第二章:ダイヤモンドの軛《くびき》

「蓮くん、今日もありがとう」


 病人の痩せ衰えた顔が微笑む。


 いっそ、この姿を「醜い」「嫌だ」と突き放せるようになりたいと思うけれど、少しでも笑顔を引き出したいという気持ちを捨てることが出来ない。


「いいんだよ、優衣さん」


 あれから七年経ったが、未だに互いの呼び名を変えることが出来ないし、どうやら変えられないまま相手の命が終わりそうだ。


「瞬の婚約者だったというだけでこんなに……」


 また聞きたくない名前が相手の口から出てきた。


 骨の上に直接皮膚を貼り付けたような左手の薬指にはくすんだダイヤの指環が未だに嵌められている。


 これを目にする度に優衣さん本人の意思というより気付かずに掛けられた呪いの札か何かのように思える。


「俺には兄貴一人しかいなかったし、優衣さんのことは本当の姉さんだと思ってるよ」


 嘘つきの口が裂けるとすれば、自分は顔の半分がぱっくり割れるくらい同じ嘘を繰り返している。


「兄貴が生きていた頃は、本当に子供だったけど」


 一回り以上も年上の兄貴が付き合っている彼女だと優衣さんをうちに連れてきた時から好きだった。


 ただ、当初は本当に

「この人が兄ちゃんと結婚してお姉さんになってくれるのが嬉しい」

と純粋に思っていた気がする。


 自分の心に影が差し始めたのは、遊びの帰りに家の近くで二人のキスする姿を偶然目撃してからだ。


 夏の日の夕暮れで、兄貴の黒い半袖シャツの背に回された優衣さんの白い腕が目に焼き付くように浮かび上がって見えた。


 二人が何を話しているかまではさすがに聞き取れなかったが、優衣さんがキスの後に潤んだ目でぼんやりと兄貴の腕に抱かれているのを目の当たりにして、自分の中の彼女の何かが汚された気がした。


 十歳の自分にも大人の男女がそうした秘密の行為をするのは何となく知っていた。


 優衣さんと兄貴の間柄においては非難されるべき行為でないことも。


 しかし、身近な相手のそのような姿は目にしたいものではない。


 何より、自分にとっては優しい、清らかなお姉さんである人に兄貴がそういう隠れた行為をしているのが嫌だった。


 その後、普段と何も変わることなく家族と夕飯を食べ、テレビを観て笑っている兄貴の姿を眺めながら、自分の見知った家族ではなく不可解な生き物のように感じたのを覚えている。


 それでも、二人の縁談が具体的に進み始めて式場はここ、結婚したら俺らの家のすぐ近くに住むとかいう話が家でもされるようになると、気持ちが上向き始めた。


 ウェディングドレスの下見に行って色々なドレスを試着する優衣さんを目にすると、自分が結婚する相手でもないのに心が躍った。


 彼女はますます綺麗になっていくようだった。


 優衣さんと兄貴のそうした姿を目にすることはそれきりなかったので、あれは暑さで頭がぼんやりしていた時の気のせいだったのかもしれない、別な知らない人たちだったのかもしれないとすら思い始めた。


 しかし、秋風の吹く季節になって状況は一気に変わった。


 俺は中学受験の準備のために新たに塾に行かされるようになった。


 家から電車で二駅の場所にある所だ。


 そこは兄貴の職場の最寄り駅でもあった。


 実際には俺の塾が終わる時間と兄貴の終業時刻とではズレがあって落ち合うことはなかったが、

「何かで遅くなったら一緒に帰れば安全だ」

と多分、母親は考えたのだろう。


 それはそれとして、その日は学校の創立記念日で昼食後にいつもより早く家を出た俺は、普段は塾帰りであまりゆっくり見られない近辺の本屋やゲームソフトの売っている電気屋をぶらついていた。


 それでも時間が余ったので何かおやつかジュースでも買おうかと駅前のアーケードの飲食街に足を向けた。


 そういえば、この近くに兄ちゃんの会社もある、普段は兄ちゃんもこの辺りで食べたりするのかなと思っていると、遠くに正に彼らしきワイシャツの後ろ姿を見掛けた。


 隣にはスーツ姿の女性もいた。


 骨細く華奢な、髪の黒く長い、ストッキングの脚は薄い地を通しても白いと分かる後ろ姿から、

「優衣さんだ」

と心が躍った。


 声を掛けようとするのと、二人が角を曲がるのが同時だった。


 え……?


 二人の内、男の横顔は紛れもなく兄貴だったが、女の方は優衣さんではなかった。


 そもそも、遠目の背格好や黒髪、白い肌は似通っていたが、真っ直ぐな髪に黒目勝ちで大きく円らな瞳の優衣さんに対して、その女はややウェーブの入った髪に狐じみた細く吊り上がった目をしていた。


 誰だ、この女。


 いや、もしかしたら、同じ会社の人で用事があって一緒に歩いているだけかもしれない。


 そんなことを思いつつ、黙って二人の後を歩いていくと、飲食街を出て、どこか焦げた油臭い路地裏に差し掛かった所で、兄のワイシャツの右腕がさっと女性の黒髪の頭に回って二人は口づけた。


 一瞬、背中を刺されたように全身が凍り付いた。


 何も持たない兄の左手には、まだ新しいプラチナの婚約指環が光っていた。


 我に返った時には一目散に油や甘いクリームの匂いの漂うアーケードの下を走っていた。


 秋の午後の冷えた風が濡れた頬を通り過ぎる感触で、自分が泣いていると分かった。


*****


 その日は、全く塾でも上の空で、真っ直ぐ家に帰ってから、玄関で兄貴が休日に履く靴を目にした瞬間、吐き気が襲ってきてもどしてしまった。


――蓮は塾から帰ったら具合が悪くなって寝てるの。


――そうなんだ。


 夕食を取ることも出来ず、薬を飲んで自室のベッドで横になっていると、階下から母親と兄貴のやり取りが聞こえた。


 お前のせいで具合が悪くなったんだよ、馬鹿。


 布団の中でギリギリと歯を食い縛って拳を握り締めながらやっと寝入ったあの晩から、俺は優衣さんや狐顔の女とキスしている兄貴から白金の婚約指環を嵌めた左腕を斧で切り落とす夢を繰り返し見るようになった。


 口づけて抱き合っている相手が優衣さんの時は腕と言わず首と言わずメッタ打ちして血塗れになった所で目を醒ましては、

「ああ、夢だったか」

と安堵したような、無念なような気持ちに息を吐くのだ。


 それから俺は突如として勉強家になった。


――塾には出来る子がいっぱいいるから、もっと週に行く回数を増やしたい。


――家にいるとだらけるから、早く行って塾の自習室で学校の宿題も片付けるよ。他の子たちもそうしてる。


――自習室で今日間違えたところをやり直していたら遅くなった。


 実際には塾が始まるギリギリまで兄貴の会社近くで張り込みをして、塾が終わってから自習室で宿題をさっさと片付けて夕飯ギリギリまでまた張り込みをする繰り返しだった。


 それでも一種のアリバイ作りのつもりで塾で使うテキストや目ぼしい学校の過去問は家で先々まで読み込んで覚えたので、成績は上がったし、母親から疑いを抱かれることはなかった。


 だが、張り込みの結果はというと、昼時でも夕飯時でもないせいか、さっぱりだった。


 もしかしたら、兄ちゃんも浮気はもうやめたのかも。


 優衣さんともうすぐ結婚するんだし、あんな狐みたいな女の人が優衣さんより綺麗とも優しそうとも思えないから、いつまでも好きでいるわけはない。


 そんな風にも思い始めた矢先、塾の帰りの夕方、あの女が会社帰りらしいコート姿で一人歩いている姿を見つけた。


 この人も後ろ姿だけなら優衣さんに似て綺麗なのに。


 そんなことを思いながらつけていくと、相手は駅前のデパートに入った。


 紳士服売り場に行ってグリーンやマリンブルーの色鮮やかなネクタイを眺めている姿を遠巻きに確かめてから、

「兄ちゃんと一緒じゃないし、もう関係ないな」

と思い直して家に帰った。


 数日後の土曜日、優衣さんもうちに来て兄貴の誕生日祝いをした。


 彼女からブランド物のマフラーやセーター、手袋の冬物一式をプレゼントされた兄貴は心から嬉しそうに笑っていた。


 どこにも翳りや鼻に付いた、嫌そうな気配などなかった。


 これで全てが丸く収まったのだ。


 その夜は良く眠れた。


 次の日曜日、兄貴は昼前から優衣さんに会いに出て留守だった。


 俺はふと二人が新婚旅行で訪ねる予定のギリシャのガイドブックが読みたくなり、兄貴の部屋に入った。


 留守の部屋は整髪料やコロンの混ざった匂いがうっすら漂っていて、開けっ放しのクローゼットには、昨日優衣さんから貰った優しいベージュのマフラーと並んで真新しい鮮やかなマリンブルーのネクタイも掛けられていた。


 胸の中にサーッと黒い影が広がったのはその時だ。


 その晩、夕飯の食卓で、いつも通り、自分の向かい側に座ってごく上機嫌に箸を動かして両親と談笑している兄貴を見詰めながら、この人は一体、何が楽しくて笑っているのだろうとひたすら不気味であった。


 このままあの狐みたいな顔の女と浮気して

「やっぱりこっちの女の方がいいから」

と優衣さんとの結婚は直前で取り止めにしてしまうのだろうか。


 それとも、巧く騙しおおせて何事もなかったように優衣さんと結婚してしまうのだろうか。


 頭に浮かぶどの想像も、十歳の自分には吐き気のするような醜悪な仕打ちに思えた。


 何も知らない優衣さんの白いあえかなヴェールを捲って口づける兄の姿を思い浮かべると、尻の辺りにゾワッとするような悪寒が駆け抜けた。


 その晩の夢は、マリンブルーのネクタイで教会の十字架から吊るされた花婿姿の兄貴の死体が揺れる傍で、死んだように倒れて眠っている花嫁姿の優衣さんのヴェールを捲って口づけようとするところで起きた。


 どうしてここで目が覚める。


 身代わりのようにシーツに口づけながら、このままでは終わらせないと固く握り締める。


*****


 もし、兄ちゃんの浮気が優衣さんに知れて結婚の話がなくなったら、もう今までのようには会えない。


 それは十歳の自分にも分かっていた。


 優衣さんからすれば、俺は自分を裏切って侮辱していた男の身内でしかない。


 どこかで会っても、子供相手に露骨に嫌な顔を見せることはないとしても、まっさらな笑顔で応じてくれることはないだろう。


 季節はどんどん冷え込んで来て、土日にうちに来ては帰っていく後ろ姿を目にする度にこれが最後ではないかと胸が締め付けられた。


 そして、当たり前のように彼女の隣に並んでいる兄貴の背中を見詰めて胸の底で黒い炎が燃え上がる。


「優衣さん」


 この振り向いた時の、大きな目を糸のように細めた温かな笑顔が好きだ。


「途中の道がぬかるんでるから気を付けて」


「分かった」


 吐く息が白いせいか、気の好い雪女のように見える。


「ありがとう」


 笑顔でお礼を言われると逆に胸が痛むのは初めてだ。


 兄貴も白い息を吐きながら苦笑いする。


「兄ちゃんの車で送ってくから大丈夫だよ」


 だからこそ、気を付けろと言ったのだ。


*****


 兄ちゃんは優衣さんと結婚の計画を進める一方で、会社の女の人と隠れて浮気している。


 これは優衣さんや兄貴にはもちろん、両親を含めた誰にも言えなかった。


 特に、結婚式や兄貴の新居への引っ越しの準備で忙しく動き回っている母親には。


 十歳の自分にもそれが露見すれば当事者全員の関係が壊れる性質の話であることは分かっていた。


 優衣さんの両親にはその時点ではご挨拶で何度か顔を合わせた程度だったが、ごく人の良さそうなご夫婦で嫌な感じなど受けなかった。


“一人娘が婚約した相手は裏では平気で職場の同僚と浮気して、二人の女から貰ったプレゼントを何食わぬ顔でクローゼットに並べて仕舞っておくような男”


 そんなことが知れたら、優衣さんはもちろんこの人たちも俺たち一家をどのような目で見るだろう。


 そう思うと、陽の射さない井戸の底に落とされた気がした。


 毎朝、プラチナの婚約指環を嵌めた手であの狐顔の女から貰ったであろうマリンブルーのネクタイを締め、優衣さんから贈られたコートにマフラー、手袋を着けて出ていく兄貴。


 こいつをこの手で殺すことが何故許されないのだろうか。


 そんなことを本気で考えるようになった頃に学校が冬休みに入り、塾の冬期講習が始まったのは、今、考えても、天の配剤だったように思う。


 左手に白金のエンゲージリングをしっかり収めて挙式まで二ヶ月を切っていた兄とそれを知らない訳はない狐顔の同僚の女。


 彼らは一体、どのような心境だったのか、クリスマスの飾り付けをした街の昼時に連れ立って歩き、あの路地裏に来れば、まるで儀式のように短い口づけを交わすのだった。夕飯時も同様に。


 俺は母親から「何かあった時の連絡用に」と買い与えられていたスマートフォンでその姿を少し離れた場所から撮った。


 二人に見つかっても構わなかった。


 むしろ兄貴が気付いて自分の行為を恥じ、

「もうこういうことはやめるから優衣には見せないでくれ」

と頭を下げてくる事態を望んでいた。


 兄ちゃんがそうしてくれれば、まだギリギリ最後の所で許せる。それを願っていた。


 だが、秘め事に没頭しているカップルは自分たちの姿にスマホを向けている十歳のガキの気配になどついぞ気付くことはなかった。


 冬休みを迎えてクリスマスを控えた街には小学生くらいの子供は昼も夜もいくらでも歩いていたから、俺の姿は見事に紛れていたのだ。


 スマートフォンのフォルダには、たちまち左手にプラチナの輪を光らせたまま優衣さんでない女と唇を重ねる兄貴の画像が溜まっていった。


*****


 その年のクリスマスは本当に「いつの間にかその日になっていた」という感慨だった。


 俺もそれまでは同い年の他の子たちが一般に好むようなゲームやアニメが好きで、そうした商品を素直に欲しがる子供だった。


 しかし、兄貴の秘密を知って自分の中で抱え込むようになってから、それまで好きだったゲームをしていてもアニメを観ていても何かが色褪せてしまったような、入り込めない感じを覚えるようになった。


 楽しもうと眺めていても、頭の中に兄貴の汚れた行為や優衣さんの姿が浮かぶと暗いものが一気に湧き出てきて、そういうものを呑気に楽しもうとしている自分がいかにも愚かしく非力な子供に思えて却って辛くなった。


 学校や塾で出来た仲の良い友達に対しても、どんなに良い子でも、むしろそれ故に自分の身内の汚ならしい秘密など話せない、そんな話をされても相手だって困るだけだろうという隔たりを強く覚えるようになった。


 そういう自分の心の変化を悲しく感じたし、もう以前の心に戻れないであろうことにも暗澹としたが、どうにもならなかった。


「俺は特に欲しいものはないから、大丈夫」


 二十五歳の長男が控えた結婚の準備に負われる両親には、十歳の次男の変化は特に懸念の対象にはならなかったようだった。


 表面的には熱心に塾通いして成績も悪くなかったし、非行に走った訳でも両親に反抗する訳でもないから、母親の目にも不安を覚える要素はなかったのだ。


「ただいま」


 その日も路地裏でキスする兄貴と狐顔の女の姿をスマートフォンのフォルダに収めて家に帰りついてから、玄関に仄かに流れてきた香ばしいチキンの匂いで、そういえば今日がクリスマスイブだったと思い出した。


「お帰り」


 出てきた母親は手に赤いリボンの結ばれた緑の包みを抱えていた。


 別にプレゼントはいいと言ったのに。


 そう思ったところで、相手は微笑んで告げた。


「これは優衣さんから届いたの」


 包みの中には本が二冊入っており、一冊はギリシャ・ローマ神話、もう一冊はサントリーニ島の青空に雪を固めたような白い壁の建物が立っている表紙の写真集だった。


――俺も、ギリシャ行ってみたい。


 新婚旅行の話でそう羨んだのを優衣さんは覚えていてくれたのだ。


 彼女から来た物なら何でも喜べたけれど、自分の発言を踏まえて選んでくれたことがいっそう嬉しかった。


 俺もプレゼント代わりに両親から貰ったお小遣いで何か買って贈れば良かった。


 今からではもう遅いから、来年はそうしよう。


 そう考えたところで、今日もスマートフォンに撮り収めた兄貴と狐顔の女のキスが頭に蘇った。


 来年の今頃は果たして優衣さんは俺たちの傍で笑っていてくれるだろうか。


――あの男は私と結婚の話を進めておきながら影では他の女と平気で浮気して裏切ってくれた。


――あんな奴の家族にまでプレゼントを贈って親切にしていたなんて本当に馬鹿馬鹿しい。


 そんな風に苦々しく思い出しているのではないのか。


 顔を背け、二度と振り向くことなく足早に去っていく、真っ直ぐな黒髪の後ろ姿。それを想像すると、胸を引き裂かれるような痛みを覚えた。


 十歳の自分は両親の目がこちらに向けられていないことを確かめると、まるで優衣さんの身代わりのように二冊の本を重ねて抱き締め、大きい方の写真集の表紙の端にそっと口づけた。


 優衣さんがこの先、兄ちゃんの裏切りを知って怒っても、俺にプレゼントした本を返せとまでは言って来ない気がするし、今はまだ俺らに対する温かな気持ちを失っていないのだから、それを手の中に掴んで置こう。


 それはもうじきに消えてしまうものなのだという予感がまた胸を締め付けて目の前が熱く滲んだが、とにかく次に会った時に貰った本についてお礼を兼ねて話したい気持ちでアイスキャンディじみた匂いのする写真集のページを開いた。


 開いたページに載っている写真はギリシャどころかそもそも海外に行ったことのない自分の目にはどれも色鮮やかで神秘的だった。


 それは商品としてそうした風景をわざわざ切り取って作ってあるのだという認識までは十歳の俺にはまだ持てなかった。


 だから、純粋にギリシャという国やエーゲ海の景色に憧れを抱いたし、

「このまま行けば兄ちゃんは優衣さんとこの風景を直に見られるのだ」

と恨みに染まった妬ましさを覚えた。


 兄貴本人はひたすら不誠実で汚い真似をしているのに、そんな特権を未だに手にしている。


 写真集のページを半ばまで進んだ所で、玄関からガチャガチャと鍵を開けてギイッと扉の開く音がした。


 どうやら兄ちゃんが帰ってきたらしい。


 スマートフォンのフォルダに入った写真が頭の中に蘇って、俺は腹に収めた夕食のチキンやポタージュが半ば胃の中で逆流するのを感じながら、目だけは古い石造りの遺跡の写真に注ぎ続ける。


 その頃の自分はもう、兄貴と直接視線を合わせて話すことを極力避けていた。


 ガチャリと居間のドアが開く音がして、冷えた廊下の空気と兄ちゃんの着けている整髪料の匂いが流れ込んできた。


 それでも振り向かないよう努める。


「ああ、さっそく見てるよ」


 反射的に振り返ると、コート姿の兄はスマートフォンを耳に当ててにこやかに話していた。


 どうやら優衣さんとこのプレゼントの写真集について話しているらしい。


「わざわざどうもありがとう」


 表面的にはどこにも皮肉や当て擦り、馬鹿にした色など見えない、兄ちゃんの顔と声。


 だが、それが却って相手を騙す狡賢さや嫌らしさの現れに思えて胃がキリキリするような感じを覚えた。


 大体、優衣さんは俺にこのプレゼントをくれたのに、何でお前が先回りしてお礼を伝えるんだ。


 まるで俺が「ありがとう」も言えない子供みたいに。


 兄の本来は別段非難すべきでない振る舞いにまで反発を抱いている自分に気付いたが、もうどうしようもなかった。


 今日も影では優衣さんを裏切っていた兄ちゃんの行動を良く思ってやる必要などあるだろうか。


 二十五歳の兄はそんな十歳の弟の眼差しになど気にも留めない風にスマートフォンを耳に当てたまま、居間の長椅子に腰掛けた。


「明日は俺がそっちに行く?」


 柔らかな長椅子に腰を下ろすと急に疲れが見え始めた兄は窮屈そうにコートのボタンを外すと、胸を開いて、あのマリンブルーのネクタイを外して足下に落とした。


「優衣ちゃんはどうしたい?」


 あはは、と笑った兄の顔と声にそれまでと微妙に異なる、纏い付くような何かが現れた気がした。


 中途半端にコートとスーツの胸を開いて長椅子に凭れた姿。床に落ちた浮気相手からのネクタイ。


 その時、唐突に頭に蘇ったのは、兄貴と狐顔の女の姿ではなく、夏の日に見た、優衣さんの潤んだ目と兄貴の背に絡み付くように回された細く白い腕だった。


 尻から背筋にかけてゾワッと毛の逆立つような感じが駆け抜けて、吐きたくても吐けないような感じが喉の奥にせり上げる。


 兄ちゃんは明日、優衣さんの家に行って何をする気なのだろう。


 十歳の自分は人並みに性に興味があったし、むしろ意識としてませた部類ですらあったと思う。


 それでも、性行為といえば、「人目のつかない場所に行って裸で抱き合って体に触ること」という程度の認識しかなかった。


 テレビのドラマなどでそういった場面を目にしても、それは特別な秘密の儀式じみた行為であって、実際に身近にいるカップルが当たり前にする行為だとは思っていなかった。


 うちに遊びに来た優衣さんを兄貴が送って暫く帰って来なくても、優衣さんがうちで過ごす時の延長で二人でお茶やコーヒーを飲んで楽しく話しているイメージしか思い浮かべていなかった。


 兄貴が昼前に優衣さんに会いに行って夜に戻ってきても、どこかに二人で出かけて買い物でもしてレストランで食事して帰ってくるような想像しかしていなかった。


 もっとはっきり言えば、十歳の俺は、その時点でも、兄貴と優衣さん、そして浮気相手の関係性を自分がたまたま目撃したキスまでの接触だと疑問なく認識していたのだ。


 学生時代から付き合っている婚約者がいながら挙式の直前になっても職場の同僚と浮気して両方からプレゼントを貰っているような男。


 それが双方とキスまでの関わりで済ませている訳はない。


 そんな風に推察するには、十歳の自分は幼すぎたのだ。


 更に言えば、十歳の子供にはキスすら既に十分に背徳的な性行為の範疇だった。


「じゃ、今日はもうゆっくり寝なよ」


 スマートフォンを掴む兄貴の左手にはプラチナの環が控え目にだが確かに光っている。


 兄ちゃんはあの婚約指環を嵌めたまま優衣さんでない女とキスした。


 その唇で優衣さんにもキスして、その手で優衣さんの服を脱がせて裸にした体を好き放題触るのだろうか。


 それは嫌らしいというより騙して毒を飲ませるようなおぞましい、残酷な仕打ちに思えた。


 何も知らずに兄と裸で抱き合って、テレビドラマのそういう場面の女の人が決まって出す、泣くような声を上げている優衣さんを想像すると、自分の知っている彼女が完全に壊されてもう決して元には戻らない気がした。


 そんなことは絶対にさせない。


 俺は知らず知らず死んだ毒蛇のように床に落ちているマリンブルーのネクタイを拾い上げていた。


 ひんやりした滑らかな感触を両の掌で握り締める。


「じゃ、お休み」


 何だか疲れたような、寂しいような笑いを浮かべて告げると、兄はスマートフォンの画面を人差し指でトンと叩いて立ち上がった。


「あ……」


 自分の上に覆い被さってきた影に思わず口から間抜けな声がこぼれ落ちた。


「それ、一日中、外でしていたやつだから、汚いよ」


 十歳の弟より頭一つ分以上も大きな兄はさりげなくネクタイを取り返す。


 マリンブルーの毒蛇は驚いた瞬間に力の弱った俺の手からスルリといとも簡単に抜けた。


「そろそろクリーニングに出さないとな」


 影になった兄の顔が独り言のように呟いた。


 整髪料とコロンと微かな汗の交ざった匂いが兄弟の間に漂う。


 兄ちゃんはあの狐みたいな女から貰ったネクタイを律儀に職場に着けて行って、わざわざ金を払ってクリーニングしてまで長く綺麗に使いたいのだ。


 優衣さんから贈られたコートをまだ家の中でも着ているくせに。


 ははは、と可笑おかしくもないのに何故か笑えた。


「最近よくそのネクタイ着けてるね」


 自分で聞いてすら嫌な感じの声が続けた。


「凄くダセえ」


 影になった兄ちゃんの顔は怒りでも笑いでもない、表情らしい表情を持たない風に見える。


「会社の人も言わないの? そんなやつやめろって」


 お母さんは兄ちゃんの職場の人にも結婚式の招待状を出す話をしていたから、あの狐みたいな女も含めて全員とも優衣さんと結婚することを知っているはずだ。


 会社の人たちは本当に皆、兄ちゃんがあの女と浮気していることを知らないのだろうか。


 それとも、知っていて黙っているのだろうか。


「そんなの失礼だから、職場の人同士では言わないんだよ」


 兄貴はふっと苦い笑いを漏らすと、付け加えた。


「お前も色々言うようになったな」


 そして、ネクタイを手にしたままコートの背を見せてリビングを出ていった。


 *****


 その晩はまるで盗まれるのを恐れるようにベッドの枕脇にプレゼントの写真集と神話の本を置いたまま、なかなか寝付くことが出来なかった。


 明日は塾の冬期講習も休みだ。


 俺は一日家にいて何も知らない優衣さんが兄ちゃんから襲われるのをこんな風に思い悩んで見殺しにするしかないのだろうか。


 先ほど目にした兄の床に放ったマリンブルーのネクタイ、開いたワイシャツの胸、そして向かい合った自分を見下ろす巨大な影が蘇る。


 次いで、子供の自分よりは背が高くても、兄と並ぶと一回り小さく華奢に見える優衣さんの姿が浮かんだ。


 優衣さんが浮気のことは知らないまま求められる行為に恐怖や嫌悪を示して拒んでも、兄ちゃんは力ずくで自分の思い通りにしてしまうだろう。


 性行為の正確な内容はまだ把握できないながらも十歳の自分は「レイプ」「強姦」という卑劣な行為があることを、それがされた女性の心も体も深く傷付ける行為であることを薄々知っていた。


――お前は俺のもんなんだよ。


 テレビドラマのそうした場面のように泣いて嫌がる婚約者をベッドに押さえ付け、“お前も色々言うようになったな”と自分に告げた口調で言い放ってせせら笑う兄の姿がよぎった。


 やって来ない助けに絶望して大きな目から涙を流しながら二人きりの部屋でひたすらおぞましい仕打ちを受ける優衣さんの姿が浮かんできて、思わず毛布を頭から被って瞼をギュッと閉じた。


 目を閉じようが、頭を抱えようが、想像の中の兄は騙した婚約者をいたぶる行為を止めない。


 彼女の涙や苦痛の訴えを冷笑して楽しんでいるのだ。


 当時十歳の自分にはたとえ合意であっても、性行為が女性にとって快楽であるようには認識されていなかった。


 フィクションのそういう場面の女性がお決まりのように呼吸を荒くして高く泣くような声を上げている姿を見ると、むしろ酷く苦痛な行為であるように見えた。


 相手の男性が好きだから、あるいは逆らえない間柄だから、本来は辛くても無理に引き受けている虐待的な所業に思えた。


 大人たちがテレビでそういう場面になると苦笑したり不道徳なものとして子供の目から隠そうとしたりするのは、それが殴ったり蹴ったり、あるいは麻薬を吸わせたりするのと同じ、男性から女性への暴力、加害を描いているからだと解釈していた。


 兄ちゃんは優衣さんを騙した上にそんな仕打ちを働こうとしているのだ。


 力ずくで言いなりにさせて、自分に逆らえない、逃げられないようにして、そのまま結婚してしまおうというのだろうか。


 急速に、兄にとっては婚約者の優衣さんも、弟の自分も、息子の結婚式や新生活の準備に動いている両親も、二人の結婚を純粋に祝福しようと式にやってくる人たちも、全員とも内心で盛大に嘲り笑っている対象なのではないかという気がしてきた。


 駄目だ、やっぱり生かしておけない。


 ベッドを出て机の引き出しからカッターを取り出す。


 これで呑気に眠っているあいつの首を切ってやろう。


 確か首筋の辺りを切りつければ首全部を切り落とさなくても出血多量で死ぬはずだ。


 兄の安らかな寝顔を切り刻む場面がふと浮かんで知らず知らず自分の顔が綻ぶのを感じた。


 息の根を止めてやれなくても、せめて二目と見られない顔にしてやろう。


 暗がりの中でまだ新しい、使われていないカッターの刃が白々と光った。


 兄ちゃんを殺したら、俺はやっぱり警察に捕まるんだろうな。


 二、三時間前に風呂で使ったばかりの花じみたシャンプーとボディソープの香りが微かに漂う、暖房のタイマー運転が切れて寒くなり始めた部屋の中で一人立って考える。


 子供だから刑務所ではなく少年院とかいう所に入れられて、多分、大人になる前には出られるだろう。


 けれど、もう元のような生活には戻れない。


 知らない人からすれば「実のお兄さんを手にかけた人殺し」だもんな。


 兄ちゃんは表向きは普通の会社員で詐欺とか盗みとか警察に捕まるような悪いことをしていた人じゃないし、奥さんや婚約者がいて浮気するような人は他にも普通にいるだろうから、大人の世界では家族に殺されるほどの話ではないだろう。


 何よりも、優衣さんは俺をどういう目で見るだろう。


 優衣さんを守るために兄ちゃんを殺したと言っても、信じてくれるだろうか。


 兄ちゃんは上辺では優衣さんに優しくしていて、だからこそ、優衣さんは疑うことなく結婚式の準備を進めて俺にも新婚旅行で行くはずのギリシャの写真集をくれたのだ。


 ウェディングドレスの試着で楽しそうに笑っていた姿が蘇ってきてまた胸が締め付けられる。


 自分としても優衣さんのあの姿をもう一度目にしたいのだ。


――ガチャリ。


 不意に背後からドアの開く音がした。


 思わずビクリとして振り返る。


 自室のドアは完全に閉じられたままだ。


――タッ、タッ、タッ、タッ……。


 階段を降りて遠ざかる足音の調子で兄と知れた。


 まだ起きていたらしい。


 そもそも普段から小学生の自分より社会人の兄の方が遅くまで起きているのだと今更ながらに思い当たる。


 明日は休みだし、優衣さんの家に行くのは恐らく昼前だから、敢えて早く寝る必要もないのだ。


 ホッと息を吐くと同時に情けなくへたり込んだ。


 カーペットを敷いた床はパジャマの尻と素足にはうっすら冷たい。


 手にしたカッターを改めて見直すと、いかにもちゃちなオモチャじみて映った。


 こんなもんで俺に兄ちゃんを殺せる、深い傷を与えられる訳がない。


 相手の方が体もずっと大きくて、腕力も強い、狡賢い大人なんだから。


 兄に致命傷を与えられるかのようにのぼせ上がっていた自分がいかにも幼稚で愚かしい、漫画なら出てきてすぐに始末される雑魚キャラみたいな小者に思えた。


――れん、そっちは駄目だよ。


 ふと脳裡に蘇った、自分の一番古い記憶での兄はスーツじみたブレザーにワインレッドのネクタイを締めていた。


――落ちたら大変なんだから。


 川縁を走っていた二、三歳の俺を後ろから抱き止めた兄ちゃんは十七、八歳だったはずだが、その時点でももう「若い大人」だった。


 むろん、古いアルバムを開けば、今の俺そっくりの兄ちゃんの小学生時代の写真が見られるけれど、リアルタイムで目にした相手が同じ「子供」の位置にいたことはない。


 クラスの他の子は十歳、小学四年生の弟にはせいぜい中学生のお兄ちゃんという組み合わせだけれど、俺の兄ちゃんはとっくに大学まで出て会社勤めしている完全な大人だ。


 四人家族の家では、自分だけがいつも小さな子供だったし、今もそれは変わらないのだ。


――蓮の好きなものから取りなよ。


 他所から何か貰っても兄ちゃんはいつも俺を優先してくれた。


 兄弟喧嘩らしい喧嘩などしたことはなかった。


 十五歳も年の離れた兄弟にあっては、弟が夢中になるものは兄にはとっくに卒業したものであり、兄が欲しがるものは弟には理解しがたいものだったから、争いも生じなかったのだ。


 今だって、兄ちゃんは俺をボカスカ殴ったり目立って酷い言葉を浴びせかけたりしている訳ではない。


 だが、もう自分の中ではすっかり狡くて汚い大人に変わってしまった。


「淫ら」という言葉を当時はまだ知らなかったが、プラチナの指環を嵌めたまま浮気相手にも口づける、その女から贈られたネクタイを締める、その手で婚約者にも触れようとする兄の姿が実に不潔で淫らな、唾棄すべき大人に思えた。


 頬に最初は生温く、しかし途中からひやりと冷える雫が伝い落ちるのを感じる。


 兄ちゃんはどうしてこうなってしまったんだろう。


 それとも、俺が子供で馬鹿だから気付かなかっただけで、もともとそういう人だったのだろうか。


*****


 泣きながら寝入ったその晩の夢は不思議と覚えていない。


 ただ、目が覚めた時にはひたすら悲しく、胸が鉛のように沈み込んだ。


 普段と変わらぬ自室の白い天井を見上げて息を吐く。


 起きても良いことなどないのに、また目を覚ましてしまった。


 何故、自分は生きているんだろう。


 多分、今日の昼前には兄ちゃんは優衣さんの家に行って酷いことをするんだ。


 俺にはただ見ているしかない。


 枕のすぐ傍に置いたギリシャの写真集も神話の本も元通りそこにあったが、何となく開くと更に気が重くなりそうで、代わりに充電の終わったスマートフォンに手を伸ばす。


 LINEのアイコンの上に「1」と着信の表示が出ている。


 もしかして、優衣さんかな?


 胸が高鳴ってタップしてみる。


白河理衣しらかわりえ


 何だ、この子か。


 学校は違うが、同じ塾に通う女の子だ。


 失望と落胆を覚えつつ、トーク画面を開いてみる。


“Merry Christmas! 私は塾はお休みしてシドニーに来ています。こっちは夏のクリスマスなんだよね”


 メッセージの下の写真では、抜けるように青い空の下、緩やかな天然パーマの髪をポニーテールに結って鮮やかなミントグリーンのタンクトップを着た女の子がフラペチーノのカップを片手に持って晴れやかに笑っている。


「はいはい」


 相手に聞こえる訳はないが、何となくうんざりして言ってみる。


 大病院の院長の一人娘だというこの子を自分はどうしてもあまり好きになれない。


 一般には決してブスな子ではないし、意地悪とかきついとかいうタイプでもない。


 だが、この子のウェーブの入った長い髪や吊り気味の細い目があの狐顔の女に似ていると感じてから、別人で姉妹でも何でもないと分かっていても、姿を目にすると微かな忌まわしさを覚えるようになった。


 白河さんの方ではどうやら自分に好意を持っているらしく塾で会うと笑顔で話し掛けてくる。


 それを眺めていると、

「もしかして、兄ちゃんもあの狐みたいな女から最初はこんな風に好かれて追い回されて、同じ会社の人だからはっきり断れずにいる内に引きずり込まれて優衣さんがいるのに浮気したのかな」

という気がしてきて、そうなると、この子の自分に見せる笑顔や好意的な言動がいちいち悪どい罠じみて映り、

「自分は何が何でもこの子を好きになるものか」

と思ってしまう。


 この写真のカップ持って横向きに笑ってるポーズ、雑誌に載ってる女優とかモデルの真似かな?


 大人の真似して痛いんだよ。


 いっつも高そうな服着てお洒落してるけど、大して可愛くもないだろ、こいつ。


 こっちは好きでもないのに何で写真なんか送ってきやがるんだ。


 だが、その瞬間、閃くものがあった。


 そうだ、優衣さんに兄ちゃんの浮気の証拠写真を送ればいいのだ。


 それまでスマートフォンのフォルダに飽くまで自分だけの秘密として撮り溜めていたので、その発想は不思議と思い浮かばなかった。


 兄ちゃんと狐顔の女がキスしている写真をこれから送って見せれば、優衣さんにも真相が知れて、兄ちゃんに襲われる前に拒む理由が出来るだろう。


 それはそのまま結婚を断る理由にもなってしまうだろうけれど。


 迷いつつも今度は優衣さんとのLINEのトーク欄を開く。


“クリスマスプレゼントありがとうございます。ギリシャの写真、凄くきれいです。神話の方もこれから読みます”


“どれがいいか迷ったけど蓮くんが気に入ってくれたなら良かった”


 これが昨日までのトーク欄で最後にしたやり取りだ。


 優衣さんのアイコンではダイヤモンドリングとプラチナリングが寄り添って映っている。


 フォルダ内の並んだ画像を改めて眺めながら吐き気が込み上げた。


 こんな汚らわしい物を俺と優衣さんのやり取りに加えたくない。


 それに、俺が撮って出したとなれば、兄ちゃんが

「蓮のイタズラだ」

「弟は子供だから人違いした」

とか言って誤魔化すかもしれない。あいつは狡い大人なんだから。


 前に優衣さんからパソコンのメールアドレスも聞いたから、そちらに俺とは分からないようにして送ろう。


 十歳の子供は恐ろしい。


 俺はそのままネットで無料で作れるメールシステムを検索して、案内から指示されるまま適当な文字列でアドレスを作ってしまうと、優衣さん宛に何通かに分けて今まで撮った写真の全てを添付して送信した。


 その後はフォルダごと兄貴と浮気相手の写真を削除した。


 これは証拠隠滅ももちろんあるが、何より忌まわしい画像を自分の手元にもう一刻も置いておきたくなかったからだ。


 俺にとってあのフォルダはゴキブリ大嫌いな人間にとってのゴキブリホイホイのようなものだった。


 用が済んだらもう二度と中身は目にせずに捨て去るべきゴミだ。


*****


「塾が休みだからっていつまでも寝てちゃ駄目だよ」


 食卓にラップを掛けて置いてあった朝食をレンジで温めていると、お母さんが隣のリビングで洗濯物を部屋干ししながら小言を述べる。


「昨日貰った本読んでいる内にすっかり遅くなっちゃってさ」


 遅くまで眠れなかったのは本当だ。


「塾の友達にもシドニーで夏のクリスマスをお祝いしたなんて子がいるし、俺も海外に行ってみたいよ」


 これも嘘じゃない。


「それは中学受験で合格してからね」


 少なくとも後二年は駄目らしい。


 お母さんはもうそれで話は済んだとばかりに背を向けて洗濯物を干し続けている。


「俺も海外に初めて行ったのは中学に入ってからだよ」


 お父さんとテレビを見ていた兄ちゃんが話に加わる。


 お母さんが買ってきた部屋着姿の、ごく穏やかな、優衣さんを連れてくる前には当たり前に見慣れていた笑顔だ。


「中一の春休みに台湾に行ったのが最初だ」


 俺がまだ生まれてもいない頃だ。


「瞬が台北タイペイの空港ではぐれて迷子になったからあの時は大変だったな」


 お父さんが苦笑いする。


 その笑い顔に刻まれた皺の深さに何だか「おじさん」より「おじいさん」に近くなってしまった感じがした。


 あの時の父親はもう五十三歳で、同級生の父親の中でも一番老けた部類だったが、成人した長男の結婚を控えて一段落した心境だったのだろうか。


「海外だから誘拐されたんじゃないかと心配したよ。空港なんてどんな人がいるか分からないし」


 五十歳になるお母さんも苦いというより懐かしげに微笑む。


 部屋干しにすべく新たに取り上げた洗濯物の紺色の靴下はお父さんのか兄ちゃんのか判らないが、とにかく仕事用のスーツに合わせて履くものだ。


「瞬は蓮よりもっと大人しくてボーッとした子だったから」


 これはお母さんが昔の話をする時に良く口にする評だ。


 部屋着の兄は肯定も否定もせずにどこら照れた風に穏やかに笑っている。


 その様子を眺めていると、これが本当の兄ちゃんなのではないか、自分がしつこく追い回して狐みたいな女にキスする姿を写真に収めたあのプラチナリングの男は実は良く似た別人なのではないかという気がしてくる。


 同時に、先ほど匿名で優衣さんに送ったメールがとんでもなく卑劣な陥れ、取り返しのつかない重罪のように思えてきて背筋が寒くなってきた。


 優衣さんはもうあのメールを見ただろうか。LINEではなくパソコンの方のアドレスだから、そうちょくちょくは確かめないかもしれない。


 そもそも、あのメールはちゃんと向こうに届いただろうか。


 確か設定によっては知らない人からのメールは受信拒否されたりするらしいから、あのメールは優衣さんのメール欄には辿り着かずに抹消された可能性もあるのだ。


 あの不潔な画像はこのまま誰の目にも触れずに葬り去られて欲しい気がしてきた。


 もう俺のスマホでも削除したし。


「お前も中学に受かったらギリシャでもローマでも連れてってもらえよ」


 不意に兄の声がした。


 いつも通りの穏やかな声と面持ちだ。


 だが、ソファーに深く腰掛けた姿勢はどこか疲れた風にしどけなく、プラチナの環を薬指に嵌めた左手はまるでピアノでも弾くように微かに指全体が蠢いていた。


 その様を目にしていると、あの夏の日の優衣さんの白い腕や潤んだ瞳や、狐顔の女にキスする時の何もしない左腕の薬指で光る白金の環、そして、昨晩のコートを着たまま胸を開いて毒蛇じみたマリンブルーのネクタイを外した兄の姿が堰を切ったように蘇った。


 いいや、こいつは今でも何食わぬ顔でクローゼットに婚約者から贈られたコートと浮気相手から貰ったネクタイを並べて仕舞っている奴だ。


 今まで俺は兄ちゃんを信じようとして何度も裏切られたじゃないか。


 どうせこいつは今も腹の中では俺やお父さんお母さんを巧いこと騙したつもりでわらってるんだろう。


 そう思った瞬間、ブルブルとスマートフォンの振動音がリビング全体に響いた。


 思わずズボンのポケットに手を突っ込んでから、そうだ、俺のスマホは部屋の充電器に繋いできたと思い出す。


「はい」


 ソファーで兄ちゃんが笑顔でスマートフォンを耳に当てている。


「これから用意して出ようと思ってたとこ」


 優衣さんだ。


 胸にワーッと体中の血が集まって心臓が速打ちを始める。


「え……?」


 部屋着の兄ちゃんの顔が凍り付いた。


 あのメールの話だ。


 黙したまままるで血が抜き取られたように青ざめて紙のように白くなっていく兄の面持ちを見詰めながら改めて察した。


 同時にそれが兄にとっていかに致命的な打撃であるかも。


 傍らの両親も何らか長男の異変を察知したのか、訝しげな目を注いでいる。


 馬鹿な兄ちゃん。


 そんなに真っ青になるなら最初から浮気なんかするなよ。


 自分ならバレないと思ったの?


 バレなければいいと開き直ってたの?


 バレても自分なら許されると信じてたの?


 兄ちゃんだって優衣さんが他の男とキスしている写真なんか何枚も送られてきたら笑ってそのまま結婚なんてしないだろ。


「今、家にいるの? これからそっちに行くから」


 紙のように白く血の気の失せた顔つきの兄ちゃんは声だけはまるで宥めるように落ち着き払って続けた。


「とにかくちゃんと話し合おう」


 返事を待たずにトンと液晶画面を指で叩く。


「フーッ」


 蒼白な面持ちの兄はまるで重たいものを肩から下ろしたばかりのように息を吐いた。


 だが、その目は安堵するどころかいっそう陰鬱になる。


「どうしたの?」


 まだ俺の洗濯したトレーナーをハンガーに掛けたまま手に持っているお母さんが尋ねた。


「いや」


 兄ちゃんは部屋着のポケットにスマートフォンを入れると苦い声で付け加えた。


「向こうがちょっとトラブってるだけ」


 こいつ、まだお父さんお母さんの前ではいい顔して優衣さんを悪者にする気か。


 ぐっと怒りが込み上げた所でふと兄が何かに気付いた風に目を向けた。


「蓮……」


 怒りでも恨みでもない、表情の消えた眼差しがこちらを捉える。


「兄ちゃん、真っ青だね。病気?」


 考えるより先に言葉が出た。


 相手は何も言わずにゆっくり近付いてくる。


 目は虚ろなまま、しかし、両の拳を固く握り締めて。


「どっか悪いなら外に出ない方がいいよ」


 あはは、と可笑しくもないのにまた笑えた。


 俺はこれからボコボコに殴られるんだろうな。


 どこか冷静な頭で思った。


「優衣さんにうつったら困るだろ」


 殴ってみろ。


 そうしたら、お父さんお母さんの前でてめえのしてきたことを暴露してやる。


「違う?」


 俺は嘘や偽物でお前を陥れたんじゃない。本当のことを優衣さんに伝えただけだ。


 顔を影にした相手はほんの一時黙してこちらを見下ろしていたが、やがて圧し殺した声が降ってきた。


「お前は何も心配しなくていい」


 それから兄は瞬く間に着替えて優衣さんから贈られたベージュのコートを羽織ると、車に乗って家を後にした。


*****


 その日の昼食はお母さんがスーパーで注文したケーキを引き換えるついでに買ってきたお弁当だったが、俺はもちろん、両親も何となく憂鬱な面持ちをしていた。


「やっぱり、二十五歳と二十四歳じゃ結婚はまだ早かったのかもね」


 既に何かを察していたらしいお母さんがぽつりと言った。


「赤ちゃんが出来たとかそんな差し迫った事情でもないし」


 どこか突き放す風な口調から暗に優衣さんが非難されているように感じて真相は言い出せないままムッとする。


 浮気が駄目なことくらい十歳の俺でも知ってるし、二十五歳の兄ちゃんより若い内に結婚してうまくやってる人は普通にいると思うけど。


 そもそもお母さんは確か今の優衣さんと同じ二十四歳で結婚して二十五歳で兄ちゃんを産んだと聞いたけど、それも失敗した早過ぎた結婚だったの?


「瞬の方からプロポーズして結婚話を進めてきたんだよ」


 お父さんはまた更におじいさんに近付いた風な、しかし、今度は苦い疲れの見える面持ちで続けた。


「あのお嬢さんの方で迷いが出てもおかしくないよ。マリッジブルーなんてよく聞く話だし」


 自分からプロポーズして結婚話を進めておきながら影では職場の女と浮気するなんて酷い男だよなあ。


 俺が優衣さんならビンタ喰らわして二度と顔も合わせたくないよ。


――結婚、止めることにした。


 頬に赤い手形の跡を付けてもうすぐ帰ってくる兄ちゃんの姿を思い浮かべた。


 これでもう俺と優衣さんの関わりもおしまいなんだ。


 全く最悪なクリスマスだなあ。


 息を吐いて伸び上がったところで食卓の隅に置かれたケーキの箱が目に入った。


「これ、もう食べちゃおうよ」


 今でも既に憂鬱だけど、婚約破棄されてしょぼくれた兄ちゃんの顔を見ながらのクリスマスケーキなんてもっと不味くて喉を通らないだろう。


「瞬が帰ってきてからだよ」


 お母さんが微かな苛立ちを滲ませて告げたところで固定電話のベルが鳴った。


 兄ちゃんだ。


 一瞬そう思ってから、いや、それならお父さんお母さんのどちらかのスマホにでも寄越すはずだと思い直す。


 そう考える内にも母親が席を立って受話器を取る。


「はい」


 鬢に白い物の目立つ母親の横顔は堅い調子を崩さずに続けた。


「そうです」


 どうやら兄ちゃんや親しい人ではないようだ。


 母親の話す声の儀礼的な堅さから察した。


 と、その横顔に突然刺し貫かれたような震えが走った。


 食卓の斜め向かいから父親の固まる気配がした。


「分かりました。今すぐ伺います」


 受話器を置いたお母さんの顔は先ほどの兄ちゃんと同じ紙のように白くなっていた。


「瞬の車が事故に遭って、白河病院に運ばれたって」


 あの白河さんのお父さんが経営する病院だ。


*****


「優衣さんには俺が今、電話で知らせたから」


 トイレに行くフリをして電話して戻ってきたところで事後報告すると、

「余計なことを」

と怒ることが予想されたお母さんは意外にも安堵した表情で答えた。


「ありがとう」


 コートの胸に俺を強く抱き締めた。まるでそうしないともう一人の息子まで自分の前から消滅してしまうかのように。


 優衣さんはすぐに現れた(白河病院が優衣さんの家から近いのは後日知った)。


「瞬さんから来るって電話があってからずっと来ないのでどうしたのかと思っていました」


「そうですか」


 それから俺たち四人は消毒液臭い病院の廊下で寄り添って次の知らせを待った。


 優衣さんは両手を組んで祈る姿勢を取っていた。


 組み合わせた左手の薬指にはダイヤモンドの指環が光っていた。


 この人はあのメールを見て浮気したと分かっても兄ちゃんに死んで欲しくないのだ。


 もし、兄ちゃんが一命を取り留めて

「一緒にいたい」

と言ったら、きっと優しいから許してしまうんだろう。


 でも、俺はもう目を覚ました兄ちゃんとまともに話せる気がしない。


 俺は兄ちゃんに裏切られた。兄ちゃんも俺に背かれた。


 自分たちはもう二度と元の仲の良い兄弟には戻れないだろう。


*****


 人の命なんてあっけないものだ。


 意識不明の重体で白河病院に運ばれた兄ちゃんは結局、目を覚ますことなく息を引き取った。


「ご臨終です」


 医師の言葉に周囲の大人三人が凍り付く中、俺の胸にポッと生じてジンワリと広がっていったのは安堵だった。


 これでもう俺の裏切りを知った兄ちゃんと家の中で顔を付き合わせて暮らさずに済む。


 優衣さんから贈られたコートの下に浮気相手から貰ったネクタイを締めて会社に出ていく兄ちゃんの姿を目にせずに済む。


 兄ちゃんが他の女にキスした口でウェディングドレスを着た優衣さんの唇を奪う呪わしい結婚式に出なくて済む。


 これ以上、兄ちゃんが優衣さんを汚して壊していく仕打ちに苦しまなくて済むのだ。


 そんな風に安堵している自分は醜く非道だと十歳の頭にも理解できたが、それまでの兄が自分たちの信頼に対して一体どのように応じてきただろうか。


 遺体の怪我を逃れた左手の薬指には、もはや骨か関節の一部のようにあのプラチナのエンゲージリングが嵌められていた。


 このままこの指環と一緒に焼かれて灰にされてくれ。


「優衣さん」


 俺は茫然とした面持ちで、しかし、頬には涙の筋を付けている相手に抱き着いた。


「兄ちゃん、死んじゃった」


 だから、もうあいつのために泣かないで。


 祈るような気持ちで頬の涙の跡に口付けた。柔らかで優しい香りがした。


――蓮、そっちは駄目だよ。


 何故かずっと昔の、まだブレザーを着ていた兄ちゃんの姿が蘇る。


――落ちたら、大変なんだから。


 あの頃よりもっと大人になっていたはずの兄ちゃんはどうしてこうなってしまったのだろう。

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