第248話 やってしまった男

 愛する弟の初先発について、全くテレビで見ることもなく、近づく司法試験の勉強をしていた直史。

 彼が弟の大記録達成の報に接したのは、試合の翌日のことである。

 朝七時のニュースを見るのは、瑞希との話し合いで決まっていること。

 そこに武史が一番に出てくれば、ああ、もう先発したのか、という程度に開幕戦を感じていると、空前絶後の大記録を達成したそうな。

 なんで直接の連絡ではなく、こんなニュースで知るのかには理由がある。


「なんだかまた周りが騒がしくなりそうだな」

 直史がそう慨嘆する間に、ニュースを見ていた瑞希は、だーと口の端から牛乳をこぼしていた。

「な、なんで私は、そんな歴史的な試合を、生放送で見ずに!」

 珍しく力を込めて後悔している瑞希に対して、直史も珍しく呆れる。

 瑞希はどこか、同時代の出来事を記録することに、楽しみを見出している。

 別にそれを否定するつもりはないが、優先順位はつけなければいけないだろう。

「せめて司法試験が終わってからなあ」

「ぬぐぐ」

 珍しくて可愛いな、と直史は色ボケ脳で考えたものである。




 勉強の邪魔になるため、普段はSNSなどを遠ざけ、緊急用のメール以外は見ないようにしているが、武史からテレビに出るとの連絡が入った。

 今日も試合のはずだよな、と思いつつ直史は、先発だから大丈夫なのか、とプロのローテを思い出す。

 昼のバラエティと、夜のニュース番組。

 そんなにすぐに準備が出来るのかとも思うが、それより先に球団の記者会見が行われ、その様子もニュースで流れたりした。

「そこまでたいしたことか」

「まあ歴史的に見れば空前絶後のことだけど、もっとすごいことが出来そうな人はいるし」

「へえ、誰?」

「……」

「俺か?」

「他にいないでしょう?」

「まあ相手がプロで、相棒が樋口なら、確かに似たようなことは出来るかもしれないけど、壮行試合はしょせん壮行試合。プロのシーズン戦とは違うだろ。それにもう、あの時に比べるとかなり鈍ってる」

 直史の認識はだいたい正しい。

 だが大介は確実に、本気で直史との勝負にきていた。


 そもそも新人に開幕戦を任せるというのが、異例の大抜擢だったのだ。

 初先発でパーフェクトというのは、樋口かそれより少し下レベルのキャッチャーでも、出来なくはないと思う。

 だがノーヒットノーランもパーフェクトも、偶然が絡んでくるものだ。

 確かに大学四年の卒業時に、ちゃんと仕上げた上でプロ入りしたら、出来なくはないだろうと、能力的には思う。

 ただルーキーを開幕では使わないし、いきなり先発というのも考えにくい。

 様々な要因が重なり、運と偶然があった上で、さらに実力までないとありえない結果。

 ただその唯一の機会を、武史はつかんだわけである。


 連絡を解禁した直史は、武史ではなく樋口に連絡を入れた。

 どうせ武史は自分がやったことを理解していないだろうから、客観的にも主観的にも見える、樋口の意見を聞きたかったのだ。

 一方の瑞希は完全に主観の、武史の話を聞くこととする。

 瑞希は理性的であるが、無味乾燥な人間ではない。

 武史が調子よく話すのを聞いて、それを上手くまとめるだろう。

 そこから今度は恵美理に電話をして、話を聞いた。

 この二人はなんとなく、将来は義理の姉妹になるのだという、未来予想図が共有されている。

 なので観客として見ていた試合を、上手く聞き出すことが出来た。

 ただし恵美理は完全に、今は盲目的に武史との愛を育んでいるらしいが。


 自分たちもああだったのだろうか。

 瑞希は自分と直史の高校時代のことを思い出そうとするが、大学に入ってからの方が幸せだったかな、と思わないでもない。

 何より高校時代は、家が遠いために積極的に会うことは難しかった。

 大学以上に高校という教育機関は、学生をその領域に縛り付けるものである。

 両方を卒業して、ようやくそれに気がついてくる。




 勉強の時間をちゃんと確保しながらも、二人は武史の出る番組を見た。

 なんと言うべきか、簡単に言うと自分のやったことを、全く理解していないようなスタンスで会話をしていた。

 それが全く嫌味に感じられないのだから、恐ろしいぐらいに上手く世の中を渡っている。

 直史は武史のことを、ふわふわしていると評したことがあるが、それはつまり足元に穴を掘ってあっても、平気で飛び越えられるということなのかもしれない。


 同時代性という言葉がある。

 後からどうこうと言うのではなく、リアルタイムで体験して、初めて感じられるものだ。

 瑞希が重視したのはそれで、武史が既に偉業を達成したことを知っていては、試合の録画を見ても意味がない。

 なのでせめてテレビでの話は、リアルタイムで見たいと思ったのだ。


 直史としてはどうでもいいのだが、こういうことは付き合いがある。

 瑞希の質問にすぐ答えられるためにも、一緒に番組を見ていたものだ。

 ただそれでも、試合のハイライトを見ていれば、感想を言うことは出来る。

「フォアボール二つにエラー二つ。外野フライはほとんどない、か……」

 外野フライになるような場合は、全て空振りさせている。

 終盤に奪三振は増えていて、チャンスらしいチャンスがない。

 2-0というスコア以上に、完勝していたとは言えるだろう。

 ただ直史が思ったより、よほどエラーの数が多い。直史が守備の上手い選手として認識していた緒方が、お手玉をしている。


 伸びる球と落ちる球を、樋口が上手く使わせたんだな、と直史は理解する。

 ナックルカーブやチェンジアップの、大きく変化する球を使う。

 それと組み合わせるストレートの種類で、空振りを取っていったわけだ。

 最後の一人を送球で殺したあたり、完全に樋口の掌の上である。

 だがおそらくこのノーヒットノーランで、武史の給料が上がることは決まっただろう。


 金銭的な収入は、人間の情緒を安定させ、なんだかんだ言って幸福な人生の基盤になりうる。

 今季のオフには早々に結婚を考えているというのだから、早い時期から成績を残していくのにこしたことはない。

「樋口がいる限りは、レックスにいるのが一番だろうな……」

 戦略的にチームを作り上げるという点では、ジンの方が優れていると思う。あれはもう既に、指導者としての立場を高校時代から考えていた。

 ただ樋口もしないだけで、出来るとは思っている。春日山時代は練習のメニューなどはほとんど決めていたらしい。

 レックスの木山監督は、樋口と武史の競合指名を二年連続で獲得できたこともあり、運もある。

 この数年のセの傾向を見ていると、競合指名した選手が、見事に活躍している。

 パにしても高卒の育成力に定評があるジャガースが強く、同じく育成力に定評のある福岡は、指名自体の一本釣りが多く、競合指名を勝ち取ったのは、実城まで遡ることになる。

 そしてその実城は、一軍には定着しているものの、一年間を通じて確実な成績はまだ残していない。


 直史としては実城のここまで苦戦は、正直意外なことであった。

 あまりプロの育成環境には詳しくないが、福岡は育成上がりとの競争も激しすぎて、その初年度のシーズンで上手くチャンスを活かすことが出来なかったのか。

 そもそもプロでの成功というのは、どういうものなのか。

 少し調べたことがある直史だが、およそ3000万の年俸でプロ野球選手としてはまとも、そして年俸が一度は二億を突破していないと、現役時代の成績だけで残りの人生を送るのは難しいとか。

 アメリカのプロスポーツ界ほど露骨ではないが、日本でもプロスポーツの選手は、現役時代の収入をなんとか維持できないと、一気に破産する者はいる。

 別にスポーツ選手でなくても、日本人は老後に備えて2000万は貯金が必要と言われるではないか。




 今の世の中、いや今はまだマシなのだろうが、なかなか一生を安定して過ごすことなどは出来ない。

 直史にしても弁護士という、他の司法系の資格を全て行える法曹資格を選んだわけだが、根本的に健康を害してしまえば、そんな無敵の資格も意味をなさなくなる。

 医師免許にしても特に若い時点では激務であるので、出世コースからは外れる者が多いとか。

 何より医者であると、他人の死や人生に深く関わるため、より辛い仕事になることは想像できる。


 とりあえず、武史の出演した番組は終わった。

 本人はあまり分かっていないだろうが、ずっと笑顔ではいたので、よいことなのだとは思う。

 だが最初にすごいことをやってしまうと、期待値が上がりまくってしまう。

 そういうプレッシャーには無反応なはずの武史なので、それなりの成績を残してくれそうではある。


 ちなみに武史も星と同じように、教員免許を持っている。

 何かあったときのために、資格や免許は取っておいた方がいいとは言っていたが、これだけの経歴があればどこかの高校の野球部で指導者になれるだろう。

 もっとも直史は、武史に指導の才能があるとは、これっぽっちも思っていないが。

 大介も天才肌だが、武史はそれ以上に、他人に教えるのには向いていない。


 とりあえぞ武史のデビュー戦はこれ以上にない大成功だったわけだ。

 ただ直史の本番である司法試験は、もう一ヶ月と少し先に迫っている。

 予備校での授業はまだあるが、一応大学院は既に卒業している。

 万が一にも試験に失敗したら、瑞希の父の知り合いの、弁護士のところでアルバイト代わりの手伝いをすることになっている。

 ここまでずっと、合格ラインをキープしているが、世の中には絶対というものはないのだ。

 ……ナオフミ=サンには絶対があるとは言ってはいけない。


 勉強の時間に、二人は戻る。

 どちらかというと瑞希の方が、集中力は途切れてしまったような気がしないでもない。

(意外と言うか……)

 瑞希は弁護士でなければ、社会科の新聞記者や雑誌記者に、性質は向いていたのかもしれない。

 ノンフィクションライターとしては、既に実績を残している。

 もっとも体力があまりないので、取材などは厳しいのかもしれないとも思う。

 二人で暮らしだしてから、体調管理はお互いに行っている。

 瑞希には直史の10分の一ぐらいの運動をさせているが、やはり頭脳労働であっても、体力は必要なのだ。




 瑞希は野球を歴史から調べているだけに、ある意味その社会的な意義などは、直史以上に知っていると言ってもいい。

 昭和の時代は長らく、小学生男子の将来なりたい職業の一位であった。

 テレビの番組でも、毎日のように野球の試合がされていて、特に関西でのライガースの影響は強かったとか。

 20世紀唯一の優勝の時は、ものすごいことになったらしい。

 大介が入った一年目の優勝もすごかったが、あれ以上であったのだとか。


 趣味やコンテンツが多様になったのと、子供の草野球が減ったあたりから、野球人気は落ちたと言われる。

 前者はある程度の説得力があるが、後者については表面的な見方である。

 リトルやシニアといった、学校の部活以外での野球の活動は続いている。

 そしてコンテンツについても、ネット配信で多くの試合が見られるようになってから、一部球団以外は増収増益となっている。


 これもまた一時期は落ちたものだが、今のプロ野球はかつての黄金時代並に、視聴率が高くなったりもしている。

 一番チケットが高いのが、スターズとライガースの試合であり、上杉が先発する試合の予定だと、まず当日券は売り切れる。

 ライガースは大介が入団してすぐに甲子園の改修を行ったが、それでも足りずにまだ改修をしようかという話が出ている。

 その中では比較的、レックスの人気はなかったのであるが、やはりスター選手が生まれると違う。


 高校時代に甲子園で活躍した選手が、プロでもまた活躍する。

 この流れが高校野球ファンをプロ野球にまで連れてくるというルートは確かにある。

 プロには全く興味がなかったファンでも、上杉の優勝を見たくて神奈川のファンになったという人間は多い。

 そしてそれは大介にも言える。

 高校時代、更新不可能な、甲子園での合計36本のホームラン。

 小さな巨人がプロでどう活躍するのか、見たかった人間も多いだろう。

 そして一部の逆張りの声を封殺して、大介もまた成功した。大成功した。


 今のプロ野球は、どの球団も興行的に、大成功している。

 選手にも年俸が出せるし、環境も整えられるし、ファンにもサービスで還元出来る。

 プロ野球もまたコンテンツ産業だけに、客をつかむこと、拡大していくこと、客から金を引き出すことを、上手く継続させていかなければいけない。

 100年に一人の逸材が、続けて入ってきた。それが今のプロ野球だ。

 そこを勘違いしたら、またスター選手の引退と共に、プロ野球人気が下がってしまうかもしれない。

 それがどれだけ大きい市場で、他の市場を支えていると言っても、プロ野球というのは虚業だ。




 ぱちぱちとキーボードを叩いていた瑞希の文章を、監修を頼まれて直史は読んでいた。

 虚業であるというのは大賛成だ。ただし人間は、無駄があるからこそ人間という生物なのだとも思う。

 生活に余裕が出来てきて、そこを楽しむようになって、人間性という言葉が生まれる。

 それは哲学かもしれないが、真実でもあるのではと思う。


 そこは納得した直史であるが、やはりちょっと今の瑞希は、興味の対象がずれてしまっている。

「お風呂上がったよ~。あ、文章どうかな?」

 そう言った瑞希を、直史は抱き上げた。

「え?」

「今日はする日にします」

 直史は断言した。


 するのは最低週一回、多くても三回までというのが、二人の同棲生活のルールである。

 どこか耐えるような表情をしながらも、直史は承諾したものだ。

 おおよそ同棲して最初の方は、その限界までをいたしていたものだ。

 だいたいその一回は週末になるのだが、ここのところは少し回数を減らしていたのだが。

「え、でももうすぐ試験でしょ」

 久しぶりの強引さに、実はちょっと期待している瑞希であるが、口から出るのは理性的な言葉だ。

「今日の瑞希は集中力が野球の方に飛んでるからな。それのお仕置きと、頭をリセットするために必要だろ」

「え、あ、う~」

「それに今週はまだ一回もしてません」

 ずんずんと直史は歩いて、寝室のベッドに瑞希をぼすんと下ろす。


 直史は基本的に、瑞希の嫌がることはしない。

 だが強引なところがないわけではない。

「それではいただきます」

「いただかれます~」

 そしてこの後、むちゃくちゃセックスした。

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