マトリョーシカ

本田余暇

マトリョーシカ

 父親からマトリョーシカを貰った。

 中国、吉林省に1年間の単身赴任をしていた父は、普段から岩のように言葉少なであったが、久しぶりの自宅にもかかわらずその日もやはり僕とは一言二言しか喋らなかった。愛されていなかったとか、虐げられていたわけでは決してなかったのだけれど、飛び回ってばかりで家の事を何もしないことに対して、またそれに対する世間の風潮に対して父は気後れしていたのかもしれない。

 プリントがずれた青い瞳に妙にずんぐりむっくりした体形。ずいと押し付けられたそれを見た僕の口からはあまりに正直すぎる感想が漏れてしまった。その言葉がもたらす空気や影響を考える暇もないほど、自然に、そして無垢に。

「え、要らない」


 中学生の僕は隣の席の田島と仲が良かった。趣味が特別合うとかそういうわけではないのだけれど、話のタネが尽きることはなかった。

 話すようになったきっかけは覚えていないが、隣の席であったのだからそのような機会は無限にあっただろう。そんなことを一々覚えていては切りがない。思い出すことによって記憶の容量を占有してしまうなら損にもなろう。

 田島はバスケ部に所属していたが、特にヒエラルキーの上位に位置するというわけではなかった。彼の急角度の、浮世絵のような細い釣り目がそれを阻んだのかもしれない。

「加地は宿題やったか?」

「今やってるよ」

「だよな。見れば分かる」

 田島は自分の席から椅子を引き寄せ、僕の机でプリントを解き始めた。僕が前から始めていたので田島は後ろから。そうして後でお互いに答えを写すのだ。

 10分くらい経ってから、僕は田島が取り組んでいる問題まで差し掛かったので鉛筆を置いた。暇になった僕は鞄からマトリョーシカを取り出して、カパカパと手遊びをし始めた。一番外側の人形の上半身が取れる度に、内側に入っている一回り小さな人形の顔がちらちらと見える。楽しいとかそういう感情は全くもって湧き起らなかったけど、マトリョーシカの少し色あせた首の部分がカパカパした回数を物語っていた。

 田島は最後の問題を解き終わると、両手を組みながら上方に掲げて伸びをした。

「問21は少し難しかったな」田島が肩を回しながら言った。

「じゃあ、僕は写さないでおくよ」

「ああ。加地が解いてたら不自然だろう」

僕たちはお互いの回答を見ながらそれを自分のプリントに写していった。

「そういえばさ、俺ギター買ったんだよな」

 田島が話し始めた。

「中古なんだけど、中学生なら一度は憧れるよな。楽器に」

「いいじゃん。僕も何か始めてみようかな」

「お、一緒にバンドやるか?」

「え、恥ずかしいよ」僕は即答した。

「そうか」

 家に帰ってから僕は扉を抑えていた邪魔な岩をどかし、家の2階にある物置に入った。埃を被っていたが、黒色のベースはすぐに見つかった。僕は物置の中で胡坐をかき、ベースを抱え、弦をはじいてみる。べべべんと間抜けな音が狭い押し入れに反響した。

 僕は内緒で練習を始めた。上手くなってから披露して、田島を驚かせようと思って。それからドラムとボーカルを集めてバンドを組むのだ。或いは田島は歌が上手いのかもしれない。だけど田島がボーカルだと華がないかな、とか考えていた。

 田島はバスケ部の連中とバンドを組んだ。意外にも普段のぼそぼそとした声とは似つかないほど田島の歌声は力強く、体育館を震わせた。僕の少し分厚くなっていた左手の指の皮は、すぐに元の柔らかさに戻った。

 僕はカパとマトリョーシカを開け、空白の多くなった数学のプリントを丸めてその中に放り込んだ。


 僕と田島が植えた会話のタネの発芽を妨げた驚異的な大寒波は世界中を覆い、この世の終わりを予感させた。僕は大きくなったマトリョーシカに電気ドリルで穴を開け、ベルトを通し、肩に担げるようにした。

 僕はマフラーを首に巻き付け、マトリョーシカを担ぎ、高校へ向かった。通学中ずっと俯いていたのは吹雪のせいだけではなかった。僕は高校に行きたくなかった。あまり頭の良くない人が集まる地元の公立高校は、まるで弱肉強食を校訓として掲げているような場所であった。

 明確ではないけれども序列のようなものが存在し、上の命令には絶対服従。悪魔のような人間がその頂点に君臨していて、暴力のようなものでかろうじて秩序は保たれているようであった。

それでも僕が毎日学校に通っていたのは一つの理由があった。

 僕よりも序列の低い唯一の生徒、荒木。辺境の男子校に咲いた一輪の花。ピンク色のショートカットにくりくりとした大きな目。守ってあげないとすぐに壊れてしまいそうな、華奢な体躯。

僕は彼女とよく話が合った。

「これってさ、つまりこういうことだよね」

僕が話し始める。

「そうよ。分かるわ」

 彼女が首をパカパカさせながら勢いよく相槌を打つ。

 保健室登校をしていた荒木は僕のM-1グランプリさながらの高度に洗練された会話にも難なくついてきてくれた。

 荒木を守りたいという想いは僕に力をくれた。学校の不良がカツアゲをしようと僕たちに近づいてきたときも、一睨みするとすごすごと退いて行った。

 僕と荒木の間にあのような不埒な輩を割り込ませてなるものか。僕は校舎裏で荒木を抱き寄せた。

 もしかしたら誰か見ていたかもしれないけど、周りの目なんてちっとも気にならなかった。僕と荒木は熱い接吻を交わした。初めてのキスはアルミニウムの味がした。僕は紅潮した顔を隠すように、マトリョーシカの胴体部分を頭にかぶった。

 僕たちは多くの時間を保健室のカーテンの中で過ごした。絵本を持ち込んで一緒に読んだりもした。裸の王様の話には一緒に爆笑したものだ。

 しかし、そんな日々も長くは続かなかった。荒木の心が僕から離れていったからだとか、あるいはその逆でもない。積雪が多くなりすぎて、物理的に学校に行けなくなってしまったのだ。荒木に一緒に住まないかと電話してみたけど、親の都合でエクアドルに行くらしい。

 ひどく落ち込んだ僕は、殆ど等身大にまで成長したマトリョーシカの顔をサンドペーパーで削って、荒木の顔をそこに描いた。実物の魅力を10分の1ほども再現できていなかったけど、その方が再会した時の感動が大きくなるだろう。色も塗らない方が味になるかもしれない。


 いよいよ積雪が酷くなって、僕は家から一歩も出ることが出来なくなってしまった。

 窓の外はいつでも真っ白で、退屈だ。南半球は今頃常夏でさぞ日差しが厳しいだろうから、この雪を飛行機で持っていってはどうか?そう思い立った僕は、すぐさま航空会社に電話し、その旨を述べた。

 すぐさま僕の意見は採用され、一斉に大量の雪を乗せた飛行機が日本中から飛び立った。僕にとっては只の暇つぶしに過ぎないこの行為も、世界にとっては大きな一歩であるだろう。僕は大きな満足感と共に、布団にくるまった。

 僕は暇つぶし程度に、電話一本で各方面に対して良い影響をもたらし続けていたけど、もう何日も外の景色を見ることができていない。僕は田島や荒木がどうしているか気になって、電話してみるけど、二人とも出ない。田島は会わなくなって久しいし、荒木は外国だから仕方ないだろう。

 あきらめた僕は受話器を置き、再び布団にくるまった。


 そんな感じの、マトリョーシカの中での今日この頃。


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マトリョーシカ 本田余暇 @honda_yoka

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