ようやく酒々井は開いた口を塞ぐことができた。もし塞げていなければ、突拍子もない愛の言葉がこぼれていたことであろう。
お互いに簡単な自己紹介をした後、何かを求めるような目でずっと元吉が静かに見つめてくるので、酒々井は「やはり、笑顔を褒めておくべきなのかもしれない」などという思考に、脳内を占拠される。咳払いと共に邪念を追い払うと、彼はひとまず、気になる言葉についての質問をぶつけることにした。
「ええと、友達っていうのは……?」
「そのまんま、友達っていう意味だよ!」
尻すぼみな言葉に、はきはきとした返事が返ってきたので、酒々井はたじろぐ。太陽に近づくイカロスは、熱いより眩しいという感覚の方を強く感じたのではないだろうかと、彼は思った。もちろん、彼が今目の当たりにしているのは「太陽のように明るい女性」であって太陽ではない。しかし酒々井は、彼女の眩しさに当てられ、だんだんと自分の頬が熱を帯びていることに気づいていたので、本当に彼女が太陽なのではないかと思い始めた。羊になったり太陽になったり、我ながら忙しい感性だと、酒々井は自嘲する。
「こういう聞き方は失礼だけど、もしかして友達いないの?」
彼はそう口にしてから、「言い方がまずかったか」と口を手で押さえたい気持ちになった。
しかし元吉は、眉をひそめることなく笑う。自分の言葉選びを後悔した酒々井は、その笑顔を見て安心した。面白いことを言ったつもりはない。しかし、こうも笑顔というのは安心感を与え、敵意を感じさせなくするもなのかと、改めて酒々井は、人間特有のコミュニケーションに感心する。
「いるよ、友達。99人ね」
酒々井は、元吉の揺れる金色の髪を見つめ、太陽というよりはひまわりかもしれない、と思った。元吉を形容するにふさわしい言葉が先程から定まらず、目まぐるしく変化している。
友達が99人。その言葉について、酒々井は深く考えてみた。はたしてこれは、多いのだろうか、少ないのだろうか。かつて歌わされた童謡に、小学校1年目で友達を100人つくろうと意気込むものがあったことを思い出す。そう考えると、おそらくは同い年くらいであろう彼女が、99人の友達がいるというのは、むしろ少ないといえるのではないだろうか。
「……今、少ないって思ったでしょ?」
元吉は目を細め、酒々井をじっと見つめた。彼はふるふると首を振る。
「それじゃあ逆に聞くけど、あなたは友達何人いるの?」
弁明するより先に質問された酒々井は、わたわたとしながらスマートフォンのメッセージアプリを開く。友達、233人の表示。
酒々井はその数字をそのまま報告しようとしたが、思い留まる。果たしてこの233人のうち、胸を張って「友達だ!」と言えるのは、いったいどれくらいだろうか。これらは主に、中学校入学以降に関わってきた人々が含まれている。波乱万丈ではないものの、穏やかな生活を過ごしてきた自覚があった。しかし、様々な人々と円満な関係を築いてきたものの、そのほとんどが友達「だった」――過去のもののように思えたのである。今でも彼らと、気兼ねなく話をすることができるだろうか。今から彼らと、会おうと思えるのだろうか……。
元吉は、酒々井鏡の躊躇いを察したように小さく頷くと、ベンチから投げ出した足でパタパタと空気をかき混ぜながら言った。
「私はいるよ、99人。全員と、1日に1回はメッセージのやりとりをしてる」
嬉しそうな彼女の表情に見惚れながら、酒々井は感心する。未だに、99人と毎日繋がっているような関係性作りと、それを可能にする彼女の魅力に。
「……僕なんかが、記念すべき100人目になってもいいの?」
酒々井はベンチから池を振り返り、まるで鯉たちに尋ねているかのように言った。
元吉に興味をもっていた彼は、「友達になる」ということに、抗いがたい魅力を感じ始めている。彼女のような明るい女性と関わり合いになったら、きっと自分の人生もいい方向へと変化していくだろうという、妙な確信があったからだ。
しかし、同時に不安も抱えていた。
「僕はその、君の目の前で――というか、大学の池でリストカットするような男なわけだけど……」
彼女が太陽ならば、自分はその光を受けながらも輝くことのできない、どす黒く濁った沼のようではないか。住むところも性質も違うふたりが、友人として交流することができるのだろうかと、酒々井は暗い気持ちに支配される。そしてその劣等感は、太陽への憧れが強い分だけ、赤黒い火傷となって彼の背中に焼きつくことになるのだ。
「何も、問題なんかないよ。私と鏡くんが出会えたのはきっと、私たちが友達になるためなんだから」
酒々井の心は飽きることなく、彼女の笑顔に揺さぶられた。
この輝きはきっと、僕の心の中にある、鬱蒼とした悲しみの森を焼き尽くしてくれるんじゃないだろうか。
酒々井鏡はそんなことを考えてから、せめて彼女の特別な100人目の友達になろうと、小さく決心するのであった。
(つづく)
秘薬解明ハンドレッド 柿尊慈 @kaki_sonji
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