第249話 最終話 卒業
法科大学院を卒業すると、司法試験の受験資格を手に入れることが出来る。
だが受験者の中から合格者は、およそ20%というのが最近の傾向だ。
早稲谷の法科大学院はかなり優秀で、およそ半分が合格する。
だが逆に言えば半分は落ちるということで、甘く考えていいものではない。
それに法科大学院に属していても、他に予備校などに行っている場合もあるのだ。
直史と瑞希は五月の司法試験に備えて、ラストスパートを始めた。
さすがに直史もここで落ちたら洒落にならないので、大学受験の時以上に、勉強時間を多くとっている。
この時点では大学院も卒業しているため、勉強は予備校となるわけで、合格したとすれば千葉に戻ればいいのだが、もし万が一不合格であれば来年も試験を受けなければいけないわけで。
「甲子園の決勝でパーフェクトするよりずっと疲れた」
直史の言葉はおそらく本気であったろう。だが、それが出来るのは世界でこいつぐらいである。そして正しく比較できるのも。
一日で終わるものと、試験日まで終わらないものとの差であるかもしれない。
いささか先の話になるが、二人は合格する。ついでだがツインズの片割れも合格しする。
色々な都合があるため、二人は東京で生活を続けて、不合格でも合格でも必要なために勉強し、瑞希の父の知り合いの事務所で事務作業のアルバイトをしたり、直史は週に一日程度だが、マッスルソウルズに練習に行ったりもする予定もある。
「四ヶ月も先に結果が出るって、ひどい話だな」
そう言われても仕方のない待遇かもしれないが、司法修習が始まればその時点で給料のような給費というものが支払われる。
「うちの給料より安いな!」
まあ修習中は副業も出来ず、あくまで生活を維持する程度に抑えられるのは当たり前である。
ちなみに自衛隊や警察官も、学校に通いながら給料が出ることは変わらない。
以前にはこの給費すらなかったため、事前に貯蓄をしておくか、借金をしながら勉強をしていた人もいたのである。
学力を維持したまま、合格発表を待つのは辛い。
そんなわけで二人は、ほんの少しだけ息抜きをしようかとも考える。
ほとんどを勉強漬けであったので、小旅行などはどうであろうか。
北海道なら上手く桜の季節が合うだろうし、沖縄ならもう泳ぐことも出来る。
また京都や奈良などの古刹を巡るのもいいだろう。
「外国は?」
「そういやパスポート更新してたっけ」
二人は高校時代にパスポートを取得し、一度大学の時に期限が切れそうになった。
今後必要になるかもしれないということで、更新していたのである。
だが合格が確定しているわけでもないのに、わざわざ外国まで行くものであるのか。
実際のところこのシーズンには、就職活動を行う司法試験受験者が多い。
まだ合格も決まっておらず、司法修習も開始でないのに、と思うかもしれないが、ここでやらなければ修習が始まれば時間がないのである。
実際超大手の弁護士事務所はこの時期に採用の方を始めており、法科大学院などで成績が優秀であると、選考の基準になる。
かなり先を見据えて、就職活動も採用活動も行うわけだ。
直史と瑞希の場合は、地域密着型の事務所に所属が決まっているため、関係のない話である。
実のところ二人の成績であれば、そういった難関事務所に受かってもおかしくはない。
ただ直史は有名すぎるので、あえて回避される可能性は高いが。
広告塔として上手く使えると思う者もいるかもしれない。
あくまで油断はせず、勉強は続ける。
どのみち司法修習をなっても、勉強自体は必要だからだ。
ただ週に一日は休みの日を作って、ぼんやりと過ごす。
マッスルソウルズの練習には、瑞希も一緒に行くことになったりもした。
これもまたアマチュア野球の一つの形であると、瑞希は取材を目的としている。
今年もまたマッスルソウルズは、プロへのスムーズな路線をドロップアウトした、大学生などを新たに加えている。
「うお、マジで佐藤直史じゃん」
「所属してるだけで見てなかったけど、本当にいたのか」
珍獣扱いである。
五月とはいえ、まだ肌寒さを感じることもある。
だが同時に、夏か!と叫びたくなる日もある。
そんな中で直史は、ちゃんと肩を作ってから、バッピをしてあげたりもする。
「ん~……」
スピードガンで直史の休息を測っていた中富は、首を傾げざるをえない。
直史はこの二ヶ月、ほとんど練習に来ることがなかった。
だから常識的に考えれば、それだけ鈍っているはずなのだ。
だがスピードガンの表示は、153km/hを出していた。
速いなとは思っていたが、下手をすれば大学時代より速い。
「なんでだ?」
思わずそんな声も出てしまうというものである。
ボールを受けていた馬場曰く、変化球のキレ自体は確かに鈍っていたらしい。
だがコントロールも曖昧であったそのピッチングが、一球ごとに修正されていった。
イメージをしっかりと頭の中で持って、それを肉体で表現する。
肉体自体の最高出力は、確かにずっと上の選手がいるだろう。
しかし脳からそれを肉体に伝える神経。
またかなり鈍っていると言いながらも、すぐにその感覚を取り戻していく再教育力とでも言うべき力。
直史は、脳が優れているのではないか。
それは弟や妹たちを見ても、遺伝的な素質なのではないかと思える。
頭がいいというのもあるが、それ以上に脳が肉体をコントロールする。
競技系のスポーツでは、フィジカルだけの選手に、頭脳で対抗できる選手はいるのだ。
マウンドから降りた直史は、さすがに体力は落ちていることを実感した。
そしてスピードはあまり落ちていないとは聞いたが、それは全てスタミナを多く使ったことによるものだ。
実際の試合では、おそらくもっと体力の消耗は激しいだろう。
公式戦には出ないのかと問われても、首を横に振るだけである。
公式戦に合わせてコンディションを整えることが出来ないし、たとえ合格でも不合格でも、結果が出る前からしなければいけないことはある。
何より公式戦ならば、プロを目指す人間が、もっと多くのチャンスをもらうべきだ。
直史はただ、野球をやりたいだけなのだ。
勝ち進むために直史が必要で、勝ち進むことによって誰かの運命が切り開けた、去年とは違う。
そんな直史に対して、今年からクラブチームに入った選手が声をかけてくる。
どうしてプロに行かなかったのか、というもう何度もされた質問。
だが直史としては、それに対する答えも、基本は同じであるが、細部は変わってきたと言っていい。
「結局のところ、自信がなくて、野球に飢えてなかったんだろうな」
骨折一つで、もうピッチャーは投げれなくなる。
それが怖かったというのは本当だし、もし故障をしたときに、そこから立ち直れるかも不安であったのだ。
何があっても自分は大丈夫だと、信じることが出来ていなかった。
そしてもう一つは、野球に対して何を求めているか。
直史が一番モチベーションが高かったのは、間違いなく高校生の頃だ。
中学時代の勝てなかった反動から、とにかく試合に勝ちたいという意識が強かった。
トーナメントを一度も負けず、最後まで駆け抜けること。
それに比べれば負けても取り返しがつく試合というのは、どうしてもモチベーションが上がらない。
日本代表との対決や、WBCでの対決で、強打者相手に勝負するというのも、もう充分だと考えたのだ。
いや、考えたのではなく感じたのか。
もう自分はやりきった。
プロの世界でさらなる何かを求めるというのは、その何かが定かではなかった。
プロの世界で投げて、少し長めに40歳まで現役であったとしよう。
だがそこからまだ、人生は30年以上続くのが現在なのである。
弁護士は個人事業主なので、定年はない。
肉体が衰えても、知識と経験が重要となるのだ。
「プロ野球選手になるなんてことは、博打みたいなものなんだと、俺は思う」
平均的な引退年齢は29歳ほどで、在籍するのは7~8年間。
ドラフト一位で入った選手でも、数年で戦力外になることは珍しくない。
先発として投げたら、ローテで年間およそ25試合。
それだけの試合を研究されたら、純粋な球速はそこまででもない自分は、やはり攻略されるのではないかとも考える。
そこまでのことは言ってしまわないが、もっと助言をと言われたら、直史は答えるだろう。
このクラブチームで成績を残して、社会人野球への道を開けと。
そしてそこで働きながら選手をすれば、引退後にも仕事がある。
そこで成功していたら、野球部のコーチとして野球に関わり続けることが出来るかもしれない。
未来を楽観的に見ず、現実的に見るならば、その選択の方がいいだろう。
ただ直史の場合は、自分の未来に瑞希の未来を重ねてしまっている。
二人で生きていくのだ。そのために安全マージンをどうしても多めに取ってしまう。
さらに言うなら家というバックボーンがある。
次男の武史ならともかく、長男の直史がハイリスクハイリターンな選択をしないのは当然とも言える。
新しいチームメイトは、それで納得したようであった。
そしてしばらくは直史のアドバイスを受けながら、自分の進路を考えるようになる。
時は過ぎて九月、司法試験合格の知らせに、ようやく安堵する二人であった。
ちなみにツインズの片割れも、当然のように合格している。
人間としてのスペックが段違いなのは分かっていたが、さすがに今回ばかりはうらやましいと思った。
だがそれも、二人共に合格すれば、わざわざうらやむ必要はない。
プロ野球のスカウトにおいては、まだわずかに希望を残していた者もいた。
クラブチームに入った直史は、今年が大卒二年目となり、ドラフトの対象となるからだ。
司法試験に不合格になれば、あるいは志望を変えるのでは。
クラブチームの練習で、それなりのピッチングをするところは見ていた。
まだ二年、ここからならまた全盛期まで戻すことが出来る。
それもこの合格で、完全になくなったと言えよう。
社会人は志望届がなくても、球団は指名することが出来る。
あるいは駄目元で、下位か育成で指名するところはあるかな、とレックスの大田鉄也は考えていた。
だが直史を動かすものは、野球界にはない。
奇跡のパーフェクトピッチャーは、ついにプロの世界に来ることなく、その人生を終えるのだろう。
そんな思惑はどうでもよく、二人は引越しの準備をしている。
司法修習は千葉で受けることにしてあり、定員的にハズレになることはまずない。
そもそも就職先が既に決まっているのだから、司法修習を別にする必要などないのだ。
12月からはその司法修習が始まるわけで、二人は五年以上を過ごした東京を、ついに離れることになった。
この先もまた東京を訪れることは多くなるだろう。
だがやっと、千葉に戻れるのだという感覚が強い。
全てがやっと終わったような気がするが、実際はここからが始まりだ。
修習期間はおよそ一年で、それが済んでもまた試験がある。
修習期間は給費が出るが、さほど多いものではない。
もっとも二人の場合、一緒に暮らすのでかなりその点では楽が出来るのだが。
すっかり片付いた下手を見て、直史はため息をつく。
時期ハズレの引越しであるので、物件は希望通りのところは見つからなかった。
逆に引越しの方は、時期ハズレのため業者の無理がきいたのだが。
「東京もこれで終わりかあ」
「でも最高裁は東京にあるし、出版社も東京だろ?」
「そうだけど、なんだか終わったなって感じがする」
瑞希はそう言うが、これからまた移動して、明日には新居で荷物を受け取らないといけない。
二人は手をつないで、部屋を出る。
これが終わりで、ここからが始まり。
二人の人生はここから、波乱に満ちたものになる。
だがエースはまだ、自分の未来を知らない。
第四部B 大学編 了
予告
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「頼む!」
それは、珍しい情景であった。
直史という人間は、礼儀で頭を下げたり、習慣として頭を下げることはあっても、なかなか本気の頼みなどでは頭を下げない。
彼は常に、両方が平等であることを、重んじて行動するからだ。
だがそれこそが、この問題を直史が大きな、そして自分ではどうにもならないことだと悟っているということの証明だ。
大介はしばし考える。
考えたが、とりあえずは言っておくべきだろう。
「分かった。俺にとっても他人事じゃないし、それは全部任せてもらっていい」
顔を上げた直史の表情は、やはりやつれている。だが、その寸前までに比べると、はるかに希望に満ちたものだった。
こいつでもこういう顔をするのだ。
そしておそらく、自分もこんな顔をあの時はしていたのかな、と大介は思う。
直史の状況は、さらにもっとひどいというか、切実なものだが。
人はいずれ死ぬ。
だが死ぬのには、ある程度の順番があるはずだ。あっていいはずだ。
子供の命が、自分より早く失われることを、許容するのは親ではない。
大介は直史を助けることを、少しも迷わなかった。
迷ったのは、その後をどうすることだ。
完全に自分がやってもいいのだが、それを直史は納得するのか。
直史は利害関係を、ちゃんと考える人間だ。
「その代わり、俺も頼みがある」
自分と直史が、対等であるために。
「プロに来てくれ。五年でいい。それが俺の頼みだ」
大介としてもそれは、ずっと胸の中にあった、くすぶり続けていたことなのだ。
「俺と戦ってくれ」
~~~
『第一巡希望選択選手 大京 佐藤直史投手 佐倉法律事務所』
その瞬間の、会場内のざわめきはすごいものであった。
「なんでだ!? 佐藤はもう野球は辞めたはずだろ!?」
「いや、地元のクラブチームに入ってはいたはずだけど……」
「まだ投げられるのか!?」
自分が仕掛け人の一人とはいえ、またとんでもない騒ぎだな、と鉄也はどこか他人事であった。
息子を通じて話されたので、この件は本当にほとんどの人間が知らない。
球団内部の人間でさえ、そう同じスカウトさえも知らないのだ。
知っているのはスカウト部長、編成部長、GMに自分の、ほんの四人だけ。
それを一位指名する理由はあるのか、もっと下位でも取れるのではとは、何度も議論された。
だがどこからか洩れて、二位でも指名されたら、そちらに持っていかれるのは間違いない。
大金がいるのだ。
ならば一年待つなどという、悠長な考えは通らない。
一線級の舞台からは、もうずいぶんと退いている。
だが弟である武史以外にも、白富東の出身選手などが、オフの間にはかなりバッピとして世話になっているのは確かだった。
そしてその能力は、少なくともバッピとしてならば、ほとんど落ちていないだろうと、去年の段階では言われていた。
「佐藤のコメントを求めろ!」
「佐藤は今どこにいるんだ!?」
「法律事務所ってどういうことだ!?」
「いやそれより、レックスはどういうつもりなんだ!?」
プロ野球ドラフト史上、最強の隠し球。
かつてのエースがその限界までの球を、まだ投げることが出来るのか。
それはまだ、誰も知らないことである。
×××
え? 直史がプロに入る理由は一つもないって言ってたやんって?
あの時の直史にはなかっただけで、未来にも発生しないなんて一言も言ってないはずやで。
次回 第五部A 東編(仮) 開始します。
投下は数日後かな? そう言って翌日投下もよくしてるけど。
エースはまだ自分の限界を知らない[第四部B 大学編] 草野猫彦 @ringniring
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