Dear K

新巻へもん

第1話

 家の戸口をほとほとと叩く音がする。次いで流暢な日本語が聞こえた。

「ごめんください」

 三和土たたきのつっかけを履き戸口を開けた。バルト海を渡ってくる寒風が雪と共に土間に侵入する。


 目の前には手に傘とコートを持ち寒さに震えるうら若い女性がいた。軽く頭を下げる。

「お約束していた小林明美と申します。京都から参りました」

「さあ入りなさい」

「お邪魔します」

 

 小林嬢は靴を脱ぐと跪いて揃える。冷えた廊下を進み、座敷に案内した。火鉢のそばに着座するように勧める。

「それで私に何の用かな?」

 もちろん本当の用向きは知っている。ちょっとしたお約束事だ。


「はい。近代文学に造詣が深いと伺いました。私は曲亭馬琴の研究をしています。お持ちの写本をお見せいただけないかと、不躾ながらお願いに参りました」

「なるほど。確かに私はいくつか所有している。同好の士とあらばお見せするのは構わないが、いくつか質問をさせて頂いて構わないかね」

「もちろんですわ」


 私がいくつか質問をする。小林嬢はほんの僅かな問いを除けば過不足なく回答した。談義は私が一度所用で中座したほかはぶっ続けで長時間に及ぶ。柱時計が12を告げた。私は一旦中止を宣言し、続きは午後にすることにする。ちょうど頼んでおいた食事の用意ができたので、食堂に案内した。


 遠慮する小林嬢に蕎麦を勧める。

「時間が経てば伸びるだけだ。遠慮せずどうぞ」

「では、頂戴します」

 かえしの効いた暖かいしょうゆ味の汁が体に染みた。


 食後も文学談義に話を咲かせ、写本を手に小林嬢が辞去する。本人はほっとしているだろうが残念ながら不合格だ。私は書き物机に向かって便箋にペンを走らせる。相手はもちろん私の元上司。とある部局のトップを務めている。元部下たちから伝統に従いKとだけ呼ばれていた。同志書記長の信任も厚いが私とは気さくな間柄だ。


 ~~~


 親愛なるKへ


 私とあなたの仲だから率直に言わせてもらおう。今日の来客はまったくなっていなかった。最近のトレーナーの質が落ちていやしないかね? こういうと若者の欠点をあげつらう老人になった気がするな。いや、小林嬢はなかなかに魅力的な女性だった。もう少し私が若ければ別のレッスンを引き受けるのもやぶさかではないね。


 話を戻そう。彼女は確かに見事な日本語を操るし、文学部の大学生に相応しい知識を身につけていた。ただ、もう少し日常生活に関するこまごまとしたところに気を付ける方が有益だ。今日ではあまり勉学に力を入れない学生というのも珍しくないのだから。


 私が気になった点を2つだけ挙げておこう。まず、小林嬢はハンカチで鼻をかんだ。かの国ではそういう時は携帯用のティッシュペーパーを使う。道を歩いていれば無料で配っているんだ。まあ、経理部署が小道具への経費を惜しんでいるのかもしれないがね。


 それから昼食に蕎麦を出した。ああ。小林嬢の箸の使い方は問題ない。わざと滑りやすい塗り箸を出したが器用に食べていたよ。ただ、食事中に日常的に蕎麦を食べているかと聞いたら肯定した。彼女が在住していると設定予定の関西圏ではあまり蕎麦は食べないのだ。食事には非常に強いこだわりをみせる人々なので気を付けた方がいい。


 まあ、素質は悪くなさそうなので、あと半年も時間をかければ偽装はマシになるだろう。トレーナーに指導が必要なら遠慮なく言ってくれたまえ。そうそう。激務で余裕がないだろうが、こちら方面に視察で来るときはぜひとも我が家に寄って欲しい。かの国の酒だが、鯨も酔わせるという名のものがある。ホットで飲んでも悪くない。


 ~~~


 私の手紙のせいで何人かはどやされることだろう。仕方ない。スパイは現地では孤立無援なのだ。偽装がはがされれば悲惨な運命が待っている。そして偽装は些細なことから破綻するのだ。元スパイで私のように引退生活を満喫できる者は多くない。Kならば必要な措置を取るはずだ。手紙に封をして日本酒の栓を開け猪口に注ぐ。私は小林嬢の幸運を祈って、猪口を目の前に掲げた。


 


 

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