とある受難者の祝福
紙季与三郎
第1話 とある受難者の祝福。
時空を超える旅を続ける最中、世界の終末に似ているとさえ思える静寂の波打ち際、アルドとエイミは何処か途方に暮れている一人の少女の姿を見掛けて話かける事にした。
アルド「……君、どうかしたのか? こんな所で」
エイミ「お父さんとか、お母さんは?」
海辺で首を左右に振る少女。一見、水遊びをしているようにも見えて。
少女は話しかけられると動きを止めて透き通るような瞳で二人をジッと見上げる。
少女「……探しているの。お腹が空いているから」
しかし、アルド達に答えを返すや再び浜辺に視線を落とし、波打ち際をなぞるように歩きながら何かを探し始めた。
エイミ「迷子かしら。この近くにお父さんとお母さんが居るの?」
少女「ううん。居ないよ……ゴハンを探してるの、お腹が空いてるから」
アルド「……うーん。なんだか要領を得ないな」
その小さな背に、何か困った事情があるのだろうか察したアルド達は腕を組み、少女の言動に心を更に傾けていく。少女は尚も、何かを探している。
エイミ「近くの町で、この子の知り合いが居ないか聞いてみましょうか」
見知らぬ少女ではあったが、性分から放っておく訳にもいかず、アルド達は少女の行く末について相談を始める。すると、
少女「……お兄ちゃん。なんか変な人だね」
ふと立ち止まる少女は、何を想ったかアルドに近付き彼の臭いを嗅いでそう言った。
アルド「え。俺、なんか変かな」
少女「うん。変な匂いがするの」
アルド「ええ⁉ 変な匂い⁉」
突然の純粋無垢な宣告に驚くアルド。慌ててアルドは、自分の臭いを嗅いでくる少女から逃げ、少女の指摘に間違いは無いかと自らも確認。しかし、自分の体臭を感じることは難しい。アルドは困った顔をした。
そんなアルドの様子を見て、傍らのエイミは笑う。
エイミ「ふふ。町についたらオフロも借りましょうか」
冗談めいた口調で喜の感情の混じる声を並べ、クスクスと。クスクスと。
アルド「ま、待ってくれよ‼ 俺、そんなに匂うか⁉」
しかし傷心のアルドにとって、それは冗談に聞こえなかったようである。
エイミ「さあ、行きましょう。町は直ぐ近くだから」
動揺するアルドを横目に無視し、少女の手を取ろうとするエイミ。
アルド「なぁ、そんなクサイか⁉ どんな匂いなんだ⁉」
困惑の出会いがもたらした思わぬ衝撃にアルドは他の事に気が回らない。
さもすれば、この時……アルドならば気付けて居たかもしれない事を気付けなかった程にアルドは自分の放っているかもしれない体臭が気になっていたのである。
***
そしてそれは少女と出会った最果ての島の浜辺に近い町に着いてからも続いていた。
アルド「……そんなに匂うかな。今日はまだ、そんなに汗もかいてないんだけど」
歩きながら自らの服に染み付いているかもしれない匂いを確かめようと試みながら、ボヤくように彼は呟く。
エイミ「別に気になる程じゃないわよ。ウチのお父さんよりはマシだから」
そんなアルドに少々ウンザリしたようにエイミは言ったが、
アルド「それって少しは匂うって事だろ……それを聞いて気にしなくなるのも何だかオヤジさんに悪いし」
焼け石に水。先ほどの少女の指摘にショックを隠し切れないアルドは、肩をガックリと落とすばかり。因みに述べると、エイミの父は曙光都市エルジオンにて武器屋を営む豪気で筋骨隆々な職人気質の漢である。
エイミ「あ、ちょっとアナタ。この子の親を探しているんだけど何か知らない?」
そんな父を貶め、落ち込むアルドを無視し、エイミは町で通りがかった男性にフランクに声を掛け身振り手振りで傍らを歩く少女に町の男性の意識を誘導し尋ねた。
すると、
町人「その子の親? うーん、この辺りじゃ見掛けないな」
男は顎に手を当て記憶を巡らしては見たが、思い当たらずに否定の言葉と共に首を振る。
エイミ「そっか……ねぇ、アナタの名前とか、お父さんの名前とか分かる?」
そんな町人の反応を受けて少女の親を探す為の手掛かり、情報が足らない事を改めて省みたエイミは、再び少女に向き直り優しげな口調で丁寧に尋ねる。
少女「……ううん。お父さん、居ないから」
それでも少女の言葉は少なく、首を小さく振った感情の希薄な表情からも何も読み解くことが出来ない。しかしエイミは尚も諦めず、質問を続ける。
エイミ「じゃあ、お母さんとかアナタの名前は?」
少女「お母さんも居ない。お腹空いているから、ゴハンを探しているの」
アルド「じゃあ何処から来たんだ?」
そこにアルドも加わり、迷子の少女を囲む大人たち。少女は俯き、些か矢継ぎ早に聞こえたアルドの問いについて思考する構え。
そして——彼女は答える。
少女「……何処かは知らない。でも、お腹空いてるからゴハンを探しに来たの」
父もなく、母もなく、地名に関する知識もない。もはや彼女を迷い子と判ずる事すらも難しい答えの数々。ただ食欲に忠実な獣のような一匹の少女。
アルド「……」
エイミ「……」
背景に透けて見えてきた少女の生い立ちを想起させられ、声を殺されるアルド達。
町人「じゃ、じゃあ僕は用事があるから、これで……」
或いは、この町人のように見て見ぬ振りも自然の流れなのかもしれない。
アルド「あ、ああ……助かったよ」
戸惑いつつ、町人の別れに頷くアルド。
一方のエイミは、そんな町人の男を意にも介さず話を進める。
エイミ「ねぇ、今は何か食べたいモノとかってあるの?」
とても穏やかに優しげな微笑みで少女に言葉を放ち、苦いだろう記憶の見る角度を変えて雰囲気を甘く溶かそうとするエイミ。すると相も変らぬ何もかもが希薄な少女は首を傾げた。
少女「うん? 分かんない……でも私は乾いた魚とかが好き」
アルド「乾いた魚……? 干物とかの事かな」
エイミ「へぇ、けっこう渋い趣味してるのね」
未だ驚きの尾を引くアルドを他所に、父親譲りであろう豪気な姉御肌で腰に手を置くエイミは笑う。
エイミ「それじゃあ、私達と一緒に乾いた魚を食べに行きましょうか」
これから、をこれから考える。そう言わんばかりの明るい楽天的な面持ちで少女に問いかけてアルドに投げつける覚悟の視線。迷い子か、捨て子か、どちらにせよ重くのしかかってくるだろう責任、それでも関わってしまった以上、捨て置けない。
そんなエイミのいつも通りの性格を目の当たりにし、ようやくアルドも心を持ち直し、切り替えて頷いた。
少女「たくさん欲しいの。きっとお腹がたくさん空いてるから」
アルド「魚の干物か……リンデ港とかなら直ぐに手に入りそうだけど」
細やかな少女の願いに向き合い、アルドは本格的に腕を組み思考を動かし始める。
その決意は、時を超える事すら辞さない程で。
エイミ「じゃあアルド。ちょっと行って取って来てよ。私はエルジオンに戻ってこの子の親の手掛かりがないか調べてみるから」
だが、そのくらいの覚悟は当たり前だとエイミは言わんばかり。軽々と近場にでも買い出しに行くような感覚で言葉を放り、冗談めいた笑みまで浮かべて。
アルド「そうだな。待ち合わせはオヤジさんの所で良いか?」
エイミ「うん。もしもの時は父さんにも、この子の面倒を見てもらいたいし」
アルド「分かった。出来るだけ早く行って戻ってくるよ」
それを理解し、アルドも了承の笑み。一言二言を交わし、これからの互いの行動予定を端的に組み立てて行動を開始する。そして、先に動いたのはアルドであったのだが——、
アルド「(とりあえずリンデに向かうか……いや、その前に体を……)」
心に滲む傷の余韻、ずっと心に引っ掛かっていた事柄を解消すべくアルドは密かに緊急を要しない事を企んでいた。しかし、
エイミ「そうだ、アルド。ホントに匂いは気にならないから早くしてね」
そんなアルドの思考を看破するエイミ。優先事項をおざなりにしようとしているアルドに釘を刺す一言。
アルド「え⁉ ああ……分かった……」
心に秘めていたはずのモノを見抜かれ、心底驚いた様子のアルド。
アルド「(で、でも、少しバルオキーに寄るくらいなら……)」
エイミ「……」
それでもアルドはエイミが白けた眼差しを続けている事に気付かないまま、実家のあるバルオキー村へと向かうのであった。
***
アルド「あの子はエイミが見てくれているし、着替える時間くらい大丈夫だよな」
久しぶりのような気さえする故郷の地に降り注ぐ晴天を拝みつつ、アルドはバルオキー村で背を伸ばす。僅かばかりの罪悪感を胸に秘め、清々しさを身に纏う一幕。
フィーネ「あれ? お兄ちゃん、戻って来てたの?」
そんな時分、バルオキー村にてアルドと共に暮らす妹、フィーネがアルドの姿を見掛けて疑問の声を上げる。いつ帰るかも分からぬ長旅にふらりと出かける兄の唐突な帰還に、些かの違和感があったようだった。
アルド「ああ、フィーネ。丁度良かった、ちょっと服を着替えに来たんだ」
それを受け、帰ってきた理由についてアルドは端的に答え、
アルド「小さい子に変な匂いがするって言われてさ」
原因を思い出して少々の落ち込み、再び肩を落とす。
すると、
フィーネ「ふふふ、長旅をしていたら少しくらいそういう事もあるよね」
いつも頼りになる兄の悩み深そうな様子が少しばかり意外、とも言えない慣れた様子のフィーネはクスクスと擬音の聞こえそうな笑い声。フィーネはアルドの抱いている悩みが小さく些細なものだと言いたいようである。
アルド「……俺、やっぱり変な匂いするかな」
しかし、それでも尚、自身の体臭を気にするアルドにフィーネは近づき彼の匂いを探る。
フィーネ「どうかな……私はぜんぜん気にならないけど」
アルド「……まぁいいや、服を着替えたらまた直ぐに出掛けなきゃならないんだ」
さもすれば、妹の兄を想う気遣いかもしれない。よぎる不安、根深い傷心に気心の知れた妹の存在すら薬にはならず。アルドは当初の予定通り、不安の原因を完全に取り除こうと試みる。
アルド「代わりの服ってあったかな?」
だが——、
フィーネ「……うーん。実は、さっき全部の服を洗濯しちゃった」
アルド「ええ⁉ 全部⁉」
家事全般を任せっきりになってしまっている妹の口から放たれた衝撃の事実に、背後に一直線、昏倒しそうになる程にアルドは驚く。
そこからの展開は圧倒されるものばかりであった。
フィーネ「だって今日は凄く天気が良いんだもん。暇なら洗濯したモノを干すのを手伝って欲しいくらい」
フィーネ「お爺ちゃんもお兄ちゃんも、すぐ洗濯物を増やしてくるから大変なんだよ⁉」
アルド「うっ⁉」
次々に告げられる言葉、妹ばかりに家事の面倒事を押し付けている普段からの感謝と罪悪感が、グウの音も言わせない。極めつけに、
フィーネ「見た感じそんなにも汚れてないみたいだし、匂いもしないから、まだ今日は着替えなくても良いです! 以上、分かった⁉」
身を乗り出すように腰に手を当てた叱り顔を突き付けられ、怒涛の命令節。
これ以上は絶対に反論しては駄目だとアルドは直感する。
アルド「……は、はい」
妹に叱られた弟のように気落ちして肩を落とす兄。自らのこれまでの行いを反省し、妹の怒りの前に体臭の悩みなど最早、二の次でしかない。
そんな兄妹の仲睦まじいイザコザの声を聞きつけ、アルドも住む自宅から一人の老獪な男性が杖を地に突き、現れる。
村長「おや。戻っておったのか、アルド」
かつて森に投げ出されていた二人の兄妹を拾い育てた恩人、バルオキー村の村長である。
アルド「ああ‼ 爺ちゃん。少し寄っただけだよ。でも、また直ぐに出掛けなくちゃいけないんだ」
そして今のアルドにとっては威圧してくる妹、フィーネが放つ重圧から解放される為の一筋の光明でもあった。
村長「そうか……。うむ、気を付けて行くんじゃぞ」
しかし、その窮地を救った恩人である村長の寂しげな顔に期待は機会に変わる。
年端もいかない子供の頃に拾われてから十数年、共に長い時間を過ごし、家族である村長の顔に困り事のあるような気配を察したからである。
アルド「? どうかしたのか? なんだか元気がないみたいだけど」
村長「うむ。実はな、ガレク湿原にタチの悪い魔物が現れたようでな。様子見を誰かに頼もうと思っておった所なんじゃ」
恩返しをしたい。その感情も含めて、村長の悩みには出来る限り力になっておきたい。
アルド「ガレク湿原に魔物か……俺の用事はリンデ港なんだけど、そういう事ならついでに少し見て来るよ」
そんな想いに駆られる中、村長の口から洩れた村の重大事に考える間もなくアルドは心を決めた。
アルド「これでもバルオキー警備隊の一員だし、倒せそうな魔物だったら討伐しとく」
本来の職務を私情で放置しがちな自分を自虐しつつ、村長を安堵させるために胸を張って自信を見せつける。育ての親である村長が恥じる事の無い息子としての自覚。
村長「うむ、すまぬが頼まれてくれ。くれぐれも油断はせんようにな」
そんなアルドを頼もしく思い、村長も小さく笑って。
アルド「ああ。気を付けて行くよ」
アルド「あ、フィーネ。ちゃんと次は洗濯も他の家事も手伝うから」
フィーネ「うん。期待しないで待っているね」
見送られる旅立ちの情緒、妹のフィーネにも一声かけてアルドはガレク湿原へと歩みを始める。
フィーネ「……行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
その背に、妹のフィーネだけが一抹の不安が滲む声を漏らすのだった。
***
アルド「さて、ガレク湿原に来てみたけど……どの魔物がそうなんだろ?」
湿地帯特有の肌にこびりつく湿り気を拒むように腕を組み、アルドはその地に立つ。
眺める景色は全てが淡い薄緑色を纏い、混沌とした何者かも分からない生き物の声が今にも響き渡りそうな神妙な雰囲気である。
すると、ガレク湿原の先にあるミグランス城下町の方角から早速と魔物の声が聞こえた。
魔物「……ウギャ‼」
アルド「⁉」
しかしその声は想像していた唸り声でも威嚇でもなく、ましてや誰かに襲い掛かる声でも無い。それを不審に思ったアルドは声のした方向へと急いだ。
そこに居たのは——既に何者かに倒された様子の魔物と、
シオン「……恨みは無いが、牙を剥かれたなら仕方がない。倒させてもらった」
見るからに東方の大陸から来たのであろう文化圏の違う衣服を着た男であった。
シオン「ん……貴殿は、以前どこかであったであろうか」
恐らく村長が言っていた魔物であろうこの辺で見掛けぬ魔物を先に狩られ、唖然とした佇まいで驚いているアルド。
その姿に気付いた男は、アルドの顔を真っすぐに見つめ問い掛ける。
鞘に刃を納める様が美すら擁する強者の証。
アルド「どうだったかな、アンタみたいな強い人を知ってたら忘れるわけ無いと思うけど」
男の問いに対し腕を組み、腰の剣に手を触れる気が無い事を示しながらアルドは出来る限り温和に男の質問に答えた。何者かもわからぬ強者に敬意と魔物を代わりに討伐してもらった感謝を伝える為に。
だが——、
シオン「そうか……私は用がある故、ここで失礼する。では——」
アルド「あ、危ない!」
倒された魔物によく似た他の魔物が東方の男の背後に迫っていたならば話は別である。
咄嗟にアルドは、剣を抜いた。
——魔物との戦闘。
トドメの一閃。勢いよく振り抜かれたアルドの剣は、見事に魔物の肢体を捉える。
その一撃によって打ち倒される魔物、やがてガレク湿原に静寂が戻り、アルドは剣を納めて今一度、東方の男の方に向き直った。
シオン「……」
恐らくアルドの戦いぶりを観察していたのだろう男は、ただ黙しアルドの強さを認識する。
すると、アルドは開口一番、男に言葉を贈る。
アルド「ごめん、たぶん助けは要らなかったよな」
互いを認め合う強者同士の言葉なき会話の後、こちらには敵意は無いと改めて東方の侍に敬意を示す。すると東方の男は静かに首を振った。
シオン「いや、謝ることは無い。感謝する」
そして言葉を述べながら刀の柄の先に置いていた掌を落とし、戦意を解く動作。
空気に貼られていた緊張の糸が僅かに緩み、両者の顔にも目には見えない安堵が浮かんで、普段から湿気に満たされたガレク湿原に温和な雰囲気が混じる。
シオン「なにか礼をしよう」
まるで男は絵物語で見るが如き佇まいでそう言った。義を重んじると伝承に聞いていた通り、ミグランス王国の騎士とは、また少し違う硬さのある深い礼節。
普段からあまり格式張らない生活を送る村育ちのアルドに些かの緊張が走る。
アルド「いや、そんなのいいって‼ むしろ俺の代わりに村を困らせていた魔物を退治してくれたんだ。こっちが礼をしたいくらいだ」
突然の提案に驚きもあったが、本能的に東方の男が進呈するという『礼』を拒否するアルドに対し、
シオン「いや……それでは渡世の義理に反する。私は村を救う為に魔物を斬ったわけではない。それどころか私は……」
東方の男も頑なな様子ではあった。しかし、単純に義理を重んじているだけではない事は東方の男の表情が曇った所を見るに明白であって。
むしろ、何かしらアルドの未だ知らぬ所での事柄に対する贖罪を求めているようだとアルドは感じた。
アルド「ん? どうかしたか?」
故に尋ねる。アルドの性分と謳われる人の良さが無意識に漏れ出た形で。
シオン「……いや、何でもない。むっ……‼」
だが東方の男は、そんなアルドを一瞥し、そして語る事は出来ないと目を閉じる。閉じたとアルドも思ったのだが——、突然にアルドの背後に歩み寄る存在に気付き、
そして——、刮目したのである。
ヴァルヲ「ナァァ……」
猫——、紛れもなく黒い猫。その鳴き声も、歩き方も、何もかもが猫だった。
アルド「ヴァルヲじゃないか。なんだオマエ、ついてきてたのか?」
東方の男の視線から、その見覚えのある猫にアルドも気付き、声を上げる。
その猫はバルオキーの村にてアルドや妹のフィーネ、村長と共に暮らす一匹の猫、ヴァルヲであった。アルドの言葉の通り、ほんの気まぐれにヴァルヲはアルドの後を追いかけてきたようである。
だが、ヴァルヲもアルドより遅れて気付く。アルドに追いついた先で自分に向けられる熱い視線に——、
ヴァルヲ「ナ⁉」
シオン「……煮干しを食うか?」
本能で生きる猫、ヴァルヲの視点から見れば顔に見覚えのない屈強な男が懐に手を忍ばせ、歩み寄ってくる。そんな光景が目の前で展開され、毛肌が逆立つヴァルヲ。
ヴァルヲ「フシャーー‼」
警戒と威嚇、ヴァルヲは思わず逃げ出した。
シオン「……」
アルド「……」
結果。二人と一匹が、また二人に。
何故だか見てはいけないものを見た気がしたアルドは東方の侍に気を遣い、背を向ける。
すると——、
シオン「では、私に何か出来る事があれば何でも言うといい。恩を返すのも武士の務め故」
彼もまた何事も無かった様子で話を元の流れに戻し、アルドの視線も取り戻す。
アルド「あ、ああ……そうだな。じゃあ、その煮干しをくれないか? ちょうどリンデ港に魚の煮干しを貰いに行く所だったんだ」
そんな東方の男の振る舞いに何処となく申し訳ない雰囲気を滲ませつつ、アルドは頼み事を思案し、そして答えを出す。
しかし東方の男には、その答えが僅かばかり意外なもので男自身を気遣ったものだと瞬時に理解する答えでもあった。
シオン「……この煮干しでいいのか?」
静かなる疑問符。見ず知らずの他人に見せてしまった失態に続き、気まで遣わせてしまった負い目が加わり、普段はあまり揺るがないのであろう表情筋が何処となく険しく曇る。
けれど、アルドにはそこまで彼を慮る神経も悪意もなく——、
アルド「そうだな。持っていたらヴァルヲ……さっきの猫の分も貰えると助かるよ」
とても朗らかに、肩の力が絶妙に抜けた嘘偽りなさそうな笑みを東方の男に贈る。
シオン「そうか……では、少し多めに渡しておこう」
この男は、きっとそういう男なのだろう。アルドの根底に流れる人間の善意に、さしもの東方の男も頑固比べの勝利を譲り、敬意を込めてアルドの些細な頼みを了承する。
アルド「行く手間が省けたよ。助かった」
シオン「縁があればまた会う事もあるだろう。それでは」
そうして和やかに締め括られる一つの出会いの終結、
アルド「……さて、じゃあエルジオンに戻るか」
残すもう一つの出会いの行く末が自分に何をもたらすかを期待しつつ、アルドは未来へと向かうべく背を伸ばしてガレク湿原の空を見上げるのだった。
***
曙光都市エルジオンにて武器屋は何処かと尋ねれば、通りがかりの人間は真っ先にこう答えるだろう。
ガンマ区画のイシャール堂、と。
そんな色々な意味合いで有名な店に歩を進めたアルドは、店舗の軒先で目的の人物たちが佇んでいる姿を発見する。
エイミ「あ、アルド。戻ってきたのね」
また、逆もまた然りとアルドに姿が見えたならばアルドの姿も向こうからも見えて。待ちかねていた様子のエイミがアルドへと声を掛けた。傍らで茫然と景色を眺める謎の少女の小さな体がアルドの歩いてくる方向に向いたのはその後の事である。
アルド「ああ。色々あったけど、魚の煮干しを手に入れてきたぞ」
一方、エイミの呼びかけを受けて、自分が言いつけを守らず少々の遠回りをしたことや手に入れた経緯を有耶無耶にしつつ、旅の戦利品の入った袋を懐から取り出して得意げなアルド。イシャール堂の主張の激しい派手目な軒先に足を止め、待っていた二人の顔色を交互に眺めて。
すると、
少女「……食べられるもの、持ってきてくれた?」
小さく心がないような素朴な表情がアルドを見上げて尋ねる。その表情は感情の読み取り難い表情ではあったが、何処となく不安げ。
アルド「え。ああ、うん。どうかしたのか? そういえば、なんだか焦げ臭い気が……」
そんな不可思議な気配に戸惑いながら霞がかる少女の訴えを察知したアルド。ようやく意識を二人以外に向けると、アルドは武器屋ではあまり匂う事ない臭いに気付く。
しかし無意識に周囲を見回すが、特に焦げ臭さの元凶は見つけられず彼は眉をひそめる。
だが、その彼がこれ以上、焦げ臭さについて考えるのを阻止すべく動き出したのはエイミである。
エイミ「……まぁ、こっちも色々あってね」
省略した説明、少女の一歩前に歩み出て彼女は大雑把に頭を掻く。
エイミ「よし。次は上手くやるから。魚の煮干しも火を通した方が良いのよね」
それからエイミは気分を新たに、掌をアルドへ真っ直ぐに差し出し頼んでいた魚の煮干しを要求する。しかし、そんな何かを隠している様子のエイミの態度に感じる、とてつもなく嫌な予感。
アルド「……次?」
エイミ「と、とにかく‼ 私が料理するから魚の煮干しを渡して」
疑心は時間を追うごとに大きくなり、心の底からジワジワと不安が湧き上がって。そしてエイミが慌て始めれば、殊更に不安の色合いは濃くなっていく。
アルド「え、あ……いや……」
どうしたものか、取り敢えず懐から既に出してしまっていた魚の煮干しの入った袋の処遇を迷うアルド。安易にエイミに手渡してはいけないという直感と仲間を信じたい心が葛藤する。そんなアルドの躊躇いに対し、
エイミ「アルドは料理なんて出来ないでしょ。私に任せなさい」
痺れを切らしたエイミが、逃げる獲物を捕らえる肉食獣の如き掌を伸ばす。
その時だった——、
少女「……‼」
肉食獣が獲物を捕らえる寸前の一瞬にして極限の集中の隙を突き、死角から小鳥の嘴の如き小さな手が魚の煮干しの入った袋をエイミより先に捕らえ、掠め取る。
アルド「あ‼ 魚の煮干しが……‼」
シュタリと音の聞こえそうな着地、突然の展開に唖然と袋の行く末に視線が流れるアルドとエイミの二人。瞳に映るは今まで俊敏性など、まるで感じることの出来なかった少女の喜びに満ちる姿。
少女「やった。これなら、お腹いっぱいに……」
そして少女は勝ち取った獲物を眺め、言葉を漏らす。尚も驚いたまま体を硬直させるアルド達。だが、次の瞬間——、アルド達の驚きは少女の意外な素早さにではなく、別の問題に対して向けられる。
雷鳴——捻られた力の唸りが悲鳴の如く、音を弾けさせて。
エイミ「え、アレって……もしかして時空の穴⁉」
イシャール堂の軒先から少し離れた位置の空間が突如として歪み、エイミの言葉通り穴のような形状に渦を巻く。かつてと言わず、これからもアルド達を困難と騒動に引きずり込む災厄の予兆、時空の穴。それが、まるで少女を迎えに来たように意志を持っているが如きタイミングで現れる。アルド達の驚きは底が見えぬものへとなっていた。
少女「早く行かなきゃ……‼」
アルド「待つんだ‼」
だが、時空の穴の登場を待ちかねていたかのような少女が駆け始めれば、驚いている暇など投げ捨てなければならない。
エイミ「アルド‼ すぐに追うよ‼」
アルド「ああ‼」
時空の穴の向こうへ躊躇いなく消えた少女を追い、アルド達もまた、躊躇いなく時空の穴に飛び込んでいくのであった。
——。
アルド「ここは……?」
エイミ「どこかの施設内……というか、船の操縦席みたいな……?」
時空の穴の向こう側、着地した先は静寂を極めたような一目で人工物と分かる屋内。エネルギーが枯渇しているのか遮断されているのか薄暗く、光源の非常灯が心許なく寂しさに震えているようにも思える。
少女「……ねぇ、ゴハン持ってきたよ。食べて」
そんな施設の印象と実態を探っていると、少女の声が聞こえ、アルド達は追い掛けてきた少女の姿を発見して。
アルド「その人の、お腹が空いていたのか。え……‼」
近づくと少女の傍ら、部屋に横たわる男の姿も見つけ概ねの状況を察するアルド達だったのだが——、アルド達は少女の知らぬ男の秘密をも悟ってしまう。
エイミ「……⁉」
明確な死の気配。静寂の向こう、虚無の余韻。少女の語らいに何の反応もない男は、紛れもなくそれらに包まれ、死んでいた。
少女「お腹、空いてないの……? なんで動かないの?」
アルド「……ねぇ、君。この人は誰なんだ?」
素朴に男の亡骸に問いを続ける少女に向けて膝を着き、アルドは言葉を重く静かに紡ぐ。
非情な事実を告げるべきか否かは、まだ決めかねていた。
少女「……私に、ご飯をくれた人なの。だから自分の分が無くなってお腹が空いて、動けなくなっていたの」
寂しげに事情を説明する少女。それに耳を傾けつつ、アルドの傍らに居たエイミが男の亡骸の脇に落ちていた一冊の本を見つける。
エイミ「……日記ね。きっと、その人の」
近くに電子機器の端末も見かけたが、時間の経過を示すように随分と埃を被っており使われていないようであった。それに視線を流しながらエイミは本を開き、読み始めて。
男『xxx年……私達を乗せた船は、空を飛んでいたはずだった』
男『しかし、船は突然の地震のような揺れに見舞われ、空間の歪んだ穴の中に引きずり込まれてしまった』
男『気が付くと、故障した船は海底に沈んでいて私たちの脱出は不可能と思われる』
男『今は私以外の乗組員が他の部屋で生きて居るのかも分からず、もう神に祈る事しか出来ない』
本に記されていたのは、恐らく電子機器を使えなくなってからの男の日常。絶望を嘆きながらも希望を手探りで探す物語。
アルド「……時空の穴に吸い込まれた遭難者か」
読み進めていく本の傍らで呟くアルド。災難に見舞われた者に黙祷を捧げるが如く、もはや何一つ言葉を語れぬ亡骸に思いを馳せて。
エイミ「『私と、この小さな命の二人で助けを待つことにしよう』」
アルド「君は……その小さな命なんだな」
悲痛を感じる文脈に胸を刺されながら、アルド達は未だに男の亡骸に話しかける少女の姿に再び目を向ける。或いは、現実に目を向けた。
少女「……ねぇ、どうして動かないの?」
エイミ「その人は……眠っているの。きっと、凄く……疲れて眠りたいのよ」
アルド「エイミ……」
それでも——幾ら現実に目を向けようが、残酷な真実を告げられる非情さを持つことは二人には叶わない。共感できるエイミの選択に、アルドもまた胸を痛めて。
少女「じゃあ、もう少ししたら起きる?」
殊更に痛めつけて。凶器にも似通う純朴に、小さく噛んだ下唇。
エイミ「……そうね。だから起きるまで、お姉ちゃん達と一緒に居ましょう」
エイミ「その人が起きたら……きっとアナタを迎えに来てくれるから」
彼女は、声色を意識する。出来る限り明るく、少女の注意を自分に集中させるようにハッキリと一つ一つの音を強調し、尚且つ優しげに威圧せぬように。
少女「……、……」
そんなエイミの説得を受け、少女は少し戸惑ったようだった。自らを誘うエイミの笑みと沈黙を貫く男の寝顔を交互に見交わし迷いの岐路に立つ。
アルド「……エイミ、もうすぐ時空の穴が閉じそうだ」
すると無情に過ぎゆく時の結露がアルドに意図しない追い打ちを少女に仕掛けさせて。
エイミ「さぁ、お姉ちゃん達と行きましょう。ウチで、たくさんゴハンを作ってあげる」
少女「……うん」
差し出された手、自己修復により閉じかける時空の穴。純朴な少女ですら直感的に理解する離別。静かに眠る男の亡骸に最後に少女は振り返る。
——答えは既に出されていた。
***
エイミ「……」
アルド「……」
その答えをアルド達が知るのに、そう時間は掛からない。再び時空の穴を通り抜け、イシャール堂の派手目な軒先が視界に入り、少女に嘘を吐いた罪悪感によって漂う重い沈黙をアルド達が痛烈に感じている頃合い、彼らは気付くのだ。
エイミ「……‼ アルド、あの子は⁉」
アルド「居ないのか⁉ まさか……そんな‼」
繋いでいたはずの少女の小さな手の感触が何処にもなく、エイミの心は弾け飛んだように急いた。そしてアルドも咄嗟に首を振り辺りに少女の姿を探す。
されど、やはり少女は見つからない。
エイミ「探しに行かなきゃ‼」
アルド「だけど……時空の穴は、もう……」
ほぼ錯乱に近いと述べても良い程に事を急くエイミ、その慌てぶりがアルドに不思議と冷静さを保たせる。閉じられた時空の穴、それがあった場所には読めぬ空気が当たり前のようにあるばかり。
しかし——、エイミは持っていた。少女の掌の感覚は失えど、もう片方の手で弔い代わりに握っていたソレを。
エイミ「そうだ‼ この日記‼ 遭難した船や時代が分かれば……もしかしたら」
日記。或いは手記、航海日誌。少女が目覚める事を願っていた哀しき亡骸が抱いていた物、感情の集約、日々の記録、生前の記憶。
アルド「とにかく先を読んでみよう‼ まだ可能性はゼロじゃない‼」
一縷の希望とアルドも頷き、慌てて日記を開くエイミに近付き共に読むべく開かれていくページに顔を覗かせる。
そこに書かれてあったのは——、残されていた言葉は——、
男『xxx年、この小さな命は、いつ何処から船に迷い込んだのか……しかし永久とも思えそうなこれからの孤独な時間を彼女は温めてくれる。私にとって、その存在はまさに私の心を救う女神のようだった』
アルド「迷い込んだ……?」
男『彼女は、とても私になついてくれた。少し食いしん坊でイタズラが好きなのが玉にキズだ。可愛いこの子を彼女と呼ぶのは少し寂しい、名前を付ける事にする』
希望の灯を両方の掌で包み、守るような、慈しむような、とても優しく、穏やかで、微笑ましい、哀れに嘆く絶望の詩。
エイミ「……あの子の事じゃないの? なに……この違和感……え⁉」
アルド「どうしたんだ⁉」
そして残された言葉を読み耽っていく彼らは、やがて一つの真実に辿り着く。
男『キロノ。クロノス博士の所に居た猫の名前を少し変えて名付けた』
アルド「……‼ 父さん……博士の知り合いなのか……‼」
男『いつか……ここから帰還し、あの立派に家族を守る勇敢な猫に嫁げるように』
見知らぬ男の手記に刻まれたアルド達には縁深い人物の名。唐突に知らされる奇縁の存在に驚きを禁じ得ないアルド達。
エイミ「……」
アルド「……」
と、同時に彼らは驚きと並行して感じていた違和感の正体について思考していた。
その事について、まだ纏まりのない結論を先に紡いだのはエイミである。
エイミ「私……おかしい、のかな。これって、きっとネコの話だよね?」
日記の筆者、遭難者の男が名を付けたクロノス博士の飼っていた猫に嫁げる存在。単純に考えれば、それは猫と同種の猫しか居ない。
アルド「ああ……けど俺も、たぶんエイミと同じ事を考えている」
そして嫁げる、嫁に行くと聞けば自然と雄の話では無くなって。信じ難いと思える程の荒唐無稽な勘がアルド達の脳裏に過ぎり、
アルド「これがきっと、あの子の話だって」
出会った少女の正体が猫であるなどと、確信めいた感情を抱かせる。
多くの謎を解き明かし科学という蓄積に彩られたエルジオンの街並みに、途方もない夢物語の花が咲く。それは徒花か、いずれ結実する出会いか。
その答えを知る者は、まだ——居ない。
***
一つの真実にアルド達が辿り着いた頃合い。少女は遭難したと思われる船舶の屋内にて、とある男の亡骸の傍らに尚も立っていた。
少女「……起きるまで、静かに待っているね」
少女「私も……少し、眠くなってきちゃった」
そう言って光に包まれた少女。光が終息し、現れるのは一匹の白い猫。
静かに眠る男の横に、寄り添うように歩み寄り、彼女もその身を丸め、
そして——目は閉じられる。
男『キロノに最後の餌をやり食料も尽きた。もう、私も限界だろう。神よ、いやキロノを救えるなら誰でもいい、悪魔でもいい』
男『誰か……キロノに、広い空と自由を……もう一度……もう一度……』
男『私を孤独と絶望から救った、この愛しい小さな生きがいに輝かしい未来を——』
とある受難者の日誌には、尊き命への祝福が願われていた。
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