5 笠根拓成と木枯虚子
大学に入ってからは、彼女のそばにいる時間が大半を占めていたため、彼は時折ひとりになると、どうすればいいのかわからなくなる。彼女というのは2人称的な意味合いであって、ふたりは恋人同士ではない。彼の言葉を借りるならば、恋人なんてものではなく、
大学に入学して1年が経過し、2年目の学生生活が始まった今、彼は自身の1年を振り返って、彼女の顔しか思い出せないことに気づく。人生の大半を彼女のために費やして来たような気がする。それに対して、何かしらの見返りがあるわけでもないのに。
――いや、見返りがないこともないか。笠根は、胸の内で訂正する。それが、自分の求めている見返りではないにしても、彼女から何かしらの反応があることは確かだった。
文学部棟のエントランス。そこにあるベンチに腰かけて、ガラスにもたれかかる。後頭部が、ひんやりとした。リュックを隣に下ろして、中身を探る。
外装にこだわった形跡があまりない、1冊の本。新歓期に文藝部が販売していたものである。笠根拓成は、文藝部に所属しているわけではない。ただ、去年の秋の大学祭で、何となく手にして読んでから、ある男の作品に興味をもったのである。そしてそれは作者本人への関心にも繋がっていた。
もし、彼女が【彼】を選んだら……。そのとき俺は、何を思うだろう。目的のページを探しながら、笠根はそんなことを考えた。自分の認めた男が選ばれたとき、俺は素直に、彼女を応援することができるだろうか。
ネガティブという言葉でも形容し切れない、もやもやとした感情に支配されつつあったが、目的の作品に指が行き着き、彼はすっと読書モードに入った。
エンタメ性はあまり高くないものの――純文学とでもいうべきなのだろうか――文章の美しさを追及したような文体。笠根は、去年の大学祭の様子を思い出す。妙に明るく、中性的な雰囲気の男と、それとは対照的な、冷め切った男が売り子のような役割を務めていた。春と冬が同居しているような、異様な空間。しかしそのふたりは深く信頼し合っているようで、細かな場面でその相性の良さ、以心伝心ぶりを目の当たりにすることとなった。
冷たさを感じさせる、あの男。【彼】が、この物語を書いている。もし【彼】が、俺たちのことを小説にしたとしたら、いったいどんな作品に仕上がるのだろうか。笠根はそんなことを考えて、ひとり首を振った。【彼】との、接点がない。多くの学生が様々なリズムで生活している大学。ここで、連絡先も知らない特定の人物と鉢合わせるのは至難の技だった。
「――いい趣味をしているね」
突然女の声がして、笠根はびくりとする。顔を上げると、いつの間にかすぐ目の前にひとりの女性が立っていた。髪が長く美人だが、白地のTシャツにプリントされた“SAVE THE QUEEN”という緑色の文字が悪い意味で目立つ。冷めたような肌の色と、瞳の色。その温度感が、例の男を思い起こさせた。
「私も、その男が好きなんだよ。ぜひこれからも、懇意にしてくれると嬉しい。彼は褒められることに慣れていないからね。君の素直な気持ちを打ち明ければ、意外と思い通りに動いてくれるかもしれないよ」
女は笠根に名乗りもせず、奇妙な言葉を残して去って行く。彼はしばらく、あの女は幻か何かだったんじゃなかろうかと、本を開いたままぼんやりと考えていた。
2限目の授業が終わり、大学全体が「お昼時」ムードに包まれる。笠根は未だ、先程声をかけてきた女の言葉を引きずっていた。その女に対して、激しい熱情を抱いているということではない。笠根がこの1時間ちょっとの時間に読み進めていた小説。それを記したひとりの男に対しての形容しがたい想いが、じわじわとその重みを増してきたのである。
「【彼】なら、俺たちのこの関係を、美しく描くことができるかもしれない」
つい、そんな言葉が口からこぼれた。ハッとして周囲を見渡すが、彼の独り言を聞いていた人は見当たらない。代わりに、授業を終えて教室から出てきたひとりの女性――彼が1時間以上待っていた女性が、歩いてくるのが見える。
「おまたせ、拓成」
緩くパーマのかかった栗色の髪の毛が、背中の真ん中あたりで揺れていた。少しだけ垂れた目尻が、優しさと同時に物寂しい印象を与える。グレーワンピースが、より一層その侘しさを強めていた。見目形は整っているが、見る人によっては「迂闊に関わり合いをもつと後々厄介になりそうだ」と直感するだろう。事実、彼女は壊れていた。
そしてこの
学食での食事を終え、ふたりは本を返却するべく図書館に向かった。カウンターで職員を介しても返却は可能だが、ふたり一緒である以上、複数人が利用できるよう用意された数台の機械を使って返却する方が幾分かスムーズである。
レポートのために借りていた本の、バーコードのついた面を上にして台に乗せた。重量を感知したため、バーコードの読み取りが行われる。赤い光が、本を禍々しく照らす。返却が完了したことを伝える機械音が聞こえると、彼らはまた別の本を乗せた。黙々と、作業は進んでいく。
珍しくその間、笠根は木枯のことをほとんど忘れて、ひとりでいるかのような感覚になっていた。単純作業が、彼の意識に幕をかけたのである。笠根はぼんやりと本を見ながら、【彼】が本を出したら、きっと自分はファンになるだろうなんてことを考え始めた。
しかしそれは、木枯が手を滑らせて落とした本の音によって中断させられる。ハッとして、笠根は彼女の方を振り向くが、彼女は彼女で、落ちた本のことなど気にかけていない様子だった。
笠根は右にいる木枯を見たが、彼女はさらに右の遠くを見ている。そこには、ついさっきエントランスのゲートを通ったのであろうふたりの男女が歩いていた。
「――ビビッときた」
やや焦点の合っていない目をして、木枯が呟く。その言葉に、笠根は目を見開いた。彼は目を凝らす。男の方に、見覚えがあった。
はっきりと顔を見たわけではない。しかし笠根は、男性の雰囲気から【彼】だと断定した。
そして、その隣にいる女性にも見覚えがある。彼女は先程、俺に声をかけてきた女性じゃないだろうか。白いTシャツはやや大きく、短めのスカートのようにルーズに揺れている。せめてくるりと振り返れば――その正面に何が書かれているのかがわかれば……。
笠根がそこまで考えたところで、女性が歩きながら、彼らの方を振り返った。眠たそうな瞼。意味ありげな微笑。ああ、間違いない。笠根は女を、数時間前に声をかけてきた女性だと確信した。
――私も、その男が好きなんだよ。女の言葉を思い出す。彼女は、【彼】の知り合いだったのか。好きだから、今ああして一緒に歩いているのだろうか。俺に声をかけた理由は何だ。
ぐっと、袖を何かに引っ張られる。木枯の手だ。彼女は少しぐったりとした様子で、笠根はそれに気づくと、彼女を少し離れたイスに座らせる。
まるで昨晩のことなど忘れたかのように、また彼女の悪い癖が発動したのだ。そう思いながらも、笠根はそれに慣れていた。しかし、今回は違う。
彼女は「ビビッときた」と言った。それはきっと、【彼】に対して向けられたものだ。どういう運命のいたずらか、彼の元に大きなチャンスが到来したのである。
彼女が【彼】を選んだ。このとき、笠根の胸の内は燃え上がった。紫色の炎。怒りの赤と、悲しみの青、そして絶望の黒が混じった、痛々しい炎である。
「――何なんだ、そのシャツは」
伊豆玲斗は、継田承子の服装を指摘した。
継田はシャツを摘まんで、自分でデザインを確認する。
「何も、変なところはないけど」
「昨日は、環境活動家みたいなシャツだったじゃないか。それが今日は――セイヴ・ザ・クイーンになった。お前は、敬虔なイギリス人か?」
伊豆の嫌味をよそに、継田は高速でキーボードを叩き、パスワードを打ち込む。伊豆の、作業用PCである。こんなことになるなら、USBを使うべきだったなと、伊豆玲斗は後悔した。それならば、大学内のパソコンに差し込んでの作業もできただろうに。
継田は、伊豆のパソコンのパスワードを変えるだけでなく、最後の操作からスリープモードになるまでの時間を最短に設定した。そのため、伊豆は30秒席を外すと継田なしには執筆できない。
「パスワードは、意味のない文字の羅列がいいよ」
ようこそと表示された画面を見つめながら、継田は言った。
「自分のファミリーネームに関連して、伊豆市役所の郵便番号を盛り込んでみたのはいいけど、それだけじゃ特定するのは簡単だよ。そのあとに、ランダムな数字を付け足すくらいじゃないと」
彼女の言葉に、伊豆は眉をひそめる。彼女がそばにいないと、執筆ができない日々。これは伊豆にとって、かなりのストレスになっていた。自宅に帰ってからも、筆を進めることができないのだ。
「そんなに書きたいなら、私を家に匿ってくれればいいよ。諸事情により、私には今おうちがないんだ」
継田の表情は動かない。彼女の言葉をどこまで信じればいいのか、伊豆はわからないでいた。彼女が自分に近づいてきた理由さえも、未だ掴めないでいるのである。
伊豆がぶすっとしたまま睨んでいると、それに気づいたのか、継田は少しだけ笑って話し始めた。
「あの症状は、時限爆弾のようなものでね。誰でも彼でも発症するもんだから、本当に彼は困っているよ。逆を言えば、タイミングさえわかっていれば、君を差し向けて99人目にすることもできるということ」
「……何の話だ?」
継田の狙いどころか、伊豆は彼女の言っていることさえも、時折わからなくなっている。返事を待ったが、継田は何も言わず、起動したパソコンを差し出してくるだけだった。
いったいどうして、自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。伊豆玲斗はため息をついた。
(つづく)
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