百度参り

彩瀬あいり

百度参り

 どうか、どうか。

 おとうちゃんを助けてください。




    ◆◇◆




 雲が月を覆い隠す夜、こっそりと家を抜け出した。

 薄手の衣は、夜半の冷気を直接肌に伝えてくる。着物の襟を合わせたところで、袖口や裾から入りこんでくる空気を断つことは難しい。

 季節も変わり、冷えるようになってきたが、綿を入れた衣を用意する銭がなかった。寝こんでいる父親に薬を買ってやることだって、苦労しているのだ。くうと鳴く空きっ腹は、井戸水をたんまりと飲んだところで止むものでもない。今年で七つになったなつ・・は、それでも辛抱して暮らしている。



 町から外れて、人の出入りも少ない場所に、なつの住む家はあった。

 今にも壊れてしまいそうなあばら家は、家というよりは小屋だろう。強い風が吹けばガタガタと揺れる戸板からは、ひっきりなしに隙間風がやってくる。

 そんな状態では、治るものも治らない。


 滋養のあるものを食べさせて、ゆっくり身体を休めることだ。


 医者はそう言ったけれど、家の惨状を目にして溜息をついていた。

 とびきり貧乏で、往診のお金すらままならないことを、医者は知っている。なつがもっと幼いころに亡くなった母を診たのも、この医者だ。

 当時よりも傾いたであろう生活ぶりを見るに、この男が回復する見込みは少ないと察せられた。しかし、震える手を掻き合わせる少女に対し、それを突きつけるのも残酷だろう。

 気休めにしかならぬ、そんなことしか言えない己を、医者は歯がゆく感じた。


 なつはといえば、医者の言うことをひたすらに信じるしかない。

 きっと父はよくなるはずだと、信じるしかない。


 ――だって無理だとは言わなかったもの。なら、望みはあるのだわ。



 だからなつは、通い始めた。

 家から小半刻ほど歩いた先にあるおやしろへ、百度参りをすることを決めた。

 名もなき社だ。

 どんな謂れがあるのかも知らないけれど、「願いごとがあるならば、あそこへ」と人のくちに上る場所。

 こそこそと囁く声を、なつはよく耳にしていた。駄賃を稼ぐために川へ入って貝を取ったり、使いっ走りをしたりと、大人たちに紛れることが多いからこそ、様々な噂が入ってくるのだ。

 けれど、なつは知らなかった。幼いがゆえに、知ることはなかった。

 大人たちの言う「願いごと」が、よいものばかりではないことを。

 どちらかといえば、ねたみやそねみといった感情であり、誰かを呪い、恨み、負の感情をぶつけるための場所であることを知らぬまま、なつはそこへ向かった。



 昼間に見るのとは趣が違う。

 もとから寂れた場所ではあったが、月明かりの下で見るそれは、幽鬼でも出て来そうな雰囲気だ。脇には彼岸花が咲き乱れ、暗がりの中で揺らめいている。

 ぎゅっと小さな手を握りしめ、なつは草鞋を脱いだ。まだらに敷かれた石畳は、足裏から容易く熱を奪ってゆく。

 ――真冬の川よりはマシだわ

 氷の張った水に足をつけることを思えば、これぐらいはどうってことはない。


 足を踏み出す。

 ぺたり。

 進むごとに冷たい石が足裏を冷やす。

 ぺたり、ぺたり。

 拍子を刻むように歩を進め、なつの足で五十歩にも届かないあたりで、本殿へ辿り着く。それほどに、小さな社だった。

 かつては、それなりに詣でる人もいたのか、賽銭箱とおぼしき古ぼけた木箱があり、周辺には小石が散らばっている。それらを手でどかして場所を作ると、手に持っていた袋の中から、小さな貝殻を取り出してひとつ置く。

 袋はそのまま置いておき、自身は元の場所へ取って返す。

 そうしてふたたび、ぺたりぺたりを歩を進め、木箱の下へ到着すると袋から貝をひとつ取り出し、さっきのものの隣へ置いた。


 ――ふたつめ。


 みっつ、よっつ、いつつ、やっつ、ここのつ。

 往復するたびに貝は増え、十になると今度は大きめの貝を取り出して、小さな物を袋へ仕舞う。そうやって大きな貝が十になれば、百。

 貝売りの男から教わった、簡単な数え方だ。


 ひっそりと佇む社に、なつは手を合わせる。


 どうか、どうか。

 おとうちゃんを助けてください。

 わたしにできることは、なんでもします。





 昼間は大人たちを手伝い、夜になれば社へ向かう。

 なつは、それを繰り返していた。

 取り出しては仕舞うことを幾度となく重ねたせいか、小さな貝殻は割れてしまい、なつの指を突きさす。ぷっくりと膨らむ血がぽたりと石畳の上に落ち、月あかりの下で赤黒い染みを作る。血を流す指を口へ含むと、なんともいえない味が咥内に広がった。

 なつが入口まで返り、ふたたび戻ってきた時。石の上に落ちていたはずの血が消えており、首をかしげる。

 自分の手はじくじくと痛み、まだじんわりと血が滲んでいる。

 垂れてしまったと思ったけれど、暗くてよく見えなかっただけで、あれは血の跡ではなかったのだろうか。

 並べた貝殻を回収し、なつは家に戻る。東の山際が明るくなり始めており、急がなければ仕事に間に合わない。


 本来は家族の中で行う仕事を、なつは手伝わせてもらっているのだ。

 父子ふたりの家族であることは知られており、その父親が臥せっていることも知られている。お情けで働かせてもらっている身で、不義理はできない。その家の女の子が――、なつと同じぐらいの女の子が、こざっぱりとした季節に合った衣を着て母親の足に縋りついているところを見ていると、ふつふつと得体の知れない何かに襲われる気もするけれど。


 ――それでも、おとうちゃんが元気になれば、きっと。


 百度参りを始めてから、父は少し元気になったような気がするのだ。

 臥せってばかりいたけれど、身体を起こして、なつと話ができるようになっている。

 売り物にするには小さく、もう捨ててしまうしかないような貝を駄賃代わりに貰うことも多く、それを使って汁物を作るのだが、父はそれだって食べられるようになってきた。

 なつ、うまいなあ。

 柔らかく笑う父の顔が嬉しくて、なつは一日中、働きつづけるのだ。




 季節は深まり、夜はますます冷えるようになってきた。擦り切れた単衣をさすりながら、なつは今日も社へ向かう。

 毎夜毎夜、冷たい石畳の上を歩き続けているせいなのか、足はひび割れ、草鞋を履いていても酷く痛む。それでもこれは、止めるわけにはいかない。

 ぺたり。

 ひやりと冷たさが足裏を刺すが、往復していくうちに慣れていくものだ。なつはもう、それを知っている。


 どうか、どうか。

 おとうちゃんを助けてください。

 わたしにできることは、なんでもします。


 貝殻が指を差して血が流れ。

 ひび割れた足は、地面に血の跡を残す。

 昼間も懸命に働いた身体はいうことをきかず、時折ふらりと転んでしまう。細かな砂利が肌を刺し、すりむけた膝小僧からは新たな血が流れたけれど、これぐらいは平気だ。

 大丈夫、平気だ。

 はじめのころは泣いたりもしたけれど、いつのまにかそれもしなくなった。

 慣れてしまえば、どうってことはないのだから。



 集まった小さな貝殻を袋に仕舞い、大きな貝殻を取り出して並べる。

 十揃ったので、今日のお参りはおしまいだ。

 ところで、百度参りとは、どれほどの月日を費やすものなのだろう。

 悲願を達成するまでは、止めてはならぬものだと思っているが、何をもってして「達成」といえるのか、なつにはよくわからない。

 父が元気になるまで?

 元気になるとは、具体的にどのような状態だろう。

 昔のように、仕事ができるようになること?

 けれど。


 そんな日、来るのかなあ……


 ぽつりと漏らした声は、静かな界隈に木霊した。

 己が言ったことに蒼然とし、ちからが抜ける。石畳の上に腰を下ろしたまま、なつは立ち上がることができない。

 地べたから来る冷気は身体を通してこころを冷やし、震わせる。



 どうか、どうか。

 ****を助けてください。



 幾度となく唱えてきた言葉は、いつしかすり替わっていなかったか。



 助けてください。

 どうか、どうか。

 わたし・・・を助けてください。




 ああ、なんてことだろう。

 わたしは、わたしのためにおこなっていたのだ。


 妄念に囚われ、いるかどうかもわからない神仏に縋った。

 母が死に、父もまたやがて命を散らした。

 ひとり残ってしまったことを、なつは信じようとせず、今まで通りに日々を振る舞い、生きてきたのだ。

 歩みを止めてしまっては駄目だと思っていたけれど、もう気づいてしまった。足を止めてしまった。座りこんでしまって、もう動けない。

 さわさわとした音が耳に届く。

 ぼんやりと視線を巡らせると、社の向こうに彼岸花が揺れており、それはまるで手招きをしているようでもあった。


 ああ、綺麗だ。

 かつて、父に背負われて見た景色だ。


 ――きれいだねえ、おとうちゃん。




    ◆◇◆




 空が白み始めたころ、通りかかった男は、社で倒れている少女を見つけた。

 周囲には砕けた貝が散らばり、手足は血が滲んでいる。

 ――ああ、ついに連れていかれちまったのか。

 男は息を落とした。


 大丈夫、平気、どうってことない。

 青白い顔で懸命に言い張る少女を大人たちは遠巻きにながめ、けれど死なない程度には目をやった。

 仕事を与え、食料を分けた。

 貧乏なのは、少女の家だけではない。臥せっていた父親が還らぬ人となったのはたしかに気の毒ではあるけれど、自身の家族が第一だ。少女を受け入れる余裕のある家族は、この界隈にはいなかった。


 おじさん、百を数えるにはどうすればいい?


 そう訊ねられたとき、少女にも馴染みがあるものを使うことを教えたし、折に触れて渡している様々な貝を使えば容易だろうとも思っていた。

 百度参りを想像しなかったわけではない。

 けれど、小さな女の子に続けられるわけがないと、みな思っていたのだ。



 彼岸の社。

 群生する彼岸花が血のように紅く咲き誇ることから、そんなふうに呼ばれている。

 いつしか、願掛けの対象を彼岸へ連れていくと噂になり、死した人の数だけ花が増えるとも囁かれるようになった。

 あの赤は、血を吸った証なのだ、と。


 誰かが少女を呪ったのか。

 少女自身が己に呪を掛けたのか。


 それを知っているのは、社の神のみ










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百度参り 彩瀬あいり @ayase24

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ