第20話


 窓から見える青空に白雲が動く絵画のように流れては消えた。眼下に広がる石造りの街並みは騒がしく、人がごった返しているように見える。左右を山脈に囲まれ、薄く霞がかった空気が覆う灰色の街、ルシアンボネ。


「むむむー」

「ハハハ。頑張れ、頑張れ。ん? どうかしたのかい、レリア。窓の外なんか見て」

(?)

「おお、もう解けてるじゃないか」

「えぇ! ズルい!」

「ずるいことはないよ。どれどれ……。全問正解だ。すごいね」


 レリアは簡単で退屈な数字の羅列を一瞥し、再び窓の外を眺めた。懐かしくもあり、寂しくもある、そんな外の世界を。


「終わったー! レリアちゃん! 遊びに行こー!」

(コクッ)

「気を付けてね。遅くなるなっちゃダメだよ」

「はーい」

(コクッ)


 屋敷の外は窓から見たほど混雑はしておらず、声も少なかった。時折、一際は大きな呼び込みの怒鳴り声が聞こえるだけで、騒がしくはない。


「こっちこっちー」

「あんまり引っ張ったらレリアちゃんも困っちゃうわよぉ」

(フルフル)

「なんで俺が子守なんか……」

「いいじゃない付き合ってくれても」

「いやいや、人には向き不向きっていうものがあってだなぁ」

「はいはい、文句言わない」


 呼び込みの声が鳴りを潜める日光の当たらない裏通り。道に面した窓は固く閉ざされたまま、砂埃が隙間を埋めている。


「ここ、涼しーんだよ」

「ちょっと埃っぽいな」

「そーお? あ、そうだ。たしかここに……いた!」

(?)

「ほら! これだよこれ!」


 見ると小さな黒い点がぞろぞろと動いていた。三対の脚を規則的に動かす黒い虫は口に大小さまざまな、中には自分の頭よりも大きな白い粒を咥えている。


「この子達ねー、いっつもここに行列作ってるんだー。楽しそうでしょ?」

(?)

「エマニュエル様が教えてくれたんだー。蟻はね、みんな家族なんだってー。家族が一緒にいるのって楽しいと思うんだ。ね、次はこっちこっち!」

「もう行くの?」

「だって行きたいとこいっぱいあるんだもん! 時間なくなっちゃうよ?」

「ふふふ、そうねぇ。お友達に色々見せたいわよねぇ」

「うん! だからこっちこっちー!」

(コクッ)


 それからセレナはレリアをいろんな所へ連れて行った。いい匂いのする宿屋の裏手。歌の練習をする声が聞こえる小民家。人形劇をやっている広場。


 やがて太陽が山々を赤く染めた。街を行き交う人々の顔つきが、女から男へと変遷し、明かりの灯った家々からは木製ジョッキのぶつかる喧騒が聞こえ始める。

 そんな中、レリア達は喧騒から離れるように坂道を上った。徐々に風は強く、冷たくなっていく。


 そうして、坂を登りきったレリアたちを迎えたのは谷間に沈む夕日だった。

 霞に反射し、いくつもの赤い星が地上に瞬く。皆が、一様に声を失う中、セレナだけがフフンと鼻を鳴らした。


「ね! ね! いい景色でしょ! 私の一番のお気に入りなの」


 セレナは満足げに微笑んだが、皆は景色に陶酔し、セレナの声は聞こえなかった。


「レリアちゃん。こっちこっち」


 セレナがレリアの手を引く。ささやき声に視線を追うと建物の隙間から覗く窓の中に、机に向かうエマニュエルの姿があった。


「エマニュエル様がね、忙しいときはいっつもここで眺めるの。二人の秘密だからね。誰にも言っちゃだめだからね」

(コクッ)


 幼子の戯れ。いつもであれば気にも止めないはずなのに、今日のレリアにはなんだかこそばゆく感じだ。



 次にレリアたちが来たのは商業区の一角だった。店じまいをする者、酒場への往路に盛り上がる者などで賑わいとは違う騒がしさを伴う通りに、一軒だけ静かに佇む店があった。

 石壁の中に一軒だけある木造建築のその店は異質で、しかし、高級感を際立たせていた。


「次はここだよ!」







 夜空に浮かぶ月に雲が掛かる。馬車の窓から見える夜空を眺めながらエマニュエルは唾を飲み込んだ。口が妙に渇く。かと思えば手がじっとりと湿る。まるで身体の水分がすべて掌に集中してしまっているかのような感覚だ。

 エマニュエルはまた、唾を飲み込んだ。


 大きなガラス窓に色とりどりのドレスが並ぶ、静かな店の前で馬車が止まった。

 ドレスを一瞥し、エマニュエルが扉の戸を叩く。


「エマニュエル様ー!」


 行きよいよく開かれた扉から白い影が飛び出し、エマニュエルの首元めがけて一直線に飛びついた。


「おっと、セレナか。びっくりした」

「えへへー、ね、どう? 似合ってるー?」


 首から手を離して、トンと地面に降りたったセレナはハニカミながらドレスの裾を持ち上げた。


「とても似合っているよ。でも、さっきみたいに飛びついたらせっかくの衣装が汚れたり、崩れたりしてしまうんじゃないかな」

「ごめんなさい」

「嬉しかったんだね。見せてくれて、ありがとう」


 セレナの頭を軽くポンポンとし、エマニュエルは扉をくぐった。


 店に入ると紫のドレスに身を包んだオルガが優雅な礼を見せ、その隣でダミアンが妙に決め顔で敬礼をした。童顔のせいか礼服で決めているというよりも服に着られている。


「ご機嫌ようエマニュエル様」

「似合っているよ」

「ありがとうございます」

「なあ、俺は、俺は?」

「とってもいい感じだね」

「はは、そうだろ」

「ところでレリアはどうしたんだい? 見当たらないけど……」

「レリアちゃんなら、あっちにぃ」


 セシルの視線の先、店の奥には黒のドレスを着たアニエスがおり、カーテンの向こう側へ話しかけていた。


「ほら、もうお迎えが来ちゃったわよ。とっても似合ってるから大丈夫よ」

「どうしたんだい?」

「エマニュエル様。その、恥ずかしいみたいで……」

「そっか。ドレス姿を見れないのは残念だけど、無理することもないよ。嫌ならもとの服装に戻ってもいいよ?」


 エマニュエルの言葉に、恐る恐るカーテンが開かれる。中には真紅のドレスで身を包んだレリアが顔を真っ赤にして立っていた。

 ドレスには刺繍がふんだんに施されており、それでいて主張しすぎない上品なデザインだ。上気し、潤ませた瞳でさえ調和の一部であり、少女の姿はまるで指折りの老職人が残りの生涯をかけて作り上げた人形のようだった。


「エマニュエル様?」

「え、あ、うん。とっても綺麗だよ」

「ほらね。だから大丈夫だって」

「何を恥ずかしがることがあるんだい?」


 エマニュエルは身を固くして縮こまるレリアをヒョイと持ち上げるとその腕に抱いた。

 レリアの小さな体はエマニュエルの華奢な身体にもすっぽりと収まる。

 レリアはエマニュエルの胸に指で文字をなぞった。


[おろして!]

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