09 生者は邂逅する
やけにすっきりと目覚めた気がする。
それはいいんだけど、果たしてここはどこなのか。使い古された「知らない天井」という単語が脳裏に浮かんだとき、声が聞こえた。
「由衣!」
「おかーさん? どうしたの?」
「どうしたのって、あなた……」
ひどく焦った様子のお母さんがベッドの脇に立っている。
うん、ベッドだ。白いシーツのベッド。
認識した途端、現状が見えてくる。私の腕には包帯が巻かれていて、そこから伸びたチューブの先では、透明な液がポタポタと落ちている。
うん、点滴だね。
ってことは、私、栄養失調かなんかで倒れたのかな?
お母さんがあーだこーだと声をあげていたものだから、通りかかった看護師さんが「どうされましたか?」と顔を出し、私を見て驚いて「先生、呼んできます」と出て行って、他の看護師さんもやってきて、さすがに私も不安になる。
なに、この状況。
どうやら私は、車と接触しそうになったらしい。
そう。しそうになったのだ。正確にはぶつかっていない。
車はハンドルを切って避けたし、私も身体をひねって避けようと試みたっぽい。
このへんは、近くの監視カメラと目撃者の弁によるもので、両親が警察から聞かされたお話。
私はブロック塀にぶつかって、どうも頭を打ったらしい。目撃者さんが救急車を呼んでくれて、病院へ。持ち物の中に入っていた学生証から私の身元が判明し、大学を通して両親に連絡がいったということだった。
事故発生から今日で二週間ほど。その間、私はずっと眠っていたのだという。
最初のころは、さまざまな数値が悪いほうに傾いていて、このまま死ぬんじゃないかと思われていたけれど、そのうち心臓もしっかり動くようになってきたし、顔色もよくなってきた。体温も上がってきて、健康体と変わらない状態になってきた。
それでも目覚めなくて、お医者さんとしてもなんとも言えなかった。「目覚めた今だから言えることだけどね」と、担当医のおじさん先生が苦笑いとともに教えてくれた。
ずっと眠っていたわりに筋力は衰えていないし、歩行にも問題はない。一応、おかゆから始めたけど、次の日には普通の食事に戻った。我ながらすごいと思う。
たしかにあんたは鈍いけど、いくらなんでも寝すぎでしょ。
お見舞いに来た高校時代からの友達・
話しているうちに、事故前のとある約束を思い出した。
私が住んでるマンションの近くに、創作料理のお店がオープンしていて、今度一緒に行ってみようって話をしてたんだよね。麻里ちゃんはグルメマニアで、そういう情報が早いのだ。
今回のことで当面延期することになって申し訳ないなーって謝ったら、逆に謝られてしまった。
どうも、彼氏と一緒に行ってきたらしい。
彼氏だと? 一体いつの間にそんなことにっ。う、裏切り者ー。
相手は社会人で、グルメ情報繋がりで意気投合したのだとか。ノロケられて、もうそれだけで「ごちそうさま」って気分になってくる。
悔しくなんかないしっ、私だって彼氏の一人や二人――できるぐらいなら、彼氏いない歴と年齢はイコールにはなってないですよね、はい。
誰だよ、大学生になれば彼氏ができるとか言ったのは。
はい、私です。妄想でした。
「由衣は夢を見すぎなんだと思うけど。いいかげん、現実見なよ」
「なにそれ、どういう意味」
「だって、夢の中でイケメンといい感じになったとか、相当痛いよ」
曖昧ではっきりはしないけど、なんとなく覚えている夢の中で、私はすごくいい声のイケメンと、なんかこう、いいかんじだった、はず。
目が覚めてからも、ふとした時に思い出す声や温もり。妙にリアリティがあって、怖いぐらいなんだよね――と、麻里ちゃんに話したところだった。
「そんな少女漫画のヒーローみたいなイケメン、現実にいるわけないでしょ。妄想にすがってないで、そろそろ妥協しなよ」
「なにそれ。じゃあ麻里ちゃんは、妥協して今の彼氏と付き合ってるわけ?」
「そんなわけないでしょ!」
「矛盾してるよ、麻里ちゃん」
くそう、リア充めー!
ずっと眠っていたものだから、異常がないかチェックするためにたくさん検査を受けて、問題なしと判断されてほどなく退院。
私は晴れてマンションに戻ってきた。
入院中はお母さんが寝泊まりしてたから、部屋も汚れてないし、むしろキレイになってる。主婦すごい。冷蔵庫にも色々入っていて、「あんた、ちゃんと自炊してるの?」と呆れたように言われてしまったけど、いやいやお母さんなら知ってるでしょ、私のクラッシャーぶりをさ。鍋の底を焦がして穴を開けるぐらいなら、インスタントでいいと思うんだ。美味しいし。
久しぶりのはずなのに、まったくちっとも久しぶりな気がしない部屋で、私は床に寝転がる。
うーん、やっぱり我が家は落ち着くねえ。
ここは叔父さんの家で、私は居候の身ではあるけれど、かれこれ四年も暮らしているこの家はもう、私にとってのホームなのだ。
こうしていると、入院していたことが夢みたいな気分だけど、たしかに私はずっと眠っていたのだろう。スマホにインストールしている箱庭ゲームの連続ログイン記録は途絶えていて、また一日目からのスタートになっていたことからも、それはあきらかだった。
残念。結構な日数続いてたから、貰えるアイテムもグレードアップしてたんだよね。本来なら課金しないと駄目なアイテムがタダで手に入るようになってたから、楽しみだったんだけど。
主人公の女の子をタップして、庭を掃除する。畑の野菜は、ある程度の日数が経過すると枯れてしまうのだ。
私の庭は、すっかり荒れ地になっていた。手を動かす女の子の傍には、小さな黒猫がいる。マイホームを拡張するとペットを飼うことができて、複数ある動物の中から、私は黒猫を選択していた。なんか好きなんだよね、黒猫。
黒猫といえば、あの猫は大丈夫だったんだろうか。
記憶が混濁してはいるけれど、たぶん、私が事故に遭う直前に見かけたんだよね。生垣に首輪が引っかかってて、それを外してあげたはず。
首輪をしてたってことは、あのへんのどこかの家の飼い猫ってことかな。
――よし。散歩がてら、探しに行ってみよう。
お母さんに声をかけて、私はマンションの敷地から出て左に折れると、猫を見かけた生垣がある場所へ向かった。
この辺りは新興住宅地と昔ながらの家が交わっているところで、生垣があるのは空き家になっているところ。刈り込みがされていないこともあって、下のほうも草が生えてるし、枝も変な伸び方をしている。ボサボサだ。
「猫やーい、にゃんこー、いないのー?」
小声で呼びかけてみたけど、ガサリとも音がしない。
やっぱり家猫が脱走していただけで、この辺りのことをわかっていないからこそ、引っかかって暴れてたのかもしれないね。
諦めて帰ろうかと思ったとき、草むらの中からなにかが現れた。
猫だ。黒猫だ。声もあげずにやって来て、私の足もとまで歩いてくると、小さな頭をこつんとぶつけてくる。
やーんもう、かわいい。
「おまえ、あの時の子? もしかして、お礼に来てくれたの?」
その場にしゃがんでも逃げない猫に、そっと手を伸ばして頭を撫でた時、別の足音が聞こえて、頭上から声が降ってきた。
「あの……」
「はい?」
見上げた瞬間、目が
逆光の中、私を見下ろしているのは男の人だった。しかも、ものすごいイケメンだ。
え、誰? 私、なにかしたっけ?
ナンパされてるとか、そういう考えに至らないあたり、自分の残念さがよくわかるよね。でも、哀しいから身の程は知っているのだよ。
「よかった、退院されたんですね」
「はい?」
「――あ、すみません。覚えていないかもしれませんが、あなたが事故にあった時、近くに居た者で」
「もしかして、目撃者さんですか? 救急車を呼んでくださったっていう」
たしか、お母さんが言っていた。「若い男の子で、めちゃくちゃカッコよかった」らしい。私より年上のお兄さんだけど、まあ、お母さんから見れば「男の子」かもね。
この黒猫はお兄さんの猫らしい。あの日も近くにいて、猫を助けてくれた女の子(私のことだ)にお礼を言おうと後を追いかけたところ、事故を目撃。あれは完全に、慌てて飛び出した私が悪いんだけど、猫を助けるために時間を使ったことで、急がせてしまったんじゃないかと思い、気をもんでいたのだそうだ。
なんていい人。イケメンは声だけじゃなく、心も綺麗だったよ。
「心配してたんだ、本当によかった。それと、うちの猫を助けてくれて、ありがとう」
「そんなっ。お礼を言うのはこちらのほうです。車はそのまま逃げちゃったって聞きましたし、目撃者がいて助かったのは私のほうです」
「身体のほうは、もう?」
「はい。検査でも異常なしで、お医者さんもビックリするぐらい回復も早かったです。ぐーすか寝てただけなんですけどね」
あははと笑う私に、お兄さんは微笑みを浮かべた。笑うとさらにイケメンだ。こんなイケメンと接したことがないのでドキドキするんだけど、なんでだろう、まったく緊張感はなくて、初対面なのにすごく話しやすい。
思わず凝視していたのだろう。お兄さんは首を傾げて、私に問いかけた。
「俺の顔、なんかついてる?」
「いえ、かっこいいなーって。あ、いや、すみません。そうじゃなくて、なんか、あの初めて会った気がしないっていうか」
なにを口走っているんだ私は。逆ナンじゃないか、これ。
逃げよう。脱兎のごとく逃げよう。
そう思ったとき、お兄さんが口を開く。
「実はさ、俺もそう思ってたんだ。だからってそれ言っちゃうと、いきなりナンパかよって思われそうで、言えなかったけど」
お兄さんは背負っていたメッセンジャーバッグから、銀色のカードケースのようなものを取り出した。あ、あれ見たことある。叔父さんが使ってた、たしか名刺ケース。
差し出された一枚のカードは、ショップカードだった。簡単な案内図とともに、漢字で一文字「秀」とあり、それは麻里ちゃんが絶賛オススメしていた創作料理店。たしか店名は――
「ひで?」
「しゅうって読む。俺の店なんだ」
苦笑して次に、もうひとつ、今度は名刺を渡された。へえ、料理人も名刺持ってるんだなあ。
黒河秀一
しゅういちさん。
どこか腑に落ちたような響きの名前。内心で戸惑う私に、お兄さん――黒河秀一さんは言った。
「今度、食べに来てよ。お礼に奢るから」
「そ、そんなの、悪いですよ」
「君にために作るから、遠慮しないで受け取ってよ」
――いつかきっと、由衣のために料理を作るから。
――その時は、俺の気持ちも含めて、受け取ってほしい。
脳裏に響いたのは、夢の中で聴いた声。
その、誰のものとも知れない声が、目前の人物から出る声にピタリと重なる。
なにか。
なにかを言わなくてはいけない気がする。
私は彼に、伝えておきたいことがあったはずなのだ。
けれど言葉にならず、私の心は焦燥感で追い立てられる。
このままじゃ駄目なのに。
気持ちだけが
ニャー。
苦しくて泣きそうになった時。まるで励ますように、足もとの猫が鳴いた。
そうだ、落ち着こう。
ゆっくり、ゆっくりと。
深く呼吸をしよう。
早鐘を打つ心臓、熱を持つ頬。
すべては、私が今、生きている証。
ぐー。
口を開こうとした瞬間に私のお腹が空腹を主張し、今度は恥ずかしさのあまり朱に染まった私を見て、彼が笑った。
死神の恩返し 彩瀬あいり @ayase24
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