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 おととしの年末の仕事納めの日、僕が家に帰ると部屋の灯りがまだ点いていなかった。小夜もおやじも家にいるはずなのにおかしいなと思いながら、僕は外階段から二階に入った。

「ただいま」

 大きめに声をかけると、家の中ではっと何かが動き始めた気配がした。妙に寒々しい廊下の向こうから、小夜がよたよたと姿を現した。

 見てはいけないものを見た、と思った。彼女の着衣は乱れ、唇の端っこから血が垂れていた。

 そのとき、僕は体中の血液が温度を失ってしまったような気がした。

 おやじは下半身を丸出しにしたまま、居間でひっくり返っていぎたなく眠っていた。怒りで我を忘れた僕の目には、それが初めて、自分よりも痩せて体格の劣る、ただのみすぼらしい老いた男として映った。

 僕はおやじの、へろへろになったトレーナーの襟をつかんで階段の方に引きずっていった。おやじは眼を覚まして何かわめきながら暴れ出したが、かまわなかった。僕はじたばたしているそいつを階段から突き落とした。死にかけの虫のように手足をばたつかせながら、おやじの体は踊り場まで落ちていった。僕はそれを追いかけ、今度は一階まで蹴り落した。

 おやじは立ち上がらなかった。だがまだ生きていた。うつぶせになった背中が上下に動いていた。二階から、小夜の泣き声が聞こえた。

 僕は大股で二階に戻った。何をすべきか、そのときすでに固く決めていた。なぜか必ず成功するという確信を抱いていた。

 僕は自分の部屋から、生前祖母が使っていた大きな箪笥を押し出した。畳がそのせいでぼろぼろに傷ついたが、それにかまってはいられなかった。火事場の馬鹿力とはああいうことを言うのだろう、たったひとりで廊下に箪笥を出してしまった僕は、それを階段の入り口へとさらに押した。

 僕の手の横に華奢な手が重なった。小夜だった。もう泣いていなかった。青白い顔で一度だけ僕を見上げた。

 僕たちはふたりで箪笥を動かし、階段の入り口を塞いだ。しばらくおやじのうめき声が聞こえていたが、やがて静かになった。階下から奇妙な音がするようになったのは、おやじを突き落とした次の日からだ。


 あれから一年と二ヶ月あまり、僕と小夜は封印した一階の上で暮らしている。

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