籠の中の小鳥、青空を知らず

湯野実

白の童話

1.シエルと青い屋根の家


 その女性は絶望のどん底に突き落とされた。


 冷たい土の上で仰向けに横たわり、生い茂った木々の間から差し込む眩しい程の陽の光を浴びていた。遠い青空をじっと見つめていると、まるで自分も森の一部になったかのような錯覚に陥る。しばらくは立ち上がることが出来ず、手足を投げだしたまま死んだように動かなかった。このまま土に還ってしまえばいいと、目を閉じ思考を止めようと試みた。けれど瞼の裏に浮かぶ映像をかき消すことはできない。

 息が詰まるような心の痛みと、止めどなく流れ落ちていく涙が、その映像が単なる想像ではなく、先ほどまでの現実であることを思い知らされる。

 彼女は体を起こし、目の前にそびえる荒々しい岩肌に背を向け、行く当てもなく歩き出した。


 まとめていた髪は乱れ、泣きはらした目は赤く、険しい森の中で全身傷だらけになった。それでも彼女は気にも止めず、ひたすら歩き続けた。森の奥へ、奥へと、よろめきながら、時たま足をもつれさせながら。


 するとそのうち、歩みを邪魔していた木々達が途切れた。暗い森を抜け、太陽の光が燦々と注ぐ空間に出た。


 美しい花が一面に咲き誇り、色とりどりの小鳥たちがあちこちで歌っていた。その中心に、青い屋根の家がぽつんと建っている。

 洋風のそれは小さく遠慮がちで、決して主張しすぎない、優しい雰囲気をまとっている。この素晴らしい空間を際立たせるための脇役の一つでしかないのだと、まるでそんな事を言い出しそうな。


 突然現れた絵画と見間違うほどの美しい景色を見て、女性は自分の死を受け入れた。こんなにも美しい、天国のような場所に来れるはずがないと思いながらも、生の苦しみから解放されたのだと思うと、安堵し張りつめていた気持ちが一気に緩んだ。


 小さな家の扉がきぃ、と微かな音を立てて開き、ポーチに誰かが出てきて女性に何か声をかけた――けれどその時、すでにほとんど意識を失いかけていて、現れたのがごく普通の若き青年で、誰しもが当たり前のように口にする挨拶をしたのだとしても、彼女にはこの世ならぬ天からの使いに思えた。


 彼は笑顔でこう言った。


「こんにちは、初めまして。ようこそお越しくださいました」




 女性が眠りから目覚めて最初に耳にしたのは、火にかけたお湯が沸いた時のぐつぐつという音だった。ついで聞こえる誰かの慌てた声。


「わわっ……熱っ」


 鍋のふたが床に転がり落ちた時のかんかららん、という少々やかましい音。


 彼女はぐるりと周りを見渡し、自分が知らない部屋のベッドに寝かされている事を知った。そっと体を起こし、両手を見つめてみたり、動かしてみたりする。ぼんやりと濃い霞がかかった頭の中から、これまでの記憶を探した。


「ここは……」


 女性が口を開いたその時、彼女の眠っていた部屋の扉が開いた。


「気がつきましたか」


 まだ二十かそこそこの青年が、湯気の立つカップを二つ乗せたトレーを持って柔らかく微笑んだ。


「あ、あの、すみませんここは……」


「だめですよ、まだ完全に回復していないのですから、無理をせず横になっていてください。」


 よろめきながら立ち上がり、慌てて髪や洋服の乱れを直す女性に、青年は優しく諭すように言った。

 そして手にしていたトレーをサイドテーブルの上に置き、彼女をベッドに座らせた。


「改めまして、僕はシエル、この家の主です。あなたを見つけて声をかけたのですが、その場で倒れてしまわれたので、こちらへお連れしました。」


 青年は女性の前で膝をつき、目線を合わせると、とても柔らかい口調で丁寧にそう名乗った。深く透き通る青い瞳に一時の間、見惚れた。

 ベッドに腰を掛けたまま、彼女も姿勢を正し、シエルと名のる青年に頭を下げた。


「私はエレナと申します。助けていただきありがとうございます。森を歩いていて気がついたらここへ……あら? いつの間に森になんて入ったのかしら……私、えっと、あの」


 どこから来たのか、なぜここにいるのか。思い出せないというよりも、そもそも記憶などないのではと思うほどに、頭の中からすっぽり抜け落ちている。どれほど考えても遡ることが出来るのは、青年と出会った時の現実離れした美しい風景だった。


「お疲れのようです。温かいお茶でも飲みながらゆっくりしてください。もうすぐ食事も出来上がりますしね」


 頭を抱え困惑する女性――エレナを、青年シエルがなだめ、先ほど置いたトレーから、カップを一つ取り、エレナに差し出した。カップからは紅茶のいい香りが漂ってくる。


「紅茶はお好きですか?」


「ええ、とても。いい香り……落ち着くわ」


「リラックスできる茶葉を選びました」


「ありがとう。頂きますわ」


 エレナはカップを受け取り、軽く笑みを浮かべた。その洗練された上品さは上流階級の令嬢か一国の王女のよう。けれどその風貌は決して綺麗とは言えず、まるで魔女のような黒いローブをまとっている。あちこちに破れや泥が見られた。


 一口紅茶を口にしたところで、ふとエレナの微笑みが固まり、その表情は暗い哀しみへと変わっていった。シエルはうつ向き沈む彼女を心配そうに見つめた。


「とても辛いことがあったのですね」


「なぜだかよく……思い出せないんです。何があったのか、どうして今ここにいるのか。けれど、私は何か、何か取り返しのつかない過ちを犯してしまったのかもしれません。張り裂けそうなほど胸が苦しくて、大声で泣き叫びたいような、今すぐ誰かに謝りたいような気持ちで……」


 顔は青白く、カップを持つ手が震えている。


「きっと忘れてはいけないことなんです……そんなの絶対許されない……私は、どうして……!」


「ゆっくり呼吸をして。大丈夫、あなたがどんな人でも、何があったのだとしても、ここにあなたを責めるものはいません」


 エレナの震える両手を、シエルが優しく包み込んだ。


「時間はたくさんあります。焦らないで、何があったのかはじめから思い出してみませんか。その記憶は、もしかしたら忘れたままの方が、良いことなのかもしれません。なかったことにした方が、楽なのかもしれません。けれど、まだやり直すことが出来るとしたら……」


 シエルの手を大粒の涙の粒が濡らした。彼の優しくあたたかい気持ちが心に染み渡る。エレナはぼろぼろと流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。


「あなたの物語を、どうか僕に話してくださいませんか?」


 それは頼んでいるようにも、提案したようにも聞こえ、断るという選択肢も十分にあった。

 けれどエレナは一時も迷わなかった。抜け落ちた記憶は、自らで封じ込めたものなのかもしれない。忘れてしまいたいと願うほど、つらいものなのかもしれない。それでも、この青年に聞いてほしいと思った。

 エレナは涙をぬぐい、記憶を探した。すると、ふいにある光景が浮かんだ。


 とても賑やかで栄えた町と人々の笑顔。その一角にそびえる美しい王城。豪華で古びた鏡の中からこちらを見つめる暗い顔の女性。



「私はある国の……王妃でした」



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