epilogue 爾後
平日昼間の美術館は、人がいなくて暇だ。現在開催中の「アウトサイダー・アートの元祖 キャフェロ展」の展覧会場も、がらんとしている。
椅子に座ったまま、ぐるりと辺りを見回す。絵画の傑作が、誰にも鑑賞されずに壁でじっとしている姿は、いつ見ても不思議な感覚がしてくる。
こんな時、私は絵を見るとはなしに眺めながら、自分の心の中に深く沈んでいく。
よく思い返すのは、自分自身の半生についてだった。
私は、この国の西側にある国で、寡黙な警察官の父親とユーモアのある教師の母親の間に生まれた。
五歳までは平和に暮らしていたが、それは突然壊された。ある冬の晩、母と共に寝ていた私は、部屋の外から銃声が聞こえて、目が覚めた。部屋に押し入ってきたのは、黒ずくめで目出し帽を付けた男たちで、その中の背の高い一人が、私を庇う母を撃ち殺し、私に薬品を嗅がせて失神させた。
目が覚めると、白一色の窓のない部屋に閉じ込められていた。唯一、ドアが開くのは食事の時間だけで、白髪に猫背で白衣を着た、アニメに出てくるようなマッドサイエンティストみたいな老人が料理を運んできた。
彼に何を尋ねても、にやにや笑うだけで、何の説明もされず、時間も分からない部屋で私は神経も擦り減らしていた。そんなある日、ドアが突然開き、シーツを被ってベッドの上で震える私を、「エニー」と呼んだ人がいた。
黄緑色の髪をしたその女性は、私を見て、ぎこちなく微笑みかけた。驚きと戸惑いが大きかったけれど、私のことを「仲間」と言ってくれた彼女からは、温かい光を感じて、私は差し出された手を取った。
それから、私は閉じ込められていた建物から、彼女の他の仲間たちと共に脱出し、貨物列車に揺られて、この国まで逃げてきた。
そこで私は、「エニリア・テズクトロ」という新しい名前をもらった。元々の名前のままだと、逃げてきた組織に気付かれるかもしれないからだ。ただ、あだ名として「エニー」と呼ばれても可笑しくないように配慮された。
私を助けてくれた女性は、「リーズ・テズクトロ」と名乗った。私たちは姉妹として、一緒に暮らしていた。
姉はしっかり者で、いつも冷静だったけれど、家事に慣れていないのか、時々すごいうっかりをすることがあった。レンジでチンするだけのレトルト食品の時間を間違えて、真っ黒にしてしまったこととか、窓を拭いているのに逆に汚してしまうこともあった。
こういう時、両親が共働きだったので、両親のお手伝いもよくしていた私が手助けすることもあった。そんな風に、私たちは支え合って、ささやかに暮らしていた。
でも、二人の距離感が普通の姉妹のそれと同じになるまでには、一年以上かかってしまった。
初めて姉と口論になってしまった時を覚えている。海を見てみたいと言って、姉を困らせてしまったのだ。今なら、姉が組織に見つかってしまう危険性があるからそれを認めなかった理由も、よく分かる。
その数日後、姉は亡くなった。最後に話した時に、姉は家の窓を全て家具で塞いで、家の中に誰も入れないように、ドアを開けないようにと言ったので、、七匹の子ヤギみたいと私が言って笑い合ったのをよく覚えている。
姉は、どうして出掛けるのかは説明していなかったが、夜になっても帰ってこなかった。私は、姉に言われた番号に電話した。その相手は、姉ではなく、ミシェラさんという、私たちと一緒に脱出したメンバーの一人だった。
ミシェラさんは、手を尽くして、姉を探してくれた。しかし、一歩及ばなかった。隣町の遺体安置室で、私たちは姉と対面した。
警察官の話によると、姉は、銃を持ったまま、人通りのない袋小路で倒れていたという。その近くには、サングラスをかけた男性の遺体が銃を持っていた。どうやら、相撃ちになってしまったらしい。
後に、ミシェラさんがこっそり教えてくれた。姉と共にいた男性は、私を誘拐した組織のボスだと。姉は、自分を囮にボスを誘き出しようだった。
姉の顔は、とても穏やかだった。胸を撃たれて、痛くて苦しいはずなのに、微笑を浮かべたまま、目を閉じていた。まるで、誰かに看取られて、安心しているようだった。
「あなたにとって、姉はリーズしかいないのよ。たとえ血が繋がっていなくても、一緒に暮らしたのが一年ちょっとでも、リーズのことを、忘れないでね」
大粒の涙を流しながら、私の両手を握り、ミシェラさんはそう言い切ってくれた。
私も、止まらない涙を拭わずに、何度もその言葉に頷いた。
それから私は、ミシェラさんの援助を受けて、全寮制の学校に入った。「本当は私が面倒を見るのが一番良いけれど、結構危ない橋を渡っているから」と、ミシェラさんは苦笑しながら言っていた。
編入テストで、ミシェラさんに言われた範囲が出題されたり、学校に行くための莫大なお金をポンッと出してくれたりしたことを踏まえると、ミシェラさんがそう言った理由がなんとなく分かる。
学校の授業は難しかったが、頑張ってついていった。友達も出来て、先生や先輩たちも優しく、私は新しい生活に少しずつ馴染んでいった。
特に力を入れたのは、絵を描くことだった。美術部に入って、部員たちと切磋琢磨しながら、いくつかのコンクールで賞を採れるほど、努力を重ねてきた。
姉は、絵を描くのが好きだった。特に、鉛筆一本で書く風景画や、リアルだけど愛嬌のある動物の絵をよく描いていた。私もそんな姉の影響で、絵を描くようになった。
時々思う。姉は、画家になりたかったのではないだろうか? と。姉の遺した沢山のスケッチブックを捲る度、姉の絵への情熱と愛情が息づいているように感じる。
姉が亡くなって十二年。学校を卒業した私は、美術学校に進学した。
将来は、画家になることが夢だ。厳しい道だと分かっているけれど、やれるところまでやってみようと思う。
その一方で、私は美術館の監視員のアルバイトを始めた。
ミシェラさんからは、お金の支援はするのにと言われたけれど、絵の勉強にもなるからというと、渋々受け入れてくれた。
コツコツと、向こうから足音が聞こえてきた。目を向けると、一人の男性が、展示室に入ってきた。
年齢は、二十代後半くらいで、真っ黒な髪と瞳をしている。加えて、真っ黒なスーツを着ていて、平日の昼間に来るのにはちょっと不釣り合いのように感じた。
彼は、右足を曲げる時に、少しかくっとするぎこちない歩き方をしていた。足が悪いのかもしれないと、立ち上がり、パイプ椅子を畳んで持つ。
「周りをよく観察しなさい」というのは、姉からの教えだ。「自分の身に迫る危険に気付けるように、困っている人を助けられるように」と、姉は私に言い聞かせていた。
「あの、すみません」
一枚の絵の前に立つその男性に、横から声を掛けた。直立している時も、左足に重心をかけている。
驚いた様子で、男性がこちらを向いた。右頬に、縦に並んだほくろが二つある。上から下まで、鴉のように真っ黒だと思っていたが、締めているネクタイは、春の曇り空のような灰色だった。
「よろしければ、この椅子をお使いください」
「あ、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
爽やかに固辞してた彼は、ふと、何かに気付いたかのように、大きく目を見開いた。そして、私の顔を凝視する。
いらないお節介をしてしまったので、すぐその場を立ち去りたいのに、彼がこちらの方に体を向けてしまったので、動けなくなってしまった。私の戸惑いをよそに、彼がゆっくりと口を開く。
「……もしかして、君は、エニーかい?」
「え? はい、そうですけど」
今度は私が驚く番だった。しかし、名前を読んだ彼の顔をよく観察しても、全く見覚えのない。
「ごめんなさい、どちら様ですか?」
「ああ、うん。君が小さい頃に、一度だけ会っただけだから、覚えていなくても無理ないよ」
彼が申し訳なさそうに苦笑する。
私は、小さい頃にあったという言葉が、妙に引っかかっていた。
「あの、もしかして、両親の知り合いですか? それとも姉の?」
「……ああ、姉、そうだね。君の、姉の友達だよ」
独り言に納得したように、彼は何度も頷いた。懐かしそうに、目を細めている。
それを見て、私はこの人が、姉が亡くなったことを、まだ知らないのではないかと、心配になった。
「……あの、非常に言い難いのですが、姉は……」
「うん……知っているよ。大丈夫」
最後まで言わずとも、彼は察してくれた。微笑みながらも、寂しそうに下を向く。
少しして、彼は意を決したかのように、顔を上げた。夜のように静かな瞳が、私を捉える。
「つかぬことを訊くけれど、君は、今、幸せかい?」
「……ええ、幸せです」
唐突な質問に驚きながらも、私はそう答えていた。
もちろん、両親が生きていたら、姉が生きていたらと思うことはある。でも、たくさんの人の助けがあって、今、ここにいることが、私にとっての幸せだった。
彼はそれを聞いて、くしゃっと笑った。その瞳は、今にも泣きだしそうに潤んでいる。
「そう、そうなんだね。良かった……」
万感を込めていそう言った彼は、涙を堪えるように、元々見ていた絵の方を向いた。私もつられて、その絵を見る。
目線の先にあったのは、キャファロのサーカスシリーズの一つ、「自由になったライオン」だった。
「……私、この絵を見ると、姉のことを思い出すのです」
「……うん、僕も同じだ」
勢い良く、サーカステントから飛び出したライオンは、十八年という短い一生を、精一杯走り抜けた姉の姿を喚起させた。
姉の友達もそれに共感してくれることを嬉しく思いながら、私たちは無言で、その絵に見入っていた。
アウト・サイダーズ 夢月七海 @yumetuki-773
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