第2話「マグカップ」


 仕事終わり、近くのコンビニで缶チューハイとつまみになるお菓子や総菜を買って、同僚の優美ゆみと彼女のアパートへ向かった。優美とこうやって二人で飲み会をするのは久しぶりで、私も優美も子供に返ったように、手にしているコンビニの袋を揺らしながら、はしゃいでいた。


「私たち、30手前なのにねー」

「こうやって、はしゃげるんだから、まだまだ若い証だよ!」


 優美は、いつでも前向きだ。この彼女の笑顔に何度救われたことか……。地方から都会へ出てきた私は孤独な日々を送っていた。会社の飲み会で優美と知り合い、同期入社で同県の出身だと知った。北と南と実家の方角は真逆だが、「T市にあのコーヒーショップができたの知ってる?」「うそ!? 田んぼしかないよね? T市って」県民にしか伝わらないローカルネタが通じ、互いに歓喜したものだ。


 それから仕事でもプライベートでも優美とよく行動を共にするようになった。しかし、私たちもアラサーが目前に迫り、【結婚】の言葉がちらつき始めた。「アンタの同級生の子も結婚したってよ」実家の両親からの圧も年々増してくる。そのこともあり、私たちは距離を取り、ここ数か月は異性と過ごす時間を増やすようにしていた。


 優美の部屋は相変わらず、オシャレな家具や小物、観葉植物が飾ってあり、雑誌などで見かけるモデルルームのようだった。リビングに置かれた赤いソファーに優美と隣同士で腰かけ、缶チューハイを開け、乾杯した。


「こうやって、優美と飲めるのも残り僅かかー……」

「え、どうして?」

「聞いたよ。営業の槙田まきたさんと付き合ってるって」


 「……あぁ、そのこと」優美から返ってきた声にいつもの明るさはなく、どこか他人事のようで冷たい印象だった。営業の槙田さんは私たちよりも3歳年上で、誰が見てもビシッとスーツを着こなしたイケメン。仕事も、いつもノルマをクリアしており、上司からも部下からも一目置かれている人物だ。そんな彼と優美が付き合っていると聞いたときは、すごく驚いたが同時に嬉しかった。だが、彼女の表情を見ていると、単なる噂にも思えてくる。恋人がいる・できた人は、本人が知らない間に幸せオーラを放出しているが、優美からはまったく出ておらず、むしろ、どんよりとした暗い表情を浮かべている。


「……もしかして、ただの噂?」

「いや……付き合ってはいるよ、一応ね」

「一応……?」


 なんとも歯切れの悪い言い方だ。一部では、「ゴールイン間近」とも言われているが──ひょっとしたら、【マリッジブルー】という可能性も?


「あー、この話はここで終わり! さぁさぁ、飲もうよ!」


 話題を切り上げた優美は手際よく買ってきたつまみや惣菜をテーブルに広げ、食器棚から持ってきた取り皿に分け始めた。「終わり」と言われてしまっては、深堀することはできない。心の中に抱えたモヤモヤは、いくら缶チューハイを流し込んでも消えなかった。


「ねぇ、真衣まいは浮いた話ないの?」

「……特にない、かな」


 男性から食事に誘われ、何回か出かけたきり。恋愛に発展はしていなかった。彼に対して尊敬はしているが、恋愛対象かと聞かれると返答に困ってしまう。素敵な男性だとは思うが、付き合いたい!という感情はない。


「好きな人は?」

「それも、いないんだよね……」

「……本当に?」

「うん、いない。何回か食事に行った人はいたけど、恋愛対象としては見れないし」

「もし、その彼が付き合ってほしいって言ったら、どうするの?」

「ないと思うけど、その時は断るよ」

「……そう」


 今日の優美は少し変な気がする。また顔に影を落としてしまった。けれど、眩しい太陽だって雨雲に隠れることもあるし、今日は気分が優れない日なのかもしれない。あまり長居するのは、やめておこう。


 そのとき、優美の携帯が鳴り出した。電話のようだ。「ごめん、すぐ戻る」携帯を握りしめ、彼女は外へ出て行った。取り残された空間。鞄の中で携帯が振動を始めた。メールだ。開いて見ると、「今夜会えないかな?」何回か食事に行った彼からだった。


 部屋の掛け時計に目を向けると、歪んだデザインをしたカラフルな文字盤は21時45分を少し過ぎたところだった。「23時頃なら……」と返事を出した。明日は土曜日だ。彼も私も仕事が休み。お互いに割り切った関係のため、恋人ではない。これからも、この関係が変わることはないだろう。……彼には、【一番目の本命】がいるのだから。


 ガチャ、バタン……玄関からドアの開閉音がした後、程なくして優美が戻ってきた。


「おかえり」

「ん、ただいま」


 部屋を出ていく時は憂鬱そうだったが、帰ってきたら晴れ晴れとした顔をしていた。彼からの電話だったのだろうか? 嬉しそうな優美に「何かいいことあったの?」と聞くと、「うん、すっごく」と彼女は満面の笑みで答えた。「よかったね」でも、私はうまく笑えなかった。


「今日は、もう帰る?」


 優美に聞かれ、時刻を見ると22時を過ぎていた。約束の時間まで、あと1時間。そろそろ帰ったほうが無難だ。優美がゴミを纏めている間、私はキッチンのシンクに使ったお皿を持って行った。


 ……あれ? マグカップが置いてある。朝、出勤前に使用したものだろうか? 使ったものを洗わずにシンクに置いておくなんて、綺麗好きの優美が珍しい。それに、このマグカップ──以前、どこかで……。底に白のマジックで波線が描かれていた。


「このマグカップも一緒に洗っておくね」

「……マグカップ?」

「うん。真っ黒なマグカップ」


 「触らないで!」形相を変えた優美が私の元に走って来るなり、手の中にあったマグカップを取り上げた。


「あなただけは絶対にこれに触らないで!!」

「……え? あ、ごめん……」

「どれだけ私から奪えば気が済むの!?」

「……優美?」


 マグカップを持っていない方の手で自身の髪を搔きむしり、フーフーと獣のように荒い息遣いを繰り返している。豹変した彼女の姿が恐ろしくて、私は優美に声をかけることができず、その場から動けなかった。


「お前は……お前のせいだ!!」


 真っ赤に充血した目が長い髪から覗いている。たかが、マグカップ一つじゃないか。それで、ここまで取り乱すなんて……。だんだんと私も腹が立ってきた。


「マグカップに触れただけで怒り過ぎでしょ!」

「これだけじゃない」

「何のことか分からない!! 私、もう帰るから」

「……【今夜、23時】」


 背を向け、一歩踏み出すか踏み出さないかのところで彼女から飛んできた【今夜、23時】のワードに足が止まった。ゆっくり、ゆっくり、スロー再生のように体をひねる。嫌な予感に心臓はバクバクと大きく警鐘を鳴らす。なんで、彼女がそのことを……? 私は、【彼】にメールを送ったのに。背後に立っていた彼女は携帯のメール画面を開いて、「あなたが罠にはまって嬉しかった」私を見下ろすようにほほ笑んでいた。


 ……バレていた? いつから? 全然そんな素振りは無かったのに。


「残念だけど、約束の時間になっても彼は来ないよ。違うな──正確には、行けない」

「……どういうこと?」

「このマグカップはね、彼の【遺品】なの」

「……遺品……?」


 彼女はマグカップを大事に抱え、「あなたのせいで彼は自殺したのよ!!」と目を見開いて私に告げた。いや、そんなはずはない。今日、私は彼と会社で会っている。「夜、連絡する」と言われ、お互い別々に退勤した。その後、彼は自分のマンションがある隣町に帰宅するべく、駅方面へ歩いて行ったのを見た。帰宅してから、自殺したというのか……? 仕事もプライベートも充実していて楽しいと彼は話していた。そんな彼が自ら命を絶とうとするだろうか?


 無いとは思うが、仮にそうだったとして、なぜ優美がそのことを知っているのだろう? ……まさか、この部屋で──!?


 いや、それはない。優美が住んでいるアパートと彼の住んでいるマンションは方角が真逆だ。それに、優美の部屋の玄関に男性の靴などなかった。私と優美が会社からこの部屋に着くまで、コンビニに立ち寄ったが20分とかかっていない。優美の部屋から駅までは、歩いて25分はかかる。タクシーを使おうにも、仕事を終えた人たちの帰宅時間と重なり、道路は混雑していて歩いたほうが早いだろう。彼が駅方面からこの部屋に先回りして、自殺する時間などないはずだ。


 ますます分からない。優美が言う彼の【遺品】とは、どういう意味なのだろう?


「あなたは本気じゃなかったみたいだけど、槙田さんは……あなたと結婚するつもりだった」

「……え? でも、彼の【一番】は──」

「そう。私のはずだった」


 槙田さんは私と会うとき、「本命がいる」と言っていた。その頃から、槙田さんと優美が付き合っているという噂が会社内に溢れていて、私は【二番目】なのだと思っていた。


「でも、彼はあなたに心変わりしたの。たった4回、ご飯に行っただけでね」

「どうして、そのことをあなたが知っているの!?」

「だって、あなたが言ってたじゃない」

「確かに私は言ったよ。──【数回ご飯に行っただけ】だってね。なんで、あなたは回数まで知っているの? それに、思い出したけど……そのマグカップ、前に彼が会社で使っていた物じゃない? 底に描かれている波線が何よりの証拠。槙田さんが描いたイニシャルの【m】、波線にしか見えないってお茶出しの時、話題になったから、よく覚えてる。でも、あの時。うっかり落として割っちゃったって優美言ってたよね……?」


 優美がお茶出し当番の日、槙田さんのコップを割ってしまったと彼に謝罪していた。それがなぜ、今ここにあるのか。さっき手に取ったとき、どこも破損している様子はなかった。それに気になるのは、なぜ彼女が私と槙田さんが食事に行った回数を正確に言えたのか。会うときは人目を避けて会っていたし、別々に店に行き、別々に店を出るようにしていた。──まさか……。


「優美……」

「誰にだって【秘密】は、あるものでしょ?」

「槙田さんから届いたあのメールは?」

「今日会社であなたに携帯を借りたでしょ? そのときに、電話帳に登録してある彼の番号を私の番号に変えて、私の番号を彼の番号に変えたってわけ。あなたたちがショートメールでやり取りをしているのは知ってたから」

「……それじゃ、さっきの電話は?」


 優美は、にたりと口角を上げた。湿気を含んだ空気のようにまとわりついて気持ち悪い笑顔だった。


「槙田さんにも同じように携帯を借りて、あなたの番号と私の番号をすり替えておいたの」

「槙田さんと何を話したの!?」

「さぁ。──今頃、ショックで首くくってるかもね。だから、これは【遺品】」


 マグカップに口づけした優美を見て膝から床に崩れ落ちた。優美と槙田さんは付き合ってなどいなかった。優美の一方的な感情。それを周囲に話し、噂が独り歩きしていたのだ。


 槙田さんが言っていた【本命がいる】というのは、どこかで聞き耳を立てている優美に向けての発言だったのかもしれない。


 近づいてきた影に顔を上げると、逆光に輝く細長い物が一瞬見え、真っ赤に染まった世界は逆さまに映り、あっという間に暗転した。


「私の前から先に消えるのは──真衣、お前だけどね」



【完】

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クローゼットの中の骸骨 望月おと @mochizuki-010

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