Dear K

いいの すけこ

Dearの使い方

 俺は美術の授業がクソ苦手だ。

 美術センスは壊滅的だし、不器用だし。

 中学二年になっても、小学校低学年みたいな単純な絵しか描けないし。

 それでも一周回って抽象画と揶揄されるような、無様な出来でも作品を完成させられたらまだマシなほうで。

 鉛筆を握ったまま、授業時間の半分固まっているなんてこともよくある。


 なので俺は美術の時間あえて、友達と違う席で授業を受けることにしていた。

 授業は美術室に移動して行うが、席は自由だった。

 六人掛けの大きな作業机に仲のいい友達同士で座って、みんなでわいわい騒ぎながら作品制作にいそしむ。

 ただ黙々と作業するよりも友達同士刺激しあって、楽しみながら美術に親しんでもらいたいという、先生なりの教育方針というやつらしい。

 だけど俺には、手を動かしながら友達と馬鹿話をする余裕などない。連中には『真面目か!』と突っ込まれたが、その通り、こちとら大真面目だ。というか、必死だ。先生の方針に背こうとも友達にからかわれようとも、本気で集中して作業しないと居残り確定なのだ。


 だというのに。

(うるっせえ……)

 よれよれとした線らしきものを引いた画用紙を前に、俺は押し黙る。そもそも授業が始まってから、一切のおしゃべりもせずそれはそれは真面目に画用紙に相対しているのだけれど。

 この席は失敗だった。

 相席になった女子グループのおしゃべりが、半端なくうるさかったのだ。

『どういうの描く?』とか『何色にしよっかなあ』とか、授業にまつわる話で盛り上がっているうちはまだ聞いていられた。

 だが『今度の大会さ、メンバー決まったじゃん』とか『つーか今日のお弁当コンビニで買い弁なんだけどさあ』とか『ていうか今夜絶対見てよウチの推し出るから!』とか、部活やら昼飯やらテレビやら関係ない話までするな。


 今日の授業はレタリングだった。文字を広告とか雑誌のタイトルみたいにデザインして描くやつ。自分のイニシャルをレタリングしろ、という指示だ。

 俺は『前野圭まえのけい』なので、K・M。描きやすそうな、そうでもないような。

 でも風景画やら自画像と違ってわかりやすいし、手本を見れば何とか描けそうなものだから、今日の授業はいつもよりは楽だろうと思っていた。

 なのに先生の用意したレタリングのデザイン集が置いてある席を選んだら、そこにやかましい女子たちが集まってしまった。

 肝心のデザイン集は、女子に占有されてしまっているし。

 っていうかこいつらなんで、こんなに喋ってて作品も完成に近づいてるんだよ!

 授業は残り二十分。半分も残っていない。


花島はなじまさん。なんでそんなに全然描けてないの?」

 瞬間、教室が静まった。

 見回っていた先生の驚いたような声。

 背後の机、その端の席に座った生徒に先生は尋ねた。

(俺も全然描けてないけど)

 一瞬、自分が聞かれたのかと思った。

 手元の画用紙はうっすら下絵らしきものが描けた段階で、色塗りはおろかペン入れにすら到達していない。

 けれど遠目に見える花島の画用紙は、鉛筆の線すら確認できなかった。

「そんなに悩んじゃうかなあ。複雑なデザインにしなくてもいいから、簡単なやつから選べば?」

 先生の言葉に、花島は小さく返事をしていた。

 俺も他人ごとではない。大慌てでペンを握る。

 一瞬教室が静まったせいか、さっきまでよりはみんな気持ち声のトーンを落としておしゃべりを再開する。


「ねえ、ケイってさあ……」

「ケイねー」

 忍び笑いに交じる単語を、女子たちのおしゃべりに疲れた耳が拾う。

「なんだよ」

「は?」

「俺がなんだって?」

 さんざんイラついた声に名前を呼ばれた。不機嫌丸出しで問えば、女子どもは馬鹿にしたように笑う。

「は、なんのこと」

「呼んだろ、圭って」

「呼んでないし」

「あれ、前野って名前、ケイだっけ?知らなかったごっめーん」

 連携した女子たちは、どこまでも強気に振舞うのだった。

「じゃあなんだよ」

「関係ないじゃん」

 ねー、と声を合わせて

「前野のことなんか言ってないし」

「被害妄想ー」

「つーか前野、全然終わってないんだから早く描けば?」

 女子たちは矢継ぎ早に繰り出すと、あとは俺に完全無視を決め込む。

 止まらないおしゃべりに、せめて黙ってくれと思いながらペンを走らせた。


「あああ、終わったー」

 放課後の美術室で、俺は色鉛筆を投げ出して言った。

 結局、作品を時間内に仕上げられなくて居残りになってしまった。傾いてきた日の差し込む美術室にいるのは、俺ともう一人。

「花島、どうよ」

 対角線上に座る花島は、ただ黙って作品を仕上げていた。

 画用紙の隣に、はがきくらいの大きさのメモ帳が置いてある。

 ハードカバーの本みたいなメモ帳で、表紙は金箔押しの模様やラインストーンまで飾ってあって、ちょっと高価そうだ。

 魔法の絨毯みたいな柄の表紙のど真ん中に、紋章みたいにかっこよくデザインされたアルファベットの『K』が描かれている。


 花島京香きょうか

 イニシャルはK・H。

 手持ちのメモ帳のデザインを参考に、レタリングを描くことにしたようだ。

「花島、うまいじゃん」

 俺は花島の手元の画用紙をのぞき込む。凝ったデザインのアルファベットを、花島の手は見事に描き出していた。

 そういえばもともと、花島は絵がうまかったはず。

「なんでそんなに時間かかったの?」

 花島は無言で手を動かす。色鉛筆が画用紙を滑る音が響いて。

 ぴたりと、音が止まった。

「……『ケイ』って、前野くんのことじゃないよ」

 そんなことを、ぽつりと言った。

「は?」

「さっき、前野くんが一緒に座ってた子たち。『ケイ』って言ってたでしょ。あれ、私の事」

「あー、言ってた。なに、あれ花島のことなの。あだ名?」

 京香だから、ケイ。

 イニシャルから取ったとすれば、不自然ではない。

 だけど、あの響きには。

「ううん。ただの隠語、っていうのかな」

「隠語」

「なんかね、よくわかんないけど。ちょっと、うまくいかなくなっちゃったんだよね、私たち。喧嘩したっていうんじゃないけど、あの子たちの何か気に障ったみたい。したらさ、ハブられっぽくなったり。陰口叩かれたり」

 

 彼女たちの口にする『ケイ』。

 それはただ単にやかましいのではなく、妙にいやらしくて暗い響きがした。

「私のイニシャルから『ケイ』って取ってさ。悪口言うときは、暗号みたくするの。全然隠れてないし、バレバレなんだけど。っていうか、わざと私にわかるようにやってるのかな、あれ」

 画用紙の上の、花島の手で描かれたK。

 それはとても綺麗な形をしているが。

 いったいどんな思いで鉛筆を走らせたというのだろう。

「今日の授業は、ちょっとしんどかったよね、さすがに。イニシャルじゃなくて、漢字のレタリングやらせてほしかったな」

 もういいや。

 そう言って、花島はそこそこに出来上がった作品から消しゴムのカスを払い落とした。

「先生呼んでくるね」

 花島は準備室のほうへと向かっていく。

「花島」

 呼びかけて、だけどかけられる言葉なんてあるだろうか。

 それを見抜かれたのかはわからないが、花島は俺の言葉を待たずに言う。

「前野くん。そのメモ帳、丸ごとあげる。持って帰って。いらなかったら捨てて」 

 言い残して、花島は準備室へと消えていった。

 仰々しい装飾のメモ帳を開いて、ぺらぺらとメモ紙をめくる。メモ紙は数種類のバリエーションがあって、絵葉書のように白紙の隅に模様を描いたものや、紙一面にうっすらとした色の花模様を散らしたものもあった。メモ帳の終わりのほうには、罫線の入ったメモ紙が綴られている。


(あれ)

 罫線入りメモ紙の一枚目。

 一番上の行に、『Dear』と書いてあった。

 細いカラーペンの手書き文字。

 花島が誰かに手紙でも書くつもりで、便箋代わりに使おうとしたのだろうか。

 誰に、何を。

 そんなことは考えても仕方ないだろう。

(Dear……どういう意味だっけ)

『拝啓』とか『前略』と一緒だっけ。それの意味もよく知らないけど。

 鞄の中から電子辞書を引っ張り出す。

 スマホもこっそり持ち込んではいるのだが、先生がすぐそこの準備室にいるので取り出す気にはなれない。


『Dear …… 親愛なる』


(親愛)

 ちょっと、普段使うつもりにはなれない言葉だ。

 手紙なんてもの自体がもはや珍しくて、すでにスマホで事足りてしまうし。電子のやり取りでは、挨拶の決まり事もないようなものだし。

 だけど。

 画用紙の上の、花島の手書きの『K』。 

 苦い思いで描き出したであろう、その一文字に。

 親愛を添えたら。

 便箋代わりのメモ紙に、『Dear K』と綴ったら。

 そのアルファベットは花島の耳に、心に、なにか違うように響くだろうか。

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