第44話
三番街のみならず、遠くの方から怪物達の叫び声と市民の悲鳴が、街全体を飲み込まんばかりに響き渡る。平和な街は一瞬にして、人間が怪物に変わるという恐怖に飲み込まれていく。一瞬にして空気が張り詰め、壁の上にいた兵士達にも緊張は伝わった。
牛小屋のロフト部にいたアーリとミリナにも、悲鳴は聞こえていて、事態を把握するのは難しくなかった。
「アーリちゃん、行こう!」
「うん、一人でも助けないと……」
入ってきた天窓から飛び出し、街の中心に向かうために、屋根の上を駆ける。
三番街にはアーリの友達でもあるカルネもいる。そして八番街にはレーラも。昨日二人と連絡を取った時は、通常通り会話ができていたが、もしかしたら今日は——。
分からない、考えたくもない。
もしかしたら、バレントやロッドさん、クルスさん、そして、ジェネスさんも……。誰もが怪物になってしまう可能性があるのだ。
助けなければ。そう思うと少女の走る足が、段々と早くなっていく。
気付けば、アーリの右半身が怪物のものとなっていた。
真っ白な毛皮にとんがった耳、決して可愛いとは言えないほど太く逞しい右腕と鋭い爪。年頃の少女としては、なりたくもない醜い姿であったが、この力と自分の持てる全てを使わずに、自分の大切な人を失いたくはなかった。
屋根の隙間を飛び越えながら進んでいく彼女達に、助けを求める声が聞こえる。
「た、助けてくれぇええ!」
声のするほうを見れば、先ほど気さくに話しかけてくれた作業員が屋根からぶら下がり、今にも落下しそうになっている。その隣の家屋の壁面が破壊され、そこで巨大な二足歩行のトカゲへと獣化したであろう怪物が奇声をあげながら、壁を這い上ろうとしているのだ。きっと揺れた衝撃か、驚いて屋根から滑り落ちたのだろう。
「ごめん、ミリナさん! 助けてくる、先行ってて!」
アーリは横に逸れ、路地を挟んで向こう側の屋根に一蹴りで飛び移り、作業員の男をぐっと引き上げた。
「す、すまないなアーリちゃ——」
厳しい男の慌て顔が安堵に変わり、引き上げ切れると思った瞬間、ぐっと男の体が重たくなった。
男の足首を巨大な爬虫類となった人が、その大きな手で掴み、地面へと引き摺り下ろそうとしているのだ。
「う、ううわあああ、た、助けてくれぇええ!」男は必死の形相を浮かべて、アーリの手を掴む。「俺にはまだ娘と妻がいるんだぁあ!」
「おじさん、足撃っちゃったらごめん!」
対岸から聞こえるミリナの声に、二発の銃声が続いた。彼女が二丁の銃で怪物の腕を撃ち抜いたのだ。
怪物の両手から赤い血飛沫が飛び、それは力なく地面へと落ちていく。頭を地面に打ち付けたのか、そこからは、ぴくりとも動かなくなった。
「ミリナさん、ナイス!」
いきなり軽くなった男を、アーリはひょいと持ち上げながら、声を張り上げた。
作業員の男はかなり疲弊したようで、屋根瓦の上で尻餅を付いたまま、浅く速い呼吸を繰り返している。
「あ、ありがとうな。す、すげえ力だな」
「おじさん、怪我はない?」アーリは駆け寄って、男の容体を観察した。
「いや、大丈夫だ……足首が少し切られただけだ」
男のズボンの裾が破れて、少し血が滲んていたが、歩く事はできそうに見えた。
「大丈夫なら、出来るだけ安全なところへ!」
「……お、おう」と男は言うと、なんとかアーリの肩を借りながら立ち上がって、防護壁の方へ向かって逃げていった。
アーリはその背中を数秒見届けた後、怪物の能力を使い、全ての感覚を研ぎ澄ませた。
周囲から聞こえる悲鳴の波が手に取るように分かり、避難誘導に声を張り上げる兵士達の声が肌で感じられる。三番街の大通りを逃げ惑う人々の眉毛の動きまで、はっきりと確認できる。そして、街の人々を突き動かしている混じりっけの無い恐怖の味が、空気を吸い込んだだけで分かる。
そしてアーリは、悲鳴の中に、親しい人間の叫び声を捉えた。
「カルネだ」アーリは叫ぶ。「ミリナさん、カルネが危ない!」
「先、行って! 私は他の人を助ける!」
アーリは頷くまでもなく、走り出していた。石の斜面を駆け上がるムムジカよりも軽々と、屋根の上を飛び越え、一直線に三番街北西部へ向かう。カルネの家がある方向だ。
途中、何度か滑り落ちそうになりながら、アーリはなんとかカルネの家の近くにまでたどり着く。
アーリの耳に、悲痛な弱々しく捻り出すような声が聞こえてくる。
「た、助けて……やめてよ……!」
「カルネ!」アーリがスモークキッチン・ガーレルの前に飛び降りる。
そこには怪物に押し倒されて、噛みつかれそうになっているカルネがいた。
その怪物はムムジカの絡み合う巨大な角と、蹄の代わりに獅子の爪という、奇妙でちぐはぐな体の構造をしている。鼻息は荒く、目はかなり血走っていて、後数秒後にはカルネに角を突き刺していただろう。
彼は手にした包丁でなんとか対抗しようとしているが、怪物の両手を少し切りつけただけのようだ。頬や腕を爪で切りつけられ、返り血と合間って、カルネの白いエプロンが赤く染まっている。
アーリはその光景を前に、視界がぐらりと歪む感覚を覚えた。
瞬間、アーリは前に飛び出し、怪物に掴みかかっていた。
暴れる怪物の角を掴み、湧き出る力の限り目一杯に放り投げる。怪物はごろりと地面を一回転し、そのまま地面に倒れこむ。
「カルネ、平気⁈」
「う、うん、ありがとう、アーリ」
アーリは地面に寝そべり、呆然としているカルネに手を貸して、起こしてやる。
「早く逃げて! 安全な所へ」
「で、でもあれは……父さんなんだ、あのまま放って置けないよ」
気づけば、その鹿のような怪物の角には、ガーレルの使い古したコック帽が引っかかっていた。
「あれが、ガーレル……さん」
全身から血の気が引いていく感覚を覚えた。
自分に近しい人が、いつも優しく接してくれるガーレルが、あのような姿になってしまっているのだ。ナーディオが怪物になってしまった時と似たような、いや、それ以上に残酷な事実であった。
怪物は地面を爪で捉えながら起き上がると、アーリとカルネを見て一瞬、躊躇った。しかし、角を前に突き出し、力の限りの突進をしてくる。
きっと少しだけ自我が残って居るのかもしれない。
アーリはカルネの前に出て、怪物の角を掴み、どうにか止めようと争った。
「カルネ! 早く、逃げて!」アーリは悲痛に叫ぶ。
「で、でも……」
しかし、カルネは怯えと困惑が綯い交ぜになった表情を浮かべて、その場でただただ立ち尽くしている。足は震え、手にしていた包丁を落とす。
軽い金属の音がアーリの耳に、惨憺の響きを打ち鳴らす鐘のように聞こえた。
いくら怪物の力を持つアーリだとて、二メートルを越す巨大な怪物には、重量で劣ってしまう。純粋な押し合いでは、ジリジリと押し負け、後ろへ下がっていく。
先ほどは投げ飛ばしてしまったが、相手が知り合いだと分かると、アーリにはどうする事もできなくなってしまった。
アーリにできるのは、ただカルネに、この場を離れてもらう事だけ。
「カルネ、早く! 二人共死んじゃったら——」
アーリが叫んだ瞬間、路地の上から黒い影が音もなく飛び降りてくる。それは怪物となったガーレルの上に飛び乗ったかと思うと、右手の注射器を背中に突き刺した。
ローブで全身を覆い隠す謎の人物であった。その人物はちらりと振り返って唖然としているアーリとカルネを見ると、また軽やかに屋根の上へ飛び乗って、二人の前から姿を消した。
獣化したガーレルは注射を打たれたすぐ後に、突進をやめて、膝から崩れ落ちる。重たくうなだれる首を、ゆっくりと地面に降ろしてやった。
カルネは動きを止めた自分の父親に、素早く駆け寄り、巨大な頭を抱いた。
「と、父さん……へ、平気かい……」
青年は顔をあげ、アーリをまっすぐ見つめた。
どうすればいいのか、何が起きているのか、理解できていないと言った眼差しだ。だが、先ほどまでの恐怖に引きつった表情ではなく、むしろ少し安心しているように見えた。
「もう、多分大丈夫……あのローブの人は怪物になっちゃった人を元に戻せるの。だから、しばらくすればガーレルさんも元に戻るはずだよ」
「う、うん、そっか……僕はしばらくここで父さんの事を見てるよ。元に戻ったら病院へ連れていく」
「私は行かなきゃいけないから……ごめんね。気を付けて!」
少女はそういうと屋根の上へ登って、騒ぎの中へ向かって駆け出した。
ちらりと振り返ると、既に体が戻り始めたガーレルに、カルネが泣きついているのが見え、アーリは心の安定を少しだけ取り戻した。
三番街の中心に行くと、兵士達が暴れまわる獣化症状者達の対処に追われていた。彼らもそれが元々市民である事は知っているため、複雑な面持ちのまま、どうにか最低限の怪我で済ませて捕獲に専念しようとしている。だが、彼らの良心が槍を振るうのを躊躇い、上手く言ってないのが見て取れる。
転んで逃げ遅れた子供数名の前には、ミリナとバレントが立ちはだかり、ループが救助に当たっていた。
彼らの周囲には、地面に倒れこむ五体ほどの怪物達がいた。それらは行きこそ苦しそうに浅く呼吸していたが、生きてはいるようだ。
アーリは屋根から走ってきた勢いのまま飛び降り、大通りに着地して、バレント達に近寄った。
「アーリ、無事だったか!」近寄ってきたアーリに気が付いた、バレントは叫んだ。
「うん、三人は大丈夫そうだね」アーリはほっと胸をなでおろす。
「ああ、やっとって感じだ」バレントはライフルに弾を込めながら言った。「少々手荒だが……
「アーリちゃん、ここは任せて! 他の場所をお願い!」ミリナは近寄ってくる怪物達に、銃弾を放ちながらそう叫んだ。
「気を付けろ、かなりの数が獣化しているからな。ミリナとバレント、逃げ遅れた人間は私が守る。早く行け!」ループは子供を背に乗せながら、冷静にそう言った。
「分かった、三人とも気を付けて!」アーリは家族全員の無事を確認し、その場を後にする。
三番と五番を渡す橋は、怪物達が特に多く出現しているようで、逃げ遅れた人達の悲鳴と怪物の叫び声が耳を劈くほどであった。
アーリは襲いかかる怪物達の前に立ちはだかり、彼らの逃げる時間を稼ぐ事にした。この怪物達が元々人間であった事が、やはり脳裏にチラつくばかりで、怪物の力を存分に振るうことはできない。だが、標的を自分に向ける事で、背後で怯える市民達が逃げるのを助けられた。
彼らの中にはアーリに怯える者も居たが、そんな事はどうでもよかった。自分の中の正義を達成できれば、周りからの評価など気にもならない。
怪物達と相対している最中、彼女がふと視線を上に向けた。ローブの人物が建物の屋根上を走ってきている。そして、また華麗に飛び上がり、注射器を同時に二体の怪物に突き刺す。かと思うと、次の瞬間には俊敏でアクロバティックな動きで別の怪物に注射器を打つ。瞬く間にアーリの周りに居た怪物達が動きを止めた。
「あ、ありがとうござ——」
アーリがお礼を言うまでもなく、謎の人物は彼女を一瞥すると、また突風のように別の怪物の方へと飛び出していった。
本当に人間なのだろうかと疑うほどの機敏さだ。だが、助けてくれるのだから、気にしていてもしょうがないのだ。
ローブの人物の目の前を青い閃光が、音もなく通り抜け、行動を阻害する。
閃光が当たった石畳の直径一メートルの半円型にえぐり取られて、石材が周囲に弾け飛んだ。
「おいおい、避けてくれんじゃねぇよ?」
上から投げかけられた野太くぶっきらぼうな声に、ローブの人物がハッとして見上げると、そこには白短髪の体格のいい男が立っていた。
身長は高く、筋肉質な体つきがタンクトップから覗く。顔つきは鬼を思わせるほど厳しく、激しい怒りを帯びていた。
彼の手の中には、卵を長く引き伸ばし、半分に割ってその中に機械的な構造を取り付けたような異形の武器が握られている。銃口が見えなければ、武器だとは思えないほどだ。
ネオンブルーの光が走るその武器は、一メートルほどの長さで、男はそれを抱えるように持っている。
かなりの威力を持つ弾を放ったのにも関わらず、銃口らしき部分からは一切煙も出ていない。
そしてアーリには、その人物が誰なのか分かった。
「……ぶ、ブレックさん」
農耕地で働く男、ブレックだ。
しかし、いつもの穏やかで陽気なブレックの顔はそこにはない。持っている武器らしきものからも、アーリは一瞬で彼が敵である事を理解した。
しかし、理解できるのと、腑に落ちるのは違う。信じていた人に裏切られるのは、そう簡単に受け入れられる事ではなかった。アーリは誰よりもそれを痛感している。
男はアーリには、一切興味がないようだ。その代わりに、銃をローブの人物に向けると、引き金に指を掛けて、狙いを定める。
「……せっかく助けてやったのによ!」
男が思い切り引き金を引くと、銃口に溜まった目を潰さんばかりの強く青い光が、ローブの人物に向かって放たれた。
しかし、ローブも黙って受ける訳がない。非人間的とも言える身のこなしで、光の弾丸を躱し、袖やローブの中に隠していた注射器を地面にばら撒いて、アーリの方を一瞬見た。
その次の瞬間、男の近くに一瞬で飛び上がったかと思うと、男の顔面に鋭い回し蹴りを放つ。
ブレックは蹴りを躱し、武器を構える。
「おっと……さすが新品は違うなぁ!」
男が引き金を引くよりも、ローブの人物の鋭い蹴りが、男の腕を弾く方が早かった。
しかし、ブレックは防御よりも攻撃を優先した。銃を弾かれながらも、蹴りを受け止めて、力一杯に振り抜く。
謎の人物の体が、振り回された洗濯物のように宙で大きく弧を描き、屋根の上に叩きつけられる。衝撃で屋根の一部が弾け飛び、ごろごろと転がって大通りへと落ちていく。さらに二度三度、男はローブの人物の体を持ち上げて、屋根に叩きつける。
「……ぐっ、やるじゃねぇか」
優勢に見えた男だったが、足を掴んでいた手を離し、後ろへ飛んで距離を取る。男の右腕の皮膚が横一線に切り裂かれている。
何が起きたかと思えば、ローブの人物が履いているブーツのかかとを突き破り、鋭い剣のような物が突き出していた。叩きつけられている間に、空中で男の腕を蹴りつけたのだ。
怪物と狩人と時々グルメ 〜この世で唯一の力を持つ少女はこの世界に何を見いだすのか〜 遠藤ボレロ @Bolero0911
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