4 酒々井鏡と楯条麻人
「まったく……。また随分と派手にやってくれたな」
「僕は悪くない」
そして、左の手首にハンカチを巻きつけている男。急に世界を赤黒く染められた鯉たちや朝から呼び出された自分に、一切の悪びれもない酒々井鏡。
「よほど血液がありあまってるんだな。献血をした方がいい。たまにいるだろ、そこに。献血カーが」
楯条は精一杯の嫌味をぶつける。しかし酒々井は反省することも改心することもなく、ふるふると首を振っては、呆れたように息を吐くだけだった。
「綺麗じゃないよ、献血なんて」
そういう問題じゃないと思いつつ、楯条はため息をつく。
「やれやれ、同じ芸術家の血を引いているというのも問題だ。お前の気持ちがわからなくもない。
酒々井鏡と楯条麻人は従兄弟同士であり、それは同じ祖父をもつということでもある。
彼らの祖父は芸術家で、画家だった。前者は信念としての、後者は職業としてのレッテルである。彼は生活の様々な場面で自身の美意識を発揮させ、周囲の人々を困らせていた。家の内装や外装、酷いときは隣の家にまで口を出したほどである。
しかしそれが許されたのは、彼が単なる口だけの芸術家ではなく、観る者の心を震わせるほどの力作を何十枚も世に出した、優秀な画家だったからだ。些細なことに文句をつける性質でありながらも、そうした欠点を完全に拭い去ってしまうほどの地位と名誉、そして金が、彼にはあったのだ。
彼は、自分の美意識が子どもたちでなく孫に遺伝したことに気づくと、従兄弟同士のふたりをアトリエに呼びつけて、絵の批評をさせたものである。小さな頃は十分な語彙力を身につけてはいなかったものの、成長するにつれて表現することを覚えてきた子どもたちは、数年前には立派な評論家になっていた。
しかしそんな画家も、あっさりとこの世を去っていくことになる。酒々井鏡と楯条麻人は困惑した。あれだけ元気だった祖父が、どこの臓器がどうなるかも想像できないような名前の病に、その命を明け渡してしまったのだから。
ふたりは、筆を走らせていた祖父が急に血を吐いて倒れた日のことを鮮明に覚えている。あまりにも衝撃的な出来事だったからというのもあるが、彼らの脳裏に焼きついているのは、何よりもそのときの【色】だった。
難のある性格故に愛することは難しくとも、尊敬してもし切れないような祖父。彼が吐き出した血の色。その【赤】が、ふたりの今を縛りつけていた。
楯条は、ちょうど実験室から持ってきた瓶の蓋を開け、その中に閉じ込められた透明な青色の液体を池に流し込む。彼は右手を突っ込んで、しばらく池をかき混ぜた。
「――はい、証拠隠滅」
楯条は腕を引き抜く。先程まで赤黒かった池の水は、すっかり透明色を取り戻した。その代わり、水中を泳いでいた鯉の何匹かは、やたらと元気に動き回り、他の仲間たちと衝突を繰り返している。
「さすが、妖怪マッドサイエンティスト」
酒々井鏡は、従兄弟の作り出した妙薬の効能に、改めて拍手を送った。自分の腕を切り裂いた、血まみれの手で。
「人聞きが悪いぞ、妖怪リストカット男」
従兄弟たちは悪態をつきながらも、互いに見つめ合って笑い合った。酒々井は、激しく泳ぎ回る鯉の一匹を目で追いながら、池に向かって話しかけるように言う。
「けど、いったいどういう薬なんだい? 血の色を中和させるとは聞いているけど、相変わらずその副作用――薬を飲んだ一部の鯉が、まるで狂ったように泳ぎ回る副作用は、緩和されていないようだし」
楯条は首を振った。
「興奮状態に陥る鯉の数でいえば、最初の頃よりも幾分か減ってきているんだぞ。この薬の第1号は粗雑だったのか、池中の鯉が飛び跳ねたほどだったからな」
「あれは、なかなか衝撃的な光景だったね」
「バカ言え。従兄弟が突然手首切ったときの方がよっぽど驚いたんだぞ」
くくっと喉を鳴らして笑う酒々井の横顔に、楯条はつられて笑いそうになるが、あることを思い出してはっとする。咳払いをして、真剣な雰囲気を醸し出す。
「――これで、100回目か?」
しばらくの、静寂。
楯条の言葉に、酒々井はこくりと頷く。
「そうなるみたいだね。記念すべき、100本目の傷だ」
こうしてひとつずつ、跡が残っていく。酒々井は、まるでこの傷は年輪のようだと感じた。成長の記録ではなく、苦しみの記憶。
「随分と罪を重ねたものだ」
頭を掻いて、楯条は小さくこぼす。
「自殺が罪だとして、死ぬ気のないリストカットは罪に問われるのかな」
「リストカットはこの際どうでもいい。問題は、従兄弟に早起きを強いることなんだよ」
「どうでもいいとは薄情だね、麻人」
笑いながらも、酒々井の瞳の色は暗い。
彼らの祖父は、赤系統の色使いが有名だった。
当然、ふたりの青年もその赤が好きだったが、祖父の吐き出した血の色にショックを受けることになる。死の予感による絶望というよりは、祖父自身に対する絶望であった。
あれだけ美しい赤をキャンバスの上に広げる祖父でさえも、体内を流れる血液は美しい赤ではないのか、と。まるでこれじゃあ、赤というより黒じゃないか。
奇妙なことに、ふたりの青年は同時にそんなことを思った。
「それじゃあ、僕の血はどうなっているんだろう」
そして祖父の死後、酒々井はそのような考えに至る。最初のうちは邪念を振り払っていたが、次第にその欲求は膨れ上がり、ついに彼は自傷を決行した。
初めのうちは痛みに震えていたが、流れる鮮血の色を見ると、その痛みも麻痺してきたのである。
「すごい……。おじいちゃんにも流れていなかった美しい赤が、僕の体には流れているんだ!」
祖父は自身の体の外側に芸術を表現したが、自分は体の内側に芸術を抱えているのだ。楯条に異常性を指摘されてもなお、酒々井は本気でそう思っていた。
そして酒々井は、彼の美しい赤が、空気に触れるとすぐに劣化してしまうことにも気づく。時間が経てば、祖父の吐いたものと同じ、醜悪な赤に成り下がってしまう。
祖父を尊敬していた青年は、祖父の芸術をも凌駕する自身の美のために、手首を切り裂く【悪癖】を身につけてしまったのである。
「100回もやったことだし、そろそろ止めたらどうだ?」
いつものように、楯条は酒々井を説得するよう試みた。しかし、彼は予想している。酒々井は適当にはぐらかして、決して「止める」とは口に出さないことを。
「――そうだね。いい加減、止めた方がいいのかも」
想像していなかった従兄弟の言葉に、楯条は戦慄する。
「……何、その反応は? 止めろって言ったのはそっちじゃんか」
ふてくされたように、酒々井は言った。楯条は自分の頬をつねる。
「どういう心境の変化だ? 本当に、鯉がかわいそうになってきたのか?」
しっかりしろと言わんばかりに、楯条は酒々井の肩を揺すった。彼の右腕から、一滴だけ地面に血が落ちる。
「鯉は、どうでもいいんだけどね……」
楯条が来てから初めて、酒々井はひとりの【眠り姫】に顔を向けた。
「僕が手首切ったの見て、倒れちゃった娘がいるんだ」
十分ほど前に気絶した、少女のような女子大生は、まだ開館していない図書館前のベンチに横たえられている。
楯条は、かける言葉を見失った。
幼なじみ同然の従兄弟の声には耳を傾けないのに、どこの誰とも知らぬ女のために、彼はその【悪癖】を終えようとしている。
「……本当に、記念すべき100回目になったわけだ」
その言葉に酒々井は明るく笑ったが、楯条は笑っていいのか祝っていいのかわからないでいた。病気が治ったといえば聞こえはいいが、名も知らぬ女性に一生モノのトラウマを植えつけた可能性があるからだ。
これがマンガやアニメなら、そのときの女性が今の妻です、なんて展開になるのかもしれないなと、楯条は現実逃避した。
(つづく)
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