第6話



 なんだかうまく考える事ができない。

 当の船長はあくまで落ち着いていた。連れている少女も子供らしさを取り戻したらしく、つまらなそうに、大木を切り出しただけのテーブルに頬杖をついて大人二人のやり取りを眺めている。

 宿屋で最初の会話を交わした時と同じ調子で、背の高い大陸商人は促した。

「さあ、話してください。貴方の見たおそらくこの世で最後のフラミンゴの、その最期を」



 ナグサは船長を見上げた。

 ほんの瞬きの間に全身を貫いた記憶の映像は、鮮烈かつ恐怖を伴ってナグサを萎縮させていた。

 そんなナグサの視線の先の客人は、ク・クジェンワのナイフから離れ、ゆっくりと室内を移動すると荒れ狂う秋空を覗かせる窓辺に立った。

「『世界はかくも荒々しく 故に人はその身に空を抱く』『友は風より来たりて 我は地に沸く』『然るは陽 鳴くは雲』『悲かな 喜かな』……東方の詩人フュウシンの十言連段形式の一部です。『嵐の世に来た里氏の影に杯を重ねて持て余す』という題でしたかな。この自分を嘆く降段の詰まりから、ぐぐっとドラマチックに話題が展開していくのが醍醐味なんですがね」

 この男は、何者だ?

 なぜ〈鳥〉の事を知りたがる?

 ナグサは彼の姿を目で追った。船長はその視線に気づいて、いたずらっぽくウィンクを返してくる。

 不意に部屋が明るくなった。青白い光が、船長の背後から差し込んで来たのだ。雷鳴と窓を叩く雨の音は更に強さを増し、千切れんばかりのナグサの記憶と精神力、そして理性を更に脅かす。

「ああ」

 ナグサは声を漏らした。自分の頬が引きつるのを感じ、緊張に下腹が吊り上る。一度声があがると、もう止められなかった。

「ああああああ……あああああああッ!」

 目の端が痛い。頭がズキズキと疼く。脳裏で目まぐるしく現れては消える過去の映像に、そしてそれに結び付けられる目の前の光景に、初老の猟師は絶叫した。

「オマエはァァァァァァァァァァァァァァッ!」



 船長の背中から差し込む青白い光――それはフラミンゴ達が持つ翼と同じ光だ。

 目の前の男からは蒼、〈鳥〉は紅。それだけの違いでしかない。



 大陸聖書は語る。


『「では我々は貴女に仕える印に人を屠りましょう。悪しき人を地に還す為に、四方から人々を貪りましょう」翼人種達はそう言って四方に散らばった。蒼の神官達は聖なる北の尾根に、紅い信者達は嘆きの深い東の谷に、色無き長老達は喧騒に満ちた西の湖に、そして漆黒の賢者達はせわしき南の森へ、それぞれ飛び去った』


 そしてこうも語る。


『ダブの山には色がないが、常に火は灯る。見よ、それは信仰を試す二つの火である。空の滲みを落とした死の炎と、落日の滴りたる戒めの炎である。悔い残る生を改めよ、常なる双子の火は女神の双眸であり剣である』


 更に、人々の間にはこう語り継がれる。

『女神ティルマ・アギエの持つ、蒼い羽根を持つ軍勢。それは女神に仕える魔物の神兵』


 ナグサは悟った。彼がフラミンゴ、つまり紅い翼の翼人種の行方を追っていたのは、彼自身が、船長と名乗る人物が翼人種だからだ。思わせぶりな言動、祈りの文句、出身地。全ては彼が翼人種だからだ。

 自らの一族ではないとはいえ、翼人種という同種族の行く末を知りたかったのだろう。

 そして、その先にあるのは当然……復讐だ。

 なぜなら、彼ら蒼い翼を持つ者たちは、罰を与える為にやってくるのだから。女神に命じられた仕事として、この魔物の本能は人を喰らうように出来ているのだから。フラミンゴを滅ぼしたナグサに対する罰を、死を持っても償いきれない罪を裁きに来たのだ。

 それにしても、なぜこの翼人種は、自分がフラミンゴを滅ぼしたのだと知っているのだろう?

 スラが生きていればこの位の年齢の青年に育っているかもしれない。だが、あの子の頭は確かに自分が砕いたはず。一体どうして?

 わけがわからない。それとも、その理解できない事をやってのけるのが大陸教会のいう神というものなのだろうか?

 神兵である蒼の翼人種には、そんな神の意識を汲む事などたやすいのだろうか?

 ナグサの命を奪う事に意味も理由もないのか? これがナグサの運命なのだろうか?

 か弱き人間に、運命を覆す事などできやしない。



 蒼い翼の光を背負った船長は、それでも一瞬、ナグサの声にひるんだかのように見えた。

 その隙にナグサは立ち上がる。船長たちが気絶したナグサの腰から外したのだろう、テーブルの上へ無造作に置かれていた山刀を掴み、急いで鞘から引き出した。使い込まれた黒い刀身がやけに頼りなく見える。それもそうだろう。たった一人で、それも戦闘的な魔物と戦うには、それ相応の武具が必要なはずだ。せめてL&Mに対応した魔術弾丸の1カートンぐらいは手元におきたい。それすらもない。銃ですら、船長たちの控える向こう側の壁に立てかけてある。まずは……刀だ。

「何をするんです!」

 船長が叫ぶのと同時に、ナグサは山刀を振り回しながら部屋にとって返した。外はオムレオ・タントの光で照らされている――つまり、おそらくきっと、翼人種の軍勢で一杯だ。一人で飛び出したとしても、全身を引き千切られて貪り喰われるのがオチだろう。獣や魔物の強さを知っているナグサには、その確信がある。

 突発的な出来事に状況が把握できないのか、きょとんとナグサを眺めている少女の体を横抱きに抱る。ちょうど細剣を構えるように杖を構え、先端をナグサに向かって突き出したばかりの船長に振り返る。

 体を振り回した反動で掌に食い込んだ少女の体は、とても懐かしい感触がした。スラが居た頃の記憶。気が遠くなりそうなその感覚を、荒ぶる気持ちに閉じ込めて叫ぶ。

「そこを動くな! ガキがどうなってもいいのか!」

「どうしたんですか、ナグサさん。どうして突然こんな――」

「お前らに何がわかるってんだ!」

 何がわかるというのだ。ナグサの裏切られた気持ちを、喪失感を、悔恨を、誰がわかるというのか。

 それを、こんな形で復讐されて、苦痛に満ちたまま人生を終わらせるなんてまっぴらだ。

 船長の背中の蒼い翼は消えていた。怒りと焦りにギュッと引き結ばれた口元を見るに、彼はただの商人だった。都会風で嫌味な気配を振りまく男。商人は何か大きな間違いを犯していた。ナグサにも彼の後悔が汲み取れる。

 ナグサは内心、くだらないと思う。子供や家族なんていうものの為に、自分の人生を棒に振るなんて。気楽で自由で身勝手な人生を過ごす、折角のチャンスを逃してしまうなんて。

 ナグサはジリジリと、出口へ向かって擦り足で移動する。船長は杖を構えたまま、薄紫の瞳でナグサを見据えて動かない。

 ドアノブに手をかけた時だった。抱えていた少女が、嫌悪感を滲ませた声をあげたのは。

「私まだちっちゃいよ? でも殺すの? おじちゃん、これで何度目?」

 脳裏にあの子の顔が浮かんだ。吹き飛んで無くなってしまったあの子の顔だ。喉の先端が醜く弾け飛んだ傷口を晒していた体だ。谷の底へと吸い込まれるように、木の葉のように回転しながら落ちていった姿だ。

「違う、違うんだ、違う違う違うッ!」

 自分が悪いのではない。ケリィ候が、フラミンゴが悪いのだ。ナグサの信頼を踏みにじった彼らが悪いのだ。

 次の瞬間、ナグサは少女を抱えていた左の上腕部に鋭い痛みを感じた。船長の杖がビシリと叩き込まれていたのだ。不意の攻撃の為か、翼人種の腕力のせいか、細身からは想像できない意外な力に息が止まるほどの痛みは、手の甲に走ったニ撃目と重なって少女の体を床に取り落とす。

「ナグサさんッ!」

 こんな事態なのに丁寧に名を呼ぶ船長を、混乱する頭のどこかで滑稽に思いつつ、ナグサは外へ飛び出した。顔面を強い雨足の滴が叩く。重く、痛く、前が見えにくい。それなのに光は見える。蒼い光はナグサの家の周りにも、家を取り囲む柵の先端にも木々の先にも所狭しと灯り、足元を蛍火よりもずっと明るく照らしている。

 逃げなければならない。早く、早くこの蒼い光の軍勢から身を隠さなければ。何よりも後ろから船長という名の翼人種が追いかけてくるかもしれない。

 ムルベの山の見渡す限りの峰に、蒼い光が無数に散っている。完全には過ぎ去っていない雷雲で分厚く覆われた空の黒さをひるませるかのようなその光景は、ナグサにとって現実の恐怖そのものでしかなかった。

 ナグサはダブの山中に点在する雨宿りの為の小屋へと走った。山刀しかない身では心細いが、雨がしのげる程度に屋根のある小屋なら、どうにか一晩過ごせる場所としては上出来のはずだ。うまく行けば、食料や武器も手に入るかもしれない。銃を家に置いてきてしまったのは痛手だが、腰にはあのフラミンゴの骨がぶら下がっている。もっとも警戒すべき魔物は近づいてこないはずだ。先の雷雨の後だ、獣の類もオムレオ・タントの出現する今晩は巣で大人しくしている。ある意味、飛び出してきたナグサにとって幸運な夜になりそうだった。

 暗闇の中を走り、時には歩き、そうやってよく知る山小屋の一つにたどり着くまでどれ程の時間がかかったのか。目に飛び込む何もかもが闇色に染められ、自分の精神までも船長のもった自白剤と混乱に打ちのめされているナグサには、時間の感覚が全くといって良いほど失われてしまっていた。わかるのは、分厚い雲の重なる空に、わずかながら隙間が出来始めたぐらいの時間が過ぎたという事だろう。夜空からこぼれた月の輝きがそれを教えてくれた。

 小屋に駆け込もうとしたナグサは、そこで息を飲んだ。

 小屋の周りの木立に、その枝々の向こうに、不意に灯った青白い炎。見慣れた光のはずなのに、今はこれほど恐ろしい光景はない。点々と輝きだす炎は彼を取り囲むように広がる。我知らず小さな悲鳴をあげ、ナグサは来た道を取って返した。『紅の信者』たるフラミンゴの同族の『蒼い神兵』が、本当に聖書に書かれる様に残虐で信仰心の厚い魔物であるならば、ナグサをバラバラに引き裂く事なんて――そして細切れにして食す事なんて簡単な事だ。穏やかなフラミンゴのクルトでさえも易々と人の首の骨を折って見せたではないか。見つかる前に逃げ出さなければ。

 慌てて小屋に背を向けたナグサは、次に思い当たる小屋を目指して駆け出した。行く手にぽつぽつと灯っては消え、消えては灯る蒼い光たち。それを目にする度に猟師は逃げる方向を変え、迷い、息を喘がせた。

 山小屋を目にする度に今度こそと安堵し、そして次いで見つける光に両手で悲鳴を押さえ、逃げ惑う道の先に何度絶望しただろうか。

 やっと辿りつき身を潜めたのは、長くこの山に住んでいたナグサですら忘れ果てていた粗末な山小屋だった。山小屋といっても老朽化した壁はもはや三方しかなく、座る場所は四人もいれば一杯になってしまいそうな、簡易の避難所である。

 自然の怪異も時間の経過と共に薄れてきたのか。見渡してみるとオーレオテンツの光は徐々に勢いを弱め、少なくなってきている。あの光の何割が翼人種の光かわからないが、逃げに逃げても、麓にたどり着く前に明かりが全て消えてしまったら、今度は動くに動けなくなる。だったらこの辺りで夜明かしを考えた方が無難だと、ナグサは毛皮の上着の襟を寄せながら考えた。逃走中に汗をかいてしまっていたが、落ち着いて腰を降ろしてみると暑いのか寒いのか、震えているのが疲れなのか恐怖なのか。それもわからぬまま握った上着の襟だった。

 なんにせよ、朝になるまでの辛抱だとナグサが自分自身に、心中で言い聞かせていた時だ。

 視界が闇よりも更に黒く陰った。真っ赤な熱が喉を走ったような気がした。

 驚きに息をしようとして初めて、自分の口元を覆う誰かの手に気づいた。

 ナグサは突き飛ばされ、小屋の中からまろび出た。足元がもつれる間もなく、自分の身に何が起こったのかもわからず、振り返ろうとして天を仰ぎながら倒れた。

 液体が首から噴出していた。岩間から噴出す温水のように、飛沫をあげながらナグサの顔に降り注いでいた。まだ熱を感じるそれは、ナグサのよく知る錆の臭いを内包していた。

――死ぬのか?

 ナグサは目の前の光景に問いかけた。視界にあるのは暗黒の空のみ。それも不吉な嵐の雲ばかり。流れる雲の切れ間から、ゆっくりと月が顔を出してきた。

――俺は、死ぬのか?

 どうやら首筋を真一文字に裂かれたようだ。まずは助かるまい。

 だがナグサは、その事実を遠いところで起きたことのように解釈する。それが船長の薬の副作用や後遺症のせいなのか、それとも恐怖感から開放された安堵から来る逃避なのかまではわからなかったが。

 ナグサは脳裏でぼやく。

 このまま死んだら、いつか〈鳥〉が言ってたように、白い月へ行くのか? 自分は無信心な上に人間だから、大陸教会の説く炎獄ぐらいには落ちるかもしれないが、フラミンゴ達のいる白い月には行けそうも無い。いや、行けたとしても、首の無いフラミンゴたちのどれが〈鳥〉で、どれがあの子なのかわかりゃしない。もう一度杯を合わせたいクルトすら、年老いたナグサの事などわからないだろう。ならば、死んだ後の国になんて全く魅力がない。

 せめてあの二人の家族に会えるというなら、まだ嬉しいものだと思えるのだが。

――どうして死ぬんだ?

 ぬうっと、黒く大きな体躯の人間が、ナグサの顔を覗き込んだ。

「……追っ手じゃねぇのか」

 髭面で泥だらけのその男は不明瞭に呟くと苛立ったように唾を吐き、手にしていた棒のように小さなナイフをナグサの耳に押し当てた。

 不愉快な感触と音を聞きながら、ナグサはぼんやりと思い出す。たしか船長が、この辺りに山賊が逃げ込んだと言っていたはず、と。耳を切り取るのが趣味の悪党が……。

 どんどんぼやけて行く世界の中、ナグサは笑う。いや、笑おうとした。もう笑う事も出来ないほど、体の自由が利かなくなっていた。頬の感触が感じられないまま、ナグサは笑った。




 なぁ、おかしいだろう?

 教会の奴らめ、人間がか弱いだって?

 魔物の長である生き物を滅ぼしてしまう人間の、どこがか弱いのか。

 この世で一番恐ろしい生き物なのは、慎みのない人間じゃないか。

 食べるだけでは飽き足らず、自分たちの都合で貪りつくす人間じゃないか。

 足りるを知らず、互いに殺しあう人間じゃないか。

 

 一番恐ろしいのは、フラミンゴを滅ぼした自分じゃないか。


 ああ、うるさい。

 あいつら、首が無いのにどうやって笑ってるんだ?

 俺の耳はたった今無くなっちまったのに、どうして聞こえるんだ?

 どうして?

 どうしてだ?

 誰かのわめき声がうるさくて、何を言ってるのか聞こえない。

 せめてこの男が耳を切る騒がしい音をやめてくれればいいのに……。



 そして。

 ナグサの意識は、闇色に染まって落ちた。





 船長は出口のそばにあった小箱の中を覗き込み独り言。

「L&M、散弾銃用高熱炸裂魔術弾か……初期のものだな、錆付いてる。フラミンゴ対策に購入したものかな?」

 ジャラジャラと音を立てて中を探り、すぐに飽きたのかパタンと小箱の蓋を閉める。

 つまらなそうなカノンの傍らを通り過ぎ、「どうしてあんな事を言ったんだい」と船長は窓辺から外を眺めて、ナグサの消えていった山道の向こうに目を凝らした。

 嵐の前触れのような天気は、少しずつだが唸りを納めはじめ、小さな家を取り囲んでいたオムレオ・タントの光も数を減らしつつある。ランプも暖炉も要らないほどの輝きで家の中にまで差し込んで来ていた蒼の光も、今は差し込む曙の微光もかくやという状態だ。

「あんな事?」

「『こんなにちっちゃいのに殺すの?』云々の事さ」

 カノンの口ぶりをマネながら船長は皮肉を漂わせて笑う。

 美しく艶やかな真紅の髪を戯れに指に巻きつかせながら、五歳の少女は唇を尖らせた。

「フラミンゴがいなくなったのがあのおじちゃんのせいなら、きっと小さなフラミンゴも殺してると思っただけ。それだけ。意味なんかないよ」

 落ち着き払った少女の表情をちらりと横目で確認した船長は、再び窓に背を向け、その桟に肘をついてもたれた。

「久しぶりにヒヤリとさせられたよ。私の事ならともかく、他の大人をからかうもんじゃない。あのままお前が殺されたりなんかしてみろ、私の立場がないだろ? 大体、もう五歳なんて名乗るのはやめろ。本当は違うんだから」

「そんな事になるわけないよ~。それに五歳って響きが好きだから五歳なの。絶対、やめないんだから!」

 カノンは大人びた笑顔と子供らしい笑い声で部屋の中を駆けると、船長の前の椅子に登り、ガタガタとその手作り家具を揺らした。

「これからどうするの? おじちゃんを待つの?」

「そうなるのかなぁ? でもまあ、あんな事があった以上、今夜中に戻って来るのかな? この辺りは魔物も多いし、あまり長い時間だったり遠くまでは行けないと思うし。そうだなぁ……もうすぐダブの冬が来るし、雪が降る前にはシラトスに戻るつもりだから……長く待っても三日が限度ってトコだな。来なかったら帰ろうっと」

「いいの、それで?」

「どうして?」

「おじちゃんの話を聞かなくていいの? その為に来たんでしょ? いろんな動物を獲ってもらうようにお願いもするんでしょ?」

 船長は含み笑い。手にしたままの杖の先端で、マントルピースの儀式用ナイフを指し示した。

「アレの為に来たんだよ。依頼は完遂しなきゃ、信用にかかわるからね。恥知らずな私だけど、商人にとっての信用がどれ程重要なのかぐらいは知ってるさ」

「じゃあ、フラミンゴの話は?」

「そっちはそっち。別の商売の話さ」

 船長は懐から小さな鰐皮の手帳を取り出すと、バラリバラリと紙を鳴らしてページを繰り、ある面で手を止めた。メモしてある計算式をニヤニヤしながら眺める。使い込まれたそれは、紫色の表面の所々が剥げたり、綴じこまれていた用紙が黄ばんだり、生臭く赤黒い染みがベトリと付着しているといった悲惨な様相を呈しているのだが、彼にとっては全く問題ないようだった。

「いいかい、カノン。先月シラトスで取引された本物の紅い翼人種の羽根、つまりフラミンゴの羽根の取引値は、一枚につきワラムズ金貨五十枚だ。月の間で取引された総数はわずかに百三十一枚。しかも市場価格の段階で、だ。末端までの手数料、流通料を上乗せさせれば、一枚につきワラムズ百五十枚でも安い。昨今はレネ・シャンポネ・フェレスタ《東西魔術融合運動》のおかげで東方系三世魔術工芸作家が活発に活動してるし、貴重とはいえフラミンゴの羽根の消費量もうなぎのぼりだしね」

「……何言ってんのか、全然わかんない。でもその顔、すっごくバカみたいに見えるよ。目じりが下がって気持ち悪い。やめたら?」

「馬鹿で結構。これが馬鹿にならずにいられるかって」

 薄紫の虹彩を煌かせ、船長はうっとりとしながら手帳のページを指で弾く。

「過去にフラミンゴの羽根とほぼ同じ価格で取引されていたテルクサジマ諸島のムラサキサクリャクワニの皮は、絶滅が確認された段階で手のひら大の皮がワラムズ金貨五百枚にまでなったんだぞ!? これでフラミンゴが絶滅してたって事になってみろ、東西魔術融合運動の追い風も受けて、どれぐらい高騰するか見当もつかない!」

「ゼツメツ?」

「そうだよ、私も最初は信じられなかったけどね。フラミンゴが全部死んじゃったって事を言えるのは、ダブ中のフラミンゴを探し回ったケリィ候を除けば、あのナグサって猟師ぐらいなんだ。ここ数十年、百年近くダブにしかいないフラミンゴを目撃した人間なんて一人もいなかったのに、それを大量に狩ってのけたのは彼だけ、いや、彼に案内されたケリィ候達らしいからね。それだって、あのナグサって猟師が案内したからだ。ムルベの他の猟師に聞いてもそうだ。『フラミンゴなら、ナグサが知らないなら誰も知らない』ってね。フラヴィットを造った細工職人……シームだっけ? 彼だって『ナグサが最後のフラミンゴだというから、二十年もかけて造り方を調べたんだ』って証言している。私にとって幸運なのは、貴族である先代ケリィ候も完璧主義者の細工職人も、その情報の価値を全く理解していなかったって事だけどね。ナグサも含めて、経済観念の希薄な人たちがこの状況を作り出してしまったんだ。偶然とはいえ、一番最初にそれを知った私が多少稼がせてもらっても、誰も文句はいえないだろ?」

 だけど、フラミンゴがみんな死んじゃったって理由にはならないでしょと、カノンは不満げに頬を膨らませた。

 船長は顎にやたらと大きな掌を伸ばして考え込むポーズ。

「そうだな……じゃあ仮に、まだフラミンゴが存在しているとして、なぜ彼はフラミンゴ狩りをやめてしまったのかな? 神の兵士の一種を狩り続けた事に、今更だけど空恐ろしくなった? まぁ、そうと思えなくも無いけど、宿で聞いた限り、特に信心深い人間でもないみたいだ。だったら尚更、フラミンゴ狩りをやめた理由がわからない。飽きたとか? でもフラミンゴが未だに高額で取引されるのはあの猟師だって知ってたのに、金のなる木を簡単に手放せるかな? 実際、フラミンゴを狩ってる頃は大分羽振りも良かったみたいだし。こんな高価な窓ガラスを辺鄙な山小屋に使うぐらいにさ。

 だから……私が『本当に狩りたくても狩れない、つまり絶滅したんじゃないか。それをあの猟師は知ってるんじゃないか。なぜなら、最後の一人を彼が狩ってしまったからだと自覚しているからだ』って考えても、そんなに変じゃないだろ? 残ってるなら残ってるで構わないさ。生き残ってるフラミンゴたちに羽根を買い取る交渉をするだけなんだから。でも、まぁ……私が調べた範囲じゃ、まず、いないだろうなぁ……少なくとも、人間が手を出せる範囲にはいないね」

 手帳の書き込みを覗き込み、船長は肩を震わせた。

「フラミンゴの絶滅を正式に確認するまで、最低でもあと三年はかかるだろうな。その間に、東方六十州ならクルザ州のリ・ソイ・ファン、シラトスなら左尾羽ギルドのベリーシャ、北方海賊連合ならレディ・ヴィー……七・三の分け前なら納得して羽根を集めてくれるだろうさ。シンリュウ大陸にある全てのフラミンゴの羽根を集めるつもりでね! 羽根を取り扱う窓口を私を含めて四つに絞って、小口の登録取引所を何十個かばら撒いておけば、大陸商人ギルドの法もギリギリすり抜けられるはずだ。単純計算ながらまさに一攫千金!」

 自分の計画に跳ね回りかねないほど興奮しはじめている船長を見、カノンは大きなため息を一つ。

「船長」

「なんだい?」

「ちょっとそこから離れてくれない?」

 嫌そうに眉を潜め、少女は大きな黒い瞳を覆う瞼を、パチパチと開け閉めする。

「窓のトコに立ってるとさ……窓のすぐ下にある木の枝についたオムレオ・タントの光が入ってきて、船長の後ろでピカピカ光ってるの。すっごく眩しいから、雨戸を閉めてくれない?」

 そこでニヤリとしながら、少女は付け足した。

「まるで蒼いフラミンゴみたいにも見えるけどね」

「それは男前が上がってると取っても構わないのかな? フラミンゴは美男美女が多かったらしいからね」

「ばっかじゃないの? 船長は船長のまんまじゃない。蒼い翼があろうとなかろうとさ」

 皮算用に浮かれていたのか、船長はそれ以上の軽口も文句も言わず、手早く雨戸で外の青白い光を閉め出す。何事も無かったように、未来への希望が詰まった手帳に視線を落とした。


 少女は手持ち無沙汰なのか、昼に猟師から手渡され髪を拭いた布をクシャクシャに丸めたり伸ばしたりしながら時間を潰す。布を指先に引っ掛けグルグルと渦を描きながら、天気の話をするかのように尋ねた。

「ねぇ……さっきの話だけど、あのおじちゃんはどうなるの?」

 意外な質問だったのか、船長は驚いたように手帳から顔をあげる。

「ん? どういう意味だい?」

「あのおじちゃん、フラミンゴをいっぱい殺した悪い人なんでしょ? 捕まっちゃうの? 死刑?」

 船長は少女の疑問を鼻で笑うと、あっけらかんとした声色で答えた。

「何を言ってるんだ、カノン。フラミンゴはフラミンゴ、人の形はしてるかもしれないけど、結局は魔物か鳥で、人間じゃないんだぞ? 人間じゃ無いものを殺して、死刑になんかなるもんか。何人殺そうが、絶滅しようが、一体誰が気にするっていうんだ。山の中で生きてる動物が絶滅する、つまりみんな死んじゃうには理由があるんだよ。もっと強い動物がたくさん殺したから、それだけなんだ。それじゃなきゃ運悪く食べ物がなくなるぐらいだね。強くなかったり運のない動物は死ぬ、いなくなる、それだけだ。今回はフラミンゴ全部よりもあの猟師が強かったか運がよかったってだけじゃないか。誰が恨んだり悲しんだりする? 仮に私がフラミンゴだったとしても、恨んだりはしないと思うね」

「どうして? なんで言い切れるの?」

 船長はちょっとだけ肩をすくめて、小馬鹿にしたポーズ。

「だって彼らは魔物であって、動物の一種なんだよ? 人間と同じように復讐すると思う方が変だ。彼らには自分が敵より強いか弱いかしかないんだから。それが自然のルールってもんだろ? お前だって翼人種と一緒に育ってるんだから、わかってるもんだと思ってたんだけどな」

 答えられない少女を尻目に、男はシラトス訛りの早口で続ける。

「いいかい、カノン。誰かが嫌な思いをしたから、捕まえたり死刑にしたりするんだ。でもそれは人間の作ったルールだから、人間だけが使うルールなんだよ。人間が殺しあわないように、人間同士だけで通用する約束事を作ったんだ。人間が誰も悲しまないなら誰も捕まえなくていいし、死刑になんかしなくていい。相手が人間じゃないし、人間の誰も苦しまないなら、何もしなくていいんだ。大体、あのおじちゃんは、人から頼まれた事をしただけで何も悪くない。誰も悪いと思っちゃいないんだから、おじちゃんを捕まえたりする必要なんか無いだろ?」

 じゃあ、死んじゃったフラミンゴが可愛そうじゃない――幼い少女は小さな声で嘆いたが、長身の大陸商人は残酷なほど穏やかに微笑んで

「どこかに几帳面な神様がいてそう思ったとしたら、いつかあの猟師も何かの罰を受けるのかもしれないな。その前に、自白剤だけであの取り乱しようじゃ、とっくの昔に彼自身が自分を罰してるような気がしないでもないけどね。まぁ……彼がどんなに苦しい思いをしていたかなんて、その辺りは流れ者の我々や金儲けの話には、全く関係の無い事さ。心の中の面倒な事は全部、大陸教会の言う清廉潔白で几帳面な神様にお任せしようじゃないか」

 そして彼はまたニヤニヤと、静かに金のうなる手帳の表を眺める作業に戻っていった。

 少女もまた、再びつまらなそうに指先で布を動かす無意味な動作に専念する。

 もてあそんでいた布を戯れにつまみあげて齧ると、不味い物を口にした時のように顔をしかめ、吐き出した。



〈了〉

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フラミンゴの話 suzu3ne @classix_2cv

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