5

 小夜が寝息をたてていることを確認してから、僕はそっと布団から抜け出した。もしも咎められたらトイレだと言うつもりだったが、幸い彼女が目を覚ます様子はなかった。

 廊下に出る。春めいてきたとはいえ、まだ夜は寒い。遠くで犬の遠吠えが聞こえた。そして足の下からはまだ、ゴトン、ゴトンという音が続いている。

(頼むよ。小夜の人生まで邪魔しないでくれ)

 僕は祈るような気持ちで、階段を塞いでいる箪笥の前に立った。

 一度ひとりで動かせたのだから、もう一度同じことができるはずだ。冷たい木肌に手をあてると、僕は力を込めて箪笥を押した。力一杯押したつもりだったが、箪笥は動かなかった。やっぱりあのときは火事場の馬鹿力だったんだな、と僕は一度手を下ろし、深呼吸をした。それとも心の底では、僕も箪笥をどかすことを拒んでいるのだろうか。真実を確かめにいくことを怖れているのだろうか。

 迷いを振り払うように頭を振って、僕はもう一度箪笥に両手を添えた。そのとき、

「兄ちゃん!」

 小夜の声が、暗い廊下に響き渡った。

「何やってるの!?」

 彼女は僕を強く押すと、代わりに箪笥の前に立ちはだかった。

「一階を見に行くんだよ」

「やめて! あいつがいるんだよ!?」

 小夜はあの日から「お父さん」と言えなくなった。「あいつ」と口にした彼女の瞳には、恐怖と憎しみが渦巻いて見えた。

「おやじはもう死んでるよ」

 僕はゆっくりと語りかけながら、小夜の肩に手を置いた。「あれから一年以上、水も食べ物もないところに閉じ込められてるんだ。死んだに決まってる」

「じゃあこの音は何!? 誰かが下を歩き回ってる音は!」

「気のせいだよ。幻聴なんだ。それかなにか別の物音だ。それを確かめに行く」

 僕がそう言ったそのとき、初めて音の調子が変わった。

 ギシッ……

 祖母が生きていた頃の記憶がよみがえった。それは階段を踏みしめるときの音にそっくりだった。

「ひっ」

 小さく悲鳴をあげて、小夜が僕に抱きついてきた。僕は彼女と、自分の体が震えていることを自覚した。

 ギシッ。

 ギシッ。

 足音はゆっくりと階段を上ってくる。僕たちは箪笥を階段に押し付けるように、背中をもたれさせて立っていた。たとえこの音の正体が僕たちにだけ聞こえる幻聴だとして、もう一階を見に行く勇気は、僕には残っていなかった。

「けりをつけなきゃいけないと思ったんだ」

 また一段階段を上る音を聞きながら、言い訳をするように僕は言った。「おやじがもう死んだって、きちんと確かめたかったんだよ。死体もちゃんと処分してさ。そしたら小夜も」

 少し詰まった後、僕は「安心してこの家を出ていけるんじゃないかと思って」と続けた。

「何でも勝手に決めないで!」

 小夜は僕の胸を叩き、涙まじりの声で叫んだ。

「なんで私だけ逃げ出さなきゃいけないの? ずっとこのままだっていいじゃない。兄ちゃんと私で、ずっとこの家で暮らすことの何がいけないの」

 僕は何も言い返せなかった。小夜にこの家を出ていってほしいはずなのに、どう説得したらいいのかわからなくて、何も言葉が出てこなくなってしまった。

 階段を上る音は、踊り場の辺りで聞こえなくなった。その代わりしばらくして、またあのゴトン、ゴトンという音が、僕たちの足の真下あたりから始まった。


 僕たちは箪笥をそのままに、一緒に部屋に戻った。

 ふたりで布団に潜り込んで枕に耳をつけると、やっぱりまだあの音が聞こえた。

「おやすみ小夜」

「おやすみ、兄ちゃん」

 小夜は僕のスウェットの背中を掴んだままで、しばらくするとまた寝息をたて始めた。

(僕だって逃げ出したい。小夜と一緒にこの家を離れて、すべて忘れて生きていけたらどんなにいいだろう)

 だけど、それは虚しい望みだと僕は知っている。

 きっと、小夜だけならそうやって生きていける。この家と、そして僕と離れさえすればいい。でも、どうやってそれを納得させたらいいんだろう……。

 とりとめのないことを考えながら、僕は目を閉じた。


 また夢を見た。

 夢の中では、何十年も時が経っていた。年をとった僕は、いまだにこの家で、ひとりぼっちで暮らしている。小夜がこの家にいないことに、僕は夢の中で安堵した。

 そして深夜になると、何十年もずっと封印されたままの一階から、相変わらず何かが歩き回る音が聞こえる。

 ゴトン、ゴトンという音を聞く夢の中の僕は、もう逃げるべき場所などないと悟っている。小夜と違って、僕はこの家から出ていくだけでは駄目なのだ。


 顔立ちだけでなく、体型から声から歩き方まで――年老いた僕は、あのときのおやじに生き写しだった。

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