雨がくれた幻

 僕は吸い寄せられるように、何かによって導かれるようにその神社の前にたどり着いた。特にここに来ようと思ったわけではない。本当に気付いたらここまで歩いてきていた。


 まるで世界から僕を隔離するように、しんしんと雨が降っていた。




 帰りのホームルームの最中窓の外を眺める。外は暗い雲が空を覆っていて、まるで泣いているかのような雨が天から降り注いでいる。こんな日は嫌いだ。なぜだか悲しくなるし、このじめっとした空気が好きなれない。


 いつも通りの朝を迎え、いつも通りの学校生活を過ごし、いつも通りの帰路につき、いつも通りの夕飯をとり、いつも通り就寝する。きっとこれからもこんな毎日を繰り返し、いつの間にか死ぬ。今までもそう考えて生きてきたし、きっとこれからもそう考えていくのだろう。僕はこの時まではそう思ってた。


 僕は傘をさし降り続ける雨を、その空の涙を受け入れるまいと傘で弾き返しながら歩く。特に何かを考えていたわけでも、何処かに寄り道しようとしていたわけでもない。しかし、僕は気付いたらそこにいた。


 僕は自分自身に問いかけた。こんな所に神社があったかと。今まで気にもとめていなかったせいか、僕の記憶に思い当たる節はなかった。しかし、なぜかこの階段を登らなければならない気がした。


 そんな気がした僕は、一歩また一歩と何段続くか分からない石の階段を登っていく。


 登り切った先にあったものは何の変哲もない鳥居と、何の変哲もない境内だった。

 僕は雨宿りがてら、その縁側のような部分に腰をかける。初めて来たはずなのに、どこか懐かしく心が落ち着くような場所だった。


 ぴとっ


 頬に冷たい何かを感じ目を開ける。僕の視界に映った景色はさっきまでとは違いほんのりと闇を纏い始めていた。雨はまだ降っていたがさっきより優しく感じる。どうやらどれくらいの時間かは分からないが眠ってしまっていたみたいだ。


 立ち上がろうとした時にあることに気付く。

 いつから居たのか、はたまた最初から居たのかは分からないが、彼女はそこに腰をかけ本を読んでいた。


「君はいつからそこに居たの?」


 僕はそんな彼女に声をかける。寝ていたせいか驚いたせいか少し声は掠れていた。


「数十分前。私が来たときにはあなたは寝ていたわ」

「そうか。驚かせてしまって悪かった」


 彼女は僕の言葉に小さく首を横に振った。


 不思議な少女だった。何処かに消えてしまいそうな儚い雰囲気を見に纏っていて、その透き通るような白い肌がまたそれを助長していた。なぜか彼女を見たら胸の中で小さく波紋が広がったような気がした。


「それじゃあ僕は帰るね」


 彼女は小さく頷くだけで、本からは目を離さなかった。


 家につき、布団に入り僕は思い返す。あの神社にいた彼女は何なのだろう。他人に興味がない僕にとって、彼女の存在は初めてのものかもしれない。僕が誰かに対して気になるという感情を抱くのは。しかしこれは恋心なんかではなく、ただ人として何者なのか気になっただけであった。明日また神社に行き、話をしてみようと思いながら深い眠りについた。


 次の日またいつも通りの日常を送った後、いつも通りではない帰路につく。いつもは右に曲がる所を左に曲がり、いつもは曲がる道をまっすぐ進む。そうして、昨日の神社にたどり着いた僕はまた何段あるか分からない石の階段を登っていく。


 昨日と同じ場所に腰をかけ、鞄の中から本を取り出す。僕が取り出したのはお気に入りの一つで、I love you を月が綺麗ですねと訳した男の小説だ。この男の本は人生の葛藤が丁寧に描かれておりとても好きだ。

 読み始めて何時間たっただろうか、あたりは既に夜が街を覆い始めていた。そろそろ夕飯の時間だし、本にしおりを挟んで腰を上げる。頭上には綺麗な月が上がっていた。

 

 それから一週間毎日学校の終わりに足繁く神社に通ってみたが、再び彼女に会うことはなかった。いったい彼女は何だったのだろうか、本当に彼女はそこに居たのか疑問に思うようになった。


 土日を挟み、また今日から学校が始まった。今日はあいにくの雨だった。しかし、今日から梅雨入りということもあってこれからは雨が増えるのだろう。ただでさえ好きでない雨なのだ、これからこんな天気が続くと聞き、僕の心は一層憂鬱を感じていた。


 またいつも通りの日常を終え、日常の一部と化してきている神社への歩みを進める。


 また今日も会えないだろうと期待することはなく、またあの石階段を登る。しかし、不思議なことに今日は階段が短く感じる。そうして、階段を登り切った先に彼女はいた。


 今僕たちの間にあるのは傘が雨を弾く音と、彼女が本をめぐる音だけだ。


「隣、座ってもいいかな?」

「どうぞ」


 彼女はそう短く答えると少しだけ横にずれる。僕は彼女が温めたその場所に腰をかけ、同じように本を開く。彼女は少しだけ驚いたようにこちらを見た後、また自分の本に視線を戻した。


 静かにそれでいてゆっくりと心地よい時間が流れている気がした。


「あなたはどうしてここに?」


 初めて彼女から声をかけてきた。


「なんとなくだよ。気がついたらここにいた」

「そう。私も同じよ。気付いたらここに足を運んでいるの」


 そこからはたまに他愛もない話をするだけで、お互いの世界に没入した。


「じゃあ僕はそろそろ帰るよ」


 いつの間にかもう19時を回っている。


「私も帰るわ」


 2人でなんとも言えない微妙な距離感を保ちながら長いはずの階段を降りていく。


「僕はこっちだから」


 彼女は小さく頷き僕とは逆の方向へと足を進める。きっとまた会えるだろうという謎の確信と、その再会を心の中で望む不思議な感覚に見舞われた。


 次の日も雨だった。予報通りで予想通りの雨だ。まだ学校にすら登校していないのに、すでに放課後彼女に会うのが少し楽しみな僕がいる。別段彼女とは何を話すでもなくただ互いに各々の本を読むだけ。でもそんな時間すら僕はとても気に入っていて、このままずっと続けば良いとまで思っている。


「こんにちは」


 僕は既に本を読んでいた彼女に声をかける。いつものように儚げな空気を纏いながらその深い色の目で本を読む彼女に。


「こんにちは」


 彼女も言葉少なげに挨拶をしてきた。僕の中の何かが少し飛び跳ねた。


「最近ずっと雨だね」

「?そうですね」

「雨は好き?」

「...嫌いではないですけど、好きというわけでもありません」


 初めて彼女とまともな会話をした。これがまともなのかどうなのかは客観的にみたら疑問だが、学校でも友達もいなければ日々の中で会話する相手が親と先生くらいしかいない僕にとってはまともと言い切れるだろう。

 しかし、なぜか今日話さなければいけない気がした。


「あなたは好きという気持ちを知ってる?」


 その突然の問いかけに僕は顔を本から上げざるおえなかった。


「...え?」

「あなたは好きという気持ちを知ってる?」

「知識としては知っているけれど、好きがどういった時に感じ脳で自覚するまでに至るかは知らない」

「そう。私もたくさんの物語に触れてきて言葉としては知っているけれど、それがどういったものなのかは知らないの。もしあなたが知っていたなら教えて欲しかった」

「人を好きっていう気持ちはとても曖昧で、ふとした瞬間に愛しく感じたりすることもそうだし、今まで近くにいたのに離れてからずっと何かが足りないような気持ちになることも好きという事だと僕は思う」

「面白い考えね。会えなくなってから気付く好きって辛くないのかしら」

「どうだろうね」


 そこからはまたお互いの世界に戻り、世界が闇に覆われ始めるまで本を読んだ。


「雨止みませんね」


 彼女が帰り際にそう言った。いつも雨が降っている中傘をさして帰っているのに、この日だけは彼女がそう投げかけてきた。


「そうだね。でも、もう暗いし帰ろうか」


 そう僕が言葉を返した時、彼女は少し寂しそうに顔を俯かせながら歩き始めた。

 

 その日が最後の梅雨の日だった。




 あの日から僕が高校在学のうちに彼女に会うことはもう無かった。




 卒業式の日に僕はあの神社に足を運んだ。あれから何度この神社に来ようと彼女に再び会うことはなかった。晴れていようと雨が降っていようと、雪が降っていようと何度もここへ来たが彼女の姿はなかった。


「今まで近くにいたのに離れてからずっと何かが足りないような気持ちになることも好きという事だと僕は思う」


 僕が言ったこの言葉は、僕自身の一つの妄想だと思っていたが実は正しい考えだったらしい。僕は彼女のことが好きだった。会えなくなってからずっと心のどこかが冷え切ったように寒くなり、彼女という暖を求めていた。


 今思えば彼女に会う時はいつも雨の日だった。本当に彼女は存在していたのだろうか。それすら疑問に感じてしまっていた僕がいた。彼女は雨が僕に見せた幻だったのではないかと考えてしまう。しかし、きっとそれは違う。彼女は確かにここにいた。確信できる証拠は何一つないが、僕は僕の心が、彼女というスペースを失った心がそう叫んでいるのを受け入れた。  


 明日から大学生として僕はそんな痛みを好きという気持ちだと知り、この痛みを胸に抱きながら上京する。最後にもう一度彼女に会いたいと思う気持ちは届かなかった。




「ただいま」

「おかえり!久しぶりね〜!久しぶりで悪いんだけど、ちょっとお醤油買ってきてくれないかしら?」

「2年ぶりに見た息子への最初の言葉は買い出しのお願いかよ」

「良いじゃない、お願い」

「分かったよ」

「あ、雨降るみたいだから傘持っていきなさい」


 大学二年の七月、親戚の結婚式があるからそれに呼ばれて僕は上京してから初めて地元に帰ってきた。大学生活は想像していたほど華やかなものではないが、初めて友人らしい友人もできてある程度充実したものになっていた。サークルは文学サークルなるものに入ったが、その実態は週に一度集まって各々本を読み、面白かったものがあったらサークル内で共有するというものだ。


「まったく人遣いが荒いな」


 そうひとりごちながら買い物を終え帰路に着く。梅雨真っ只中ということもあり、母の言う通り雨が降ってきた。


 そんな帰り道、僕は吸い寄せられるように、何かによって導かれるようにその神社の前にたどり着いた。特にここに来ようと思ったわけではない。本当に気付いたらここまで歩いてきていた。


 この神社も懐かしい。未だに胸の痛みは消えない。


「(久しぶりに登ってみるか)」


 特に何かを期待していたわけではないが、折角だからという理由だけで僕は石段を登った。そしてそれを登り切った時、僕の頬に一筋の雫がこぼれ落ちた。


「久しぶりですね」


 そう僕の耳に届いた言葉はどこか暖かく感じた。その言葉は心に空いた隙間にぴったりとハマり、僕の体をじんわりと暖めていった。


「久しぶり。本当に久しぶりだね」


 彼女は読んでいる途中だった本を閉じ、僕に隣に座るよう促した。


「私、引っ越したの」


 そう切り出した彼女の言葉に僕は耳を傾ける。


「あの最後に会った次の日から隣の県に。でも高校卒業後、この町で就職するのにまた戻ってきたの」

「そうだったんだ。僕は今都内で大学に通ってるよ。卒業したら僕もまたこの街に戻ってくるつもり」


 言葉少なくお互いの現状を話した。やっぱり僕の、彼女は幻なんかじゃないという考え、いや願いにも近しいものは本当だった。この気持ちを伝えるとしたら今しかないと思った。


「「あの」」


 二人の言葉が重なった。


「僕から良いかい?」

「どうぞ」


 心臓が高鳴る。こんなにも緊張するのは生まれて初めてかもしれない。そんな暴れる心臓をどうにか押さえつけ僕は口を開く。


「あの時君は僕に好きとは何か聞いたよね。今その答えがはっきり分かったよ。好きというのは、僕が君を想う気持ちそのものだった。君が僕の前から姿を消してから僕の心には虚空のようなスペースが空いてしまった。それが今日君を見た時にしっかりと埋まったんだ。僕は君が好きなんだとはっきりと自覚した」


 今まで自分自身でも気づかなかった思いを彼女に伝えた。


「私も今日好きがなんなのか分かった。最後に会った日、なぜか帰りたくないと思ったの。あの時はなんでこんな事を思うのか全く分からなかったけど、今は分かる。あなたの事が好きだったから、帰りたくなかったの。もう会えないかもしれないから。それが今日この雨がつないでくれたとしか思えない奇跡でもう一度あなたに会う事ができた。あなたを見た瞬間溢れ出したこの気持ちが好きなんだと実感したの」

 

 彼女はいつもの儚さとは違う力強さを見せながらそう僕の目を真っ直ぐ見て話した。


「僕と付き合ってくれますか?いや、月が綺麗ですね」


 そう雨で何も見えない空を見つめ、流れている涙を誤魔化しながら彼女に投げかける。


「死んでも良いわ」


 その典型的なやり取りの中に、言葉だけではない想いをぶつけ合いながら僕らは微笑みあった。

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止まない恋時雨 灰色の姫 @haiironohime

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