第29話 花言葉
そこに立つ彼女を見て、僕は自分の中の疑惑を確信に変えた。
「どこ行くの?」
聞き慣れた愛おしい声のはずなのに、僕の口は動いても声は出なかった。
彼女の声は嫌に反響してとても歪に聞こえたから。
瞬きをしない大きな瞳は、僕の目を放さず表情も一瞬たりとも変わることはなかった。
「い、いつから……」
僕がやっとのことで発した声に対して彼女はきょとんとしていた。
「なにがですか?」
機械のように喋る彼女に何も返せないでいると立て続けに彼女は話し出した。
「先輩の知りたいこと、なんでも教えてあげます。先輩と初めて会ったのは高2の冬、12月22日12時34分です。その日好きになって、その日から毎日先輩のことを見つめていました。先輩が大学に入学してからの4月30日18時26分、電車で隣の席に座りました。先輩はスマートフォンでゲームをしていて私が横から見つめていることには全然気が付いていませんでしたね。先輩がアルバイトを始めたのは7月3日、19時23分に私は先輩にオーダーを取ってもらいました。オムライスとリンゴジュースです。9月27日14時3分、先輩は図書室でレポートを書いていました。音楽を聴きながら作業していたからか私が後ろに立っていることには全く気付いていませんでした。12月24日19時47分、先輩はアルバイト先の女と一緒に帰っていました。私は楽しそうに隣を歩くその女が許せませんでした。先輩と別れたところで後ろから思い切りぶつかると女は転び、こちらを見ましたが私の顔を見て恐怖を滲ませたように見えました。2月7日10時38分、先輩は大学の食堂でお昼ご飯にB定食を食べていました。私はその斜め前に座って先輩と同じB定食を食べました。先輩が食べる順番で食べるとよりおいしく感じましたよ。それから私は先輩と同じ大学に入学することができました。入学までに間に合うよう整形もしました。高校時代、田口先輩と話していた時に聞いた顔のタイプを参考にして整形したんですよ、可愛いですか?……高校の時は先輩を長く見つめていられるのは土日だけでしたが大学では平日もずっと見つめていられてすごく幸せでした。安田とかいう女もあのアルバイトの女も百瀬も、先輩が断れないのをいいことにつけこもうとするなんて最低ですよね。大丈夫です、先輩のことは私が守ってあげます。先輩は優しすぎるから、私が守ってあげないといけないんです。大学の間も、社会人になっても、アルバイトになっても先輩のことを一番よくわかってて好きなのは絶対にこの私です。今までもこれからもずっと、先輩は私がいなきゃだめですよね?私の部屋に入って、戸棚の中から私のことばかり見てましたもんね。スマートフォンをサイドテーブルに置き忘れるなんて抜けてるところも、双眼鏡なんて買って私のこと見つめてる可愛いところも全部好きです。私は田口先輩の時のようにならないために今までとても慎重に行動してきたんですよ?そして、優しい先輩につく虫からもちゃんと守ることができた。先輩には私が必要なんです、先輩は私以外じゃだめなはずなんです」
ただ話を聞くだけの僕を見ながら彼女は細かく今までの出来事を現在に至るまで話し続ける。その物言いには今までの柔らかでふにゃりとした笑顔はどこにもなかった。ただ、泥が押し出されていくような重たくどす黒い感情が渦巻いている感じだった。
百瀬さんの言っていたことが本当で、安田さんの電車での振る舞いにも納得がいった。
「大変だったんですからね?ここの部屋の人を追い出すのも。先輩の部屋がよく見える部屋ってここが正面だったから、絶対住みたくてここに住んでた女の人には出て行ってもらったんです」
「どうやって…?」
少し間をおいて、彼女は秘密ですと口元だけ笑って見せた。
異様な笑みが冷静を保とうとする僕を見透かしているようだった。
「先輩が私の家に来た日から今日まで家の中のカメラが先輩の今までの行動を記録しています」
彼女のその言葉は遠まわしな脅しでありその本気度が、声色から十分に伝わってくる。
そこまで聞き届けて、僕が思わず笑うと彼女は僕の反応が予想に反していたのか、少し口を開けて瞬きをした。
「どうして僕が逃げるの?」
僕は驚く彼女にそう続けた。
僕が小学校のころ、好きになった女の子を毎日追いかけていた。
登校も、休み時間も、下校中も。彼女の後ろ姿をすっかり見慣れたと感じて僕は勇気をかき集めて彼女に声をかけた。
具体的になんて声をかけたかは覚えていないけど、その女の子から返ってきた言葉は今も忘れていない。それから僕は気持ち悪がられていじめられるようになった。
そこで初めて自分のしたことがいけないことだと気が付いたんだ。
それからはそうしないようにと必死でなかなか人間関係を構築することができなかった。
ただ人間関係を築いてこなかった代償は大きかった。うまく人とコミュニケーションをとれなくなった僕は、社会人として失敗し、心に隙間ができた。
心の隙間はどうにか自分の中の欲求を、他の人には理解してもらえない行動を抑える力を弱らせる。誰にも理解してもらえないと思っていた、自分の愛を表現する方法が他の人とは違うだけで、心から愛していることは同じはずなのに。
どうして理解してもらえないんだろう、理解されない行動をすることが間違いなのか、理解できないと理解しないことが間違いなのか。僕にはどっちが正しいのかわからなかった。
答えがわからないまま大人になった僕は同じことを繰り返している。小学校の時と同じようなことを、またはそれ以上に一線を越えた行動をした自覚もある。
それなのに、この恋は小学校の時の恋とは違う経過をたどる。
やっぱり、自分の行動は間違ってなどいない。受け入れてくれる人かそうじゃないかだけで、自分の恋愛のやり方や進め方は全然間違っていなかったということだと思う。こんな風に行動していた僕を彼女は可愛いと言ってくれた。
そんな彼女もまた、僕と似ているのだろう。僕と同じように、愛の表現の方法が他の人とは違っただけで、気持ち悪がられて避けられて、傷ついてきた。
僕を好きでいてくれたから、僕を守ろうとしてくれた。こんな僕を好きだと言って、隣にいるべきは自分だけだと言ってくれた。
彼女の表情を見ても、その想いが真剣なのは誰でもわかることだろう。
僕の気持ちはフラフラと揺れてしまう瞬間があるけど、彼女の想いはとても一途でもう何年も僕のことを見つめてくれていたのだからこれほど嬉しいことはない。
嬉しくて、アルバムを見た瞬間からずっと心が期待に満ちていた。
つま先から全身に鳥肌がたつほど感動し、背筋がぞくぞくとした。
僕の愛する人は僕よりずっと前に僕を見つけて、見つめていてくれた。
自分が表現できる愛情というものを彼女のように同じ形で返すことができる女性はそういないだろう。もちろん僕もまた、それを喜んで受け入れることができる。
僕たちはこれからお互いなしでは到底生きていけないほど愛し合ったり、近づいてくるものを排除したりしてお互いの世界を守っていく。他の人には受け入れられない、誰も来ることのできない世界で、僕たちは永遠に愛し合っていくだろう。
玄関に飾られたアイビーのツタは壁に沿うように伸びている。僕は花言葉である永遠の愛を祝福するようだと思った。
あれからもずっと夢見ていた彼女の温もりを求め優しく抱き寄せる。彼女は一瞬固まったように体を硬くしたが、すぐに背中に腕を伸ばし受け止めてくれた。
永遠の愛、僕らの間にはそれが確かなものとしてここにあった。
「僕の実家にもアイビーが飾られている。アイビーの花言葉って知ってる?」
彼女は腕の中で頷いた。そして続けてこう言った。
「死んでも離れない、でしょ?」
アイビーの花束 おはじき @ohaziki33
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