心の迷子

スエテナター

心の迷子

 冬から春へ季節が変わろうとする頃、日はだんだん長くなり、部室の窓からは鮮やかな夕暮れが見られるようになった。黄色に暮れていくこともあればオレンジに燃え立つこともあり、瑠璃色に澄むこともあれば灰色に濁ることもあった。その日は今年度最後の部誌の原稿締切日でみんな作品を印刷するために図書室へ行っていて、僕はたまたま水野さんと二人で部室に残された。窓の外にはこの世のものとは思えない朱色と濃紺の混ざった紫の夕暮れが広がっていて、僕らは二人で窓に張り付き「凄い色だね」と言い合いながら薄雲の這う空を観察した。

「まるで葡萄の色みたいだね。誰かがジュースを零したみたい」

 水野さんがそう漏らすので、僕はふと思い出して学ランのポケットを漁り、葡萄味の飴を差し出した。彼女は少し驚いた顔をして僕を見ると「もらっていいの? ありがとう」と笑顔で受け取ってくれた。僕はもう一粒葡萄飴を取り出し、包みを破って頬張った。彼女も僕に続いて遠慮がちに包みを破った。色水を流したように、じわ、と、葡萄の味が広がっていく。僕らは窓辺を離れ、学校机を四つくっ付けただけの粗末な作業台に並んで座った。肩が触れるほどではないけれど、セーラー服の繊維の目が観察できるくらい、水野さんとの距離は近かった。色白で肌理の細かいすらりとした首が、セーラー服の襟から凛々しく伸びている。彼女は夏頃から部長と付き合っていて、クラスメイトの僕とは特別な関係ではない。授業で同じ班になったり席替えで近い席になったりすれば普通に会話はする。だけど、それはクラスメイトとしての会話であって、特に意味深なものではない。おまけに四月の進級時にはクラス替えもある。僕らの在籍する普通科コースは一学年十クラスもあるので、二年生も水野さんと同じクラスになる確率は極めて低い。

「みんなと離れ離れになるの、寂しいね。榎並君とは部活で会えるけど、それでも別のクラスになったら寂しいな」

 一年間学級委員長を務めた彼女は僕を含めたクラスメイトみんなを惜しんだ。同じクラスで同じ部活。共通点が多く、高校に入学してから一番親しくなった異性が水野さんだった。名前も真っ先に覚えた。彼女がいてくれたおかげで入学初年の学校生活は楽しかった。

「二年生になってもよろしくね」

 二人でそう言い合っていると、突然部室のドアが叩きつけられるように開き、二年生の丹羽先輩が息を切らして青い顔で入ってきた。僕らは驚いて丹羽先輩を見た。

「た、丹羽先輩?」

「どうしたんですか?」

 丹羽先輩は僕らの問いには答えず、まるで幽霊でも見てきたように瞳孔を開いて「あ……あ……」と、声にならない声を漏らした。

 何があったのか分からないまま、僕と彼女は顔を見合わせた。


 紫の夕暮れはあっという間に去り、空はすっかり暗くなった。西の果てにほんの少し濃紺が透け、その奥底に、水のようにゆらゆら揺れる白い光が見えた。

 電車は混んでいた。僕は入口近くに突っ立って、窓に映る自分の顔を面白げもなく見つめた。

 あの後、他のみんなも部室に戻り、無事原稿が揃った安堵感もあって、様子のおかしい丹羽先輩のことは有耶無耶になった。何人かは丹羽先輩の顔色の悪さに気付いて「大丈夫ですか?」と声を掛けたけれど、先輩は「平気平気。昨日徹夜で原稿仕上げたから急に眠気が来ただけだよ」と引きつった笑顔で答えた。

 コートのポケットに手を突っ込むと、明穂からもらった葡萄飴がもう一粒入っていた。中学を卒業して以来、明穂とは学校帰りの電車でしか会わない。顔を合わせるたびにいつもこの葡萄飴をくれる。家が同じ方向なので電車を降りてからも一緒に家路を歩くけれど、その間、彼女は肩が触れるほど密着したり、気紛れに手を握ってきたりした。あまりに思わせ振りな態度に困惑し、一度彼女に僕への好意があるのか訊ねたら、彼女はきっぱりとそんなものはないと否定した。明穂が何を考えているのかさっぱり分からない。窓に映る平坦な僕の顔は真っ暗な宵の闇に飲み込まれていた。


 今年度最後の部誌作りも終わり、文芸部では一年の打ち上げをすることになった。その前に部室の大掃除をする。僕も水野さんも毎日部室に顔を出して掃除に参加した。部長や副部長をはじめ、二年生の先輩たちもみんな参加している。

「おい、榎並」

 掃除の最中、僕は丹羽先輩に腕を引かれ、部室の外に連れ出された。先輩は人目を気にしながら誰も来ない静まり返った廊下の隅まで僕を引っ張っていき、ひそひそと耳打ちをした。

「水野さんって、部長と付き合ってるんだろ?」

 僕は首を捻りながら「はぁ、そう聞いてますけど」と答えた。丹羽先輩はみるみる顔を青くして唇を震わせながら言った。

「俺さ、この前、部誌原稿の締切の日、見ちまったんだよ。部長と副部長がキスしてるの」

「はぁ?」

 あまりに唐突な告白に思わず大声が出た。

「馬鹿、声が大きい。誰かに聞かれたらどうするんだよ」

 丹羽先輩はしーっと、唇に人差し指を当てた。

「すみません。でも、何でそんなこと俺に言うんです?」

「だってお前、水野さんと仲いいじゃん。何か知ってんのかなと思ってさ」

 残念ながら水野さんと部長のことなんて何も知らない。できればこんな気まずい話も聞きたくなかった。水野さんと部長はみんなの前ではなるべく距離を置いて節度ある態度を心掛けている。二人の仲がどうなっているのか、二人の本心はどうなのか、そんなこと、第三者の僕に分かるはずもない。突然こんな秘密を知ってしまって、僕はこれからどうやって水野さんと顔を合わせればいいんだろう。普通の顔? 普通の顔とはどうすればいいんだろう。何も聞かなかった振りをする? そんな仕草、心得てない。直接密会現場を目撃してしまった丹羽先輩ほどではないけれど、僕だって戸惑っている。このまま掃除をばっくれるわけにもいかないし、こんな重い気持ちのままみんなのところに戻らなければならない。僕も丹羽先輩も未熟な林檎のように顔面真っ青だった。二人で部室に戻ると、水野さんが「お帰りなさい、榎並君」と笑顔で出迎えてくれた。手には雑巾を持っている。

「今から窓拭きするのよ」

「あ、ああ……じゃあ、それは俺がするよ。上の方、椅子に乗らないと届かないし、大変でしょ?」

 僕は返事も聞かないで水野さんから雑巾をもぎ取り、椅子に乗って一心不乱に窓を拭き始めた。丹羽先輩も僕の隣に椅子を並べてわざとらしく窓拭きを始める。先輩は僕の方に肩を寄せて「傍から見てるとお前と水野さんが付き合ってるように見えるんだけどな」と囁いた。

「先輩、そんな笑えない冷やかしいらないですから」

 僕はどっと疲れた。本人たちの目の前で、事実ではないことを、たとえ誰にも聞こえない小声であったとしても、口にしてもらいたくなかった。先輩は僕からさっと離れて黙々と窓を拭き続けた。


 部室の掃除も目処が付き、次の日は部活が休みになった。四時過ぎの早い電車に乗るのは久し振りだった。帰宅ラッシュの時間なので座る場所なんてもちろんない。吊り革に掴まって水平に流れていく窓の景色をぼんやり見つめる。乗り合わせた人たちはみんな黙ってスマホを見たり目を閉じて眠ったりしていた。当然といえば当然のことなのかもしれないけれど、これから先、僕がここに乗り合わせた人たちと人生を共有することなんて滅多にないんだろう。目的の駅に着いて客車を降りてしまえば乗り合わせた人たちのことなんて綺麗さっぱり忘れてしまう。それなのに、長椅子に座った人たちを何気なく見ているうちに、だんだんおかしな錯覚に襲われてきて、上品な白髪のおばあさんも、スーツを着たいかめしいサラリーマンも、茶髪の大学生風の女性も、みんな僕の忘れがたい大切な人のように思われてきた。県庁所在地の町を抜けると、窓にはもう山並みと田んぼと小さな集落しか映らない。空っぽの乾いた田んぼの合間に積み木を散らかしたように節操なく家々が建ち並び、その遥か先の水平線には低い山々が途切れなく流れている。今年は雪が多かったから白い山もあった。もうじき春になれば山は萌える。信じられないくらいはっきり緑に色付く。今日はオレンジ掛かった桃色の夕暮れだった。薄雲が光を抱いている。部室にいれば拭きたての窓硝子の前で水野さんと一緒に「綺麗な色だね」と言い合っていたのかもしれない。人を傷付けない穏やかな人柄に似合った丸い目、綺麗に切り揃えられた前髪、白く艶めいた首の肌、ほつれのないセーラー服の襟。こんな変なタイミングで水野さんの美しい部分だけがピンポイントで思い浮かぶ。今頃水野さんはどうしているんだろう。いつも通り元気でいるんだろうか。それとも例のことを知って密かに傷付いているんだろうか。水野さんが傷付く姿なんて見るに堪えない。こんな時、連絡先を知っていたら力になれることもあったのかもしれないけれど、一同級生という一歩引いた関係だからこそ僕らは仲良くいられたのだろう。ここから一歩でも踏み出せばどうなるのか分からない。どう転んでも僕は第三者として水野さんを見守ることしかできない。運命を動かそうなんて思わない。遠い山並みは暗紫色に輝いていた。


 この日は明穂も同じ電車に乗っていたようで、先頭車両から降りてくる姿がちらりと見えた。カフェラテ色のブレザーの制服と赤いチェックのマフラーが遠目に映える。駅舎を出て、僕らは並んで帰り道を歩いた。同じ駅に降りた他の乗客たちは岐路を通り過ぎるたびに一人また一人とどこかへ去っていき、気が付けば西の方へ歩いていくのは僕と明穂の二人だけになっていた。明穂はブレザーのポケットに手を突っ込んでマフラーに顎を埋め、黙って歩いている。僕は話題を探すことすらせず沈黙に身を委ねた。僕らの町は昔から何も変わらない。電車から見たままの小さな田舎町だ。侘しいコンビニが一軒あるくらいで、他に面白いものは何もない。僕らの生まれるずっと前からこの町の真ん中に鎮座している巨大な金属加工工場は、今でも古い緑の金網に囲まれていて、ふと、この金網に傘の先端を擦りつけながらランドセルを揺らして登下校をした小学生の頃を思い出した。明穂はその頃から長身で、今でも僕より一、二センチ背が高い。一緒にいると気の強い姉に丸め込まれた気弱な弟のような気分になった。その明穂が突然僕の肩を乱暴に掴んで公園に入り、土管型の遊具の影になった人目に付かないベンチに僕を座らせた。急に暗い所に押し込められて視界が効かない。明穂はおかしかった。様子が変だった。別に普段から愛想がいいわけではないけれど、今日は特に気が立っている風だった。スカートから流れ出る足も、肩からすらりと伸びた腕も、切れ長の目元や硬く閉じた唇も、何かはかりごとを隠しているように見えた。

「あ……明穂……?」

 僕は戸惑って明穂を見上げた。彼女は立ったまま僕を見下ろしている。遊具の影に覆われながら、切れ長の目はダイヤモンドのように光を抱いて鋭く輝いていた。彼女はゆっくりと長い腕を伸ばして僕の肩に触れ、冷酷に感情を押し殺した青白い顔を近付けてきた。

「ちょ……ちょっと待った」

 僕は迫ってくる明穂の肩を掴んで彼女を押し返した。

「どうしたんだよ。今日、何かおかしいぞ」

 明穂は歯を食いしばって、僕のコートの肩口を皺になるほど握り締めた。

「……今日で最後にするの」

「……え?」

 明穂が何を言っているのか僕には分からなかった。最後にするとは何のことだろうか。僕には気がないんじゃなかったのか。そもそも僕らは特別な関係ではないはずだし、何も始まってすらいないのではないか。それともそう思っているのは僕だけで、もう特別な関係になっていたんだろうか。好意はないとあれだけはっきり宣告されたのに。明穂は目を伏せて僕の左肩に額を乗せ、僕だけに聞こえる小さなあたたかい声で言った。

「……あんたは優しい人だった。一緒にいて心地よかった。我儘を言っても気儘な態度を取っても黙って受け入れてくれた。あたしはそれだけでほっとしたし嬉しかった。でも、もう甘えるのはやめるんだ。みっともない自分でいたくない」

 僕は心底驚いて目を見開いた。

「明穂……俺には気がないんじゃなかったの?」

 彼女は何も返事をせずに僕の肩から離れ、切れ長の目を影の中に泳がせた。冬の空気が急に左頬に触れてひんやりした。彼女は僕のコートのポケットに例の葡萄飴を一粒放り込んで「バイバイ」と悲しく微笑み、風のように去っていった。僕は体が動かなかった。肩が震えた。喉が塞いだ。頭が真っ白だった。影が冷たい。桃色の夕暮れが僕の身を焦がすように燃え上がっていた。


 文芸部の打ち上げの前日、僕と水野さんはみんなで食べるお菓子の買い出しに出掛けた。丹羽先輩からあの噂を聞いてから数日。水野さんも部長も部長の相手役の副部長も、普段と変わらない様子だった。僕と丹羽先輩だけが気を揉んではらはらしているように思えた。水野さんがあの噂のことを知っているのかどうか僕には分からない。分からない方がいいんだろう。人の心なんて無闇に覗くものじゃない。僕らは駅前の雑踏の名もない群像になって、この先のドラッグストアを目指した。周囲を歩く人々にとって僕ら二人はどう映るんだろう。僕はちゃんと心を持った人並みの人間に見えるんだろうか。人間に見えているのは僕だけで、他のみんなには獣か悪魔に見えているのではないだろうか。そんな恐れが知らず知らず芽生えた。水野さんは唇の端を可憐に引き締めて微笑んでいる。本当なら僕なんかが隣にいてはいけないのかもしれない。

「打ち上げのお菓子代、部費から援助もらえてよかったね」

 僕の気持ちも知らずに水野さんは機嫌よく言う。

「そうだね。ありがたいよ」

 僕は上の空で答える。「水野さんはあの噂のこと知ってるの?」なんて無神経なことはとてもじゃないけど訊けない。

「ねぇ、水野さん」

 そう呼び掛けると水野さんは小首を傾げて「ん?」と僕を見た。ふとした瞬間に見せる女の子らしい仕草が今の僕の不安定な心に硝子のように突き刺さった。

「人を好きになるってどんな感じなの?」

「え?」

 僕の問い掛けが意外なものだったようで、水野さんは首を傾げた。

「いや、俺にも仲良くしてくれる女の子はいるけどさ、その中の誰かを好きなのかどうかって訊かれると、多分、異性として好きって子はいないと思うんだ。だけど、目の前で落ち込んでる子がいたら普通に心配だし、つらい思いはしてほしくないし、できれば幸せに過ごしててほしい。力になれることがあればもちろん手を貸したいとも思う。その気持ちが、人としての優しさなのか異性としての好意の表れなのか、俺にはよく分からないんだ。だから、部長と付き合ってる水野さんならいいヒントをくれるかなと思って」

「そうね……」

 水野さんは少し考えてこう言った。

「私は先輩と一緒にいると心臓が爆発するくらいどきどきするよ。あと、一人でいるときもずっと先輩の顔が思い浮かぶかな」

「じゃあ、例えばの話だけど、今、俺が水野さんに対してどきどきしたり、家でずっと水野さんの顔が思い浮かんだりしたら、俺は水野さんのことが好きってこと?」

 水野さんは困り果てたような笑顔を浮かべ「うん……そうなのかな……?」と戸惑いがちに言った。さすがに例えがまずかっただろうか。

「そっか。参考になったよ。ありがとう」

 そう言ってその話は終わりになった。周りの人たちは賑わう街中を忙しく足早に通り過ぎていく。みんなどこへ行くんだろう。自分の行き先だって分からないのに、僕は他人のことばかり気になってしまう。おかしいな、変だなと思う。僕は歩きながらぽつりと呟いた。

「……俺は、水野さんにも幸せでいてもらいたいよ」

 水野さんは肩を竦めてはにかみ「ありがとう」と言った。


 帰宅ラッシュの電車に揺られ、僕は明穂が見せた切れ長の目を思い出していた。ポケットにはまだあの時の葡萄飴が残っている。不用意に突っ込んだ僕の指先がちりちりと焦げる。明穂の本心なんて知ってはいけないのかもしれない。気の強い人だし、僕に弱みを握られるなんて彼女のプライドが許さないだろう。僕の振る舞いは正しかったんだろうか。取り返しのつかない傷を付けてしまったような気がする。水野さんの言葉を信じるならば、今、一人でぼうっとしながら明穂を思い浮かべる僕は、明穂に恋心を抱いているかもしれないということになる。もし彼女と再会したら心臓が爆発するほどどきどきするんだろうか。その時になってみないと分からない。もしどきどきしなかったら僕は明穂には恋心を抱いていないということになる。この中途半端な気持ちは何なんだろう。人間としての罪悪感と正体の分からない恋慕とが綯い交ぜになっているんだろうか。ぐるぐる回る僕の頭を置き去りにして、空は群青色に暮れていく。車内は電灯が灯って明るい。人がたくさんいる。何となく、あったかい。ポケットの中で指先がまたちりちりと焦げる。心臓の端っこも焦げ付く。

 僕は、いつか誰かに、好きだよと言うんだろうか。

 一体誰に?

 一体、誰に……。


 文芸部の打ち上げは盛大に終わった。丹羽先輩は例の噂を忘れてしまったように大はしゃぎして、当の部長や副部長とも盛り上がっていた。僕と水野さんも他の一年生部員とのんびり打ち上げを楽しんだ。

 打ち上げの片付けを終え、空がオレンジ色に染まる頃、僕らは解散した。みんな思い思いに帰っていく。僕も荷物を持って下足箱へ向かった。

「榎並君、待って」

 階段を下りている最中、僕は上階から水野さんに呼び止められた。水野さんは駆け足で僕の所まで下りてきて「はい、これ」と、何かを差し出した。僕の掌にそっと置かれたのはオレンジ味の飴玉だった。狭い掌の上で寄り添うように二粒転がっている。

「この前、葡萄の飴をもらったからそのお返しだよ。あれ、凄く美味しかった」

「二つもくれるの? 俺は一つしかあげてないのに」

 水野さんはにっこりと笑った。

「お礼の気持ちだよ」

 僕も飴玉を握って微笑み返した。

「ありがとう。大事に食べるよ」

 水野さんは頷いて、階段の上に付いている細長い窓を見上げた。

「今日の夕暮れも綺麗だね。もうちょっとで春だよ」

「うん。そうだね」

 結局、水野さんが例のことを知っていたのかどうかは分からなかった。部長との仲がどうなっているのかも、僕だけでなく、部員みんなが知らなかった。

「……嬉しかったよ。幸せでいてもらいたいって言ってくれて。ありがとう」

 彼女は足元に視線を落としながらそう言った。

「私は、榎並君にも幸せになってもらいたいな。優しい人だから」

 僕は急に明穂のことを思い出して胸が詰まった。

『……あんたは優しい人だった』

 明穂は確かにそう言った。

 優しい? 嘘だろ? 優しいって何だよ? みんな揃いも揃って見え透いた世辞でも言ってんのか? 俺は誰のことだって幸せにしたことなんかないのに。

 口の中が苦かった。

 僕はポケットに飴を仕舞いながら言った。

「俺の幸せはともかく、水野さん、ありがとね。二年生になっても頑張ろう」

 水野さんは明るく笑って頷いた。

 もうじき春になる。あたたかくなる。季節は一瞬で過ぎて、次から次へと新しくなる。

 もう僕のポケットには葡萄の飴もオレンジの飴も残ってない。みんな食べてしまった。冬の間着ていたコートともすぐにお別れになるんだろう。

 四月になれば、僕は二年生になる。何も知らない、未熟な十七歳になる。

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