女王と白魔

雨谷結子

女王と白魔

 北の最果て、エスメリスタの冬の夜は明るい。

 いくつもの篝火を照りかえす雪白の原野に、野辺送りの葬列が細くしめやかに伸びていた。大狼たいろうの引く橇が、大地に寸分の狂いもなく直線を描き出す。私はそのうつくしい軌跡と精緻な細工の施されたもみの棺を眺めながら、肺腑を傷つけないよう、凍てついた大気を浅く吸い込んだ。

 葬地には、かしの木があった。葉をすっかり落としたその巨樹に、慣れた様子で白装束の男たちが縄を引っ掛けて登っていく。

 私は静かにその場に膝をつき、棺の窓を開いた。

 周囲を取り巻いていた人々から、声にならないどよめきが上がる。

 生前、陰気で辛気臭い死人のような顔をしているのが常だった男の――憎まれて死んだ父のものとは思えぬ晴れやかな顔がそこにはあった。

 折よく吹いてきた雪まじりの夜嵐が視界を白く染め、すぐに父の表情は掻き消される。

 数拍後、私がそろりと顔を上げると、この冬にとざされた王国のものとも思えぬ、みずみずしい新緑を閉じ込めた眸にかち合った。


「――王女殿下」


 私が目を瞠って慌てて礼を取ろうとすれば、鋭い視線でそれを制される。


「ヨエル・ヴィンテルの天涯てんがいへの旅が、白き祝いで満たされんことを」


 王女はエスメリスタの葬送の聖句を口にすると、手套てぶくろを脱いで侍女から骸布がいふを受け取った。

 骸布には、今の時期にこのつちのどこを探しても見つけることのできないいくつもの草花が咲き乱れている。

 ただ白一色で刺繍される、死者のための伝統的な装飾品だった。

 雪片に埋もれてしまいそうな陶器じみた王女の指先が滑り、眼窩の落ち窪んだ父の目が骸布によって覆われる。天涯への旅の間に悪夢に囚われぬようにと願いを込めて、エスメリスタでは死者の目を布で隠す。

 本来は故人の妻や娘によって贈られるものだったが、我がヴィンテルの家にもはや女はひとりも残ってはいなかった。

 だから、父の死出の旅に骸布を持たせることはできぬと諦めていたところだったのに。

 ほんの少し、目頭が熱くなる。だがこの厳しい大地では、涙すらも凍るのだ。私はいつもの無表情を取り繕うと、静かに棺の窓を閉めた。

 やがて、老いてなお屈強な北方の戦士たちの手によって、棺が樫の樹上に括りつけられる。

 国境を接するクァーリ帝国から野蛮な風習と蔑まれるエスメリスタの葬送、天葬てんそうだ。


「ヨエル公は、土葬を望んだかもしれないわね」


 清流じみた涼やかな声が、私の意識を地上に戻した。見れば、まだ王女が隣に佇んでいる。

 今や私を蛇蝎のごとく嫌う王女にしては珍しいことだった。


「いいえ、殿下。そのようなことは決して」


 我がエスメリスタの監察官だった父の帝国かぶれは有名だった。

 王女がそのことを揶揄しているのに気づいて、私は詮無いことと知りながら頭を振る。

 幼少のみぎり、たしかに彼女のほうが高かったはずの背丈を私が追い越してしまったのはいつのことだっただろうか。まだ王女を見上げていられた、私が己に流れる血のさだめを理解せずにいられたころ。あのころ、王女はしばしば私に冬がほどけるような笑みを向けてくれたものだった。

 だが、今や私と王女のあいだにかつてあったはずのなにかあたたかなものの面影はどこにもない。

 ひと筋の乱れもなく結い上げられた王家特有の銀の髪を見下ろせば、王女はつんと顎を反らした。


「どうだか。エリアス、あなたも帝国式がお望みなら、遺書にそう書いておくことね」

「まさか。ありがとう存じます。エメリ王女殿下手ずから、骸布を縫ってくださるとは」


 私の指摘に、王女はぴくりと身じろぎをする。

 なにも答えない王女に、私は言葉を重ねた。


「本職の職人が拵えたものにしては少し、味わいがございましたものですから」

「素直に下手だと言ったらどうなの。嫌味な男ね」


 王女は憤慨しつつも、声を落とした。


「陛下たっての願いを、断れるはずがないでしょう」

「……女王陛下が」


 私は意外なような、そうでもないような心地で目を凝らす。

 樫の木から少し離れた場所に、王女と同じ銀髪を見つけた。哀悼の意を込めて、その肢体は白雪の喪服に包まれ、ほとんど周囲と同化している。樹上の棺を見上げているが、その表情は窺えなかった。

 雪花の女王。

 言葉数の少ない父がそう形容した、動乱の時代に放り込まれたこの小国エスメリスタの命をつなぐ、中道の君主。

 思い返すのは月のない白魔はくまの暗夜。ヴィンテル家の本拠地イースの居城に、篝火だけを頼みに供のひとりも連れずに息せき切って大狼を駆ってきた女王の姿。濡れそぼった身体を震わせながらもしかし、決してその双眸が曇ることはなかった。

 私の視線に気がついたのか、女王がゆっくりと振り返る。

 あの夜と同じ、冬の青を湛えた眸が、冴え冴えと月のひかりを弾いていた。



 *



 ヴィンテルの血を引く者は、このエスメリスタの地に生まれど、帝国クァーリの地に骨を埋め、天涯の門に辿りつくことはない。

 そうまことしやかに囁かれるのが、ヴィンテル家に生まれた者のさだめだった。

 祖父の代にエスメリスタが帝国の恩情で滅亡を逃れて以来、我がヴィンテルは両国をつなぐ使者として、王家に跪きながらもたびたび帝国に参じてはそのご機嫌伺いに勤しむようになった。

 そうして祖父が帝国の信頼を勝ちとり、クァーリ皇帝より与えられたのが、監察官の務めだ。

 監察官は皇帝の意向をエスメリスタ王宮に持ち帰り、王宮の政が帝国に背くものであれば、直ちにこれを退けた。

 祖父の代には決定的な軋轢はなかったというが、父の代にヴィンテルとエスメリスタ諸侯の間の隔たりは修復不可能な域に達した。

 帝国と南の大国との間に戦争が勃発し、父の勧めで国を挙げて帝国軍に加わることになったのだ。

 この戦火により、我がエスメリスタは男手の多くを喪うこととなる。それも、帝国の焼夷兵器による背後からの誤射によって。

 見知った諸侯やその子息たちもたちまち物言わぬ骸となった。死体は黒焦げになって、誰のものとも分からなかった。

 女王の王配や子らも例外ではなく、末の王女エメリを残して、すべてが灰燼に帰した。

 おかげで玉座からもっとも遠かったはずの王女に第一位の継承権が転がり込んでくることとなった。

 帝国は、父に持たせた書簡で形ばかりの陳謝をしたが、それでエスメリスタ諸侯が納得しようはずもなかった。

 そうしてこの真白き冬の王国を戦禍に導いた父は、裏切者の白魔と謗りを受けることになる。

 今から八年前の、夏の盛りのことだった。

 当時十代前半だった私は、父を恨んだ。理由はいくつかある。

 あの戦場いくさばで喪われたのは、私の家族も例外ではなかった。七つ上の長兄と四つ上の次兄も惨たらしく犬死にした。

 それなのに、うつくしい面を翳らせた女王を前にして、父は顔色ひとつ変えずに抑揚のない声で皇帝からの詫び状の文面を一字一句違わずに読み上げた。諸侯らは眉を顰めて、ヴィンテルは帝国に魂を売ったのだと口々に囁き合った。

 或いは、あの頃から壊れ始めた王女との関係のせいかもしれない。

 雪白にけぶる睫毛に縁取られた青葉の眸は、まるで私を映さなくなった。いくら私が内心父の所業に否を唱えようとも、外から見れば私もまた裏切者と同じ血を引く卑怯者に過ぎないのだった。

 私はたちまち途方に暮れてしまった。この真白き闇の巣食う土地で、あの春の訪れじみたまなざしを失っては、どこを目指して歩いて行けばよいのかまるで分からなかった。


 監察官の役目は、祖父から父へ、そして父が病に倒れてからは私へと引き継がれた。

 そうして裏切者の白魔の称号も、そっくり私のものとなりつつある。

 父は隠居を決めた際、ただ一言、私に「ヴィンテルたれ」とのたまった。

 私はその言葉に背を向け、父のような奸臣にはなるまいと決意して皇帝の元に参じた。だが、結果は散々なものだった。

 私の受け答えひとつで簡単に女王の首が飛び、穢れを知らぬ雪原が軍馬で踏み荒らされる。もっと悪ければ、国土が焦土と化すかもしれない。

 そう気づいてからは、私は白魔となじられた父の姿を写しとるように帝国と王国を行ったり来たりする日々を送るようになった。

 エメリ王女の怒りに触れればたちまち私の胸中はさざ波を立てたが、私の身一つでこのうつくしきエスメリスタの大地を永らえさせることができるのならば、これほど安い買い物もないように思えた。

 憎まれ疎まれ、そうして天涯に辿りつけぬまま死んでいく。それが私の天命だと悟った。


 クァーリに滞在中だった私に、父が危篤だと主治医が遣いを寄越したのは十日ほど前のことだった。私は皇帝に非礼を詫びて取るものも取り敢えず愛馬を駆り、三月ぶりに王国の深雪を踏みしめた。

 イース領は王都の北、王国の最北端に位置する荒涼とした原野だ。

 夏は漁と狩りを行い、冬は暖炉に薪をくべて、白魔が早く過ぎ去るのを願いながら刺繍や織物をして過ごす。身を寄せ合った人々は春の到来を待ちわびて、喉の焼けるような蒸留酒を呷りながら、口々に歌を口ずさむ。その調子っぱずれの歌たちは、まったき白に塗りこめられた闇を仄かに照らしだす。

 この痩せた大地の厳しい冬にそれでも連綿と繰り返される人の営みを、私はあいしていた。

 しかし、今宵のイース城は雪にすべての音を吸い取られてしまったかのように静かだった。

 侍従頭が私に駆け寄り、温度差で雪が溶けてぐっしょりと重くなった外套と耳当てつきの帽子を取り去る。帽子からはみ出していた癖のある髪にはごっそりと氷がこびりつき、私の顔や鎖骨に冷たい雨を降らせていた。


「容態は」

「今宵は安定していらっしゃいます。ええ、若様」


 家長となってもう一年半も経つのに、侍従頭は昔の癖が抜けずに私をいまだに若様と呼んでくる。私は苦笑しつつ、侍女のハンナが持ってきてくれた綿布で乱雑にびしょ濡れの髪を拭きながら、蝋燭に火をともして階上へと急いだ。

 父の居室は、腐りかけの果実のように饐えたにおいが微かにしていた。

 元々、骨に薄い皮を貼りつけたようと女王の戦士たちに陰口を叩かれがちだった父だが、輪にかけて痩せ細り、以前よりひと回りもふた回りも小さく見えた。呼吸は浅く、ややもすると死んでいると錯覚しそうなほどだった。

 女王から下賜された六花の意匠の外套留めを危うく取り落としそうになって、私は常ならず動揺していることに今さら気がついた。

 父と、親子らしい時を過ごした記憶は希薄だった。

 物心ついたときから王国中を巡り、異国の言語を学び、国内外の家系図を頭に叩き込む日々だった。一方、母も産褥熱で死んだので、私は母の記憶を持たない。両親と過ごしたときよりも、武術指南役や家庭教師と過ごした時間のほうがはるかに長く、そして人のぬくみを帯びていた。

 そんな父の死に際に心乱されるとは、なかなかどうして人の心は度しがたい。

 私は父の寝台の傍近くに膝をつき、その死人のような血の気のない顔を眺める。

 いつか、私が激して父に詰め寄ったときのことが思い起こされた。




『父上が真にお仕えしているのは、いったいどなただと仰るのですか!』


 まだ十代半ばの雪解けの季節のことだった。

 真白き雪が泥にまみれ、いくつもの小川が山々から流れ落ち、道々をまだら模様に染めてゆく。

 少し歩けばおろしたての衣服が汚れ、たちまち靴がぐっしょりと濡れそぼつ、あの歓喜と苛立ちを呼び起こすうららかな春。

 王宮には、ヴィンテルに王冠をと望む声がひそやかに木霊していた。

 我がヴィンテルは、曾祖父の代にわずかばかり王家の血と交わっている。マルグレット女王とエメリ王女を排除すれば、王家の血を引くのはヴィンテル家を除いてほかにいなかった。

 くだらぬ戯言と一笑に付すことができなかったのは、先の戦の結末と迷信のせいだ。

 諸侯の間には、帝国に舐められきってなお静穏を保とうとする女王の采配に不満を唱え、帝国に叛逆の狼煙を上げよという論調が幅を利かせるようになっていた。

 女王マルグレットが玉座にあるうちは、そのような愚策が取り合われるはずもなかったが、王家の血を根拠に父を担ごうとする勢力が水面下で動き出していた。

 数十年前、このエスメリスタが女王を戴いた時代に国が荒れ果てたことから、女が玉座に座ることそれ自体が国を傾けるのだと彼らは尤もらしく主張した。あの戦禍を招いたのは他ならぬ父だというのに、彼らは女王こそが災厄の種だと信じて疑わないようだった。

 この流れを見越して、父が王位と引き換えに帝国に加勢する密約でも交わしていたのではと想像すると、怖気が立った。

 私の詰問に父はただ、諸侯や女王の側近を前にしたときのように薄く笑った。


『私が真に仕えるのはこのエスメリスタの大地、そして雪花の女王マルグレット』


 息をするように嘘偽りを口にする父を信用するいわれなど、あるはずもなかった。

 挙句父は、面白い余興でも思いついたような顔つきで言い放った。


『それほど王女殿下に執心ならば、いっそ女王陛下に縁組みを打診してみるか』


 長じてから、私が父の前でエメリ王女の名を進んで口にしたことは一度としてなかった。

 私が絶句したのを、父は執務机から愚かしい愛玩動物でも眺めるかのように見やった。


『殿下に釣り合う適齢期の男はことごとくが死んだ。私が言い出さずとも、いずれ誰ぞが言い出していたことよ』

『私はそのような――これ以上ヴィンテルがのさばれば、エスメリスタはただクァーリの傀儡国家としての道をひた走るのみ』

『女王陛下も隠しているが病がちになっておられる。もう十年と持つまい。お前の王女殿下は、いまだ末の愛らしい姫君のまま。クァーリに丸呑みにされるくらいならば、うつくしい人形としてお前の隣に飾ってさしあげればよい。それが慈悲というものだ』


 父の言葉に、目の前が真っ赤に染まったのを覚えている。

 王女への慕わしさがすべて、主君に対するそれではないことなどとうに自覚していた。しかし、私がヴィンテルの家を継ぎ、その務めを果たさんと望むのは、王女への愛欲ゆえではない。


『エメリ王女は、女王の器です。私には、手の届かぬ御方だ』


 私が断言すると、父は愉快そうな、それでいて不愉快そうな奇妙な顔をした。

 そうしてどこから話が漏れたのか、私と王女の縁組みの噂が広がったが、なりふり構わぬヴィンテルの王位への欲望が露わになったという形で王宮中の反感を招き、この話は立ち消えになった。さらにはヴィンテル戴冠を悲願として暗躍していた者たちもこの騒動で明るみになり、まとめて王宮から一掃された。

 父の思惑がすべて砕かれ、私は胸を撫で下ろした。

 だが、それらの騒動が片付いたあと、父はどこか清々しい表情で白銀しろがねの王宮を見上げていた。その佇まいが、目に焼きついて離れなかった。




「若様」


 侍従頭の呼び声に、私は旧い記憶から浮上する。常にない緊迫した呼び声に、私は腰に帯びた剣の柄頭を思わず掴んだ。


「その、……陛下がおいでです」

「なに?」

「陛下がおいでなのです。おひとりで」


 侍従頭の声はひっくり返っていた。

 私は窓辺に目をやった。思索に耽っていたつもりが、うたた寝でもして夜を明かしたかと思ったのだ。しかし、いまだ窓の外は暗く、白魔が窓枠をがたがたと揺らしていた。


「何ごとだ。王都で叛乱でも起こったか」


 私が慌ただしく立ち上がれば、建てつけの悪い扉が音を立てて開いた。


「あいすまぬ、騒がせたな。叛乱などない。吹雪以外は穏やかな夜だ」


 よく通る、落ちついた低い女の声がした。

 私は一瞬驚きを顔に乗せかけ、すぐにその場に跪いた。


「よい。先触れもなく押しかけたのはわたくしゆえ。内密にしたくての。別段、火急の用ではないのだ。久方ぶりの――そう、お忍びというやつだ」


 茶目っ気すら滲ませてそう言うと、女王は濡れそぼった髪を綿布で包みぎゅっと絞った。


「お身体に障ります。なぜこのような……」

「許せ、エリアス。そなたの咎ではない」


 青ざめた私に、女王は軽くそう言ってのけた。


「まずはお召し替えを。ハンナ、陛下になにかお召し物と温かい葡萄酒を」

「よい。まことに、さほど濡れてはおらぬのだ。大狼に、我が儘を言ったでの」


 大狼は、王族のみが御すと伝わる白銀の巨大な狼だ。馬より三倍も速く走ると言われる。


「それよりはわたくしの大狼に、温かいあつものでも与えてはくれぬか。門の外で、大人しくお座りをしておるゆえ」


 それでも私があまりの珍事に内心狼狽えていると、「女王陛下」としわがれた声がした。

 振り向けば、父が寝台から起き上がって着衣を整えているところだった。


「ヨエル。寝ておれ。わたくしはそなたの寿命を縮めにきたのではない」

「それは異なこと。王宮では私が早く地獄の業火に焼かれるよう、祈祷をしておられるとか」


 父は先ほどまで寝込んでいたのが嘘のように、滑らかな口調で女王に応えた。

 死にかけている間にも王宮の情報収集に余念がないのは、職業病を通り越して妄執じみていた。


「わたくしがそう暇な君主と見えるか。エリアス、人払いを頼めるかの。わたくしはまこと、父君の見舞いに参ったのだ。信じられぬやもしれぬがな」


 父へのぞんざいな対応から一転、女王の気づかわしげな視線が私に絡む。私は「滅相もございません」と返して、従者たちを下がらせた。実際、私は実父以上に女王に信を置いていた。

 父は強情にも、いまだ寝台に身体を横たえず、時折喘鳴を漏らしながらも最低限の礼儀を尽くそうとしていた。その様子に、女王は小さく息をつく。


「わたくしの指図は受けぬと申すか」


 冬の息吹を宿した声に、父だけでなく、私の身体も縫いとめられる。

 女王と、そしてエメリ王女は、私を――私たちをいとも容易くこうして縛る。冬の呪縛と、春の溶解の間を行ったり来たりさせられる。

 父はついに強情を張るのをやめ、それでも限りなく優美なしぐさで寝台に横たわった。それを認めて、ようやく私も女王に礼をとる。


「では私も、御前を下がらせていただきます。なにかあれば、お申しつけください」


 私はそう言って退室しながらも、好奇心に駆られて扉にぴったりと耳を寄せた。

 女王が父に害意があるとは毛ほどにも思わなかったし、あったところで放っておいても父は死ぬ。そんな死にかけの裏切者の白魔に、わざわざ人目を忍んで会いにきた女王の本意が知りたかった。


「……死に顔を眺めるには、いささか気が早すぎたようですな」


 意外にも、口火を切ったのは父だった。

 口を開いては皮肉を吐き出す父に似合いの、無作法な言葉だった。


「死に顔など眺めるために、わたくしの大狼に無理をさせるか。今宵しか、自由になる時がなかったのでの。白魔の夜半に駆けてきたのをなんと心得る」


 憮然とした女王の言葉に、沈黙が落ちる。

 口数こそ少ないが、舌戦では負けなしの父にしては珍しいだんまりだった。


「は――まさか、まことにただの見舞いにいらしたと、そう仰るか」


 父の言葉は、嘲笑うのに失敗したように不自然にひずんだ。


「わたくしがそなたを謀ったことがあったか、ヨエル公。わたくしは臣下思いの君主で通っておるのだがな」

「……臣下の数に私をいれてくださっていたとは、寝耳に水だったものですから」


 父がそう言うのも無理はない。

 かつて父からの奏上によって、エスメリスタは戦火への道を突き進んだ。そうして女王が心から愛した王配とその子らが非業の死を遂げた。

 殺意こそ今は薄れていても、憎しみを消せるはずもない。私自身、幼き日に兄弟や友人たちを喪った傷は未だに塞がりきっていなかった。

 それだけではなく、常に父は女王と対立していた。何度父が玉座の前で女王の策を嘲笑ったか、長じてからようやく議会の末席に加わった私ですら、数えきれないほどだった。

 女王が父を殺したいと思いこそすれ、死に際に他意なしに見舞いにくるなど、天地がひっくり返ってもありえないことのように思われた。


「たしかにわたくしたちは、先の戦で多くを喪った」


 女王の声は、常になく渇いていた。


「しかしあの戦に加わらねば、わたくしどもは遅かれ早かれ、クァーリの腐れ皇帝に滅ぼされていたであろう。もっとも、それとは別の、わたくしにもそなたにも見つけることのあたわなんだ、第三の選択肢はあったのやもしれぬ。それは今言っても詮無きことだが」

「……今さら、なにを」


 並みいる大国の君主を前にしても平然としている父の声が、引き攣れる。

 女王が、表立って父を詰ったことは一度としてない。それは、父の背後に強大な帝国クァーリの影を見ているからだと思っていた。父が機嫌を損ねて皇帝に泣きつけば、気まぐれに帝国はその牙を剥くかもしれない。だから王権をもってしても、ヴィンテルを排除できない。これほど国中から嫌われてなおヴィンテルが永らえているのには、そうした事情があった。

 だが、今の女王の言葉はまるで、白魔の――父の采配を肯定しているようにすら聞こえた。

 地吹雪に常に鎖された父の心が、本当は遠い異国の地ではなく女王の傍近くにあったのをっている、とでもいうかのように。

 私も、一度も考えなかったわけではない。父が裏切者の白魔として国中の憎しみを引き受けてきたその裏に、玉座への欲望とは別のなにかがあったのではないのかと。

 なにしろ、父と同じ裏切者の白魔の名を戴きながら、私はこの慕わしいエスメリスタの地も、あの春の双眸も踏みにじることなどできやしないと骨の髄まで理解している。

 父に私のごとき秘められた本懐がないとどうして言えるだろう。

 なにしろ、認めるのは癪だったが、諸侯らもこの城に仕える古株たちも皆、私のことを父に似すぎるほどに似ていると口を揃えるのだから。

 父は、この期に及んで答えの片鱗すら言葉にすることはなかった。

 しかし女王には、私にもまるで見えない父のなにかが見えているらしかった。さも愉快そうにからからと笑う声が響く。


「――そなたがおらねば守れなかった天秤だ。今宵はそれを、言いに来た」


 私が言われたわけでもないのに、視界が融け落ちかける。

 父は相槌ひとつ打たない。けれど、そのしんしんと降りつもる雪のような静寂しじまが熱を帯びる音を私は聴いたような気がした。

 女王は、なおもうるわしい声で告げる。


「ヨエル・ヴィンテル。そなたはエスメリスタ一堅牢な、わたくしの盾だ」



 *



 聖堂に、やわらかな天の調べが響いていた。

 参列者の列は王都の入り口まで伸び、すすり泣く人々の声という声は、降り続いていた細雪が止んでもとどまることを知らなかった。

 女王マルグレットが病没した。私の父ヨエルが死んで二年後の、真冬のことだった。

 人々が身を包むのは、エスメリスタの喪服の雪白ではなく、漆黒。

 クァーリの皇帝が参列するというので、急遽帝国式に調えられた葬儀は女王の信奉者たちの反感を買い、私は諸侯らが短気を起こさぬよう寝ずの番をしなければならなくなった。

 もっとも、帝国式の葬儀を手配したのは私であるから、今この場で最も暗殺されるおそれがあるのは、私をおいてほかにいない。

 女王の取り巻きに加えて、王女の取り巻きまでもが、私を今にも射殺さんばかりに睨めつけている。

 あれから大陸の情勢は目まぐるしく移り変わり、近頃は帝国の西の小国が台頭してきていた。

 帝国西端では、しばしば小競り合いが起きていると聞く。長らく不動の地位を誇っていた帝国は、難しい舵取りを迫られていた。

 それゆえに、帝国も小国エスメリスタの王の死を無視できず、皇帝みずから葬儀に参列する事態になったのであろう。長らく膠着状態にあった大陸の勢力図が書き換わる日も、近いのかもしれなかった。

 とはいえ、ひと息に帝国の支配を抜け出すことなどできやしない。糸口を掴むまでは、簡単に踏み潰されるこのような小国は、息を潜めているしかないのだった。

 だが、着実に叛逆の狼煙を上げるための種を播く。

 女王は生前、伝統的な天葬を望んだ。

 汚名を背負い、独り静かに息絶えるはずだった父に名誉を与えてくれた女王に対して、この仕打ちは赦されるはずもなかった。エスメリスタの死と再生の信仰への侮辱であり、女王の死を踏みにじる行為だと自覚している。

 しかし、帝国の支配に安穏とし始めた人々を目覚めさせるには、劇薬が必要だった。

 クァーリ皇帝が帝国式の葬儀を所望したのは事実だったが、現在の情勢を鑑みれば帝国も我々の信仰に口出しできない。我々の怒りを買って西国に寝返られては困るからだ。それを知っていながら、皇帝の放言を利用して帝国への敵愾心を煽ることに決めたのは私だった。

 議会では方々から散々なじられたが、先の戦の悪夢を持ちだして揺さぶりをかければ、諸侯は歯ぎしりをしながらも私に従った。

 私の所業はいずれ、人々から処刑でもって正されるのかもしれない。或いは後世、史家によって悪人の代名詞として喧伝され、この国の歴史に呪われた名を刻むのかもしれない。

 今回の細工はまだ些細なほうで、私は口にも出せないおぞましい行いで手を汚してきている。王女にももう、顔向けなどできやしない。

 それでもこれが、私の存在意義だった。国中から忌み嫌われようが、外敵を決してこの大地に招き入れぬ白魔となる。

 その道のほかに、私が往ける道などどこにもなかった。

 父が結局、なにを思って生きて死んだのかは杳として知れない。父はついぞその真意について口を開かなかった。女王の言葉を内心嘲笑っていたのか、それとも私のように落涙して胸に抱きしめたのか。

 ただ、父が女王をして雪花の女王と謳いあげたことだけは、私のはだに水のように馴染んだ。


「王女殿下」


 側近の呼ぶ声に、黒衣に身を包んだうつくしいひとの面が上がる。

 昔泣き虫だった末の王女は泣きはらした眼をしているだろうと案じていたが、次期女王エメリは、化粧の紅ひとつ乱れのないかおを反らして、私が付き従う皇帝に優雅に帝国式の挨拶をしてみせた。


「皇帝陛下におかれましては、遠路はるばるわたくしどもの女王陛下の御為に葬儀にご参列いただき、厚く御礼申し上げます」


 涼やかな声音で、楚々と力なく微笑む。王女は、母を喪ったばかりの若い娘におよそ望まれる完璧な振る舞いを象ってみせた。


「葬儀のあとは、王宮にて、故人を偲ぶささやかな宴もご用意してございます。どうか、わたくしと母の思い出を語らい、向後の二国の友好をともに祈念していただけますよう、切にお願い申し奉りますわ」


 皇帝が、侮るように愛らしい姫君に向けた慰めの言葉を口にする。

 淑やかに俯いた王女の眸はしかし、雪花の女王にも似た凍てついた冬を宿して、つめたく翳を帯びていた。

 王女は、私の春は、そのように鮮烈に、いつだって私の心臓を一刺しにする。



 クァーリ皇帝の三日間のエスメリスタ滞在はつつがなく終わった。

 私は眠気と頭痛でどうにかなりそうな重たい身体を引きずって、斜陽に彩られた王宮の庭園を歩いていた。

 やがて、エスメリスタでは見慣れぬ碑が見えてくる。

 マルグレット女王の墓碑は、広い庭園の片隅にぽつりと佇んでいた。

 墓碑には、いくつもの乾燥花が手向けられている。染料で着色を施されたそれは、天葬を行えないのならばせめて、女王の目を楽しませようという心遣いに満ちていた。

 私はその場に跪き、頭を垂れた。懐から取り出した布切れを、墓碑に巻きつける。真白の布地に細かに刺繍を施した骸布だった。


「あら、味わいのある刺繍ですこと」


 すぐ近くでおどけた声が聞こえて、私は飛び上がりそうなほど驚いた。

 振り返れば、水ぬるむ大地の緑を宿した双眸が弓なりに細まった。


「――王女殿下。供の者は」

「ここ数日、肩が凝りっぱなしだったのよ。少しは羽目を外させて」

「御身は、次期女王となるお身体なのですよ」


 私の小言にいつも深い溜め息ばかりを返していた王女は、ひたと視線を合わせて「分かっているわ」と囁いた。


「お母さまに骸布をありがとう」


 私はヴィンテルの男らしくもなく、王女から視線を逸らした。

 王女は私の胸中などお構いなしに、話を続ける。


「正直に言うともちろん怒り心頭よ。散々私のエディにあなたの悪口を言ったあと」


 王女の側近筆頭の名がまろびでて、私の胸をちりと焔が爆ぜる。

 王女は、女王と同じかそれ以上に、臣下をみずからの懐に入れて大切に扱っていた。


「でも感謝もしているのよ。諸侯のなかには、西の情勢も意に介さず、クァーリに従っていればいいと思考停止している者もいたから」


 王女の言葉に私はますます驚いた。


「今に大陸の地図が書き換わる。今こそわたくしたちは、刃を忍ばせて備えるべき時。そのための布石よね、エリアス公」


 王女は、先日見せた楚々とした笑みが嘘のように艶やかに笑う。


「あなたはこの二年間、ヨエル公が乗り移ったように議会でわたくしを小馬鹿にしたものだけど、わたくしだって少しは利口になったのよ」


 小首を傾げた王女は、外套の裾を捌き、残照を弾いてかがやく雪を踏みしめて歩み寄る。そうしてついに私を間近で見上げた。


「あなたが欲しいわ、エリアス・ヴィンテル」


 まるで甘美な美酒のように、薄紅の口唇が私の名を乞う。

 このうつくしい、穢れなきまったき春のもとに、私の寄る辺などどこにもないと思っていた。

 春になって融けて消える雪のように、緑の眸に見留められることなく、野垂れ死ぬさだめだと。それが。


「なにに代えても、この国を未来へ押し上げる。それこそが、わたくしの役目と心得ます。そのためには、あなたのような白魔が必要よ」

「私ひとりに手を汚せ、と?」


 それが本懐であったのに、つむじまがりのヴィンテルの血が、この期に及んで底意地悪く王女をあげつらう。

 そうでなければ、そうでもしなければ、私は王女の望んだ白魔のままでいられなくなってしまう。

 私は初めて己を、ヴィンテルたれと叱咤した。おそらくこの先何度も繰り返すであろう、父が私に遺した唯一の金言だった。


「ええ、エリアス。あなたには、貧乏くじを引いてもらうことになるけれど。当面は、あなたに王宮中の憎しみを引き受けてもらわなくては。でも、覚えておいてね。あなたがまみれる血潮も汚濁も、わたくしのもの」


 そう言って王女は私の掌を両手で包み込む。

 やわらかな膚は、体温が奪われてなお仄温かかった。


「わたくしに、あなたをくれる?」


 私はたまゆら天を仰ぎ、その場に跪く。


「御意に。私の春の女王」

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女王と白魔 雨谷結子 @amagai_y

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