Ⅶ 逃走


 あと数メートルで、ボスが目指している出入り口だ。角の先から聞こえる二人分の足音に向かって、逸る気持ちで駆ける。

 そこへ、重々しい銃声が耳を劈いた。続けて、ルトロの悲鳴を押し殺したかのような声がして、ほぼ同時に、再び銃声と、何かが粉々に砕ける音が。


「ルトロ!」


 体中の血の毛が引いた状態で、角を曲がった。

 廊下の真ん中で、ルトロが左腕を抑えて蹲っている。右手の下から、赤い血が滴り、廊下のシミになっていた。反対側では、彼に渡した拳銃が一丁、転がっている。


 その先では、ショットガンを背負ったボスが、破壊したドアから外へ出ようとしている所だった。

 私はそれを無視して、ルトロの方へ駆け寄る。


「傷を見せて」

「……僕より、ボスの方を……」


 脂汗を掻きながら、ルトロは喘ぐように言ったが、彼をそのままにしておくわけにはいかない。


「駄目よ。弾は掠っただけみたいだけど、出血が酷いわ」


 自分のスカートの裾を破って、ルトロの傷の上をきつく縛った。応急処置だが、止血は出来た。

 「立てる?」と肩を貸して、ルトロを立たせる。痛みに顔を顰めているが、彼はふらつかずに直立した。


『ルリオン、聞こえる?』


 そこへ、ルキャプリコルヌからの無線が入る。私は「どうしたの?」と返答した。


『外の監視カメラから、ボスは車でベースから離れていくのが見えたの。この付近も電波障害が起こっているから、一度、別の場所から応援を呼ぶつもりみたい』

「分かった。すぐに脱出しましょう」


 ルキャプリコルヌから聞いた話を、ルトロに伝えると、彼は力強く頷いた。


「僕らは、手術室から地下室へ行こう」

「そうね」


 傷が心配だったが、ルトロは痛みを押して、私と共に駆け足で手術室へ向かった。

 だが、手術室の前で、足を止める。沈痛そうなその目線の先には、仲間の遺体があった。


「レポワソン……」


 彼は名前を呟いた後、数秒間、目を閉じていた。きっと、黙祷を捧げていたのだろう。

 目を開けた彼は、より肝を据わった顔で、「行こう」と私を促した。


 手術室へ足を踏み入れる。ルトロに頼まれて、手術台にもたれ掛かる先生と、手術台そのものを他の場所に移動させた。

 床に現れたのは、長方形の線だった。壁の電気スイッチを、ルトロがいくつか順番に押す。しかし、中の灯りが付いたり消えたりすることはなく、代わりに床の線がスライドして初めて、長方形の穴が見えた。


 覗き込むと、手前側に梯子のようなものが付いている。しかし、それは実際にはレールのようで、これに手術台を付けて、上下出来るようだった。

 ルトロが隣に来て、説明する。この下にドアがあり、その中に少女が監禁されていると。ドアにはキーパッドが付いていて、その暗証番号も教えてくれた。


 腕を怪我しているルトロを残して、私はレールに手足をかけて、一段一段降りていく。穴のあちこちに、LEDライトが点灯しているので、意外と中は明るい。

 一番下まで降りると、ルトロが言っていた通り、右側に真っ白なドアがあった。キーパッドに言われた通りの番号を入れると、音もなく、ドアが開いた。


 ドアの先を見て、一瞬、時間が止まったかのように感じた。丸いテーブルや椅子も全て真っ白で、床の証明も眩しい白色だ。左手側にもう一つドアがあるが、そこはバスルームになっている。

 私は、この部屋を知っている。十二年前、五歳の時に入っていたことが、記憶の底から蘇ってきた。


 ただ一点だけ、記憶と異なるのは、白いベッドの角で、シーツを頭から被って震えている小さな影があることだった。いきなり人が入ってきたのだから、こちらに背を向けているのも仕方ない。

 私は、そのベッドへ近付いた。そして、声を掛ける。


「エニー」


 レポワソンから教えてもらった名前を呼ぶと、シーツの震えがピタッと止まった。

 恐る恐る、その子が振り返る。シーツがずれて、白みの強い灰色の長い髪が見えて、エメラルドのような色をした潤んだ瞳が、私を捉える。


「お姉ちゃん……だあれ?」


 エニーという名前の少女は、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、不思議そうに尋ねる。五歳の子供というのは、こんなに幼いのかと、驚かされてしまう。十日前まで、普通の生活をしていたという名残が、あどけない顔にあった。

 再び、レポワソンが言っていたことを思い出す。眩い光と共に現れて、自分を救い出してくれる誰か。彼ほど具体的な形ではなくても、五歳だった私も、そんな瞬間を思い描いていた。


「あなたの仲間よ」


 私は、そう言って微笑みかける。不思議そうにしているエニーに、手を差し出した。


「一緒に、ここから逃げ出しましょう」


 エニーは小さく頷いて、私の手を取った。

 片手で包み込めるほど、小さな小さなエニーの手。ずっと怖い思いをしていたせいか、冷たくなっている。それを、優しく包み込むように、握った。






   ◐






 死体を見ないようにタオルで目隠しをしたエニーをおぶって、私は地下室から出てきた。ルトロと共に、監視部屋に行く。

 そこで、ルトロは怪我している部分に包帯で巻き、シャツを着替えた。私も、スカートを破いていたので、取り換える。前もって準備をしていた荷物を持って、私たちはベースから脱出した。


 道中は、敢えてバスや電車などの交通機関を使った。人目のある場所なら、組織も手を出せないだろうという判断からだった。

 その間も常に警戒していたが、幸いにも、組織からの追っては見当たらなかった。そうして、国の中で最も大きな駅に辿り着き、その裏手の貨物列車置き場へ行く。


 すでに日が傾いていた。オレンジ色の光を浴びて、ルベリエルとルヴェルソがそこに立っていた。


「みんな……待っていたわ」


 真っ先に駆け寄ったのは、情報収集係の女・ルヴェルソだった。泣き出しそうしそうな金色の瞳で、私たち一人一人を抱き締める。ずっとここで待っていたのだろう。臙脂色の二つ結びの髪が揺れるたびに、汗の酸っぱい匂いがした。

 その後ろから、ルベリエルが歩み寄ってきた。その焦げ茶色の瞳は、沈鬱そうで、いつもはオールバックにしていた深緑の髪が乱れていた。


「……レポワソンのことは、聞いたよ」


 私たちは、静かに頷いた。ベースを出てから掛けたルキャプリコルヌからの電話で、彼らも何が起きたのかを知っていた。

 苦しそうに、何か言おうとするルベリエルを、ルトロが制した。きょとんとしているエニーを除いて、これ以上会話をすれば、悲しみが爆発してしまうことを悟っていた。


 これから、私たちは貨物列車に乗って、この国から出る。組織が政治や経済に関わっているこの国では、安住出来ないということは最初から分かっていた。

 私とエニー、ルキャプリコルヌとルベリエルは東側の隣国へ、ルヴェルソとルトロとラヴィエルジュは北側の国へ行く。情報収集係の二人が、この国から流れる麻薬のルートを隣国の警察に渡して、私たちの国籍を買ってくれていた。あっちの学校に通えるのよと伝えると、エニーもラヴィエルジュも嬉しそうにしていた。


「じゃあ、ここでお別れね」

「この先、会うこともないだろうね」


 ルヴェルソとルトロが、寂しそうにそう言った。私たちは、全員で握手を交わした。


「ボスの動向は私が見張っておくから、安心して」

「ルトロ、痛み止めが効いてるとはいえ、速めに医者に診せろよ」

「みんな……元気で」


 ルキャプリコルヌも、ルベリエルも、目の前の三人にそれぞれ声を掛けた。これで最後、という気持ちで胸がいっぱいになる。


「ルリオンお姉ちゃん」


 蚊の鳴くような声で、ラヴィエルジュが呼び掛けた。

 私は彼女と同じ高さになるようにか屈みこむ。


「助けてくれて、ありがとう」


 笑い掛けながらそう口にしたラヴィエルジュだったが、今にも泣きだしそうな顔をしている。

 喉から嗚咽がせり上がりそうになったのを我慢して、私は彼女を抱き寄せた。


「レポワソンは、あなたのことを見守っているから、きっと大丈夫よ」


 腕の中で、ラヴィエルジュが頷く気配がした。


 貨物電車の出発時間が差し迫っていた。東行の電車の、私とエニーは同じ車両に、ルキャプリコルヌとルベリエルはその車両を挟む二つにそれぞれ乗り込んだ。

 車両の横に着いたドアを閉め切っても、あちこちに木箱が置かれた中は、電気がついていて存外明るい。だけど、エニーはドアの前から動こうとしなかった。


「お外見てもいい?」

「……そうね、町にさよならしましょう」


 彼女が私を見上げながらそうお願いしたので、ドアに拳二つ分くらいの隙間を開けた。

 スピードを上げていく電車の中、暗闇に沈みつつある町は、ちらほらと明かりを灯している。私にとっては、良くない思い出の方が多い国だったけれど、エニーは違う。両親との思い出に別れを言う代わりに、一生懸命、手を振り続けていた。






   ◐






 腰くらいの高さの木箱に座り、一時間半ほど、電車に揺られていた。外はすっかり、暗くなっているだろう。

 エニーは、私の太腿を枕にして、寝息を立てていた。木箱の上で横になり、手足を丸くしている。その上に、私の上着をかけていた。


「ぐっすり眠っているね」


 ふいに、そんな声が聞こえて顔を上げると、エニーの隣に死神が座っていた。エニーの寝顔を覗いて、微笑んでいる。

 今回も唐突な登場だったが、なんとなく、ずっと彼がそばにいてくれたような気がしていて、あまり驚かなかった。


「緊張の糸が切れたのね。両親が亡くなってからも、ずっと地下室に閉じ込められていて、あまり眠れていなかったみたいだから」


 声を潜めて、エニーの髪を撫でた。きっといい夢を見ているのだろう。口元に微笑が浮かんでいる。


「……君は、僕のことを責めないんだね」

「責める? あなたを?」


 死神の思わぬ言葉に、驚いて尋ね返してしまう。

 私を見据える死神は、笑い掛けながらも、少し寂しそうだった。


「よく言われるんだよね。幽霊から、お前のせいで死んだんだぞって」

「でも、あなたが昔説明していたじゃない。人には最初から、寿命が決まっているって」

「そうだけどさ、目の前で仲間が死んでも、そう割り切れるの?」


 死神に指摘されたことで、自分の心情が矛盾しているように思え、私は改めて、この悲しみや怒りの矛先を考えてみた。


「私が怒っていたり、悲しんだりしているのは……死んだこと自体よりも、その原因やそれまでの流れに対してなのかもしれない……」

「どういうことかな?」

「例えば……レポワソンが今日死ぬことが生まれた時から決まっていたとしても、組織の存在が無ければ、彼はあんな風な死に方をしなかったと思うし、その亡骸が、どことも知れない場所に行ってしまうこともなかったはずよ。普通の人生だったら、彼は……運動神経が良かったから、スポーツで活躍していたのかもしれないし、どんな人生を歩んでいたにせよ、殺し屋として生きて、あと一歩で自由になれる時に殺されるなんてことは起きなかったわ」


 それは、ルコンセールやレジェモォも同じだ。私たちは、この組織の存在によって、殺し屋に仕立てられ、あるいは犯罪に手を染めて、飼い殺されてきた。

 やはり、分析しても残るのは、理不尽な組織への怒りだけだった。


「そう考えると、いつ死ぬかというよりも、どう死ぬかや残された人たちがどうするのかが、重要なのかもしれないわね」

「君は達観しているなぁ」


 死神は驚いて、ちょっと大げさなくらいに仰け反ってみせた。


「君よりも長く生きていても、その境地に辿り着けていない人はたくさんいるよ」

「他の人よりも、生き死にに関わっていただけよ。あまり褒められた気はしないわ」


 肩を竦めると、死神は楽しそうに声を立てて笑った。


「でも、君はもう殺し屋ではないわけだ」

「まあ、そうなるわね」

「これからどうすの?」

「そうね……止まった駅の近くのホテルに泊まるわ。ルキャプリコルヌとルベリエルはここで別れることになるわね。それから、そのホテルを拠点に家を探して、働く場所や、エニーの学校も探していくわ」

「ああ、そういうのも大事だけど、ちょっと違くて……君の目標とか、これからの夢は何なのかなって」

「目標とか、夢ね……」


 そう言われて、正直困ってしまった。こうして尋ねられても、一切思い浮かばない。

 学校に行っていないから、同じ世代の子たちが好きなものや目指しているものが何なのかを知らない。組織から提供される娯楽は、ミルクパズルやルービックキューブや迷路などで、フィクションというものに一切触れていなかった。


「あなたはどうなの?」

「ん?」

「死神ではなくなったら、何をしたい?」

「え、あー……」


 参考にしようと死神にも聞いてみたら、私以上に悩みだしてしまった。腕を組んで、「うーん」と唸っている。


「あなた、絵が好きじゃない。画家を目指すのはどう?」

「画家……画家かぁ」


 私が思い付きを口にしても、彼は乗っかることなく、余計に悩んでいる。

 死神は、絵画鑑賞が好きだから、単純に画家になって見たいのかと思っていた。


「……僕は、描くのよりも、見る方が好きかなぁ」

「ねえ、なんでそんなに絵を見るのが好きなの?」


 純粋な疑問を訊いてみると、彼は懐かしそうに目を細めて語りだした。


「僕が初めて最期を見送ったのは、画家だったんだよ」

「へえ。そうなの」

「病気でね、自室のベッドで酷く咳き込んでいた。でも、彼は俯せになって、目の前に置かれたキャンパスに、絵を描いていたんだ」


 死神の話を想像し、息を呑んだ。死が差し迫っている苦しみの中でも、一心不乱に絵を描いている男の姿を浮かべる。


「両手と顔を絵の具まみれにして、自分の咳が絵に掛からないように気を使いながら。ただ、そんな状態だから、描いている線は滅茶苦茶で、正直、ヘタだなぁと思ったんだよね。抽象画だとしても、何を描いているかが分からないくらいで。でも、目を離せなかったんだよね」


 死神は、車内の天井を見上げた。そこに、彼が見たという絵がそこにあるかのように、真剣な眼差しで。


「……それから、妙に絵画のことが気になってね。街中を歩いていても、絵が飾っていたら足を止めたり、美術史や画家について調べたり、美術館に行ってみたり。人間が、何を見て、どう描いたのかを、知りたくなったんだよね」

「そういう経験があったら、そうなるよね」


 私は深く頷きながら、ふと、自分も五歳の頃まで、絵を描くことが好きだったということを思い出した。


「私も、また絵を描いてみようかな」

「あ、今、手帳とペンがあるけれど、何か描いてみる?」


 私の独り言に対して、死神の反応は早かった。嬉しそうに、懐から手帳とペンを取り出し、白紙の頁を開いて、私に差し出した。

 私はちょっと戸惑いつつ、猫の顔を描いてみた。しかし、ボールペンの線は歪んでいて、目と髭の位置のバランスが可笑しかった。


「味があるねぇ」


 ただ、それを見た死神は、しみじみとした様子でそう言った。本心なのかお世辞なのか、判断が付かない。


「美術の勉強とかしていないから、こんなものよ」

「いやいや、美術技法を教わったかかどうかなんて、絵の良さには関係ないよ。例えば、君も作品を見た、キャフェロという画家も素人だったんだよ」

「あの絵も?」


 死神の話に、素直に驚かされた。

 俯いたライオンの絵も、テントから飛び出したライオンの絵も、絶望感や躍動感が溢れていて、絵の素人が書いたものとは思えなかった。


「普段は働いているけれど、休みの日は独学で絵を練習していたんだ。でも、その絵をコンテストに出したら、酷評されてね。それも、絵の技術や表現についてではなく、素人がしゃしゃり出るなという内容だったんだ」

「酷い話ね……」

「当時は、画家に師事して勉強するというのが一般的だったからね、キャフェロは相当なはみ出し者だったんだよ。それから、絵を発表することは無くなってしまったけれど、描くことは止めなかったんだ。没後百年以上経ってから、子孫が大切にしていたキャファロの絵がある画廊の目に留まって、初めて正当な評価を得たんだよ」


 彼がそう話した後、ふと、何かに気付いたように瞬きを繰り返した。


「画廊なら、やってみたいなぁ。アウトサイダー・アートを発掘するのも、楽しそうだし」

「アウトサイダー・アート?」


 聞き慣れない単語を尋ねてみると、死神はニコニコしながら教えてくれた。


「キャファロのように、美術の勉強をしていない人が作った美術作品のことだよ。アウトサイダーには、部外者って意味もあるからね」

「アウト、サイダー……」


 その言葉の意味を、ゆっくりと噛みしめる。なんだか、しっくりとくるものがあった。


「なんだか、私たちみたいね」

「そう?」

「社会の外側の私と、命の外側にいるあなた」


 自分と死神を交互に指さして言うと、彼は「ああ」と納得したように顔を綻ばせた。


「でも、君は違うよ」

「……」

「君はこれから、社会の内側に戻っていくから」

「……ええ、そうね」


 死神の瞳は、凪いだ海のように静かで、美しかった。いくつもの命の終わりを見送ってきたからなのか、私の新しい門出を心から祝ってくれている。

 だけど、彼の方は? そんな思いが、鎌首をもたげてくる。私が死んでも、エニーが死んでも、彼は、死神としてこの先も存在し続ける。彼が、命の内側に戻ってくることは決してない。


「なんか、僕のことに同情していない?」

「いえ、そんなことは……」

「正直に言ってよ。今更、遠慮し合う中でもないだろ?」


 私が考えていることを、死神はすぐに気付いた。苦笑しつつ、「正直に言うけれど」と前置きをして続ける。


「あなたは、人間になりたいと思ったことはないの?」

「うーん、多分ないね。きっとこれからもない」


 彼は、今度ははっきりと否定した。


「素晴らしい絵を見た時とかに、こういうのは命に限りがあるから表現できたんだろうなぁと思って、羨ましくなることもあるよ。でも、命に限りがないから、僕は色んな絵を見ることが出来るんだなぁとも思えるんだ」

「それは、良い肯定ね」

「もっと言えば、僕が死神で、君が殺し屋だったからこそ、三千年の時を超えて、出会えたんだよ」


 死神が、掌で私を示しながらそう言ったので、反射的に噴き出してしまう。それを見て、死神も苦笑してしまう。


「なんだか、僕が口説いているみたいになっちゃったね」

「言葉はそうだけど、雰囲気は全然出ていないよ」

「しょうがないよ」


 私たちは、一緒になって笑い合う。命の営みとは無関係の彼と、恋を知らない私との、この空気感が心地良かった。

 笑い声が止んだ後、死神はじっと、まだ眠っているエニーの顔を、まるで知らない動物のように見つめていた。彼女の頭に手を伸ばすけれど、躊躇うように戻してしまう。


「大丈夫よ。熟睡しているから、これくらいで起きないわ」

「いや、なんとなく、生き物に触るのが苦手なんだよね。別に、変な影響があるわけじゃないんだけど、意味もなく怖くなってしまうというか」


 死神は、困惑したように曖昧な理由を話した。

 その感覚は、私にも分かる。レポワソンの瞳を閉じようとした時に思ったこととは、異なるけれど、根本では繋がっているような気がした。


「いいのよ。エニーの幸せを願いながら、撫でてあげて」

「死神が幸福を願ってもいいのかな?」

「もちろん。むしろ、効果があると思わない?」

「あはは、そうかもね」


 死神は不安を吹き飛ばすように笑って、そっと、エニーの頭に掌をのせた。その輝く灰色の髪を、梳かす様に撫でつける。


「エニー、幸せになってね」


 死神の囁く声が、電車の揺れる音に紛れている。その上に、エニーの寝息が重なる。

 ……私が殺した二十三人のことも、仲間たちの死のことも、今だけは横に置いているのを許してほしい。そう思いながら私は、この穏やかな時間の流れに、身を任せていた。






























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