新たな世界へ

 春が近づき、明度の上がった日光が室内に差し込む。クーラーの音が響く中。叔父と僕はいつものように黙って食事していた。出立前の最後の食事だ。でも特に変わったところはなかった。話すことは昨日までにほとんど済ませた。

 納得いかない叔父を言いくるめて引っ越すことに決めた。渋っていたのは僕の精神面と健康状態が心配だったらしい。でも車で泣いた後、精神面は快方に向かいつつあった。心情を吐露したことと、皮肉にも叔父から離れることになったからだろう。

 驚いたことに負の感情を吐いたことで、僕は自分の弱みを里見に出せるようになっていた。里見の過去について聞いても自分より相当苦痛な目に遭っているとは知っている。同じように殺意を持ったことがあって、普通に生きているように見えた。それから最近は正しく生きている人間も只正しい行動をしているだけだからかもしれないと思うようになった。銃乱射事件と友人の自殺から、社会から零れ落ちてしまった気がしていた。事件に巻き込まれたことのない一般人が全く異世界の天上人に見えていた。でも勝手に美化していただけだ。列車で見た景色のようにガラスがきれいなだけで、そのものが変質するわけじゃない。

結局僕が欲しかったのは救いではなく、人の弱点だったのかもしれない。反倫理的な思想に至っても、愚痴って、そこで誰かが話を聞いて、それで自己反省や満足して日常に帰る。それができるだけの他人の弱さがあることにもっと早く気づきたかった。昔から人との関わりが少なかったから気づくのに随分かかってしまった。恥ずかしさと後悔ばかりが満ちていた。だが、それでも気づけただけいいだろうと納得させて僕は日々過ごしていた。

 多分叔父に言ったら叱られるか、黙るかどちらかだ。危険思想は引き留めるために否定されるべきでもあるけど、そうしなければ苦しいなら聞いて欲しい。だが叔父は叔父の生活があって受け入れるだけの余裕がないことはわかっていた。だから叔父とはいったん距離を取れるのはありがたかった。

 食事を終えて、手をあわせる。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした……食器は置いていってください」

「いいのか」

「はい。暫く帰らないので」

「……気にしなくていい」

「いつも片付けてて頂いたじゃないですか。本当にありがとうございました」

 口をあけたまま数秒止まった。言葉を選んでいる。

「じゃあ、頼む」

「はい」

 叔父は自分の部屋に戻り、僕は食器を集めて台所に持って行った。最近は体も少し軽くなり、皿を片付けられるところまであまり疲れず出来るようになった。一人暮らしになるから身の回りのことが出来るか心配だったから洗ってみた。二人分の食器を洗い、拭いて元の場所に戻す。残った食材を冷蔵庫に戻して、机を拭いても少し疲れる位だった。体力が無いから疲労は否めない。でも以前よりはずっと出来ることが増えていた。

 立ち上がって誰も居ない居間を見る。二人用のソファとガラス扉の棚の上に置かれたテレビ、二人分の椅子が置かれたテーブル。叔父か一人で残される。散々恨み言を言ってしまったが、ここで一人で暮らすのは相当辛いだろう。浮気以外は叔父は只の人だった。浮気相手じゃなければ誰かを連れて食事したりして欲しいと心から祈っている。

 僕は生活した空間に頭を下げて、自室に戻った。

 Yシャツにジーンズ、その上にジャケット、その上にトレンチコートを着て玄関に出る。トランクとリュック一つの小さな荷物が持って行く分の荷物だった。後はほとんど送ってある。

 靴を履いていると、叔父が革のトレンチコートを着て手に四角い鞄を持って現れた。僕の隣で革靴を履く。

「祭、見送りに行く」

 見送りと言ってもマンションの入り口に行くだけだ。長田さんが車で待っている。荷物を載せたら最後の別れだ。

「……ありがとう」

 顔を上げず礼を言う。

 僕たちは黙って部屋の外に出た。穏やかな青空に灰色の雲が所々散らばって流れている。寒さは少しだけ和らいで、朝日が暖かい。

 叔父が家の鍵を閉めて、黙って端のエレベータに向かう。上のランプが一階から光り、六階を点灯すると扉が開いた。砂埃が床に薄く広がるエレベータに乗り込み、一階を押し、扉が閉じた。階を示す文字盤に下矢印が点灯し、浮遊感をもってエレベータが下がり始めた。

「祭」

「何ですか」

「もし、色々苦しいことがあれば、すぐに連絡してくれ。それで、周りの人をたよって、食事も無理なときはコンビニに頼ってくれ」

 目だけ動かして叔父を見る。思い詰めた様子で扉を見ていた。

 まるで実の親のようなことを言う。多分最後に献身や本音を出せるのが今だからかもしれない。

 ……結局向き合えなかった。

 僕は浮気について叩きつけるべきだと思った。へばりついた倫理観も剥ぎ取れば本能に負けると。そう吐き捨てて僕は口を開けて、

「そうする」

 正しい言葉か分からないまま声に出した。

 エレベータの扉が開いた。入り口には長田さんと里見が立っている。二人はこちらに気づき、こちらを向いて、すっと背筋を伸ばした。

 車に接近して、長田さんと里見が叔父に挨拶する。僕は軽く挨拶し、トランクケースを車のトランクに乗せる。

「最後に忘れ物はありませんか?」

 長田さんに最終確認を求められた。貴重品の入ったリュックを開いて中を見て、コートのポケットに財布とスマホが入っていることを確認する。

「大丈夫です」

「ならよかった。最後に、挨拶などあれば今のうちに済ませておいてください。暫く会えなくなります。悔いを残さないように」

 長田さんは言葉に反して心配そうな目をしていた。僕の恨み言を延々と聞いていたからだ。でも今は関係を破壊することはする気は無かった。

「叔父さん、叔父さんももし何か不安なことがあればすぐに連絡して下さい。もし無理なら、周りの人を頼ってください」

 叔父さんは驚いたように目を見開き、納得したような顔になった。

「ああ……気を遣わせてすまないな」

「いえ、色々あったので、まだ事件の心労もあります。辛くなったら病院とか、友人などを頼ってください」

 僕は叔父をまっすぐに見て言った。後ろめたさが少しだけ無くなって叔父を見ると、随分背が小さくなっていたことに気づいた。

 お互いに見つめ合って、叔父は頷いた。

「ありがとう、なんとかするよ」

「はい。お願いします」

 僕は頭を下げた。

「長田さん、僕からは以上です」

「……保護者の方からはお言葉ございますか」

「いえ。もう十分です」

「そうですか。では、暫く預からせていただきます」

「よろしくお願いします」

 叔父は深く長く頭を下げた。長田さんは真剣な表情になる。

 叔父が顔を上げて長田さんと里見が礼をする。

 二人が動き始めてから僕は後部座席を開けて中に入る。暖房が入っていたのか少し暖かい。

 長田さんがエンジンをかけて、シートベルトをつける。僕たちもシートベルトをつける。窓の外を見ると叔父がこちらを見つめていた。

「動くぞ」

 言葉と同時に車が動き出した。棒立ちの叔父が僕を見つめている。僕も目が離せなくなって、姿が後ろに消えても体を反転して叔父を見た。小さくなって黒点になり、角を曲がると叔父の姿は消えた。

 叔父は一人でこの正しい社会に溶け込み生きていく。僕が壊さなかったから、まだ正気を保って電車のホームの一人として生きていく。ふと気づいた。多分ホームに降り立つ人々は叔父のようにまともに見えて溶け込もうと必死なのかもしれない。ガラス一枚程の隔絶した隔たりはもしかしたらないのかもしれない。別れのせいか、妙に感傷的になってしまった。

 僕は体を前に戻し、座り込んだ。目が熱い。恨みしかないのに何故泣いているのだろう。

「ティッシュいります?」 

 里見がティッシュ箱を差し出す。一応貰っておく。泣くのは許せないから、里見に話題を投げる。

「なんで里見がいるんだ」

「夏目さんが逃げたときに追っかける役ですね。長田さんは運転中だから危ない」

「逃げ出しても行く場所無いから大丈夫だ」

「いやそんなこと言わないでくださいよ。少なくとも俺は勝手に友達だと思ってます」

「知らなかった」

「でしょうね。まあ、あっちの街に行ったら俺が、長田さんもいますから居場所はありますよ。ホームシックなら長田さんの家に行けばいいんです」

「勝手に未成年が立ち入るな」

「話くらいいいじゃないですか」

「……それくらいなら、夏目が今連絡先持っているからそこで話してくれ」

 そういえば病院でもらっていた。スマホを操作して登録者の少ない連絡簿を出す。すると勝手に里見が取った。

「いつの間に、俺まだ渡してない」

「今時間あるだろ」

「頭いいですね!」

 ひらめいたように里見が手早くスマホを出してタッチペンで操作する。こちらもスマホを出してお互い連絡先を交換した。叔父、祖母の墓を管理する寺、葎飛、葎飛の家の連絡先だけのスマホから少し増えた。

「これでなんかあっても、なんか無くても連絡してくださいね」

 里見は笑った。僕はついに決壊して、泣いた。

 車はインターチェンジから高速に入り、見知った街は小さくなっていた。 

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復讐にむかったら事件に巻き込まれた件 @aoyama01

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