指環は嵌めたまま。

吾妻栄子

第一章:プラチナの枷《かせ》

「どうして……」


 病院特有の消毒液臭い一室。


 既に呼吸も心音も止まってベッドに横たわるしゅんは答えてくれない。


――今、家にいるの? これからそっちに行くから。


――とにかくちゃんと話し合おう。


 四、五時間前、スマートフォンで告げられたまま、私はまるで囚人のように自分の部屋のソファーに腰掛けて、玄関のベルが鳴るのを待っていた。


 一時間ほど経って、

「やっぱり瞬は嫌気がさして来るのを止めたのかも」

と思った瞬間、手元のスマートフォンが震えた。


 着信の名前は“坂口蓮さかぐちれん”。予想していた名前とは一文字違いだ。


――もしもし、優衣ゆいさん? 兄ちゃんが事故で今、病院に……。


 電話線越しに聞こえる十歳の蓮くんの声は震えていた。


 そして、教えられた病院に駆け付けた時にはもう心肺停止しており、今、死が伝えられた。


「何で……」


 今朝、起きた時にはまだ来月あなたと結婚式を挙げると信じて疑わなかったのに。


 六時間前、パソコンのメールに見知らぬアドレスであなたと他の女性がキスする写真が数枚送られてくるまでは浮気されていると想像すらしていなかったのに。


 今も、私の薬指にはダイヤモンドのエンゲージリングが光っているのに。


 ふと、瞬の手に目を走らせると、包帯を外れた左手の薬指にはプラチナの環がまるでそこまでが手の一部であるかのようにしっかり収まっていた。


「ああ……」


 そろそろ冷えて固まり出したその手に口づける。


 他の女性とキスを交わしていたあなたの内心がどうであれ、一緒にいる時はとても優しくしてくれた。


 馬鹿な私には他の女性と比べて見下されていると感じたことは一度もなかった。


 何より最期まで婚約指環を外さずにいてくれた。


 これ以上、逝ってしまったあなたを責める必要がどこにあろうか。


*****


 ドアを開けると、瞬の両親と蓮くんがいた。


「優衣さん」


 目を真っ赤にした蓮くんが抱き着いてくる。


 屈み込んで抱き止めると、瞬と同じボディソープの香りがした。


 そうだ、この子は今日まで瞬と同じ家に暮らして同じ物を使って暮らしていたのだ。


「兄ちゃん、死んじゃった」


 震える声が耳許でして、一瞬、頬の辺りにさっと唇を付けられた気がした。


 きっと、幼いこの子の方が理不尽に辛い思いをしているのだ。


 泣き声を上げ続ける十歳のかぼそい背中を私は出来るだけ優しく擦り続ける。

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