天職
蒼城ルオ
漫画家と編集者
これは、私が友人の編集者から、酒の肴に聞いた話だ。
子供たちの将来の夢として漫画家が上位十位から落ちることは滅多にないと言うが、十年と少し前、漫画家となる夢を抱いて上京してきた男がいた。当時もうデジタルで漫画を描く人間が増えて来たご時世で、一から十までアナログで描こうとした男だ。それが機材を揃える金がないとか技量がないとかいう話ならともかく、なけなしの金でパソコンとスキャナを揃えてわざわざ編集部にアナログ原稿を転送していたというのだから変わり者である。画風も古き良き時代の、言わば時代遅れのものだった。それでも描き続けたのは、彼が憧れた漫画が、アナログ全盛期の、アナログだからこその漫画ばかりだったからである。数十年先の未来はともかく、彼が漫画家を志した当時、そしてこの話を聞いた現在も、未だアナログでしか出し得ぬ色合いや描き味があると聞くが、描けるか否かはさておき、男はそれを見極められる人間だった。不幸なことに、読者でそれを気づき好む者は、一握りしかおらず、よって読者至上主義の市場においてそれは、漫画家にとっては必要不可欠どころか何の役にも立たない才能であったが。
そんな、普通であれば箸にも棒にも掛からぬ男であったが、拾い上げた編集者がいた。理由は単純な話で、月に一度その編集部が主催していた漫画賞に、毎月折り目正しい時節の挨拶と共に締切りへの余裕を持って投稿してくる者がいるとなれば、よほど下手くそな人間でもない限り、少しは目をかけてやろうかと思うものなのだそうだ。確かに、どれほど面白い話であろうが美麗な絵であろうが一年経っても二年経っても出てこない作家を待つよりは、今は多少技術が伴わずとも日進月歩で成長している若者を拾ったほうが有意義であろう。
そうして拾われたまだ漫画家ではなかった男は、決してデジタルには移行しないと譲らぬ一点を除けば、素直で聞き分けのいい人間であった。実物を見て学べと言えば旅行に行ったり料理を作ったりして背景に出てくるものの質を上げ、他者の魅力を盗めと言えばその雑誌の代表作を全巻模写して自分の作風に落とし込んだ。こうなってくると、漫画家にはなれずとも漫画アシスタントとしては一流である。拾った編集者の担当作家にはまだアナログの……こちらはデジタルに移行しないのではなく移行できない人間だったが……漫画家も多く、そこへ手伝いへ行っては可愛がられた。男としても編集者が経費で食わせる飯と自身がアルバイトで稼いだ金で生きているものだから、締め切り間際の臨時収入と先輩漫画家たちのチップ代わりらしい酒や煙草はありがたかったのである。
そんなある日、いつものように編集者から電話がかかり、連載漫画家の何某の手伝いを請け負った男は、受話器越し……というのは言葉の綾で、この時男が持っていたのはスマートフォンであるが……に、編集者が言い淀む気配を感じ取った。珍しいな、と男は思った。彼を拾った人間は、慈悲深いだとか情に篤いだとかいった印象がまるでなく、たまの男自身の漫画について話す機会の際も、淡々と男の漫画を分析し分解し評価を下すだけなのである。人によっては一度も褒められず駄目出しをされているとも受け取っただろう。とはいえ、男としては自分の漫画を隅から隅まで読んでいなければ出てこない言葉であることを知っていたため、充分だったのである。むしろ、魅力的な主人公を描けと、具体例や改善策を何度となく教えられているにも関わらず、良くも悪くも地に足のつきすぎた人間を描いてしまう己を恥じていた。そのままの人物像で描くなら画風を変えろと妥協案を出されているにもかかわらずそちらには全く着手していないのであるから尚更だ。
さておき、男が首を傾げていることなど知らないだろう編集者は、ようよう口を開いた。君、私と仕事を始めて何年になる、と問いかけたのだ。実は電話の相手が一人称を言葉の中に挟むのも稀で、噺家が自身を指すときのアタシに発音が近いな、と益体のないことを思う。そうしてから気を取り直し、指折り数えて告げると、また沈黙が降りた。男は編集者の次の言葉をじっと待つ。すると、実は男を作画担当として起用したいとわざわざ頼み込んで来た編集者がいる、と言うのだ。戦友の弟子で、まあ悪い奴ではない、会うだけでも会ってみてくれないか、とまるで見合い話のように続ける編集者に、男も珍しく、はあ、と歯切れの悪い返事をしそうになり、慌てて、はい、と返した。一連の動作が見えていたかのように、笑う気配がした。否、見えているように感じ取ったのだろう、男と編集者にとって、それはお互いさまだった。
「教えられることは全て教えた。君は全て物にしたか覚えるかした。誰に譲ったって今後に心配はない」
手放しの賞賛はこれが最初で最後で、男には先の提案以上に青天の霹靂だった。
さて、そうして喫茶店で引き合わされた二代目の編集者は、男と同年代だった。編集者と言えば己を先導する者という印象が強かった男は驚いたが、初代編集者の戦友の弟子という触れ込みである、そもそも会社勤めの編集者に師弟制度という者があるのかが疑問だが……尚、この点については友人はこのように補足を挟んだ。「この、初代編集者の戦友、というのが今後も出てくるから覚えておけ。一言で説明するなら名伯楽だ。だから、彼の下についた者が弟子を自称して、周囲も冗談半分でそう呼んだんだ」……それくらいの年齢差がある者、と思えば、己と同い年でもおかしくはないのである。
珈琲を所望した男と同じものを頼み、砂糖を入れる間たわいない話で場を繋いでいた二代目は、男が一口飲んでカップを置いた間合いで、居住まいを正すと真摯にこう頼んで来た。作画担当ということは、あなたご自身が考えた話はこれから数年描く余裕がなくなる、いつか自分の作品を世に出すために努力し続けてきたあなたには業腹だろうが、ぜひ力を貸して頂きたい、と。そうして男に、ひとつの物語を差し出してきた。目を通しながら、男はぼんやり考えた。自分自身が描きたい作品とは何だろうか。勿論、自分の作品が大ヒットして作品の名前を出せば誰もが知っているような未来が待っているならば、喜んでその道を進むだろう。ただ、男は初代の編集者に引き取られた頃と違い、そろそろ若者とは呼べない年に差し掛かっていた。いくら夢追い人でも漠然と、自分は天才ではないのだろう、と気づく頃合いである。それどころか、自分にはこの世界で生きていくための最低限の能力すら備わっていないのでは、と、夜中に目が覚めて思うことすら儘あった。そんな自分が描けるものとは、と考えて、考えて、考えは溶けて消えた。
そんなことを考える余裕もないほど、渡された物語が面白かったのである。
男にとって理想の主人公がそこにいた。理想の相棒が、理想の恋人が、理想の敵がそこにいた。男が愛してやまないにもかかわらず古臭いと唾棄される空気が、褪せることも入れ替わることもなく勢いだけをいや増してそこにあった。理想の世界が、そこにあったのだ。気づけば二代目が目の前にいることも忘れ、その物語を読み漁った。読み終えて、続きがなくなってしまった惜しさすら感じながら、男はようやく物語から顔を上げた。すぐにでも快諾したい衝動を堪え、自分でいいんですか、と尋ねる。二代目は、この物語を原作者の次に愛してくれる人にお願いしたいんです、と返した。それだけ聞けば充分だった。
後日会うことになった原作者とは、まるで生き別れた双子の兄弟かのように話が合った。実際年も同じで、郷里も近かった。二代目だけが正反対とも言える場所から上京してきていて、三人で飲むことになるといつも、お国自慢で冗談交じりの争いになる。二対一なのだから男達が勝つようにも思えるが、二代目は無礼講となると口が回った。学歴だけが全てではないが、悲しいかな、唯一大学を出ている二代目は、踏んで来た討論の場数が違い、これだから頭のいい奴はと泣き言を洩らすふりをして編集者を仮装敵に見立て、原作者と飲む酒もまた美味かった。そのおかげで早々に、原作者が自分と真逆、つまり漫画家を志し魅力的な人物を描き出す才能に目覚め、けれど絵画の女神にだけはことごとく見放された存在であると知れたことは、男にとって僥倖だっただろう。
口の上手い二代目は、普段はその舌を罵ることではなく褒めることに使った。むしろ、褒めることにしか使っていなかった、と言ってもいい。冷静になって考えれば賛美のていで修正点をこれでもかと足されていたことは数多くあったのだが、調子に乗せられ気持ち良くなり、冷静になった時には数段良くなったと自分でも分かる原稿が手元にあるのだから、何も言えない。それを原作者に話せば、似たような経験が掃いて捨てる程にあると告白され、飲みの席で二人して面と向かって詐欺師のほうが向いていたんじゃないかと軽口を叩けば、涼しい顔で、それであれば最初のカモはあなたたちですね、と返された。そうして気づけば連載が始まり、単行本の準備が始まった。いつものように丁寧な企画書を渡された男は、それを見て驚いた。その当時の流行りに逆行するような仕様が書かれていたのだ。いいのか、と何度も確認する男に、二代目は、人気のものに右ならえではそれなりの売り上げにしかなりませんので、と返した後に、笑った。
「描きたかったのはこれでしょう? 先輩がいつも言ってましたよ」
二代目は、自分の直属の上司を師匠と呼ぶ。つまり先輩とは別の人間のことだ。ここで思い当たれる人間を、男は一人しか知らなかった。あいつは自分の描きたいものもあるし技量もあるのに勢いだけがなくていけない、借りて来れる人材を見つけないといけないといつも言っていたと告げられ、男は泣きそうになった。しかしそれを堪えて、ありがとうございます、これからも末永く宜しくお願いします、と二代目に告げたのだ。
しかし、それから間もなく、二代目がある知らせを持ってきた。二代目の異動だ。二代目の担当作家は全員、今の二代目の部署預かりとなって新しい担当につくか、二代目について別の雑誌に行くか、選ぶことになる。男は当然、二代目についていくつもりだった。しかし二代目本人が、それを許さなかった。いわく、自分が次に向かう場所は、ジャンルが違う、対象読者が違う、何よりデジタル至上主義の風潮が荒れ狂っている、自分についてくれば何かしら曲げさせることになる、と。それでもいいと言える男ならば、もっと上手くこの世界を生きているか、あるいは早々にこの世界への諦めをつけていただろう。黙ってしまったこと、戸惑ってしまったことが、二代目とついていくべきではない証左だった。原作者の名前を出し、彼とそっくり同じ反応をしますね、と笑った二代目は、真摯に告げた。
「最大限の実力を出せばどこまでやれるかは、結果として出しました。ここで潰れるなら、そこまでですよ」
突き放すような厳しい物言いはこの一回きりで、男には先の沈黙以上に、重く深く心に残った。
その後、男と原作者についた三代目の編集者は、初代を師匠と呼ぶ若者だった。男にとっては孤高の存在だった初代が、年を重ねて戦友と同じことをし始めたのかと驚けば、どうやら三代目がついて回るので根負けしたらしい。たどたどしくも折り目正しい立ち振る舞いは、過日の男自身を思い起こさせた。男の担当も熱意だけで引き受けて来た三代目は編集者としてもまだまだ未熟で、男や原作者が、初代はこうだった二代目はああだったと教えることすらあった。自分にはあれほど教え上手だった初代が何故、と思えば、あの性格に加えて同僚や後輩には寡黙で、まずやらせてから教えるらしい。では二代目はといえば、そもそも師匠、つまり直属の上司が違うということは、本来であればあまり接点のない二人である。それでも男を譲り受けた恩義で、口下手な初代の代わりに必要最低限だけは叩き込んで異動したというのだから、むしろありがたいかぎりであった。そうして男や先輩達が何くれと面倒を見た三代目の言葉は、朴訥でお世辞にも饒舌とは言えなかったが、だからこそおべっかを使っているわけではないと信じることが出来た。その頃になれば男と原作者の漫画は軌道に乗っており、三代目が真面目に愚直に編集者の仕事を覚えていけば何とかなる余裕があったのである。
そうして信頼を築けたからこそ、聞けた話があった。男と原作者は、確かに大ヒットを飛ばすほどの実力はなかったが、一人でデビュー出来ないほどの実力でもなかった。それを邪魔していたのは、初めから実力のある者にばかり目がくらんで、育てる気概を失った一派である、と。悲しいかな、編集者は会社員、社内の権力争いというものと無縁ではない。誰かが権力を取らねば全てが声の大きい者の意見に染まり、しかし権力を取るために動く間に若手を育てる時間は淘汰される。そのジレンマの中で出世を捨ててでも抗っていたのが、初代とその戦友だったのだ。初代は若い漫画家を、戦友は若い編集者を育てることだけを考えた。それを見て育った二代目が、世に出したい漫画を後輩に預けてでも、師匠達に楽をさせるべく権力を取りに行くと決めた。残された三代目が、先進が繋いだ道を途絶えさせてなるものかと、ただただひたすら走り続けた。その話を男が聞けるようになるまで、男と原作者の漫画が十巻出るほどの時間を要した。三代目ももう、若者とは呼べなくなっていた。二人をひとかどの漫画家に育てるまで、そんなにも時間と手間がかかっていた。それだけのものを、賭けてくれていたのだ。
「だからこの漫画は、描きたいだけ描いて、終わりたいときに終わりましょうね」
小さな修正指示もおぼつかなかった三代目が、初めてはっきりと宣言した言葉だった。
全ての話を聞き終わって、私は友人に質問した。お前は今話に出てきた担当編集の中で一体どの編集者なのか、などと野暮なことではない。明らかに友人ではないと知れた『初代の戦友』が、今どうしているかだ。うちの編集長だよ、と笑って返される。それは安泰だ。
すっかり溶けて小さくなってしまったグラスの中の氷をからんと回しながら、漫画家たちの作品名を聞く。寡聞ながら、知らない話だった。来月、大団円で最終回を迎えるらしい。
天職 蒼城ルオ @sojoruo
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