凍結宇宙は変化を許容しない

██

   

「あっ」

時間の関節が外れた。

視界は前方から訪れる強烈な光で覆われた。いや、光がやってくるというよりは、今まで身の回りにあった光が私のはるか後方へと流れ去ったのだ。世界は一瞬にして闇に飲まれた。

実験は成功だ。私はとうとう並行する凍結宇宙を見つけ出し、見事アクセスし遂げたのだ。

しかしこの実験の成功を見届けるものも、報告するものもどこにもいない。なぜなら私の研究室は度重なるパワハラとセクハラとモラハラで、つい3時間前に在籍者が私だけになったからだ。私の苛烈で独創的な研究には誰もついてこられなかった。これは正真正銘(私という)天才だけが見られる景色だ。なんて素晴らしい!無!

無!無!無!

さっきから何も見えない、何も聞こえない。当然だ。私の見立てでは私の体は、一切の変化がない凍結宇宙においては存在できないものだからだ。もはやどのタイミングからかはわからないが私は体すら持たないだろう。あるいはもし体が存在できたとしても、もはや今まで通りに五感を機能させることは出来ないだろう。少なくともこの宇宙に変化はなく、五感は知覚すべき変化を持たないから、何も知覚できないはずだからだ。

ただまあ、大方私が飛び出したのは真空の宇宙だ。体がこちらの宇宙に来ていたとして、そいつはぺしゃんこに潰れたのではないだろうか。

ではどうやって?

どうやってこのモノローグが成り立つというのだろうか。この省察が、体も脳髄もなしに成り立つとは一体どういうことだろうか。一般に意識というのは脳髄のブラックボックスの中に存在すると思われている。もしそうであれば、脳髄なしに考えたり独白したりは出来ないはずだ。

しかし私は凍結宇宙で独白している。こはいかに。

魂だろうか?


僕の名前はプロメテウス。故郷から大切な灯火を持ち出したかどで厳罰に処されている。

具体的には、重い石を運ぶために坂を上り下りし続けるという罰を受けている。この刑罰は無限に続く。なぜなら運び上げた石は必ず、坂のてっぺんから転げ落ちるからだ。原理は不明だ。しかし考えても意味はない。僕の故郷にはかぶると姿が見えなくなる兜とか、履くと空を飛べるサンダルとか、考えたって仕方ないようなトンデモオブジェクトがたくさんあるからだ。これもそのうちのひとつなのだろう。

僕はほぼ3年間この仕事を続けている。仕事と言うにはあまりにも疎外されすぎているが、3年間やり通したこの仕事を刑罰と呼ぶのも妙な感じがする。刑罰というのは人から与えられるものだ。受動態のニュアンスがつきまとう。しかし、3年間も石を運び通したとすればどうだろうか、これは受動態だろうか。中動態といったところか。受動と呼ぶにはあまりに能動的すぎる行為だ。

ところで僕がいかにしてこのような苦役を3年も続けられたと思う?

数を数えたのだ。階段を登るたびに一つずつ数える。そうすると必ず後半には瞑想状態になって、苦痛や退屈を感じなくなる。いかんせんこの階段は高いのだ。数えているうちに数えるという行為そのものがゲシュタルト崩壊し、自意識の流れが脱臼して、体と脳が手持ちの習慣で数唱を自動化する。僕はただその瞑想状態に身を任せすれば良い。

しかし今日、そのような習慣に終わりが訪れる。

僕は一つ階段を踏み外し、逆の足で踏み直して持ちこたえた。体のバランスは崩さなかったが、数唱のバランスと身体運動のバランスは崩れてしまう。1つ数えるべきところで2つ数えてしまう。数えてしまいそうになる。その刹那、体の動きが恐ろしく遅くなるのを感じた。3つ、4つ、5つ、6つ……。数唱は止まらない。数だけがどんどん進む、しかしいつまで経っても逆の足が踏み終わらない。階段の一歩が終わりにならない。120,121,122……。まずい。335,336,337……。時間の関節が外れたみたいだ。449,500,501……。これが世にいうゼノンの無限か。999,999.1,999.11……。瞑想は東の国で「悟り」を開くために行われる儀式で頻繁に再現される精神状態らしい。9999.1,9999.11,9999.111……。これが「悟り」なのか?

何も感じない。何も感じない。

無。

無。無。無。


魂などという非科学的な抽象物体を私が信じていると?バカバカしい。

通常科学や常識が信頼するナチュラルでナイーブな態度はこの際放棄すべきだ。もっと根源から考えよう。私は今まさに極限と対面している。

私がモノローグを吐くのは、まずなによりも時間のうちにおいてだ。

時間とはなにか?

時間とは変化だ。

時間とは目盛りだ。

時間とは意識だ。

ジョン・マクタガートをご存知だろうか。知らないなら読んでおくといい。

マクタガートは時間をA系列(時間は変化)、B系列(時間は目盛り)、C系列(時間は意識)に分類し、形而上学的な主張であるA系列B系列は矛盾するので「時間は存在しない」と主張した男だ。そしてまた時間が存在するなら、形而上学的に存在するのではなく、意識として存在する(C系列)のだと。

マクタガートの具体的な論証や、それに対する現代までの分析哲学における応酬は各自で調べてもらおう。この際いちばん重要なのは、この極限状態を説明するモデルを仮設することだ。細々した論証や証拠立て、時間論との応酬は後でまとめればいい。

私は今まさに凍結宇宙にいる。

凍結宇宙は時間論のA系列とB系列におけるバトルラインそのものだ。

A系列において時間とは変化の数を意味する。例えば骰子サイコロの眼が1から6へと転がる。A系列論者は骰子の眼が1である状態と骰子の眼が6である状態の間の変化が時間の本質であり、この変化の数こそ時間にほかならないという。代表的な論者はライプニッツだ。

対するB系列では時間とは物事の変化をカウントする目盛りだ。B系列において時間はソリッドで、それ自体伸び縮みしない容れ物のようなものとして考えられる。B系列論者は、例えば骰子の眼が1から6に転がるとき、時間はすでにあって、目盛りの中に骰子の眼が1である事実と骰子の眼が6である事実が順序付けられ、並べられるのだと主張する。代表的な論者はニュートンだ。

凍結宇宙は一切の変化がない宇宙だ。宇宙のあらゆるオブジェクトが凍結・停止している。

このような凍結宇宙にあって、「凍結宇宙で3年が経過した」という命題はA系列においては無意味となる。A系列では変化こそ時間であるから、変化の存在しない凍結宇宙に3年という時間を考えることはそもそも出来ないからだ。

ここがB系列論者にとってA系列を批判しうるポイントの一つになる。

自然に考えれば「凍結宇宙で3年が経過した」という命題は想像しうるし、意味も通用する。しかしこの命題に言及するとき我々が想像しているのは、まさにB系列のいう容れ物としての時間なのではないか。これが、B系列がA系列論者に優位を主張できる凍結宇宙の思考実験である。

さて私は今まさに凍結宇宙におり、しかもどういうわけかモノローグが継続している。

魂のような超越的実体を想定しない限り、私は物理的身体なしに、物質とは無縁に意識そのものそのままで世界や記憶と相関できるということらしい。これが意味しているのは、私にとって変化を支えている、時間を支えている根本的なものは物質・物体ではないということ。すなわち、物質・物体的もっといえば形而上学的な仕方では決して時間は存在しないということだ。であればますますマクタガートは正しい。

時間は存在しない、ただ意識としてしか。

そうだC系列こそが真の時間なのだ。そしてA系列もB系列も意識に基づいて、超越論的に、構成されるものであるに過ぎない。そうに違いない!真理だ!それも直に、私は真理に直に触れているっ!

しかしどうして私は、ココが凍結宇宙だと確信しているのだろうか。

たしかに私は無に直面する直前、凍結宇宙にアクセスするための実験をやっていたし、それによって凍結宇宙へとアクセスすることは期待できた。私は直前の出来事から期待すべき出来事を期待しているのだから、そこに落ち度はない。まったくもって自然な意識で当然の権利だ。

しかし、なかなかどうしてここは凍結宇宙、対面するは無。向こうから与えられるものがなにもないならば、私の推測が内容を充実させることもないのではないか?推測の内容がemptyのままでは推測が確信されることも、推測が裏切られることもないのではないか?

私は無に直面している。無は一切の推測を肯定することも否定することもしない。しかし私は存在する。私は推測する。無限に情報が発散する。私は死んでいるかもしれない。私は昏睡状態かもしれない。私はただ一瞬つむった目に無数の出来事を想起したのかもしれない。私は存在しないかもしれない。私は全てであるかもしれない。世界は無か。世界は全てか。

真理はどこだ。時間は。宇宙は。私はどこだ。

どこだ。

どこだ。どこだどこだ。どこだ。

あっ

声は響かなかった。なにかが見えたりもしなかった。しかし誰かがたしかにここにいる。

いや、ここに来た。


無だ。

どうしてだろう。僕は些細な罪から受けた罰のために、罰を忘れる瞑想のために、ただ偶然によってなのか、神の導きか、全く予期せぬ仕方で「悟り」を開いたらしい。

しかしどうにもこうにも、何が何やらわからない。

声も光も帰ってこない。

反芻するのは思考だけだ。

困ったことだ。よもや自意識のくびき・苦役・退屈から逃れようと極めた瞑想のために、むしろ自意識が恐ろしいほどに研ぎ澄まされて帰ってくるとは。

しかしどうにもこうにも仕方がない。

ここまで来たら、自意識の反芻を超えてさらなる瞑想を極め、一切の退屈と苦悩から逃れ去るだけだ。

大丈夫、僕は3年間瞑想を極めて悟った男だ。


たしかに誰かがここに来た。「来た」?

ここは凍結宇宙ではなかったのか?

「来た」というのは変化だ。凍結宇宙は変化を許容しない。

であれば、誰かが「来た」が真なら、ここは凍結宇宙ではない?

信じられない。私は確かに凍結宇宙を目指してアクセスしたはずだ。

では何か。私が長年追い続けて経路を開いた並行宇宙はそもそも凍結宇宙とは別のなにかだったというのか。

ここが死後の世界とか、私の知らない概念で出来たトンデモ世界じゃない限り、おそらくその可能性が一番高い。

ああ。ああ、ああ、ああ。

なんてことだ。凍結宇宙でもなんでもない、なにもない宇宙に来たというのか。

こんなつまらない、腹立たしい、なさけない、悲しい、絶望的なことがあってよいのだろうか。

私は思い出す。

記憶の限りの教会を、神殿を、神社を。人々が崇拝した神・仏・悪魔。

私が横目にみつつ忘れた、人々の数々の祈りを、あらゆる因果性、局所性、論理性を無視した変化への祈りを。

ああ神よ。絶対者よ。

それがもしもいまだ存在しないとしても、それが存在するように自己産出する神が、あらゆる願いを聞き届けることを願って。

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