悪意のない凶器

 志緒は天候と気温が許す限り、紗枝と一緒に毎日散歩に出る日課を作った。2歳ともなると、家の中だけでは体力を持て余してしまう。いくら寝つきがいい紗枝でも、体力が有り余っていては寝てくれない。



 義孝の実家にいるときは、2階の狭い一室だけが生活の許容範囲だった。走ることも飛び跳ねることもできず、玄関まで行けば義母が絶対についてきてくる。志緒はもともと単独行動が基本だったから、いちいち玄関まで見送りにこれられるのも、根掘り葉掘りどこに行くか聞かれるのも嫌だった。紗枝を連れて散歩に行こういとも思えなくなるほど、志緒の精神はすり減っていたのだ。


 引っ越しをして家の中全体が行動範囲になった途端、紗枝はリビングで走り今までほとんどしなかったジャンプをして見せた。とても楽しそうだったし、体を好きに動かせるため便秘も解消。離乳食も徐々に進むようになった。


 引っ越し先も田んぼだらけの田舎で、義孝の実家よりも区の区切りが広い。家を出てすぐにある緩やかな上り坂になっている小道を上がれば国道が通っていて、通りの向こうは古くからある住宅密集地になっている。そこも同じ区内と越してすぐ自治会長から聞いて、どこまでが同じくなのか検討がつかなくなった。


 国道を渡たるのは、信号機があってもリスクがある。実際横断歩道で事故に合ったという話を近所の人から聞いていたので、国道は渡らず田んぼが広がる道をゆっくり歩いて散歩することにした。


 夕方に1時間、散歩をしていると、いろんな人に声をかけられる。

「あらいいいね、お散歩してるの」

面識のないおばあちゃんからいきなり知り合いのように声をかけられ、そのまま今採れたからと手持ちのビニール袋の野菜を渡されることも少なくない。志緒の生まれ育った場所ではこんなことはなかったし、知らない人から食べ物をもらうこと=毒でも入っているのでは? と疑う気持ちが先行するのが当たり前だった。

 帰宅した義孝に野菜をもらったくだりを話すと、「うちの県の田舎じゃよくある話だよ。知らないおじいさんおばあさんが知り合いみたいに声かけてきて、野菜をくれるとか。毒とか入ってないって」と、毒入りか心配だという志緒の言葉を聞き、義孝は思わず笑ってしまった。

 そんな義孝を見て、志緒も声を出して笑うようになったのだから、やはり別居して正解だったと義孝は思う。志緒の表情は、日増しに明るくなっていく。紗枝の行動範囲も広がって、たくましくなったようにも思える。これでよかったんだと、義孝は実感した。


 散歩を日課にしたのは、紗枝に四季を感じてほしかったからである。今まで窮屈な思いをさせてしまったからということもあるが、四季を感じて少しでも心豊かな人間になってほしいと志緒は願いを込めて紗枝と散歩をしている。

 野良猫が道路を横切る様子や飼い犬の大型犬の鳴き声、空を飛ぶカラスや収穫後の田んぼに降り立ったたくさんの雀。田んぼがある生活は、見てすぐに季節の移ろいが感じられる。春には田植えをし、夏には米が青々と育ち、秋には黄金色になって実りの時期を迎え、冬には土だけになる。紗枝に毎日田んぼの様子を話し、路上に咲く花や草の様子を見せ、のんびりとした日々が続いた。


 散歩が日課になって定着してきた、初夏のある日。その日も夕方散歩をしていると、初めて見かけるおばあちゃんから声をかけられた。

「かわいいね。何歳? 」

「2歳」

最近ようやくできるようになったピースを作って、紗枝は得意げにおばあちゃんに見せた。

「あら上手! 2歳なら、もうすぐ次の赤ちゃんが来るわね」

次の、赤ちゃん。志緒は愛想笑いでしのいだが、それは聞きたくなかった。


 志緒には、次の子を産む体力が残っていないのだから。


 手術を受けて、志緒の右の卵管は摘出された。子宮と左の卵管、両方の卵巣は無事だったから、物理的に妊娠することはできる。しかし、手術を受けた後から生理の量が多くなり、産婦人科を受診したところ貧血が発覚。輸血後に大きく味覚も変わってしまい、体力が一気に落ちて寝込む日が増えた。そのことを産婦人科の医師に伝えたら、ピルを処方された。

「貧血予防の面で、ピルを処方します。妊娠を考えているのであればお話してください。ただ、今の話を聞く限り、むやみに妊娠するのは体力的に危険だと思います。前回の妊娠は万全の体調で安静にすることができていたから、つわりが長期間ひどくても乗り切れたようですが、今は小さなお子さんもいますし、術後の体力低下がひどいようなので乗り切れる保証がありません」

医師の言葉が、志緒の胸にぐっさりと突き刺さった。

「お母さん。まず、自分を大切にしてください。今の体力で妊娠、ひどいつわりで食べることも飲むこともままならない状態になると、母体が持ちません。つわりは病気じゃない、死なないなんてことを言う人もいますが、つわりで亡くなる方はいます。お母さんもお子さんも、お互い一人の人間です。同じ命。お子さんをこれから先育てていく上で、お母さんの存在は絶対に大きなものになります。無理しないで。今膝の上に座っているお子さんのお母さんは、貴女だけです。代わりはいません」

この子の母親は、自分だけ。崩れそうになった志緒の心を支えたのは、この一言だった。


 義孝にそれを伝えると、無理に子どもを作ろうとは思わないと言った。

「これから先、家族みんなで過ごしていくためにも、今の状態を保っていきたい。紗枝には世羽がいる。見えなくても、紗枝は世羽のお姉ちゃんだから。家族4人で暮らして行こう」

義孝の言葉に、志緒は頷き、今後の妊娠を断念したのだった。



 散歩中に声をかけてきて、そのうち赤ちゃんがという話をひっかけてくる老人は、一定数いる。志緒はその話を聞き流すスキルを身に着け、心がなんとなく楽になった。




 夏になり、紗枝が3歳になった。紗枝が3歳になる前に、世羽が1歳を迎えて、時間の流れを夫婦でしみじみと感じた。

 世羽の誕生日は、手術を受けた日である。志緒の気持ちは晴れ切ってはいないものの、家族みんなで世羽の誕生日を祝い、ハッピーバースデーの歌を歌ってあげたとき、世羽は素直に喜んだ。

「おめでとう!世羽! 」

家族みんなで歌った後にいうと、世羽は「ありがとう」と照れ臭そうに志緒の脳の裏に声を届けた。

「ありがとうって言ってる」

志緒がそういうと、義孝と紗枝も喜んだ。


 紗枝は引っ越しをして食べることが好きになり、背も体重もグンと成長した。生まれたときの小ささの影などみじんもなく、健康的で大きめの女児になった。世羽は、1年前とあまり変わらない。背丈も体重も、大きな変化がなかった。最初こそ双子のように志緒の目に映っていた二人の背姿が、今では姉妹だとわかるくらいに違っている。

 世羽の背丈が大きくならないことについて、志緒は自分が健康に生んであげられなかったからかもしれないと悩んだ時期がある。

「あのさ、同じように食べて飲んでるからって、みんな同じように大きくなるわけじゃないでしょ? 姉ちゃんみたいにぐんぐんでっかくなる人もいれば、私みたいになかなか体に現れない人だっている。これは個性だから、悩むことじゃないの」

世羽は、いつもきっぱりとものを言う。迷いなく言い切る言葉の力強さに、志緒はいつも救われる。

 他人が言う“大丈夫”と、自分が信用している人の“大丈夫”では、重みが全然違う。言葉にはそれぞれ発信する人によ重みが異なるのだ。




 それは、嬉しいことばかりではない。

 年が明け、紗枝が幼稚園に通い始めてから、志緒は言葉の持つ重みや力を思い知らされることが続いた。

 紗枝が通う幼稚園は、公立幼稚園。小学校校区内の子どもが集まっている。3歳という年齢は、上なり下なりに兄弟がいて、下がいる場合はまだ赤ちゃんだったり、絶賛妊娠中だったりすることが多い。学年に数人赤ちゃん連れの母親がいて、妊婦もいる。

 志緒は、そのことを知らなかった。

 紗枝の迎えに行くと、紗枝と同じクラスの子の母親が集まっていて、いろんな話をしている。田舎の幼稚園となると、井戸端会議も開かれやすい。そして、すでに人間関係がある程度出来上がっている。

 上の子が同級生。旦那が友達同士。ここで生まれ育って、旦那もここの人。こういった人たちが、圧倒的に多い。志緒のように他県から嫁いできた人間は、数人しかいない。

 ちょっとした質問をしただけで、その質問の内容がこの地で生まれ育った人の機嫌を損ねることもある。他県や一般的な常識は、田舎のルールの前では通用しないことがあることを、志緒は初めて知った。


 紗枝が入園して数カ月が経過して、保護者同士も少しずつ慣れてきた頃。

「山内さんのとこ、次の子は? 」

紗枝の散歩で飛んできていた質問が、幼稚園でも飛んできた。

「うちは、次はないかな」

志緒はいつものように、やんわりかわす。

「えー! 一人っ子なんてかわいそうよ」

「もう一人いっちゃえ! 」

「まだ若いんだから」

矢継ぎ早に飛んでくる、ある程度見知った人たちからの銃弾。


 紗枝は一人っ子じゃない。

 もう一人、産めるなら産みたかった。

 年齢なんか関係ない。体の問題なのだ。


 浮かんでくること全部を無理やり腹の中に抑え込んで、志緒は「うーん」とうなりながら笑って見せる。もう終わってくれと、心の中では思っていた。

「紗枝ちゃんが女の子なら、次は男の子がいいよ! かわいいよ、男の子! 」

1歳半くらいの男の子を抱っこしてきた、顔を知っている保護者。

「そうかもね」

なんてことない返しをして、志緒は紗枝を連れてさっさとその場から立ち去った。


 世羽が生まれていたら、多分あれくらいだったんだろうな。と、志緒の脳裏にそんなことがよぎる。


 次の子が産めれば、どれだけ良かっただろう。

 子どもは3人が当たり前のこの土地で一人っ子を育てているということは、それだけである程度浮く。浮くことはどうでもいい。次の子どもを云々という余計な一言をわざわざ言われるのが、志緒はたまらなく嫌だった。

 紗枝は目に見える形では一人っ子だが、本当は妹がいる。

 こんなことを言ったら、頭がおかしい人だと思われるだろうか。

 手術のことを話せば理解されるのか。いや、きっと哀れみの視線を向けられ、それでも子どもはかわいいからと、わかりきったことを言われるのだろう。



 一人っ子は、かわいそうなのだろうか。

 私は、紗枝をかわいそうな子どもにしてしまっているのだろうか。



 志緒は、悪意のない凶器で心をえぐられたような痛みを、誰かと共有することもできないまま、腹の奥底にしまい込むことしかできなかった。産みたかった志緒。産めない事実を知らず、次を勧めてくる他人。事実を知らないからこそ、悪意がないからこそ、言葉が凶器になる。そのことを知らない人が、あまりにも多すぎることを、志緒は憎んだ。



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天使を見送った日 みほし ゆうせい @mihoshi-s

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