第六章 望

       一


 捕り物が終わり、深川からの帰り道。

 夕輝と太一は大川端を二人で歩いていた。

 与力の佐々木と同心の東達――東の他にも同心が来ていた――と、捕り物人足とりものにんそくのうち、平助達御用聞きは八丁堀の大番屋へ盗賊一味を連行する為に船に乗っていった。


 それ以外の、夕輝達を含めた捕り方とりかた達はそれぞれ徒歩で帰途についた。

 大川の土手には草が生い茂り、夜風にそよいでいた。

 欠けた月と無数の星が輝く夜空の下で、夕輝は草と大川のみぎわに寄せる水音を聞きながら、花粉症じゃなくて良かった、等と思っていた。

 花粉症と言えばスギが有名だが、ブタクサやカモガヤなどもアレルギー症状を引き起こす、とインフルエンザの予防接種に行った病院のポスターに書いてあった。

 辺りは真っ暗なので草むらはよく見えなかったが、風にそよぐ音を聞けば土手が大量の草に覆われているのは分かる。

 しばらく大川の流れる音と、さわさわという草の音を聞いていたが、ふと、水音や草のそよぐ音が聞こえるなんて珍しいな、と思い、そういえばいつもは太一が絶え間なく喋っているから聞こえないのだと気付いた。

 その太一が黙っているから水や草の音が聞こえるのだ。


「太一、どうした?」

「……え? 何がでやすか?」

「元気ないな。お母さんの具合、悪いのか?」

「いえ、そうじゃねぇんで」

「なら、どうした? さっきの捕り物で怪我でもしたのか?」

「そうじゃなくて……」

 夕輝は訝しげに太一を振り返った。

「どうしたんだよ」

「…………あっしは足手まといだと思いやして」

「誰の?」

「兄貴の」

 その言葉に夕輝は足を止めて太一の方に向き直った。

「俺はお前の兄じゃないけど、足手まといだなんて思ったことないぞ」

「でも、あっしはいつも兄貴に助けられてばかりで……」

「だから兄貴はやめろ。それはともかく、俺だってお前にはいつも助けてもらってるじゃないか」

「あっしが?」

 太一が顔を上げた。意外そうな顔をしている……ようだ。暗くてよく見えないけど。


「俺が分からないこと聞いても、バカにしないでちゃんと教えてくれるだろ」

「兄貴をバカにするなんて、そんなこと……」

「それにシジミを捕って金を稼ぐことだって教えてくれただろ」

「そんなこと、兄貴にしていただいてることに比べたら大したこと……」

「俺には大したことだよ」

 夕輝は語気を強めて言った。

「俺、江都のことは何にも知らないから、ホントに助かってるんだぜ」

「でも、あっしは命を助けていただいてやす。あっしだけじゃなく、お袋まで……だから、あっしの方が……」

「よそうぜ、そう言うの」

 夕輝はそう言って笑った。

「え?」

「椛ちゃんに言われたんだ。助けたとか、助けられたとか言うのはよそうって。俺達、友達だろ。友達が助け合うのは当然じゃないか」

「ダチ? 兄貴はダチじゃなくても助けてやすけど」

 太一の突っ込みに、夕輝は苦笑した。

「それはこっちにおいといて……。俺は太一のこと友達だと思ってるよ」

「兄貴……」

「だから兄貴はやめろ。俺は一人っ子だ。これからも頼りにしてるからさ、よろしくな」

 夕輝は太一の肩を叩いた。

「へい! 兄貴! こちらこそよろしくお願いしやす!」

「だから兄貴はやめろ」


「兄貴、椛姐さんが来てやすぜ」

 太一が薪運びをしている夕輝に声をかけた。

「ありがと」

 夕輝は尻っぱしょりしていた着物の裾を下ろすと、表へ回った。

「夕輝さん、今お時間いただけますか?」

 多分、橋本屋のことだろう。

「いいよ。太一、椛ちゃん送っていくから、ちょっと休憩するって仙吉さんに伝えておいてくれ」

 太一にそう頼むと、椛と並んで歩き出した。


 お里を狙っていた牢人は、この前篠野からの帰りに夕輝が倒し、太一が呼んできた平助がお縄にした。

 椛を狙った平次達もこの前平助に捕まえてもらったが、凶月はまた別の男を雇うだろう。

 だから送っていきがてら話を聞くことにしたのだ。


「橋本屋さんの件なんですが……」

 椛は早速切り出した。

「やはり直接凶月に掛け合うしかないのではないかと父が申しておりました」

「それに異論はないけど、居場所分かるの?」

「今兄達が探してます」


『兄達』って、楸さんの他にもお兄さんいるんだろうか。

 お父さんとお兄さんなら『父達』って言いそうなものだけど。


「本来、凶月のことは天満の一族がけりをつけるべきで、未月が乗り出すことではないのですが、私が狙われているのに座視しているわけにもいかないと……」

ひさきさんが言ったんだね」

「分かりますか?」

「うん、何となく」

 夕輝が笑うと椛も微笑んだ。

 それから他愛のない話をしているうちに椛の家に着いた。

「見つかったらまたご連絡します」

「有難う」


 椛の家からの帰り道、人気のない道の角を曲がったとき、祥三郞が葵を庇って立っているのが見えた。

 こちらに背を向けているが、黒っぽい着物を着ている侍が立ちはだかってるようだ。


 葵さんを狙っている暴漢だ!


「祥三郞君!」

 夕輝が駆け寄った。

「夕輝殿!」

 祥三郞が一瞬ほっとした表情を見せた。

「大丈夫?」

 祥三郞と並んで葵を庇うように立ってから刺客を見たとき、思わず「あっ!」と言う声が出た。

「お前はこの間の!」

 以前、椛を襲った男だった。

 男は口を歪めた。笑ったようだ。

「ほう、生きていたか」


 繊月丸、呼べば来てくれるかな。


 この男は鉄扇でどうにか出来る相手ではない。

 来てくれなければ祥三郞の脇差を借りるしかないだろう。


 ――繊月丸、来てくれ。


 夕輝は心の中で繊月丸を呼んだ。

 刀の姿をした繊月丸が夕輝の手の中に現れる。


 良かった……。

 遠くても呼べば来てくれるんだ。


 いきなり現れた繊月丸を見て、男はぎょっとした顔をしたが、祥三郞と葵は男に気を取られていて気付かなかったようだ。

「また邪魔をする気か」

 男はバカにしたような顔で夕輝を見た。

 夕輝は一度負けているのだから侮られても仕方がない。

「この人を捕まえに来たのか!」

「いえ、夕輝殿、違います。この男は葵殿の伯母上に雇われた刺客しかくです」

「今回は殺せという命令だからな。捕まえようとして手加減する必要はない。邪魔するヤツも殺す」

「金で雇われて人を殺すのか!」

「それがどうした」

 男は鼻で笑った。

 今日こそ、この前の決着を付けてやる。


「ここは俺が相手をするから祥三郞君は逃げて」

「夕輝殿! 拙者も一緒に戦います!」

 その言葉に、夕輝は祥三郞の方に顔を向けた。

「そうだね、ここは二人がかりで戦った方が確実に倒せるよね。でも、ゴメン。俺、こいつと決着つけたいんだ」

 祥三郞は夕輝の真剣な顔を見ると、すぐに頷いた。

「承知つかまつった」

「俺がやられたら、すぐにこいつが追っていくと思うからなるべく遠くに逃げて」

「はい。参りましょう、葵殿」

 祥三郞達が走っていく足音を聞きながら、繊月丸を抜いた。

「いいのか。今度は死ぬぞ」

 男は笑いながら抜刀した。


 夕輝は青眼に構えた。

 その瞬間から、祥三郞のことは頭から消えた。

 目の前にいる男だけに意識が集中した。

 男が八相に構える。

 夕輝はゆったりと構えながら、男を見ていた。

 男がゆっくりと近付いてくる。

 一足一刀の間境の手前で立ち止まった。

 二人の間に緊迫した空気が流れる。

 カサッ

 枯れ葉の落ちる音がした。

 その瞬間、男が袈裟斬りを放った。

 夕輝はそれを弾きながら一歩踏み込むと、突きを見舞った。

 夕輝の突きが男の右肩を強く突いた。

 男の右手が刀から離れる。

「くっ! 貴様ぁ!」

 逆上した男が左手に持った刀を振り上げた。

 夕輝はそのまま胴を見舞った。

 男が腹を抱えて蹲った。

 夕輝は残心の構えのまま、男を見下ろした。

 不意に男が刀で夕輝の足を払おうとしてきた。

 夕輝は繊月丸を地面に刺して刀を止めると、男の手を踏んで刀を放させ、それを蹴って遠くにやった。

「夕輝殿!」

「夕輝!」

「兄貴!」

 男に注意を払いながら声の方を見ると、祥三郞や平助、太一達が駆けてくるところだった。


       二


「葵さんの警護はもういいの?」

 夕輝は祥三郞に訊ねた。

 稽古場からの帰りだった。祥三郞は久々に長八に論語を教えに峰湯に来るのだ。

「あの男が大番屋の吟味ぎんみで葵殿の伯母上に頼まれたと喋ったそうです」

「そもそも、どうして葵さんは伯母さんに狙われたわけ? もし話しちゃいけないなら聞かないけど」

「夕輝殿は命の恩人故、お話し致します」


 祥三郞がそう言って話したところによると、本家の一人息子である葵の従兄が風邪で急逝したため、跡取りをどうするかで揉めたらしい。

 葵の伯母の息子を養子にするか、葵を養女にして優秀な男子を婿養子にするかで二つに分かれ、自分の息子を養子にしたい伯母が葵の命を狙ったのだという。


「伯母さんが狙ったってバレたわけだよね? てことは、葵さんが婿養子を取ることになったって事?」

「いえ、それが……」


 祥三郞の話によると、大番屋で刺客が伯母の名前を出したことから、お家騒動が目付に知られてしまい、伯母の家は改易かいえきになってしまったというのだ。

 改易というのは武士の身分を剥奪されることだそうだ。

 しかも、連座制で伯母の家だけではなく、本家と葵の家も改易されてしまったらしい。


「え、じゃ、葵さん、武家じゃなくなったの?」

「はい」

「そうすると、葵さんはどうなるの?」

「元々葵様の家は微禄びろくの御家人だった故、内職で食べていたので、今も同じように裏店で内職をしています」

「そうなんだ」


 祥三郞君が葵さんをお嫁にするわけにはいかないの?


 とは訊ねられなかった。

 武家の婚姻がそんなに簡単なわけがないのは容易に想像が付く。商家のお里でさえ、結婚するのに親戚縁者やら組合やらの承諾を貰わなければならないのだ。

 ましてや武家はもっと厳しいだろう。


「長八さんがさ、祥三郞君のこと待ってるよ」

 慰めの言葉が見つからなかった夕輝は話を変えた。

「本当ですか?」

「うん、首を長くして待ってる」

「そうですか」

 祥三郞が嬉しそうな笑顔を見せた。


「子曰く、人は己の……」

「違う! もう一度!」

「し、子曰く、人のおれの……」

「違う! もう一度!」


 やっぱ勉強教えてる祥三郞君て怖ぇー。


 とはいえ、確かに厳しいのだが、決してバカにしたりはしなかった。

 大真面目に、長八が理解できるまで粘り強く教えている。

 しかし、自分だったら長八の立場にはなりたくない。

 とばっちりが来ないように、夕輝はそっと後ろに下がった。


「夕ちゃん、ちょっといいかい? また、お花さんのところに届け物をして欲しいんだよ」

「いいですよ」

 夕輝はお峰から荷物を受け取った。

「兄貴、お出かけですかい」

 峰湯を出ると太一が声をかけてきた。

「お花さんのところにな」

「ならあっしもご一緒しやす。荷物持ちやしょうか?」

「いや、いいよ。それより、湯屋の仕事はいいのか?」

「丁度手が空いてるんでやすよ」

 太一はそう言うと、夕輝についてきた。

「なぁ、前から不思議に思ってたんだけどさ」

「なんでやしょう」

「あれ、何?」


 棒を担いで樽のようなものを転がして歩いている男を見た。

「転がしてるのはうすで、持っているのがきねでやすよ」

「時々見かけるけど、何してる人? 杵と臼って事は餅つき?」

「あれは大道搗だいどうつきでやす」

「大道搗きって? 餅つきじゃないの?」


 太一の説明によると、米というのは搗き米屋つきまいやで玄米を白米に精米するのだが、わざわざ搗き米屋まで持っていくほど量が多くない場合、大道搗きにいてもらうのだという。

 大道搗きというのは臼を転がしながら町を流して、呼ばれた家で米を搗くのだそうだ。


「へぇ」

 夕輝は改めて臼を転がしてる大道搗きを見た。


 その向こうを斧を担いだそまが歩いて行く。杣というのはきこりのことだそうだ。

 江都に杣が必要なのは東京育ちだから理解出来る。都心には広い公園が多い。そのほとんどは昔の大名屋敷の庭である。

 三百藩近くある大名全部ではないようだが、多くが江都に上屋敷、中屋敷、下屋敷を持っていて、その広大な屋敷には広い庭園があり、そこには大木が沢山ある。当然、杣も必要となる。


 江都の町は他にも色んな職業の人が家々を回ってくる。

 鍋釜の修理や刃物研ぎ、桶や樽の修理、魚や野菜、総菜、豆腐、植木、金魚等色々なものを売る棒手振り、蕎麦屋や心太売り、飴売り、その他、沢山の商売がある。

 長屋など町人のところには来ないが、賄屋まかないやという、一人暮らしの武士などに弁当を届ける商売もあるそうだ。


 家に弁当を届けるサービスって現代に始まったんじゃなかったんだな。


 太一に教わって、川へシジミ捕りに行けないときの小遣い稼ぎに釘などの金属や紙を拾うことも覚えた。

 落ちてる釘等の金属や紙、抜け毛なども、引き取りに回ってくる古金屋や古手屋に売れる。

 だから夕輝はとりあえず落ちてるゴミは拾っておくことにした。

 江都では紙屑から糞尿まであらゆるものがリサイクルされる。

 江都では、普通に食べて行く分にはどんな仕事でもやっていけるような気がした。


 長屋に着き、部屋を覗いたがお花はいなかった。


 もしかして……。


 お唯の両親の部屋に行ってみると、お花やお加代がいた。お唯の母親は寝込んでいるようだ。咳が聞こえてくるが、それもかなり弱々しい。

 葵の本家の跡取りは風邪で急逝したと言っていた。

 本家の跡取りならいい医者に診てもらったはずである。

 それでも死んだというのだ。

 まして碌に医者にも診せてないお唯の母親はもっと危ないだろう。

 お花が夕輝に気付いた。


「あ、夕ちゃん」

「こんにちは。お峰さんに頼まれたもの届けに来たんですけど……」

 そう言うと、お花は突っかけを履いて部屋から出てきた。

「ありがとよ」

「お唯ちゃんのお母さん、悪いんですか?」

 お花に荷物を渡しながら訊ねた。

「あの様子だと長くないかもねぇ」

 お花は溜息をつきながら答えた。

「お唯ちゃんには……」

「お唯ちゃんに言っても無駄だよ。帰ってこられないのに心配させても可哀相だろ」


 お唯の母親の具合が悪いのは、お唯がいなくなったせいもある。

 あのとき、自分がお唯を助けていたら、お母さんは気落ちして風邪などひかなかったかもしれない。

 喧嘩の助っ人でも賭場の用心棒でもなんでもいいから金を稼げば良かったのだ。

 それなのにお唯を助けなかった。

 もしお唯の母親が長くないのなら、最後に一目会わせてあげたい。


「お唯ちゃんがいるのって何て言うお見世ですか? 俺、お唯ちゃんがお母さんに会いに帰ってこられるように頼んできます!」

「無理だよ」

「頼むだけでも……。お願いします! 教えてください!」

 夕輝が頭を下げると、お花は渋々「つる野だよ」と置屋の名前を教えてくれた。

「太一! 吉原に案内してくれ!」

「兄貴……」

「頼む!」

 夕輝は太一にも頭を下げた。

 太一は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。

「分かりやした!」

 夕輝と太一は長屋を飛び出した。


       三


 浅草の田んぼの中を通る日本堤は、両側に簡単な作りの見世が並んでいて、人通りが多かった。

 そこを通り抜け、衣紋坂を下りると右手に高札場、左手に柳の木があった。

 そこから両側に茶屋の並ぶ、曲がりくねった五十軒道を抜けて大門を入ると、そこは新吉原だった。


 吉原に着くと、

「つる野って見世知りませんか?」

 夕輝は通りがかった男に訊ねた。

 男が知らないというと別の男に訊いた。

 何人かに訊ねてようやく、つる野を見つけた。

「あそこか!」

「兄貴!」

 太一が慌てて止めようとするのも聞かずに店に飛び込んだ。


「なんだい、あんた。ここは置屋だよ。遊びたかったら……」

 店の中年女性がそう言いながら夕輝をじろじろと見た。

 夕輝は構わずに、

「お唯ちゃんいますか!」

 と訊ねた。

「なんだって?」

 中年女性が訝しげに夕輝を見た。

「お唯ちゃんのお母さんが病気で……、一目お唯ちゃんに会わせてあげたいんです!」

「帰っとくれ」

 中年女性はそう言うと、屈強な男衆達に目で合図した。

 男衆達が夕輝の腕を掴んだ。

「お願いします! 一目会うだけでいいんです!」

 夕輝は引きずられながら必死で叫んだ。

「お願いします!」

 夕輝はそのまま吉原の大門の外に追い出された。

「待ってください! 一目でいいんです! お願いします!」

 なおも食い下がったが、夕輝は突き飛ばされて道に倒れた。

 夕輝をよけて歩いて行く遊客達が哀れむような目や蔑むような目をしていた。

「兄貴、あっしに知り合いがいるんでやす。そいつに頼んでみやすから、一旦帰りやしょう」

「いや、もう一度頼みに……」

「兄貴は顔を覚えられたから行かない方が話がしやすいんでやすよ。ですから、今日は帰りやしょう」

 太一が諭すように言った。


 夕輝は俯いた。

 確かにお唯に対する負い目から熱くなっていたようだ。

 ここは頭を冷やした方がいいだろう。

「……分かった」

 夕輝は太一の手を借りて立ち上がった。

 吉原に背を向けてから、一度振り返ると歩き出した。

「面倒かけて悪いな」

「何言ってんでやすか。助け合おうって言ったのは兄貴じゃねぇでやすか」

「そうだったな」

 夕輝は無理して笑顔を見せた。


 夕輝は太一の言葉を信じていつも通りに生活することにした。

 平助に訊くと、吉原は独自のしきたりがあるらしい。

 しかし、夕輝は太一を信じて待つことにした。

 夕輝は心配を振り払うように稽古場の稽古に打ち込んだ。

 稽古場の拭き掃除を終え、雑巾を片付けていると、祥三郞が近付いてきた。

「夕輝殿。今日は祖母のご機嫌伺いに行かねばならぬ故、峰湯にはよれないのですが……」

「分かった。気にしないでいいよ。長八さんも気にしないと思うから」

「かたじけない」

 祥三郞は軽く頭を下げると、稽古場から出て言った。


 祥三郞君が来ないんじゃ、早く帰ってもしょうがないな。


 夕輝は居残り稽古をすることにした。

 一人残って素振りをしていると、師匠が稽古場に入ってきた。

「天満。居残りか」

「はい。……あ、了解も取らずに申し訳ありません」

「構わん。納得がいくまで稽古をしなさい。それがしが相手になってやろう」

「師匠」

 師匠は木刀を持って夕輝の前に立った。

「お願いします」

 夕輝が礼をすると、師匠と夕輝は青眼に構えた。

「打ち込んできなさい」

 師匠が静かに言った。

「はい」

 師匠はゆったりと構えているだけだったが、隙がなかった。

 夕輝は師匠を見つめたまま、青眼に構えていた。

 しかし、徐々に師匠の静かな佇まいに気圧されていった。

 夕輝の額を汗が伝う。

 夕輝は我慢できなくなり、じりじりと間を詰め始めた。

 師匠は相変わらず悠然と構えている。

 斬撃の間境の半歩手前で止まると、

 イヤァ!

 師匠の構えを崩そうと裂帛の気合いを発したが、師匠は全く動じなかった。

 夕輝は思いきって踏み込むと、真っ向へ木刀を振り下ろした。

 夕輝の木刀が弾かれたと思った次の瞬間には喉元に師匠の木刀が突きつけられていた。


「次はそれがしから行くぞ」

 夕輝はすぐに最初の位置に戻ると、

「お願いします!」

 師匠に頭を下げて青眼に構えた。

 師匠は木刀を青眼に構えると、すぐにするすると近付いてきて、一足一刀の間境まで来た。

 師匠はゆったりと構えているだけのはずなのに、すごい威圧を感じた。

 師匠の身体が一回り以上大きくなったように見えた。

 タァ!

 師匠を止めようと、裂帛の気合いを発したが、師匠はそのまま間境を越えてきた。

 とっさに夕輝は、師匠の小手を狙って打ち込んだ。

 次の瞬間、夕輝の木刀は弾かれ、師匠の木刀は喉元に突きつけられていた。

「次は天満から仕掛けてきなさい」

「はい。よろしくお願いします」

 夕輝は礼をすると木刀を構えた。

 二回とも木刀が弾かれた瞬間には喉元に決まっていた。

 なら、すぐに左右のどちらかによれば突きはかわせる……か?

 もう夕輝の頭から、他のことは消えていた。

 夕輝は三度木刀を構えた。

 師匠は相変わらずゆったりと構えていた。

 深呼吸をして息を整えると、足裏を擦るようにしてじりじりと間を詰め始めた。

 一足一刀の間境の半歩手前までくると足を止めた。

 師匠は静かに構えているだけなのに、踏み込める隙がなかった。

 辺りは静まりかえり、針の落ちる音でも響きそうだった。

 夕輝は斬撃の気配を見せたが、師匠は動かなかった。

 かさっ

 外に枯れ葉が落ちる音が聞こえた。

 刹那、夕輝は大きく踏み込むと、突きを放った。


 弾かれた!


 と思った瞬間には師匠の突きが喉元に決まっていた。

 横によける間などなかった。

 二人は再び離れると、木刀を構えた。

 師匠はすっと近付いてくると、一足一刀の間境の半歩手前で止まった。

 師匠の身体が大きく膨らんだように見えた。

 気圧されているのだ。

 夕輝は必死に耐えた。

 先に攻め込んでダメなら後の先を取るしかない。

 しかし、師匠の威圧に、夕輝の剣先がふっと浮いた。

 師匠が斬撃の気配を見せた。

 夕輝の身体が躍った。

 木刀を真っ向に、力一杯振り下ろした。

 師匠の木刀と弾き合った。

 とっさに左に跳びながら二の太刀を小手に。

 しかし、小手に届く前に師匠の面が決まっていた。

 踏み込みが甘いのだろうか。


 なら今度はもう少し深く……。


 夕輝は肩の力を抜くと、ゆっくりと間を詰め始めた。

 一足一刀の間境までくると、素早い寄り身で師匠の懐に飛び込んで面を放った。

 その瞬間、夕輝の木刀は跳ね上げられ、師匠の胴が決まった。

 夕輝は息を吐くと木刀を下ろした。


 やっぱり、考えが甘かったか。


 どうすれば良かったか、考えながら額の汗をぬぐった。

 道着も汗でびっしょりになっている。

 しかし、師匠の方は息も乱していなかった。

「次で最後にしよう」

「はい」

「天満は実戦を経験しているようじゃな」

 師匠はそう言うと、木刀を床に置いた。

「天満、そのまま打ち込んできなさい」


 何故木刀を置いたのか分からなかったが、きっと何か考えがあるのだろう。

 師匠は素手のまま空手のように構えている。

 夕輝は素直に青眼に構えた。

 大きく深呼吸をして息を整えると、真っ向から振り下ろした。

 師匠は体を開いてそれを交わすと、夕輝の木刀の峰の部分を右の手のひらで押さえ、下に押しながら左手で木刀の柄を取った。


 あっと思ったときには夕輝は木刀を奪われ、左脇腹の寸前で止まっていた。

 師匠が間合いに入ってから木刀を取られるまで、ほんの一瞬だった。

 これが実戦なら逆袈裟に斬り上げられていたところだ。

「これは……」

「無刀取りじゃ。稽古場の稽古では無用のものじゃが実戦では何かの役に立つこともあろう」

「有難うございました」

 夕輝は師匠に礼をした。

「石川達に勝ったことで慢心しているかと思ったが、そうではないようで安心したぞ」

「はっ!」

「これからも精進しなさい」

「はい!」

 夕輝が師匠に礼をすると、師匠は頷いて母屋へ戻っていった。


       四


 その日、夕輝は峰湯の手伝いをしていた。祥三郞が来ていたが、長八がしごかれるのを見ていてもしょうがないので、手伝いに戻ったのだ。

 夕輝は袖で額の汗をぬぐった。

 風が気持ちいいな、と思い、ふと、さっきより強くなっていることに気付いた。


 風か……。


 何か引っかかるが、それが何だったか思い出せなかった。

 仙吉が割った薪を抱えていると、太一とお花が前後して駆け込んできた。

「兄貴! 大変でやす!」

「夕ちゃん! お唯ちゃん知らないかい!」

「お唯ちゃんがどうしたんですか!」

 夕輝は太一とお花を交互に見た。

「お唯ちゃんがつる野からいなくなったんでやす!」

「つる野の若いもんがお唯はどこだって、長屋に怒鳴り込んできたんだよ」


 まさか……!

 望がかどわかしたんじゃ……。


「夕輝殿、どうされたのですか?」

「あ、祥三郞君」

 夕輝が答えようとしたとき、橋本屋の手代が駆けてきた。

「天満様! すぐにいらして下さい! お嬢さまが……!」

「お里ちゃんもいなくなったんですか!?」

「はい! とにかく、一緒に……」

「夕ちゃん、何の騒ぎだい?」

 騒ぎを聞きつけてお峰も出てきた。

「お峰さん」

「十六夜」

 繊月丸までやってきた。

「未月の娘が望に攫われたよ。朔夜が呼んでる。行こう」

 繊月丸が夕輝の手を引いた。

「何を言ってるんです! うちのお嬢様を捜すのが先ですよ!」

 橋本屋の手代が怒鳴った。

「夕ちゃん、お唯ちゃんのこと、捜してくれるよね?」

 お花が心配そうに手を揉みながら訊ねた。

「未月の娘って、椛ちゃんのこと……だよな。お唯ちゃんとお里ちゃんも……」

 夕輝はそう言いながら繊月丸を見た。

「望のところにいる。江都の神域は穢れきった。すぐにも地下蜘蛛が湧き出してくるよ」


 確か、地下蜘蛛が湧き出すと大火になるって……。

 そうか!

 さっき風に大して感じた引っかかりはこれだ!


「お花さん、それから橋本屋の……えっと……」

「祐二です」

「お花さん、祐二さん。お唯ちゃんとお里ちゃんは俺が助け出してきます。家で待ってて下さい」

「夕輝殿、拙者も同行します」

「有難いけど、危ないから……」

「夕輝殿には葵殿の時に助けていただいた故、今度は拙者が力になります」

「祥三郞君……」

 祥三郞の真剣な顔を見ていると断りづらかった。

「兄貴! あっしも行きやすぜ! 戦力にはならないでやすが、手伝いやす!」

「有難う、二人とも」

 連れていっていいのか分からなかったが、一緒に行ってもらえれば心強いのは確かだ。

「それなら手前も一緒に連れてって下さい」

 祐二が言った。

「いえ、祐二さんは橋本屋さんに、俺がお里ちゃんを助けに行ったことを伝えて下さい」

 夕輝はそう言ってから、

「お峰さん、お花さん、祐二さん、風が強くなってきたので火事には十分に気を付けて下さい」

 その言葉に祐二は、こんな時に何言ってるんだという顔をしたが、お峰は、

「そうだね。今日はもう湯屋はおしまいにした方がいいね」

 と言った。

「それじゃ、行ってきます。繊月丸、案内してくれ」


 繊月丸に案内されて着いたのは、峰湯のすぐ近くにある稲荷神社のほこらの前だった。

 祠の入り口が開いている。

「ここ」

 繊月丸が入り口を指した。

「こんな小さな祠?」

「ここはただの入り口。中は地下世界に通じてる」

 夕輝は太一と祥三郞の方に向き直った。

「本当にいいの? きっとかなり危ないよ」

「兄貴の行くところならどこにだって付いてきやす」

「危ないなら尚のこと、戦力は多い方がいいでしょう」

「有難う」


 お唯ちゃんや椛ちゃん、お里ちゃんを助け出すだけではなく、この二人も無事に帰らせないと……。


 繊月丸が先頭に立って狭い入り口に入っていった。


 入り口はすぐに下り階段になっていて、かなり長かった。

 確かにこれだけ長ければ地下の世界に繋がっていそうだ。

 照明はないのに何故かほのかに明るかった。

 階段は狭く、周りは濁った青とオレンジがかった黒っぽいものが混ざり合った色をしていた。


「気味の悪いところでやすね」

 太一が辺りを見回しながら言った。

「太一、よそ見して足踏み外すなよ」

「へい」

 と言った瞬間、太一は足を踏み外した。

「わ!」

 太一はよろけて壁にぶつかった。

「うおっ!」

 太一がいきなり飛び退いた。

「どうした!?」

「壁に触ったらぶよぶよねばねばしてて気持ち悪かったんでやす」

 それを聞いた祥三郞が壁に触った。

「本当ですね」

 等と言いながらぺたぺたと触っている。


 祥三郞君ってチャレンジャーだな。

 気持ち悪いって言われたのに、わざわざ触るなんて。


「早くここを出やしょう」

 そう言って太一が階段を下りだしたので、夕輝達も再び下りはじめた。

 それにしても、かなり下りたはずなのに、未だに終わりが見えない。

「長い階段ですね」

「そうだね。どこまで続いてるんだろう」


 もしかして、階段がループしていて永遠に出口に辿り着けないんじゃ……。


 そう思ったとき、出口が見えてきた。


       五


 ようやく階段を下りきると、今度は通路がどこまでも続いていた。

 ここの天井や壁も階段と同じく、濁った青とオレンジがかった黒い色のまだらで、灯りもないのにほのかに明るかった。

 高さも幅も、刀を振り回せるだけはあるな、と見て取った。

「十六夜」

 繊月丸が夕輝を見上げて言った。

「結界が張ってある。刀になれない」

「え!?」

 鉄扇で何とかなるかな。

 と思ったとき、

「夕輝殿!」

 祥三郞が声を上げた。

「向こうから……」


 指された方を見て絶句した。

 顔は一つで、両手両足がある、と言う点だけを見れば人間のようだが、頭の部分は蜘蛛のそれだった。

 それが次々に通路の脇道から出てくる。

 どれも刀を持っていた。

「兄貴! あっちからも!」

 通路の反対側からも同じ化け物達が刀を手に出てくる。

「繊月丸、あれが地下蜘蛛ってヤツか?」

「うん」

「念のために聞いておくけど、あれを殺しても人殺しで捕まったりしないな」

「人間じゃないから大丈夫」

「夕輝殿、ここは拙者が……」

 祥三郞が抜刀した。

「数が多い。俺も戦うよ。太一、繊月丸、階段へ」

 夕輝は祥三郞と並んで階段への入り口の前に立った。

 これで夕輝と祥三郞が倒されない限り、太一と繊月丸は大丈夫だろう。

 まぁ、繊月丸は心配するまでもないかもしれないが。

「祥三郞くん、脇差貸してくれる?」

 夕輝は祥三郞から脇差を借りた。

「脇差は太刀より短い故、太刀の間合いでは届かないですよ」

「分かった。有難う」

 そう言っている間にも地下蜘蛛が近付いてきた。


「ーーーーー!」

 人には出せないような甲高い声を上げて地下蜘蛛の一匹が斬りかかってきた。

 夕輝は地下蜘蛛の太刀を脇差で受け止めた。その瞬間、脇差が折れた。

「うおっ! 祥三郞くん、ごめん!」

 夕輝は脇差を投げつけながら後ろへ飛んだ。

 次の地下蜘蛛が刀を振り下ろしてきた。

 夕輝は体を開いて刀をかわすと、右手で柄を掴み、左手で峰を押した。刀が地下蜘蛛の手を離れる。

 刀を奪いそのまま逆袈裟に斬り上げた。

 地下蜘蛛の緑がかった白っぽい体液が飛び散った。

「げ!」

 夕輝はとっさに後ろに飛び退いた。


 祥三郞も地下蜘蛛を切り倒していた。

 地下蜘蛛が斬りかかってきた。

 真っ向に振り下ろされた刀を上に弾き、胴を払った。体液と内臓らしきものが地下蜘蛛の胴から溢れた。

 そのまま斜め後ろから斬りかかってきた地下蜘蛛を逆袈裟に斬り上げる。

 更に横に払うと地下蜘蛛の頭が飛んだ。

 首から体液を飛び散らせながら地下蜘蛛が倒れる。

 次の地下蜘蛛の小手を打った。

「ーーー!」

 地下蜘蛛が悲鳴を上げながら刀を取り落とした。腕が変な方向に曲がっていたが、切れてはいなかった。


 体液を浴びすぎて斬れなくなったのだ。

 そういえば、繊月丸は刃こぼれもしなかったし、いくら斬っても切れ味は落ちなかった。勿論、折れたりもしなかった。

 それが普通なのかと思っていたが、どうやら繊月丸は特別なようだ。

 夕輝はその地下蜘蛛の心臓があるかもしれない場所を貫いた。

 地下蜘蛛の胴を蹴りながら後ろに刀をひいた。地下蜘蛛が倒れる。

 刀を抜いた勢いのまま、後ろにいた地下蜘蛛の頭を柄頭つかがしらで殴った。

 ぼこっ!

 と言う音がして地下蜘蛛の側頭部が陥没した。

 返す刀で正面から来た地下蜘蛛を袈裟に斬り下ろそうとした。

 が、硬いものが砕ける音がしただけで斬れなかった。

「ーーー!」

 地下蜘蛛が刀を取り落とす。

 夕輝はその地下蜘蛛に真っ向から刀を斬り下ろした。

 地下蜘蛛の頭が潰れた。

 あと三匹か。

 祥三郞も既に何匹か倒していた。

 夕輝は大きく息を吐いて呼吸を整えると、刀を構えた。

 地下蜘蛛が真っ向に斬り下ろしてくる。

 それに刀を逆袈裟に振るって脇腹に叩き付け、よろめいたところで胸を貫いた。

 刀を抜くと、思い切り横に払った。

 斬りかかってきた地下蜘蛛の側頭部に決まった。

 地下蜘蛛の頭が潰れた。地下蜘蛛は悲鳴も上げずに倒れた。

 残りの一体は祥三郞が倒していた。

 夕輝も祥三郞の肩で息をしていた。


「兄貴! 大丈夫でやすかい」

「うん。祥三郞君は?」

「拙者も大事ありません。急いだ方がよさそうですね」

「あ、祥三郞くん、脇差折れちゃった。ごめん」

「お気にめさるな。それより先を急ぎましょう」

「うん。あ、ちょっと待って」

 夕輝は持っていた刀を捨てて、地下蜘蛛の持っていた刀を拾った。

「あ、拙者も」

 祥三郞も自分の刀を捨てて、落ちていた刀を拾った。

「捨てちゃっていいの?」

 夕輝のは地下蜘蛛から奪ったものだが、祥三郞のは自分の刀だ。

「あれだけ斬り合ったら、もう鞘にも入らぬ故」

 祥三郞がそう言うと、繊月丸が先に立って歩き出した。

 夕輝と祥三郞のやりとりを聞いてた太一は、刀を何本か拾って抱えた。

「太一、それ、どうすんだ?」

「この先もあの化け物と戦うなら予備があった方がいいかと思いやして」

「ありがと。抜き身だから気を付けろよ」

「へい」


 その後、何度か地下蜘蛛が襲ってきたが、何とか退けて先に進んだ。

「もうすぐだよ」

 繊月丸がそう言ったとき、また地下蜘蛛が現れた。

 どの地下蜘蛛も青眼に構えていた。

 ただ刀を振り回していた今までの地下蜘蛛とは明らかに違った。

「祥三郞君、気を付けて」

「夕輝殿も」

 夕輝と祥三郞も刀を構えた。

 太一と繊月丸は邪魔にならないように後ろに下がった。


 地下蜘蛛がじりじりと近付いてくる。

 夕輝もゆっくりと間を詰めた。

 斬撃の間境で夕輝は止まった。

 地下蜘蛛は間境に入ると、突きを放ってきた。

 夕輝はそれを刀で受けると、そのまま喉を突いた。

 刀を引き抜くと、地下蜘蛛は後ろに倒れた。

 すぐに次の地下蜘蛛が、真っ向から斬り下ろしてきた。

 それを弾き、抜き胴を放った。

 地下蜘蛛が内臓と体液をぶちまけながら倒れた。

「夕輝殿! 後ろ!」

 斜め後ろから地下蜘蛛が斬りかかってきた。

 夕輝が振り返って応戦しようとしたとき、地下蜘蛛が倒れた。

 そこに朔夜が立っていた。

「気を抜くんじゃねぇ!」

 残月がそう言いながら祥三郞に斬りかかろうとしていた地下蜘蛛を倒した。

「十六夜、ここは我らが引き受ける。先に行け」

「分かった。行こう」

 夕輝は太一達に声をかけて走り出した。

 朔夜の強さは知らないが、残月は夕輝より強い。任せても大丈夫だろう。


 前方が明るくなっている。

 どうやら目的地らしい。

 夕輝は入り口の手前で立ち止まった。

「夕輝殿、どうされたのでござるか?」

 祥三郞が背後から声をかけてきた。

「繊月丸、罠はないか?」

「ない」

 その返事を聞いて、夕輝はゆっくり入り口に足を踏み入れた。


       六


 そこは広い部屋だった。

 がらんとしていて何もなかった。

 目の前には四人の男がいた。

 そのうち二人が倒れており、もう二人が倒れている男の前に膝を突いていた。

 膝を突いている男の一人は楸だった。

「楸さん」

「君か……」

「その二人は……」

えのき椿つばきだ。この二人はもうダメだ」

「地下蜘蛛に……」

「そうだ。そっちがひいらぎ

 楸はもう一人の男に視線を向けた。


 そのとき、

「夕輝さん!」

「天満さん!」

 夕輝を呼ぶ声が聞こえた。

 お唯と椛、お里が部屋の奥にいた。縄で縛られているようだ。

 部屋の中央には朔夜に似た男が立っていた。

「望」

 繊月丸が悲しそうに名を呼ぶと、凶月は優しい眼差しを向けた。

 お唯達と凶月の間に、この前の血の臭いがした女性がいた。


 誰かに似てると思ったら、椛ちゃんだったのか。


 多分、彼女が楓なのだろう。

 凶月が夕輝に目を向けた。

「お前が次の望か」

「違う!」

 夕輝が即答すると、微妙な空気が流れた。

「兄貴、そこは『そうだ』って答えるところじゃ……」

「え、でも、俺、自分のうちに帰りたいし」


 夕輝のいた現代と江都は違う世界だから、時間の流れは関係ないとしても、やはり支配者が違う世界にいるというわけにはいかないだろう。

 それに朔夜や残月がいるのだから何も自分が望にならなくてもいいではないか。


「お唯ちゃん達を返してもらうぞ」

「そうはいかない。この娘達は最後の贄だ」

「凶月、この中で未月の一族は私だけです。他の二人は解放してください」

 椛が凶月に懇願した。

「江都の神域は穢れきっている。未月の娘でなくとも結界は消える」

「そんなことをして何になる!」

「地下蜘蛛の支配する世界になれば、好きなだけ人が喰える」

「お前、人を喰うのか!?」

 凶月は答えなかったが、楓が俯いたところを見ると彼女が喰うのだろう。

 やはり人のはらわたを喰らっていたのは彼女だったのか。

「そんなことはさせない」

「邪魔をするものは全て殺す」

「望……」

 繊月丸が悲しそうに呟いた。

「夕輝殿。拙者も助太刀いたします」

 そう言ったとき、後ろから剣戟の音が聞こえてきた。

 楸と柊が地下蜘蛛と戦っていた。


 夕輝達の後ろにも地下蜘蛛の集団が迫ってきた。

「夕輝殿、ここは拙者が」

「気を付けて」

「夕輝殿もご武運を」

 祥三郞が地下蜘蛛の一段と向き合った。


 それを見てから刀を青眼に構えた。

 凶月も青眼に構えた。

 二人は既に一足一刀の間境の半歩手前にいる。

 どちらも刀を構えたまま動かなかった。

 あたかも、世界に存在するのが夕輝と凶月だけになったように、互いのことしか見えていなかった。

 音も聞こえなくなった。

 夕輝は呼吸を静めて、凶月の斬撃の起こりを待った。

 不意に凶月に斬撃の気が走った。

 次の瞬間、二人の身体が躍り、互いに真っ向へと斬り下ろした。

 刀と刀が弾き合う。

 上へと弾かれた凶月の刀が袈裟に振り下ろされた。

 夕輝は体を開いてよけると、踏み込んで小手を見舞った。

 それを凶月が払う。

 夕輝は素早く峰に返して、上段から振り下ろした。

 凶月はそれを弾きながら突きを繰り出した。

 刀が夕輝の右肩をかすめる。

 夕輝の肩からわずかに血が流れた。


 二人が再び構えたとき、

「望!」

 繊月丸が凶月を呼んだ。

「繊月丸」

「もうよそう、望。朔夜達と一緒に帰ろう。前みたいに一緒に」

「それは出来ないんだ、繊月丸。俺はもう地上を照らす望月もちづきじゃない。地上に災いを招く凶月に堕ちた」

「望……」

 凶月は繊月丸の言葉を撥ね付けるように夕輝に斬りかかってきた。

 上段から振り下ろされた刀を弾くと、二の太刀で小手を打った。

 凶月がそれを撥ねのけ胴を払ってきた。

 夕輝は後ろに飛び退きながら刀を払った。

 凶月は素早い寄り身で身体を寄せてくると、袈裟に振り下ろした。


 避けられない!


 そのとき、

光夜こうや!」

 楓の声に一瞬凶月の刀が揺れた。

 夕輝は咄嗟に突きを繰り出していた。

 刀が凶月の肩を貫く。

「光夜!」

 楓が叫んだ。

 凶月が膝を突く。

 夕輝は残心の構えを崩さず、二、三歩下がった。

「十六夜。とどめを」

 いつの間にかそばに来ていた朔夜が言った。

「え? でも……」

「凶月を止めるのが天満の使命だ」

「そんな、俺は……」

 いつの間にか、周囲は静かになっていた。

 他の人達と地下蜘蛛との戦いは終わったようだ。

「まだだ。まだ……」

 凶月が苦しそうな顔で立ち上がろうとしていた。

「江都の神域さえ消えれば……」

 凶月は最後の力を振り絞って立ち上がると、お唯に駆け寄って刀を振り上げた。

「やめろ!」

 夕輝は咄嗟に走り寄ると凶月の背に刀を突き刺した。

 凶月が膝を折った。

「光夜」

 楓が凶月の前に膝をつき、肩に手をかけた。

「か、楓……」

「もうよしましょう。私はこれ以上浅ましい姿で生きていたくはありません」

 その言葉に、凶月は唇を噛みしめた。

 楓は夕輝を見て頷いた。

 夕輝は一瞬逡巡した後、凶月の背後に回った。


 繊月丸は凶月を止めてくれと言った。「望は泣いてるから」と。

 さっき、繊月丸に向けた優しい視線。

 きっとあれが本来の望だ。

 人を傷付けることで自分も傷付き、心の中で泣きながらも楓のためにやらざるを得なかったのだ。

 望になるかどうかはともかく、凶月を止めなければ大勢の人が死ぬ。

 そして、他の誰より、人の死を望んでいないのが凶月だ。


 目を閉じて覚悟を決める。


 そして、目を開けると一思ひとおもいに凶月の心臓を突き刺した。

 凶月が楓の腕の中に倒れた。

 初めて人を殺してしまった。

 その事実に手が震えた。

 楓が愛おしそうに凶月を抱きしめた。

 それから、脇に置いてあった二振りの刀を夕輝に差しだした。


「これは本来、望の持つべき刀、弦月げんげつです。太刀が上弦、脇差が下弦です。光夜が持っていましたが、凶月になった光夜には使えませんでした」

「俺には繊月丸がいるから……」

「弦月の使い道は刀としてだけではありません。あなたなら使いこなせるでしょう」

 自分は望になる気はない、と思ったが受け取った。

 そうしなければいけないような気がしたのだ。

 太一や祥三郞、楸がお唯達の縄をといた。

「次は私です」

 楓が言った。

「え? でも、あなたは何もしてない……」

「私は今まで何人もの人をあやめてきました。生きている限り、それをやめることは出来ません」

「けど、椛ちゃんのお姉さんを……」

「私はもう未月楓ではありません。亜弓です。望を凶月にし、人々を殺めた罪は償わなければなりません」

 夕輝は助けを求めるように椛を見た。

「夕輝さん。未月楓はもういません。そこにいるのは亜弓です」

「光夜が待っています。あまり待たせると置いていかれてしまうわ」

 楓がそう言って微笑んだ。

「あなたを置いていったりしないよ」

 夕輝はかろうじて笑みを浮かべた。

 凶月が何万人もの命と引き替えにしてでも助けたかった人だ。

「さ、早く」

 その言葉に、夕輝は楓の背後に回った。

「あの……、俺も償います。あなたと、凶月――望を殺したこと。……どうすれば償えるのかは分からないけど……償いますから……」

 声が震えた。


 いつしか、夕輝の頬に涙が伝っていた。

「ごめんなさい!」

 夕輝はそう言うと楓の心臓を貫いた。

 楓が凶月に被さるようにして倒れた。

「夕輝さん!」

 お唯が駆け寄ってくると、抱きついてきた。

「私も一緒に償います! だから、だから……」

 お唯も泣いていた。

「お唯ちゃん……」


 自分はお唯が連れて行かれる時、何もしてあげられなかったのに……。


「有難う。お唯ちゃん」

 夕輝はそう言うと朔夜の方を向いた。

「お唯ちゃんの記憶を消すことは出来るか?」

「夕輝さん!」

「勿論、この娘とそちらの娘には忘れてもらう」

 朔夜が手を振るとお唯とお里は意識を失った。

 夕輝は倒れそうになったお唯を抱き留めた。

「今回のことで、俺はあんた達に貸しを作ったよな」

「帰して欲しいのか?」

 夕輝はお唯を見下ろした。

「……お唯ちゃんを助けて欲しい」

「身請けして欲しいと言うことか」

「出来るか?」

「お前は帰れなくなるぞ。それでもいいのか?」

 残月が問うた。

「お唯ちゃんを助けるのは今じゃないとダメだから」

「後悔しないか?」

「するかもしれない。いや、きっとする。俺はそんなに出来た人間じゃないから」

「それでもその娘を助けたいか」

 朔夜が穏やかな声で訊ねた。


「お唯ちゃんを見捨てて帰ったら一生後悔する。同じ後悔するならお唯ちゃんを助けて後悔した方がいい」

 それから凶月と楓の方を見た。

「それに、俺は人を二人も殺してしまった。もう現代に帰って普通に生活するなんて出来ないよ」

「その娘一人助けたところで何も変わらないぞ。売られる娘は他にいくらでもいる」

 残月が言った。

「俺は人助けがしたいんじゃない。お唯ちゃんを助けたいんだ」

「分かった」

 朔夜はそう答えると、太一達の方を向いた。

「その二人の記憶は……」

「あっしは人に言ったりしやせんぜ」

「拙者も秘密は守ります」

 夕輝は二人を見てから朔夜の方を向いた。

「いいかな」

「いいだろう。どうせ喋ったところで誰も信じないだろうしな」

 残月が答えた。

「では、帰ろう」

 朔夜はお唯を抱き上げると出口に向かった。

 夕輝もお里を背負うと太一達を促して歩き出した。


       七


 地上ではあちこちで小火が起きたらしいが、どれもたいした被害は出なかったらしい。

 お里を橋本屋に送っていくと、何度も礼を言われた。


 お里がさらわれたことで用心棒はお役御免になるかと思ったが、残念ながらそう上手くはいかなかった。

 太一も祥三郞も約束通り、今までと同じように接してくれていた。

 太一は毎日忙しく峰湯で働いており、あまり一緒にシジミ捕りには行けなくなった。

 とはいえ、夕輝もそれほど金が必要ではないので、時間があるときだけ一人で行っていた。

 祥三郞もいつも通り、長八に論語を教えに来ている。

 祥三郞の教えのお陰か、長八はようやくご隠居に仕事を紹介してもらえたそうだ。

 もうご隠居に仕事を紹介してもらったのだから論語を習うのをやめてもいいのだが、勉強するのが楽しくなってきたらしい。

 祥三郞は葵とも時々会ってるようだ。


 お唯が身請けされる日、夕輝が新吉原の大門の前で待っていると、

「夕輝さん!」

 お唯が嬉しそうな顔で夕輝に駆け寄ってきた。

「お唯ちゃん。出してもらえたんだね」

「はい。どなたかが身請けしてくれたんです」

「良かったね」

 夕輝は微笑んだ。

「はい。……でも、見世に出てなかった私を一体誰が……」

「きっとお唯ちゃんがいい子にしてたから、神様が助けてくれたんだよ」

「まさか……」

 お唯が微笑った。

「じゃ、帰ろうか。ご両親が待ってるよ」

「はい」

 夕輝とお唯は並んで歩き出した。

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赤月-AKATSUKI- 月夜野すみれ @tsukiyonosumire

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