会う

雪がまだ残った東京の朝、今まで瑠璃茂雄と名乗っていた春間信二に面会することになった。

 長田さんも最後に求めることが墓参りと春間との面会であることには面食らっていた。瑠璃じゃないがいいのか、何度か聞かれたが僕は何度も「はい」と答えた。自分が会いに行くはずの奴の本当を知りたかった。脅迫されて虚偽の真実を語る春間ではない今の姿が知りたかった。

 面会は思ったよりも早く決まり、なんと二日後に刑務所に向かっていた。相手の裁判と、僕の手続きの関係があった。長田さんが頑張ってくれたらしい。本人は全く気にしていないそぶりだ。本当に頭が上がらない。

 長田さんが同行して、刑務所の中に入り、透明な壁に隔てられた部屋に入る。椅子と机、透明中部しかない部屋はとても簡素で緊張感があった。

 扉が開けられ、春間が現れる。体はやつれていた。反省のふりをしているようで嫌悪感を催した。今は痛々しく思えた。

 扉を開けた職員に軽く礼をして、春間は地を踏みしめるように入ってきた。顔は瑠璃とは全く違う、細長く彫の深い顔をしている。

裁判で見た思い詰めた表情でなく、肩から荷の下りた開放感を感じているのか、強張った顔でなくなっている。40代のはずが60にも見えるほどにも見えた。獄中では考え事も多かったのだろう。

 春間は座り、職員が扉を閉めた。段取りは決まっていたが、対面すると質問が頭にあふれ何を言えばいいのか忘れてしまった。

 黙って向き合っていた。それが数秒か数分か過ぎ、相手の方から切り出した。

「初めまして、春間信二と申します」

 春間は深々と頭を下げた。

「長田宗介です。夏目が今回話しに来た」

 ふっと顔を上げて、目に涙を溜めた。

「本当にすまなかった」

 机に手をついて頭を下げた。

「顔を上げてください」

 さっさと話を終えたかった。僕は謝られる立場でもなかった。

 言われたとおり春間は顔を上げた。涙が頬を伝う。僕はどうすべきか分からない。むしろここに来たこと自体が正しいのか分からない。下手すれば解放されるかもしれない冤罪の被害者に事件について聞くことは只の野次馬みたいな考えがあるんじゃないか。頭の端に罪悪感が引っかかる。でも僕は只会って一言言葉を交わしたかった。そうしなければ今生の別れになってしまうかもしれない。

 実際に面と向かうと段取りの意味が無くなった。

 僕はとりあえず聞きたかったことを口に出す。

「冤罪……何故、本当のことを言えなかったんですか」

 これだけは聞きたかった。僕が憎んできた七年の理由が欲しい。第一に浮かんだのは亡くなった友人の家族だ。彼らは頻繁に裁判傍聴に行ったり、原告団として活発に活動していた。彼らの行動は嘘によってほぼ意味が無かったことになる。過ぎた金と時間も少ない価値ではなかった。

 春間は顔を伏せて、顔を上げてこちらを見た。 「私は結局向き合うことから逃げただけです。今考えれば裏で警察に告発しとけばよかった。そうすればもっと早く真犯人を見つけられたのかもしれない。何度考えても後悔ばかりです。突然同じ顔にされて、こんなことを警察が信じないと思っていた」

 普通はそうだ。僕もこの事態になるまで信じなかっただろう。唇を軽く噛んでいた。

「ずっと暗い井戸の底に居る陰鬱さだけが背にのしかかっていました。最近になってやっと捜査が動いて警察との面会を求められる様になりました。それでも相手の勢力の大きさが分からないから、証言を渋っていました」

「……はい」

 もうこれ以上の言葉は出ない。僕が憎んでいた捜査の曖昧さと、証言についてもう十分だった。もうこれ以上僕は彼を裁けない。罪がわからなかった。春間は被害者だ。もし罪があるとすれば暴走を止められなかった点くらい。何故止めなかった、何故真実を語らなかったのか、何故、何故、答えはすでに出ている。暴力に人は勝てない。僕は偶然武器を手に入れたからこちらに立てているだけだ。

「……この先はどうしますか?」

「話せる分は全て話しました。後は警察の方からの報告と、裁判の結果を待つ」

「もし仮に外に出たらどうしますか」

「被害者の方に謝りたい」

 やめておいた方がいい。正直謝られても困る。

 忠言すべきか迷った。春間の目は真剣だった。事件の犯人に人生をほんろうされた人に謝られても感情の置き所に困る。気持ちは理解できるがわざわざ来るのはやめてくれ。

 口が何度か開きかけては閉じる。僕が欲しいのは感情のサンドバックじゃないか、とも思えたからだ。

 僕の後ろめたさをよそに春間は懺悔を語る。

「自分の起こしたことに責任を取らねばなりません。関係者として、これからは誠実に包み隠さず生きていくことがせめて私の償いです」

 だからお前の罪じゃない。言いたかったけど、話を聞くと思えない。罪を勝手に背負うのは自分勝手だ。僕はそれを言えなかった。

 僕は言葉を失った。結局殺意を以て殺そうとした時点で、もう何も言えなかった。

 そのままポツポツ話して面会時間は終わった。胸には鉛のような重さが残っていた。


 外は澄み渡った青空だった。雲一つ無く、日の光が刑務所前の道路を隅々照らしていた。積もった雪がほとんど溶けて、もう隠すものはなくなっていた。

 少し歩くと駐車場が見えた。車の側に里見がいる。道路を眺めている。と、こちらに気づいて顔を向けた。

「ああ、どうも、お疲れさまです」

「さっきまでは居なかったじゃないか?」

「呼ばれて現場検証とかしてたんですよ。能力が有用だからたまに外でも呼ばれる。今回はついで」

「そうですか」

「中で待っていれば良かっただろう」

「外の景色見たかったんですよ。初めて来た場所なんで、できるだけ目に止めておきたかった」

「只の住宅街が面白いか?」

「結構街と違って面白いですよ。ほら、あれですよ、出張帰りの観光みたいな」

「さっさと帰るぞ」

「はあい」 

 僕と里見は言われたように車の後部座席に乗る。里見も同じく後部座席に乗った。長田さんが運転席に乗り、シートベルトをつけて車は出発した。

 ただ車の稼働音だけが静寂に響く。僕は肘をついて外を眺める。ビル街が目の前を流れていく。人が流れていく。

「夏目さん、どうでしたか」

 里見が僕に問いかける。僕は窓を見たまま返事した。

「特に新情報はなかった。ただ、分かっていたことを聞いた」

「そうですか。会ってみてどうでしたか?」

「……それを聞いてどうする?」

「犯罪者を特別視するきらいがあります。だから、夏目から見た春間はどう見えるのか、それを聞きたいです」

「里見!」

 長田さんがミラー越しに里見を睨み付ける。ミラー越しの里見は前を一瞬見てすぐにこっちを見た。

 イラッとした。でも結局は叔父に話さなければならない。準備みたいなものと自分を納得させて、少し経って感想を言った。

「別に、あいつは只の人間だったよ。言っていることも倫理観も一般人と変わらない……本当に、何故あそこまでの凶行に走ったのか分からない奴だった」

「そうですか。随分冷静に見ていますね。もっと感情的になってもいいんじゃないですか」

「……冤罪がほぼ確定している奴を怒っても仕方ない。お前も、そう思わないか?」

「俺なら殴りますよーガラス壁」

 里見をみる。両方の口端を下げていた。「当たり前だろ」といった顔だ。

「冤罪と、騙していたことはまた別の話だし、抑もあいつらが行動を起こさなければ事件も起きなかったでしょ。デモを起こすのは権利だけど、その前に人の管理とか色々することあっただろって言って素直にぶん殴ります。でも殺さない程度に殴りつけて、それから話を聞きますね」

「……殺意を持ったことがあるのか?」

「あー実は、僕の腕と足を切った人が居て、そいつはもう死んだけど今でも殺したい。君はもしかして初めて?」

「……七年前からずっと持ってる」

「そっかー。俺は、俺を捨てた奴を許さないし、引き取って俺を能力の過労で殺しかけた奴を憎んでるし、両腕と両足を切った解剖動画で儲けようとした奴を殺したい」

 一つ一つが地獄のようなことを平然と世間話のように言った。だが、妙な共感があった。

「里見」

 長田さんに声かけられる。優しくしかし切羽詰まった声だった。僕がショックを受けることを心配しているかもしれない。でも僕はむしろ嬉しかった。

「……だよな。僕もどの口でほざいていると思ったよ」

 言葉が流れ出す。

「だってさあ、あいつが償いをするなら冤罪のときでも出来ただろって思ったよ。僕は本当に信じていたんだ。だから冤罪でももっと早く吐いてくれとしか思えない。本当に、ほんとうに……殺したかったんだ」

 泣けてきた。結局倫理だの何だの言われても、殺意を持ってたんだ。

「僕はあいつを殺したかった」

「そうですか」

「今でも殺したい」

「めっちゃわかります」

「でもなんだかわからん奴が犯人だ。なんだか分からない片身も犯人だよ。僕は、逃げた奴を許せない。でも僕は……」

「春間が憎いんでしょう。積年の恨みは早々処理できるものじゃないですよ」

 頭では分かっている。これは逆恨みに変わっている。でも整理がつかない。

「どうすればいいんだ……」

 僕は静かに泣いていた。外の人々は帰宅時間か、スーツや学生服を着て駅に向かっている。僕は正しく生きられる人間じゃなかった。殺意を抱いた時点であの世界には溶け込めない気がした。

 里見が肩を貸す。僕は静かに泣いた。

 誠実に正しく生きられなかった僕への後悔かもしれない。正しく生きていれば友人も、祖母も、叔母も生きていけたのかもしれない。

 長田さんは黙って運転した。しばらく僕の泣き声だけが車に満ちていた。

 泣きつかれて、怒りが少しだけ残っていた。口から本音を垂れ流すのを止めるだけの体力は無かった。

「なあ、なんでお前は殺さなかったんだ」

 僕は問わざるを得なかった。直接的な苦痛なら僕よりも上なのに、何故そいつを殺さなかったのか。何か特別なものがあったのか。僕は投げかけた。

 里見は困ったように頬を掻いて、

「声かけされたってのが止まった理由ですね」

僕と向き合って答えた。

「声かけ?」

「そうです。義肢を体になじませる努力も僕の両腕足を切った奴と刺し違えるためだったんです。でも出発の朝に、ちょうど病院に来ていた長田さんに名前を呼ばれました。それだけで、正気に戻った気がしました。それだけです」

「それだけ?憎くなかったのか?」

「憎しみとかが消えたわけじゃないんですが、でも手は止まりましたよ」

「……またやろうと思わなかったのか?」

「たまに殺意が湧きますが、仕事で忙しくなって。ああ、仕事先の人はいい人だから殺意はないです。慣れるまで仕事に集中していたら、奴は死刑台に立ってた。他の人は相当憎く思ってもおかしくないけど、俺は仕事と勉強で殺意を覚える頻度は下がってた。あまり参考にならないと思いますが、俺はこういう風に生きてきました。はい」

 じゃあ僕と変わらないじゃないか。どうしようもない気持ちに包まれた。

 特別な理由もなく、ただ偶然僕は列車ジャック事件に巻き込まれたから社会に居る。里見も同じだった。個人ではどうしようもない理由でここにいることができる。考えれば考えるほど道理のなさに心が曇る。

 僕はただ何も考えたくなくて、里見の肩に顔を沈めていた。

 晴れ空の下、車道にはまだ雪が残っていた。


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