Ⅷ 終焉


 そこは、遥か彼方まで、青い水で満たされていた。水面は、曇った空から透けてくる、白い太陽の光を反射して輝いている。向かいから風が吹いてきて、嗅いだことのないしょっぱい匂いがした。

 砂の上に素足を載せていると、透明な水が、こちらに寄ってくる。いつも入っているお風呂とは比べ物にならないほどの大量の水を見たのが初めてだった私は、このまま飲み込まれてしまうと思い、急に怖くなって泣き出した。


 怯えた私の小さな体は、ひょいと抱き上げられた。力強い腕に、必死にしがみつく。

 私を抱いた父から、大丈夫だよと優しく笑い掛けて、やっと幾分か落ち着いてきた。


 鼻をスンスンと啜っていると、隣にいた母が、ハンカチで鼻水を拭きとってくれた。その後ろから顔を出したのは、浮き輪を持った兄だった。私をからかって、笑っている。

 びっくりしちゃったねと、母は苦笑しながら、頭を撫でてくれた。その言葉に対して、私は何度も頷いた。


 ――その直後に、私は目を覚ました。

 あれは、確か、初めて海に行った日のことだったなと、ベッドの上で体を起こしながら思い返す。無声映画のように、家族の声は聞こえなかったけれど、何と言っていたのかまでは分かっていた。人の脳は、意外と細かいところまで覚えている。


 どうしてああいう夢を見たんだろうと考えて、きっと、昨晩にエニーが海に行きたいと言い出したからだと気が付いた。

 組織のベースから逃げ出してから、すでに一年以上が経っていた。エニーは小学校に通い、私もパン屋に就職して、組織の手が及ぶことなく、意外なほど平穏に暮らしていた。


 だが、何でも出来るというわけではない。特に、長距離を移動する用事は難しい。

 この国には海が無く、一番近くの海に行くには、元々いた国に入らないといけない。他の国の海に行くのも、移動距離と交通費がかかりすぎる。正直無理だと、エニーには伝えたが、まだ少し不服そうだった。


「なんで海に行きたくなったの?」

「……学校で、海を見たことがないって言ったら、バカにされちゃって」


 エニーは下を向いて、口を尖らせていた。

 私は、内心溜息をついて、エニーにはっきりと言い切る。


「その程度で馬鹿にしてくるのは、相手の心が狭いからよ。気にしないで」

「うん……」


 やっとエニーは頷いてくれたが、まだ少し暗い顔をしていた。

 今思い返すと、馬鹿にされたことを差し抜いても、彼女は海を一度見てみたかったのではないのだろうか。自分が海に行った時の夢を見て、そのことに気付いてしまい、申し訳なく思う。


 自身の立場をよく分かっている賢い子だから、エニーは決してわがままを言わなかった。初めての主張を叶えられないことが歯痒い一方で、ようやく家族の距離感になれたのかなと、嬉しく感じる。

 寝食を共にしていても、ずっと薄い壁があった。私は、自分の過去の負い目から、エニーにどう接すればいいのかが分からなかった。エニーも、本当の家族以外の相手にどのように甘えればいいのかを、測りかねている部分があった。


 いつか、エニーと海に行けたらと、朝食を作りながら思う。彼女に泳ぎ方を教えたいし、一緒に砂のお城を作るのも楽しそうだ。

 食卓に朝食が並ぶ頃、エニーが欠伸をしながらリビングに来た。


「お姉ちゃん、おはよう」

「おはよう。顔洗ってきて」

「はーい」


 小さなアパートの一室で、自分がこんな会話を交わすなんて、組織にいた時は想像も出来なかった。

 ちなみに、籍の上では、私たちは同じ苗字の姉妹ということになっている。両親と死に別れて、ここに引っ越してきたと言っているので、他人の同情心で助けられている結構部分もある。


 テーブルに着いたエニーと朝食にする。今日はキッシュだった。

 エニーは、口いっぱいにそれを頬張り、「お姉ちゃんのキッシュ、おいしい」と満足そうだ。母の得意料理もキッシュだったので、そう言ってもらえるのは嬉しい。


 組織にいた頃は、料理はもちろん、掃除や洗濯などもやったことなかったので、覚えるのが大変だった。試行錯誤の連発で、洗濯機に入れたセーターを縮ませてしまったり、雑巾がけで床をびしょびしょにしたりしてしまうこともあった。こういう時、意外とエニーの方が頼りになる。

 パン屋で働き始めたのも、ちょっとでも料理が上手くなればという期待があったからだ。今でも叱られることはあるが、我ながら、一年前と見違えるほど上達したと思う。


「今日、学校で美術の授業があるんだよ」

「そうなのね」


 牛乳を飲んだエニーは、口元に白い髭を付けながら話した。

 私は、それをティッシュで拭き取りながら頷く。昨晩は海に行けなくて拗ねていたけれど、今日は機嫌が良くてほっとした。


「私も、お姉ちゃんくらいうまくなれるように、頑張る」

「応援してるわ」


 エニーが、真剣な顔でそう言うので、微笑ましく思う。

 あの日、死神言われたというのだけが理由ではないけれど、私は絵を描くことを趣味にしていた。エニーに買い被られるほど上手くはないけれど、スケッチブックを数冊埋めるほどに描いて、練習を続けている。


 エニーと共に家を出て、スクールバス乗り場まで彼女を送り、徒歩で十分ほどの職場へ。そこは、小さな老舗のパン屋で、ここに住んでいる中年の夫婦とベテランのコックが一人、すでに働き出している。

 私は、妹がいるからと融通してもらい、彼らよりも遅めに出勤している。エプロンと帽子をして、カウンターの接客、時々キッチンの手伝いが主な仕事だった。


 朝と昼まではひっきりなしだった客の往来も、お昼を過ぎると、ぽっかりと穴が開いてしまったかのように暇になる。

 私はこの時間が割と好きだった。パン屋の主人は煙草を吸いながら新聞を読み、奥さんは買い出しに出掛けて、コックは舟を漕いでいる中、私はカウンターで今日習ったレシピを復習している。


 そこへ、一人のお客さんが入ってきた。メモ帳を捲っていた私は、「いらっしゃいませ」と立ち上がって挨拶をする。

 そのお客さんは女性の方だった。黒いつば付き帽を目深に被っていて、顔がよく分からないが、二十代中盤らしい。狭い店内を一周して、いくつかのパンが乗ったカウンターに置いた。


「お願いします」


 パンの種類と数を確認していると、懐かしい声が、目の前の女性から聞こえた。はっとして、顔を上げると、微笑んでいる口元と、帽子の下から微かに見えた青紫の髪に見覚えがあった。

 落ち着けと自分に言い聞かせながら、いつものようにパンを袋に入れて、会計を告げる。小銭と共に、彼女は小さな紙片を渡して、彼女はパンを持って去っていった。


 私は、誰にも見られないようにそっと、紙片を開いて黙読する。

 「今夜十時 公園の噴水前で」――そこには、そう書いてあった。






   ◐






 町の中に、噴水がある公園は一つしかない。エニーを寝かしつけた後、そっと家を抜け出して、そちらへ向かった。

 春の初めの公園では、暗闇の中、むっとするほど草木の匂いで満ちていた。人の気配がしない夜の世界は、むしろ私にとっては馴染み深い。


 公園のほぼ真ん中、絶えず水飛沫を立てている噴水の前に、彼女は立っていた。

 私の姿を認めると、片手を挙げて、こちらに微笑みかけた。


「リーズ、久しぶり」

「ミシェラも……大分変ったわね」


 ルキャプリコルヌ改め、ミシェラは、気恥ずかしそうに頷いた。

 組織に所属した時のトレードマークだった長めの三つ編みを彼女はバッサリ切っていて、ベリーショートになっていた。眼鏡もコンタクトに変えている上に、初めてロングスカートを履いている姿を見た。


「組織の目を逃れるため、って言うのもあるけれど、ずっと前から、髪を切りたかったし、コンタクトにしたかったし、スカートに憧れていたのよ」

「叶えられて、良かったわね」


 心からそう伝えた。ミシェラが新たな人生を、堂々と好きなように歩けていることが、我がことのように嬉しい。

 私たちは、この国に辿り着いてから、別々の町で電車を降りたのだが、ミシェラだけは前もって住む場所が決まっていて、その住所を教えてもらっていた。自分の住む場所が決まってから、彼女に手紙を出したので、お互いの住所は知っているのだが、突然訪ねたのには理由があるのだろう。


「……何か、あったの?」

「まあ、ちょっとだけ、世間話をしましょう」


 にっこり笑ったミシェラにそう言われると、私も渋々頷くしかない。彼女に誘われて、私たちは噴水の縁に並んで座った。


「新しい名前には慣れた?」

「何とかね。でも、名字はまだ呼ばれ慣れていないから、未だに一、二回は聞き逃してしまうわ」

「私は、コードネームがちょっと長めだったからね。今の名前にすぐ馴染めたわ」


 私たちは現在、国籍では今までと全く違う名前で登録している。コードネームを宛がわれる前は普通の名前を全員持っていたのだが、それを使うと、組織に見つかるかもしれないので、捨てることを余儀なくされた。


「エミーは? 元気?」

「元気よ。いつも楽しそうに学校に通っているわ」

「学校、良いわね」

「ええ。今日も、美術で描いた、自分の家の絵を見せてくれたの」

「……クラスメイト達とはどう?」

「からかわれることはあるみたいだけど、おおよその関係は良好みたいね」

「そう」


 ミシェラは安堵してほっと息をつく。

 私たちは学校に行っていなかったから、あそこで何を学んでいるのか、クラスメイトとどんなことをして遊んでいるのか分からないけれど、「普通」の子供であるエミーが、学校のことが好きで、楽しんでいることは一つの希望だった。


「仕事の方は、どう?」

「……ねえ、そろそろ本題を言ってくれない?」

「……」

「ずっと誤魔化されているのも、不安なのよ」

「そうね、ごめん。ちょっと私の方が臆病風に吹かれていたわ」


 苦笑していたミシェルは、一瞬で表情を引き締めた。それは、姿や恰好が変わっても、ベースの監視室で、私たちに情報を提供する瞬間を彷彿とさせる。


「ボスが動き出しているわ」

「……やっぱり」

「昨日、ボスの姿が、隣町の監視カメラに映っていたの」

「え、ちょっと待って」


 真剣なミシェルの言葉を、中途半端に切ってしまう。呼び出された理由は予想していたが、話が意外な方へと流れている。


「ボス自身が動いているの?」


 ミシェラは無言で頷く。


「他のスタッフは? 先生以外は生きているでしょ?」

「全員離脱したようね。あんな化け物を相手にしていたら、身が持たないって」


 にやりと、ミシェラが笑う。その瞳の奥では、恨みが炎のように揺らめいていた。


「組織の表社会への影響は? 国が変わっても、そう簡単に消えるものではないと思っていたけれど」

「それも随分無くなっているわ。一度無くした信頼を取り戻すのは、裏も表も苦労するみたい」

「でも、新しく裏社会の人間を雇うことは出来るでしょ? 私たちで組織のお金を結構取っていったけれど、まだまだ残っていたんだから」

「それがね、あの組織、裏社会では大分嫌われているのよ。敵対するグループの両方に雇われて、どちらの要人を殺すという、かなりあくどいことをしていたからね。あと、子供を利用するという、裏社会のタブーを犯していたのも一つの要因みたい」

「……私たち、組織や裏社会のことを全く知らなかったのね」

「利用されるだけ、利用されていたからね」


 肩から力が抜けていく私に対して、ミシェラは存外さっぱりしていた。彼女は既知の話をしているだけだからという訳でもなく、最初からそういうことだと受け入れていたらしい。


「という訳で、ボスは中途半端な情報を掴まされたまま、隣町で私たちを探してるみたいね。念のため、しばらく家から出ない方がいいわ」

「そうね。エニーには学校を休んでもらいましょう」

「あなたも、仕事を休むのよ」

「え」


 考えていたことを見透かれてしまったようで、声が出てしまう。

 ミシェラは、私に釘を刺すように睨んでいた。


「確かに、ボスと組織自体はかなり弱体化しているけれど、一人で何とかしようなんて、決して思わないでよ」

「……もちろん、分かっているわ」

「危険な真似なんて、絶対にしないで」

「大丈夫よ」


 弱り切った笑顔を見せると、ミシェラはほっとした様子で頷いた。


「じゃあ、もしも何かあったら、こっちに電話して。本当に緊急用だけど」

「うん。ありがとう」


 ミシェラは、手帳に電話番号を書き留めて、私にその切れ端を渡した。

 そろそろ行くわと立ち上がった彼女に続いた後、ふと、私はミシェラの今の生活を全く知らないことに気が付いた。


「そういえば、あなたは今、何の仕事をしてるの?」

「在宅のフリーランスでシステムエンジニアをしてるわ」

「へえ、ちゃんとしてるじゃない」


 実のところ、メンバーの中で一番足を洗うのに苦労しそうだと思っていたミシェラが、普通の仕事をしているようで、私は少し驚いていた。

 しかし、褒めた私に対して、ミシェラは困惑した顔で頬を掻いている。


「とはいっても、そういう仕事はあんまり来なくて、手に入れた裏社会の情報を警察に流して日銭を稼いでいるわ」

「組織にいた時と、矢印の位置が変わっただけで、あなたも危険なことをしているじゃないの」


 呆れかえった私の指摘に、ミシェラは豪快に「あはは」と笑った。

 その声に驚いて、近くの木で眠っていた鳥が起きてしまったようだった。バサバサと、慌てた様子で飛んでいくその羽音を、二人で歩きながら聞いていた。






   ◐






 ミシェラから忠告を受けた翌日。私はエミーの学校と職場に、妹が発熱したので休ませてほしいと連絡を入れた。


「いい? 今日一日、誰が来てもドアを開けたら駄目だからね」

「うん」

「郵便屋さんや配達屋さんが来ても、知らんぷりしていてね。また別の日に来てもらうから」

「うん」

「私は鍵を持っているから、誰かが私が呼んでいるって言っても、返事もしないでね」

「うん」


 エニーの目の前に屈み、両手を握ってそう言い聞かす。窓を家具で塞ぎ、ドアの鍵はピッキングなどでも開けにくいものに前々から変更している。この家に閉じ籠っている限りは大丈夫だ。

 終始、真剣な顔で私の話を聞いていたエニーが、「お姉ちゃん」と口を開いた。


「なんだか、七匹の子ヤギのお話みたいだね」

「ああ、そうね」


 以前に読んでもらったのだろう。真面目そうに昔話を例に出されて、私は顔が綻んだ。


「郵便受けから白い手を出されても、開けちゃあ駄目だからね」

「うん」


 エミーもそれを聞いて、可笑しそうに笑う。

 そうして、私はエミーを残して、家を出た。バスと電車を乗り継いて、隣町の駅前広場に辿り着く。


 私が住んでいる街も、隣町も観光客があまり来ないような、小さくて静かな町だった。駅前も、人の通りはあるものの、ごった返しているとは決して言えない。

 広場の中にあるベンチに腰を掛けた。ここからだと、通りと駅の間を横切る人たちの姿がよく見える。ここでスケッチブックを開いて、鉛筆で見える景色を描き始めた。


 ――ベースから脱出した日、逃げていくボスを追随することより、ルトロの怪我の様子を見たことは、今でも後悔していない。

 だが、それとは関係なく、ボスに止めを刺すのは、遺された実行役である自分しかいないと思っている。そして、他のメンバーに危険を及ばない方法は、私自身が囮となるしかないと分かっていた。


 集中して風景をスケッチしていても、昔取った杵柄か、自分に向けられる視線が分かる。大体は、物珍しそうな視線を向けて、すぐに立ち去っていく。

 一度昼食を摂ってから、また同じベンチに戻ってきてからも、同じような状況が続いた。今日一日で決着をつけるのは無謀だったかなと思っていた三時半過ぎ、何分経っても、じっと私を見つめ続ける視線があった。


 その相手がいるのは、左手側に位置するオープンカフェのテラス。横目で確認する。真っ黒なコートを着て、ハットを被った大柄な中年の男が座っている。

 隙間が見えないくらいに曇っている天気でも、サングラスをかけている。顔を見なくても、分かっていた。彼がボスだと。


 広場を出て、町中を歩く。当然のように、ボスも追いかけてくる。

 私は、町の奥まった方へと向かう。前もって、隣町の道は記憶していたので、目的の場所へとボスを導く。


 裏路地を進み、角を曲がった先の袋小路の奥まで行く。背後の足音も同じようにこちらへ入ってきたのを聞くと、リボルバーを握って振り返った。

 二メートルほど先にいるボスも、オートマチックを構えて立っていた。すぐにでも引き金を引こうとしていたが、思わずそれを止める。


 一瞬だけ動揺した私を見て、ボスは唇の端を上げた。


「さあ、他の奴らの場所を教えてもらおうか」

「……これくらいの脅しで、屈すると思っているの?」

「そうだな。お前は、死の恐怖など感じなかったな」


 沸騰し始めたかのように、ボスは低い声で肩を上下させながら笑う。

 私は、その様子が非常に不愉快だったが、感情は表に出さなかった。


「他のみんなをどうするつもりなの? あんたの絡繰りは、もう通じないわよ」

「いや、まだラヴィエルジュとバロンスてんびん座にはチャンスがある。何とでも言って、操ってやるさ」

「まだそんなことを企んでいるのね」


 呆れて溜息が出てしまう。

 バロンスというのは、エミーに付けるつもりだったコードネームなのだろう。ボスはまだ、組織が解体した現在もその栄光に縋り付いていて、その様子は憐れを通り越して滑稽だった。


「何故、あの日俺が、お前たちに止めを刺さなかったか分かるか?」

「さあ。考えたくもないわ」

「どうせすぐに戻ってくると思っていたからだ。人殺しや犯罪しかできないお前たちは、表の社会での生活に馴染めずに、音を上げるのだと」

「それはとんだ見当違いだったわね。私は、今、普通に働いて、平和に暮らしているわ」


 ボスを挑発するように、小首を傾げて言い放つ。

 初めて不機嫌そうな表情を浮かべたボスに、追い打ちをかけるように続ける。


「先生からも、組織の呪縛からは逃げられないと言われた。でも、私たちは組織の都合のいい道具じゃない。血の通っていて、考えて、自由を渇望する人間よ。だから、私たちは変わることが出来た。この社会でも、生きていくことが叶った」

「……」

「変わっていないのは、あんたの方よ、ボス」

「……」

「未だに、支配者として振る舞っている。自分が、敗者になったことに気付かずに」

「……」


 ボスは何も言わなかった。表情も変えなかった。ただ、引き金を引いた。

 私も、ボスを撃つ。ボスの額に穴が開き、崩れ落ちるのが見えた。


 終わった。そう思うと、突如胸が痛み出した。痛みの元に触れる血、手は真っ赤に染まった。

 足からも力が抜けて、私は石畳の上に横たわっていた。ああ、終わったんだな。それだけを思う。


 ……ボスが、冷静に激怒するタイプだとは、読みが甘かった。もっと、怒りで我を忘れた瞬間を狙うつもりだったのに。

 でも、これで、片付いた。これからは、みんなが、組織の陰に怯えることなく、のびのび生きていく。エミーには、私が帰らなかったらここに電話するようにと、ミシェラの番号を渡しているので、彼女が何とかしてくれるだろう。


 波乱万丈な人生だったなぁ。五歳で家族を失い、殺し屋になって――。それでも、最後に守るべき家族と、共に戦ってくれる仲間が出来た。それだけ、十分だった。

 穏やかな気持ちのまま、目を閉じた。


「アネッタ」


 頭上から声が降ってきて、はっと目を開けた。呼ばれたのは、すでに忘れていた、私の本当の名前だった。

 涙が流れ出して、揺らめく視界の中、目の前に、膝を立てて屈む、死神の姿があった。泣き出しそうな顔で、私を覗き込んでいる。


 どうして、あなたが泣きそうになっているの? あなたにとっては、いつもの仕事じゃないの。体が動くのなら、今すぐにも抱きしめてあげるのに。

 呼吸が上手くできずに、スカスカと胸に空気が溜まらないのを感じながら、私は、彼に微笑みかけた。きっと、情けないくらいに弱々しい笑顔だったのだろう。彼は、私の頭をゆっくりと撫で始めた。


 死神さん、と言いかけて、そういえば彼の名前を知らなかったことに気が付いた。


「……ねえ、あなたの、名前、何って言うの?」

「……ヴィアー。ヴィアー・ケヴィンズ」

「そう……。ヴィアーって、素敵な名前ね」

「ありがとう。曇り空って意味なんだ」


 あとからあとから涙が流れてくる瞳が、静かに笑うヴィアーとその後ろに広がる、春の穏やかな曇り空を見つめた。

 一面に広がる雲。ちょっとやそっとの風では吹き飛ばされずに、何かから守るように空を覆っている。私は、そんな曇り空が好きだと思った。


「……ヴィアー、私の、鞄の中に、スケッチブックがあるの。もらって、くれる?」

「うん。いいよ」

「ありがとう……」


 あの時、私に話しかけてくれて。ホテルの中で、私の異変に気付いてくれて。電車の中で、私に絵を描くことを勧めてくれて。私の、友達になってくれて。

 最期の一言に、そんな気持ちを全て込めた。


 ヴィアーは、ずっと頭を撫でてくれている。大きくて、優しいその手は、体温を失いつつある私よりもずっと温かい。

 私は、その温もりに抱かれたまま、ゆっくりと目を閉じた。

































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