第三章:指環は嵌めたまま

「今日はいい天気だね」


 窓の外に広がる水色の空を見やって優衣さんは痩せてすっかりこけてしまった頬に笑いを浮かべた。


「毎年この日が来ると、やっぱり思い出しちゃう」


 七年前、優衣さんが兄貴と結婚式を挙げる予定だった日だ。


「あの日、一人で空港に向かうバスから見た空もこんな風に晴れてた」


 七年前の挙式するはずだった日、優衣さんはたった一人でギリシャに向かったのだ。


――本人がそうしたいなら、一人ででも行かせるしかないんでしょうけどね。


 母がどこか苦い、不安げな表情で語っていたのを覚えている。


「向こうもやっぱり晴れてた」


 俺と優衣さんのLINEのトーク欄は遺跡やエーゲ海や異国の街の風景の写真でいっぱいになった。


「写真が凄く綺麗に映ってたから俺も覚えてる」


 ただし、送信され共有された写真のどこにも優衣さん本人の姿は映っていないのだ。


「向こうではカメラマンに徹したからね」


 相手はいたずらっぽく笑って両手でシャッターを切る真似をする。


 左手の薬指のくすんだダイヤモンドが窓からの光を反射して一瞬だけ鈍く光った。


「そうしないと、心が壊れそうだった」


 まだ三十一歳なのにもはや五十七歳のうちの母より老けて見える病床の優衣さんの笑いが寂しくなる。


「でも、悲しかったのは私だけじゃないよね」


 七年もの間、他に縁談や好意を寄せる人があっても断って、果たされなかった婚約の指環を未だに左手の薬指に嵌め続けている優衣さん。


 この人の中にあるのは、もしかしたら兄への純粋な愛情だけではないかもしれない。


 だが、仮に自分を秘かに裏切っていた元婚約者への憎しみや絶望があったとしても、俺たち家族にそれを示すことはない。


 あの日、彼女にとって残酷な証拠を突き付けるメールを送ったのは俺なのに、優衣さんはまるでそのようなものなど全く目にしていないかのように俺にもうちの両親にも兄貴の良い思い出だけを語るのだ。


 だから、こちらも彼女を突き落とし、結果的に兄貴との将来全てを壊す端緒となったメールを送ったのは自分なのだと言い出せずにいる。


「蓮くんの方がずっと辛かったはず」


 そこだけは変わらない大きく潤んだ瞳が見詰めている。


 優衣さんは本当は知っているのではないか。いつもの疑いがまた頭をもたげる。


 俺が実はメールを送った犯人だということも、本当はずっと弟としてではなく優衣さんを好きなことも。


*****


「じゃ、ちょっと昼飯食ってくるので」


 この病院の食堂はこの時間帯なら混まないと経験側として知っている。


「ゆっくり食べてきなよ」


 優衣さんは穏やかに頷いた。


 だが、早めに戻るつもりだ。


 面会時間は限られているし、今は離れた場所にいて戻ったら優衣さんの命が絶えているのが怖い。


*****


 ガラス張りのエレベーターが下に動き出して、足元が微かに浮き上がる感覚に囚われる。


 確かに今日は良い天気だ。


 雲一つない、からっぽな、妙に高くて手の届かない感じに薄青い空。


 兄貴が生きていたら、こんな空の下で結婚式を挙げたのだろうか。


 ふっと息を吐く。


 兄貴にとっても、あのタイミングで死ぬのが良かったのだろう。


 事故に遭わずに優衣さんの家に辿り着いていたら、自分に絶望した彼女の姿を目にすることになっただろうし、話し合おうにも手酷く拒絶されたかもしれないのだ。


 常識的に考えて、兄貴の行動は婚約破棄されても致し方ない性質のものだ。


 優衣さんはもちろん彼女のご両親が知るところになれば、破談は当然、加えて慰謝料など現実的な補償を迫られた可能性もある。


 浮気相手が職場の同僚となれば、そちらにも制裁が行って、何らか仕事に支障を来す事態にならなかったとは言い切れないだろう。


 そこまでは行かなくても、「挙式直前に浮気がばれて婚約破棄された男」と周囲に知れれば、兄にとってプラスになることは何もない。


 優衣さんと別れてあの狐顔の女と新たに婚約したところで、そんな不倫に近い始まり方をした相手に対して、うちの両親や周りが優衣さんに対するより好意的に接したとはとても思えない。


 そもそも兄貴の中でも隠れた浮気相手にしていたあの女性が優衣さんより長くずっと一緒にいたい相手だったか。


 仮に優衣さんが全てを許して結婚したとしても、

――この人は他の女性とも同じことをしていた

――ずっと騙していた

内心では苦しみながら兄とキスして抱き合う彼女の姿を想像すると、地獄図のように思えた。


 あのタイミングで不慮に亡くなってしまったから、優衣さんの中でもそれ以上醜悪な存在にならずに済んだのだ。


 要は兄貴はそんな風にして勝ち逃げしたのだ。


 ガラス越しに広がる水色の空に表情の消えた男の顔が浮かび上がる。


 十七歳になった俺はこんな風に不意に顔が映ると、記憶の中で優しく抱き止めてくれた同じ年の頃の兄貴ではなく、死の直前の青ざめて出ていく兄貴に良く似ている。


*****


 “優衣さんの所には向こうのご両親もいらっしゃるし、長居すると病気の人にはご迷惑だから早く帰りなさい”


 お母さんからのLINEに「既読」が付いてから舌打ちして後悔する。


 これだと

「病室では携帯電話はオフにしているから気付かなかったよ」

という言い訳が出来ない。


 全てが面倒になってスマホの電源を切る。これで雑音はシャットアウトだ。


 もともと甘かったわけではないが、兄貴にああいう形で先立たれてからお母さんは余計に口うるさくなった気がする。


 あれから俺は律儀に塾に通って中学受験し、第一志望の学校に合格した。


 偏差値的にはむしろ兄貴より上くらいなはずだけれど、お母さんはそれでも満足しない。


 “今の学校は皆出来るんだから、ちょっと怠けているとすぐ置いてかれるよ”


 これはまだ理解できる。


 “白河さんは一番だけど、あんたは化学が駄目でしょ。今のままだと医学部は難しいよ”


 俺は医学部に行きたいとは一度も言ってないし、医者になりたいとも思ってない。


 “瞬は大人しいのんびりした子だったのに、何であんたはちょっと言われるとすぐ不機嫌な顔になるの?”


 その大人しい良い息子が裏で何をしてたか知ってるのか?


 よほどそう暴露したくなる。


 だが、七年経っても兄貴の部屋を毎日掃除して生前のままに保ち、命日のクリスマスにも必ず四、五人向けの大きなサイズのケーキを買ってきて大きく切り分けた一つは仏前に備える母親に向かって、それは絶対に話してはならないことである。


 結局、自分は仏頂面で押し黙っているしかないのだ。


「ここ、いい?」


 出し抜けに前から声がした。


「ああ……」


 虚を衝かれて間の抜けた声を出す頃には相手は自分のトレイを置いて向かいの席に座っている。


「白河さんか」


 今は高等部のクラスメイトであり、この大病院の経営者の一人娘でもある。


「うちのお祖母ちゃんも今、こっちに入院してるの」


 髪型は学校でいつも見掛けるポニーテールだが、今は制服ではなくオリーブ色のハイネックセーターに金のチェーンのペンダントを着けた相手はどこか苦い笑顔で語った。


「そう」


 象牙色の肌をした小さな顔、吊り気味で黒目の小さな切れ長い目、薄く小さな唇、やや尖った顎。


 こいつは「綺麗な狐」だ。


 話す度に緩やかに波打つポニーテールが頭の後ろで揺れる、その様が狐の尻尾のように見えた。


 ミントグリーンだのオリーブだの私服で見掛ける時は大体、ほっそりした長身に緑系の色を着ているのでカマキリじみて見えることもある。


「坂口くんはどうして?」


 相手はむしろおっとりした調子で尋ねる。


 この子の話すのを耳にすると、苦手な自分にも基本は育ちの良いお嬢様だと分かる。


ねえさんが入院してる」


 早めに切り上げるつもりで手前の茶碗を取り上げて白米を掻っ込む。


「坂口くんってお姉さんもいたの?」


 相手は切れ長い瞳を驚いた風に見開いた。


 大人びた格好はしているが、表情に色が着くと、子供の狐じみて見える。


「正確には、死んだ兄貴の婚約者だった人だよ」


「そうなんだ」


 白河さんはまだ箸も着けていない自分のトレイを前に俯いて続けた。


「ごめんなさい」


「別にいいよ」


 とにかく早く食べ終えて席を立ちたい気分でセルフサービスで汲んだグラスの水を飲む。


「お兄さん、七年前のクリスマスにうちの病院で亡くなったんだよね」


 ふと見やると、相手は切れ長い瞳いっぱいに涙を溜めていた。


「あの時、私、何にも知らないで浮かれて旅行の写真なんか送っちゃって」


 オリーブ色のセーターの胸にポロポロと涙が零れ落ちて染みを作る。


「ずっと後からお兄さんがその日にうちの病院で亡くなってたと人から聞いてどうしようって」


 狐じみた小さな顔に恐怖と後悔の半ばする涙が流れ続ける。


 七年前も、こんな表情を目にした。


 兄貴の葬儀の日、本来なら一ヶ月後の結婚式に来るはずだった人たちがこぞって喪装でやって来た。


 線香の匂いの立ち込める葬儀会場に集団で現れた兄貴の会社の人たちの中には、あの狐顔の女も混ざっていた。


 あの女だ。


 姿を認めると、腹の中がカッと燃え立った。打ち沈んで青ざめた面持ちだったが、それすら昔話に出てくる人の女に化けた狐のしおらしい芝居を見せられているようで虫酸が走った。


 お前の正体なんかお見通しだ。


 そう叫びたくなるのを堪えると同時に、あの女が何か優衣さんに危害を加えるのではないかという恐怖に駆られて優衣さんの傍に走った。


――婚約者の方ですか、この度は本当に何と申し上げたら良いか……。


――いえ、瞬さんが本当にお世話になりました。


 上司らしいおじさんと優衣さんが話している間、あの女は虚ろな細い目で優衣さんの組まれた左手のダイヤモンドを見詰めていた。


 俺はポケットのハンカチを取り出して、間違えて落としたフリをして隣の優衣さんの前の床に落とした。


 そして、拾い上げる瞬間、おやという顔でこちらに目を向けたあの女に向かって目を細めて唇をすぼめた。


 相手は一瞬、訳が分からなかったようだが、次の瞬間には総毛立った表情に変わった。


 俺は後は泣いているフリをしてハンカチで顔をひたすら拭っていた。


――ちょっと、失礼します。


 初めてこの女の声を聞いた。


 優衣さんに似た澄んだ声だなと思う内にも早足でその場を去っていく。


 帰れ、二度と俺らの前に現れんな、狐女。


 心の中で罵倒した瞬間、くるりとあの女が振り向いた。


 それは後悔と恐怖の半ばした、目にしたこちらの胸を突き刺すような泣き顔だった。


 女の細い目は俺を見ているようでもあり、その隣の優衣さんを見ているようでもあり、もっと後ろに飾られた兄貴の笑った遺影を見ているようでもあった。


 だが、それはほんの数秒で、すぐに波打つ黒髪の背を向けて立ち去った。


 優衣さんを見やると、表情の消えた面持ちで立っていた。


 線香の匂いが立ち込める中、その姿が正体を自ら明かして一人吹雪の中に消えていく前の雪女のように見えたのを覚えている。


「いつかちゃんと謝りたかったけど、坂口くんが本当は物凄く怒っていて絶対に許さないと言われる気がして、怖くて」


 今、温かなご飯や味噌汁の漂う病院の食堂で、目の前に座った「綺麗な子狐」が泣いている。本来この子に罪など無いのに。


「いいんだよ、白河さん」


 互いに名前すら名乗らなかったあの狐顔の女にはそれきり顔を合わせていないが、芳名帳に兄貴と同じ職場の人たちが続けて記した中には“北村麻緒”という唯一女性らしき名があった。


 それも優衣さんが“東山優衣”と自署した筆跡に良く似ていた。


「旅行の写真が送られてきたのは兄貴が事故に遭う前だし、兄貴は病院に運ばれた時にはもう意識も何もなかったから、どこの病院のどの先生でも助からなかったと思う」


 “北村麻緒”さんにもう一度逢いたいとは思わないし、彼女も俺には二度と逢いたくないだろうが、もし、今、顔を合わせたら、決して彼女を侮辱したり嘲笑したりはしない。


「ありがとう」


 ポニーテールを揺らしながら、鼻を赤くした白河さんは涙を拭って安堵した風に微笑んだ。


 同時に、彼女のペンダントに着いた飾りの金の輪が灯りを受けてキラリと光る。


 おや、この飾りは大きさや形からして本来は指環ではないだろうか。


 頭の片隅でそんなことを思う。


「坂口くんは優しいよね」


 相手に対しては肯定も否定もしかねるが、自分の中での正解は「違う」。


 相手もこちらの答えなど期待していない風にグラスの水に口を着けている。


 白河さんも一通り話したいことが済んだようだし、早く食べ終えて優衣さんの所に戻ろう。


「もう一つだけ、聞いていいかな?」


 相手は先ほどとはまた別な風に思い詰めた眼差しを向けている。


「何?」


――坂口くんは付き合っている人がいるの?


――好きな人はいるの?


 そんな告白に繋がる質問が浮かんできて、何とはなしに胸が早打つのを感じた。


 いや、俺はこの子を別に好きな訳じゃないぞ。


 むしろ、この子の好意が疎ましく、ずっと苦手と感じて避けてきた。


 告白なんかされたら、即座に答えるだろう。


――悪いけど、そういう目では見られない。


 だが、自分がこの子と付き合っても一般には非難される間柄ではないのだ。


 高校のクラスメイト同士のカップルならありふれているし、微笑ましくすら見られるだろう。


――白河先生のお嬢さんなら。


 母親が嬉しげに答える顔が浮かんだ。


――蓮くんにも彼女が出来たんだ。


 何より病床の優衣さんも喜んでくれるだろう。


――良かったね。


 想像の中の痩せ衰えた笑顔に胸が締め付けられるような痛みを覚えた。


「坂口くんの亡くなったお兄さんってもしかして中受ちゅうじゅの時の塾の近くで働いてた?」


 相手から出た質問は全くの予想外であった。


「ああ」


 拍子抜けしつつ、どこかで相手からの誘い掛けを期待していた自分が急に恥ずかしくなってきて極力何でもない風に答える。


「あの塾の最寄り駅の近くに勤めてたよ」


 だからこそ、兄貴の見たくない面を見て、知りたくない顔を知ることになったのだ。


 そう思うと、一瞬だけカッと熱くなった顔が急速に冷えていく。


「やっぱりそうなんだ」


 相手はやはり思い詰めた、どこか潤んだ眼差しのままほんのり頬を染めて続けた。


「私ね、小二から小四までいつも通学の電車で会う会社員のお兄さんが好きだったの」


 そういえば、白河さんが通っていた小学校もあの駅の近くの私立で、塾にも学校から直接来ていたのだった。


「お名前も知らなかったけど、目が合うといつも笑ってくれた。一度、電車に傘を置き忘れた時もそのお兄さんが追い掛けて届けてくれた」


 相手は頬を染めたまま嬉しげに微笑む。


「坂口くんが小四で塾に入ってきた時も“あの電車のお兄さんに似てる”って思ったの」


 どうやら自分は自分として好かれた訳ではなかったようだ。


 俺も白河さんを兄貴の浮気相手に何となく似ているから苦手だったのだからお互い様かもしれない。


 でも、優衣さんは俺が兄貴に似ていてもこんな風に好きになってくれることはないのに、この子からは兄貴に似ているから好かれていたのは皮肉としか言いようがない。


「小四になると、その電車のお兄さんは左手に指環を嵌めるようになった」


 白河さんは寂しそうに俯くと、胸元の金の輪を摘まんでもう片方の手の小指に嵌めた。


 チェーンを通した輪は、しかし、彼女の小指には少し緩いようだ。


 ふと、切れ長い瞳が再びこちらを見やった。先程とは異なる熱い潤みが震えている。


「冬休みが終わって、通学の電車にまた乗り始めたら、もうその人はいなかった」


 首を静かに横に振る。


 狐の尻尾じみた天然パーマのポニーテールも揺れる。


「二度と会えなかった」


 胸に提げた金の環を握り締める。


「お兄さんは七年前のクリスマスに婚約したまま亡くなったんでしょ?」


 半ば以上答えを確信している問い掛けだ。


「ああ」


 視野の中の「綺麗な狐」の姿がジワリと熱く滲んだ。


「指環を嵌めたまま亡くなったよ」


 温い雫が頬に冷たい跡を付けていくのを感じた。


 何故、俺まで泣くのだろう。


「そのまま火葬にして指環もお墓に一緒に入れた」


 兄貴を子供時代の美しい思い出にしているこの子にはこれだけ伝えればいい。


義姉ねえさんはまだダイヤの婚約指環を嵌めてる」


 皿にはまだ半分以上残っていたが、もうすっかり食欲が収まったので席を立つ。


「じゃ」


 素っ気ない言い方になったが、胸の金の指環を握り締めた相手はどこか憐れむような笑いを浮かべて頷いた。


「また学校で」


 食堂を出てまたエレベーターに乗り、優衣さんの病棟のある階のボタンを押す。


 俺の今の望みは死んだ兄との婚約指環を外さない彼女に寄り添って、息絶えた時に秘かに唇を重ねることだけだ。


 相変わらず雲一つない水色の空をガラス越しに見せながら、エレベーターは緩やかに上っていく。

(了)

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指環は嵌めたまま。 吾妻栄子 @gaoqiao412

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