第五章 桐生祥三郞

       一


 板塀に囲まれた小さな一軒家が並んでいる一角に夕輝は立っていた。

 椛の家の前である。

 夕輝は枝折しおり戸の前で迷っていた。

 聞きたいことがあってがあって訊ねてはきたものの、そんなに親しい仲でもないのに、と思うと図々しい気がするのだ。


 しかし、このままでは……。


「夕輝さん? どうしたんですか?」

 不意に後ろから声をかけられて、振り返ると風呂敷包みを手にした椛が立っていた。

 どこかからの帰りのようだ。

「私に御用ですか?」

「うん、その……」

「中に入りますか?」

 椛が家の方に手を振った。

「ご家族がいるんだよね?」

 椛の家族に聞かれたくないのだとすぐに察してくれ、

「では、歩きながら話しましょう」

 そう言って歩き出した。

 夕輝が隣に並んだ。


「それで? どうされたんですか?」

 椛が促した。

「今、頼まれて用心棒をやってるんだけど……」

「橋本屋ですね」

「知ってるの? もしかして、俺のこと調べた?」

 ならず者に取り囲まれてやり返した後、太一が夕輝を「兄貴」と言ったにもかかわらず、仲間じゃないと言ったときすぐに信じてくれたことを思い出した。

 あれは自分を探って知っていたからではないのか。

「初めて助けていただいたとき、狂言ではないかと思って念のため後を尾けました。その結果、天満の一族の方だと分かったので、改めて……」

 やはり、と言う思いがあったので腹は立たなかった。夕輝には後ろ暗いところはないので、むしろ探って潔白を確かめてくれて良かった。


「じゃあさ、お里ちゃんを狙ってる奴にも心当たりある?」

「私を狙っているのと同じ相手です」

「え、でも……」

 椛を狙ってるのは望のはずだ。

「もしかして、未月の一族って言うのと関係あるの?」

「残月……は説明という柄ではないですね。朔夜ですか」

 やっぱり、天満の一族について何か知っているのだ。

「繊月丸」

 椛は納得したように頷いた。

「どうして、未月の一族は狙われてるの?」

「一つは天満の一族が滅んでも未月の一族がいる限り凶月の望みは達成されないから」

「もう一つは?」

にえとして最も適しているから」

「贄!? 贄って、生贄のこと!?」

 椛は頷いた。


 生贄なんて何に使うんだろう……。


「でも、お里さんは未月の一族ではありません」

「え?」

「似ているんです。お里さんと……あのお唯って言う子」

「お唯ちゃんも!?……って、何が?」

「匂いが」

「なんの?」

「血の匂いです」


 それも贄って言うのと関係があるのだろうか。


「でも、そもそも天満の一族って何? 凶月って言うのは何をしたいの?」

「それを話す権限は私にはありません。朔夜か繊月丸に訊いて下さい」


 朔夜には聞いても無駄だろう。

 繊月丸なら話してくれるかな。


「じゃあ、お里ちゃんのことはどうすればいいの?」

「似てはいても、二人は未月の一族ではありません。向こうがそれに気付けば狙われなくなるはずです」

「どうすれば分かってもらえるの?」

「一番簡単なのは血を舐めさせることなんですが……」

「それは無理」

「でしょうね」

 二人は一時、黙り込んだ。

「私にもどうすればいいか分かりません。父と兄に相談してみます。何か分かればお知らせします」

「面倒かけてごめんね」

「夕輝さんには助けていただきましたから」

「助けられたのは俺の方だよ」

「最初に助けていただいたのは私です」

「でも、結局俺の方が……」

 そう言いかけた夕輝に椛が微笑んだ。

「よしましょう。どちらが助けたとか、助けられたとか言うのは」

「そうだね」

 椛の笑みにつられて夕輝も笑った。

「有難う」

 夕輝はそう言うと椛と別れた。


 やっぱり、当分はお里の護衛を続けなければいけないのか。

 お里が未月の一族と間違われて狙われてるからと言って、狙ってくるヤツに「違う」と言っても無駄だろう。

 繊月丸は雇われてるヤツだと言っていたし、そう言うのは違うと言われても引き下がるわけにはいかないはずだ。

 夕輝はうんざりした。


「兄貴、お里さんの使いが待ってやすぜ」

「兄貴って言うな。分かった」

「女将さんにはもう言ってありやすので」

「そうか、サンキュ」

「さんきゅ?」

「ああ、いや、ありがとって事だよ」

「兄貴の国では有難うのことをさんきゅって言うんで?」

「う~ん、俺の国って言っていいのかなぁ」


 thank you.は英語だが、サンキュだと、和製英語だし……。


 説明したいが、日本は鎖国中のはずだ。イギリスとは国交がなかったはずだから、英語はまずいだろう。だからお唯にも口止めをしたわけだし。

 どう説明すればいいのか考え込みながら歩き出した。

 太一が後からついてくる。


「夕輝さん、遅かったですね」

 お里が非難がましく言った。

「ちょっと行くところがあってね」

「私だって出掛けるところがあるんです。出掛けるのが遅くなったら、帰りも遅くなるじゃないですか」

 君の為に行ったんだよ、と言いたかったが黙っていた。どうせ言い訳にしか聞こえないだろう。

 やっぱりお里は苦手だ。

 夕輝は、腹立たしげなお里の後について歩き出した。


 帰り道、あと少しで橋本屋に着く、と言うとき、

「すみません、この辺で女の子を見ませんでしたか!」

 二十代半ばくらいの女性が必死の形相で訊ねてきた。

「子供がいなくなったんですか?」

 夕輝の脳裏にこの前の異形のものがよぎった。

「この辺に神社かお寺はありませんか?」

「神社ならそこに……」

「太一、お里ちゃんを送って行ってくれ。俺は神社に行ってくる」

「ちょっと待って下さい。ちゃんと送ってもらわなければ困ります」

「もう見世は見えてるだろ」

「でも、ちゃんと送り迎えしてくれる約束じゃないですか!」

「じゃあ、ついてくれば? 行きましょう」

 夕輝は女性を促して走り出した。

 お里は少し迷った後、ついてきた。


 そこは小さな神社だった。鳥居をくぐるとすぐに祠があった。その祠が血に染まっていた。

「おまさ!」

 女性が祠の前に倒れている女の子に走り寄った。

 女の子は首から血を流して倒れていた。

 女性が抱き起こすと、女の子の首が変な方向にねじ曲がった。

「―――――!」

 お里が少女の遺体を見て悲鳴を上げた。

 女の子の遺体の近くにあの異形のものが立っていた。

「な、なんだ!? 兄貴! 化け物でやす!」

 異形のものが振り返った。

「十六夜」

 いつの間にか繊月丸が横にいた。


 夕輝は刀の姿になった繊月丸を掴んだ。

 異形のものの腕は血で染まっていた。

 夕輝は刀を鞘から抜いた。

 左手に鞘を持ったまま、右手で青眼に構えた。

 異形のものが右手を振りかぶった。

 振り下ろされた右手を鞘で弾くと、左腕を払ってきた。

 屈んで左腕をかいくぐると、踏み込んで刀を横に払った。

 頭が胴体から離れると同時に粉になって消えた。

「き、消えた……、兄貴、今のは一体……」

「おまさ! 起きておくれ、おまさ!」

 太一の問いを母親の悲痛な叫びが遮った。

 夕輝達三人は女性の方を見た。女性は子供にすがって泣き叫んでいた。

 夕輝達は言葉もなく女性と女の子を見つめていた。


 やがて我に返った太一が、

「平助親分を呼んできやす!」

 と言って駆け出していった。


 しばらく待つと平助が兵蔵を連れてやってきた。

 それと前後して嘉吉と共に、供を連れた東も臨場した。

「ひでぇことしやがる」

 平助は怒りに声を震わせた。

「一体ぇ誰がこんな……」

「化け物よ!」

 お里が裏返った声で言った。

「化け物?」

「のっぺらぼうみたいなヤツでやした!」

 太一も言った。

 平助はお里と太一に目を向けた後、夕輝の方を見た。

「化け物ってな、なんだい」


       二


 平助の問いに、太一とお里が代わる代わる説明した。

 この前女の子を助けたとき、夕輝は異形のもののことを平助には言わなかった。

 信じてもらえないと思ったからだ。しかし、今回は太一とお里も見ている。

 二人の説明が終わると、平助は確認するように夕輝を見た。

 夕輝は黙って頷いた。

「化け物ねぇ。しかも、消えちまったんじゃお縄にするわけにもいかねぇな」

 平助は、どうしやす? と言うように東に目を向けた。

「念のためだ。他に見たもんがいねぇか、辺りを聞き込んでこい」

 平助にそう指示した東は、女性に話を聞き始めた。

 平助は夕輝達の方を見た。

「お前ぇ達はもう帰ぇっていいぜ」

 その言葉に、夕輝と太一はお里を橋本屋に送っていくと、峰湯に帰った。


 翌日、稽古場の稽古から峰湯に戻った夕輝は、お里の使いが来ていなかったのでお花の長屋へ向かった。

 太一が当たり前のような顔をしてついてきた。

 椛が、お里だけではなく、お唯も未月の一族に似ていると言っていたことが気になっていた。

 お唯まで狙われないか心配で長屋に様子を見に行くと、何やら騒がしかった。


 長屋の一室の前に住人達が集まっていた。

「お花さん、どうしたんですか?」

 夕輝はお花を見つけて話しかけた。

「あ、夕ちゃん、お唯ちゃんの迎えがきたんだよ」

「迎え?」

「吉原から……」

「吉原!? 吉原って遊郭の!?」

「そうだよ」

 それではお唯は遊女になるのか!?

「だって、お唯ちゃんは奉公だって……」

「吉原の遊女は年季奉公だよ」

 お花が当たり前のように言った。

「そんな……」

 夕輝は絶句した。

 だからお唯は奉公に行くと言ったとき悲しそうな顔をしていたのか。

 人垣の後ろから部屋を覗くと、お唯と目が合った。

「夕輝さん……」

 お唯がすがるような目で夕輝を見つめた。

 手には夕輝が贈った簪が握られている。

 夕輝は声も出せなかった。

 お唯の手を取って助けたい。


 でもどうやって?


 お唯の両親の借金を返せるだけの金は持っていない。今から働いたって稼げるとは思えない。稼げるくらいなら借金したりするはずがないのだ。

 ただお唯を見つめるしかなかった。

 夕輝とお唯の視線が絡み合い、二人は見つめ合った。

 やがて、お唯は俯くと男に続いて歩き出した。

 夕輝は拳を握りしめた。


 自分が情けなかった。

 なんで助けるって言えないんだろう。

 一生かかっても働いて返すからって……。

 言えるわけがない。

 言ったら帰れなくなる。

 だから、言えなかった。

 ごめん、お唯ちゃん。

 夕輝はうなだれた。


「兄貴……」

 太一が同情するような目で夕輝を見上げた。

「無理でやすよ。お唯ちゃんの借金はちょっと働いたくらいで返せる額じゃないでやすよ」

 太一が夕輝の考えを見抜いたように言った。

「……どうしてそんなことが分かるんだよ」

「どうしてって……そうじゃなきゃ、吉原に売られたりはしないでやすし……」

「…………」

「お花さんも言ってたように、年季奉公でやすし、お唯ちゃんも年季が明ければ帰って来やすよ。お唯ちゃんならきっとすぐに稼いで……」

「稼ぐって身体を売るって事だろ」

 夕輝は太一の言葉を遮った。

「そうでやすけど……でも、見世に出るのは十七になってからでやすし……禿かむろになるって言ってやしたから……」

 太一が慰めるように言った。

「禿って雑用か何かか?」

「あんなに可愛い子を雑用に使うと思いやすか? 禿って言うのは花魁見習いでやす。教養を磨く為に教育されるんでやすよ。きっと売れっ子になりやすよ」

「だからそれ身体売ってだろ」

「でも、花魁になれば大店に身請けされて、そこのお内儀にもなれるかもしれないでやすし。裏店にいたら絶対無理でやすよ」


 お内儀というのは嫁のことらしい。

 いくら高級とは言え娼婦には違いないのではないか。

 現代なら高級でも娼婦だった女性は、普通の家でだっていい顔をされないはずだ。


「花魁ともなれば、教養もありやすし、客あしらいも上手いでやすからね」

 夕輝は身体を売ることに拘ってしまうが、江戸時代はそれほど気にはしなかったのだろうか。

 お花やお加代をはじめとした長屋の人達も仕方なさそうな顔をしている。

 夕輝は無力感に打ちのめされて長屋を後にした。太一の言葉も慰めにはならなかった。


 峰湯に戻ると、お里の使いが来ていた。

 狙われてるって分かってるんだから家で大人しくしてようとは思わないのかな。

 まぁ、太一は嬉しそうだからいいけど。


 お里の送り迎えをした帰り道。

 暮れ六つの鐘も鳴り終わり、東の空から広がり始めた夜が西の空へと広がっていく。

「すっかり遅くなったな」

「腹減りやしたね」

 そんな話をしながら前を歩く女性を追い抜いたとき、不意に血の臭いがした。


 え?


 夕輝が振り返るのと女性が倒れるのは同時だった。

「大丈夫ですか!」

 夕輝は慌てて駆け寄った。

 女性を抱き起こすと血の臭いが一層強くなった。

 女性の身体は恐ろしく軽かった。

 辺りが薄暗いからだろうか。青い顔をしているように見えた。肌は真っ白で、透き通るようというのはこう言うのを言うのだろうか。

 着物越しに触れた身体は骨張っていて、ものすごく痩せていた。

 ふと、女性の顔に見覚えがあるような気がした。

 女性の方も夕輝を見てはっと息を飲んだような表情をした。

「す、すみません……」

 女性が身を起こそうとする。

「無理しないで休んだ方が……」

「いえ、大丈夫です」

 女性が立とうとするので、夕輝と太一は立ち上がるのに手を貸した。

「送りますよ。どこへ行けばいいですか?」

「そこの橋のたもとへ……」

 女性が橋を指した。

 二人は女性を支えながら橋へ向かった。

「ここで結構です。連れが来ますので」

「一緒に待ちましょうか?」

「いえ、もう大丈夫です。有難うございました」

 それでも一緒に待つと言ったのだが、女性が強硬に行ってくれと言うので、夕輝と太一は女性を置いて歩き出した。


 しばらく行って振り返ると、武士と思われる二本差しの人影が橋を渡ってくるところだった。

 見ていると、女性は男性に抱えられるようにして、夕輝達とは反対の方へ歩き出した。

「なぁ、今の女の人さ……」

「きれいでやしたね」

「そうじゃなくて。血の臭いがしなかったか?」

「気が付きやせんでしたが」

 太一が振り返った。つられて夕輝も後ろを見たが、もう二人の姿は見えなかった。


       三


「化け物?」

 夕餉の席だった。

 今朝の殺しを目撃した者がいて、その話によると殺したのは化け物だというのだ。

「もしかして、のっぺらぼうでやすか?」

 太一が訊ねた。

 夕輝と同じく、この前の異形のものを思い浮かべたらしい。

「いや、女の化け物だそうだ」


 目撃者の話によると、倒れている女のはらわたを、髪を振り乱した女が四つん這いになって犬のように喰らっていたというのだ。

 夕輝は顔をしかめた。

 食事時に聞きたくはなかった。

 太一はわずかに眉をひそめながらも、箸を止めなかった。


 案外図太いんだな。


 夕輝は感心して太一を見た。

 ふと、さっきの女性のことを思い出した。


 まさかね。


 血の臭いだけであの女性だと決めるのは早計だ。あの細さからすると労咳ろうがいで大量の喀血かっけつでもしたのかもしれないし、どこかに大怪我でもしていたのかもしれない。それに、太一は気付かなかったと言っていた。

 きっと、気のせいに違いない。

 夕餉が終わると、繊月丸を持って裏庭に出た。

「繊月丸」

 夕輝が呼びかけると、繊月丸は少女の姿になった。

「何?」

「天満の一族って何? 何やってるんだ?」

「天満の一族はこの地上を支配してる」

「支配? じゃあ、偉いのか? 何でも出来るのか?」

 夕輝は思わず大きな声で訊ねた。


 支配しているならお唯を助けられるのではないのか?


 それを訊いてみた。

身請みうけって事?」

「よく分からないけど、それでお唯ちゃんは助かるのか?」

「助けられるけど、十六夜は帰れなくなるよ」

「どっちかなのか?」

「うん」

「支配者なんだろ。お唯ちゃんを助けられないなら何をしてるんだ?」

「何もしないよ。天満は天の一族だから地上のことには干渉しない」

「じゃあ、なんの為に支配してるんだ?」

 何もしないのなら支配していると言えるのか?

地下蜘蛛じげぐもから地上を守ってる」

「地下蜘蛛? それ何? そいつが何をするの?」

「地下蜘蛛は地下に住んでる。人の血を糧にして生きてる」


 人の血……。


「もしかして、人のはらわたを喰らっていたって言う……」

「それは地下蜘蛛に取り憑かれた人間」

 繊月丸は、地下蜘蛛は地上を狙っている、と言った。

 地下蜘蛛の糧は人の血だから、地上へ出て人間達を喰らいたいと思っているが、天満の一族が押さえているから出てこられないのだと言う。

「取り憑かれた人間? 地下蜘蛛そのものじゃなくて?」


 繊月丸によると地下蜘蛛は炎の姿で人を喰らうのだという。喰われた人間は黒焦げになる。

 天満の一族が地下蜘蛛を押さえきれなくなったとき、地上で大火が起き、何万人もの人が地下蜘蛛に食われるのだという。

 明暦の大火などは天満の一族が押さえきれなかった地下蜘蛛が大量に地上に出てきたものだそうだ。


「人をらってる人間って言うのはなんなんだ?」

「それは亜弓あゆみ

「亜弓?」

「亜弓は望月もちづきを打ち落とす為に地下蜘蛛の手先にされた人間」

 そのため、望が凶月になったと繊月丸が悲しそうに言った。

「亜弓は元は未月かえでだったもの」

「未月? もしかして椛ちゃんの……」

「お姉さんだった」

「だったって今は違うの?」

「今は亜弓」

 よく分からないが、もう未月楓とは違うと言うことらしい。

「十六夜。望を助けてあげて」

「凶月になったのに?」

「望は悪くない。望のせいじゃないの」

 繊月丸は大粒の涙を流しながら言った。

「……望が好きだった?」

「望はいつも優しかった。十六夜みたいに」

「俺は優しくないよ」

 自分は唯を助けなかった。

「望を止めてくれる?」

「望が死ぬことになるかもしれない。それでも?」

「それで望が泣かなずにすむようになるなら」

「そうか」

 夕輝に望を助けることが出来るかは分からない。ただ、繊月丸の悲しそうな顔は見たくないと思った。

 もう誰かが悲しむのを見るのは嫌だ。

 夕輝は刀の姿になった繊月丸を掴むと、嫌なことを振り払うように一心に素振りを始めた。

 東の空から昇ってきた月が西の空に傾くまでひたすら振り続けた。


 翌朝、稽古場で拭き掃除を終え、雑巾を片付けていると、

「夕輝殿!」

 祥三郞がやってきた。

「祥三郞君、おはよう」

 夕輝がそう声をかけると、祥三郞は顔を寄せてきた。

「夕輝殿、お気を付けて」

 祥三郞が小声で囁く。

「何が?」

「谷垣殿です」

「谷垣? ああ」

 以前、夕輝に一緒に帰るように言って祥三郞に荷物持ちをさせようとした門弟だ。

「この前のことを根に持っています。きっと仕返しをする気故、隙を見せぬように」

「有難う」

 夕輝がそう答えたとき、

「天満!」

 当の谷垣に呼ばれた。

 その後ろに、見知らぬ青年が三人立っていた。

 この稽古場の門弟ではない。

「なんですか?」

 夕輝は谷垣に歩み寄った。

 谷垣はにやにや笑いながら後ろの三人を振り返った。

「この三人は高田稽古場の門弟だ。お前と試合をしたいそうだから受けてやれ」


 なるほどね。


 自分が夕輝を叩きのめすと師匠に叱られるから、他の稽古場の者にやらせようという魂胆らしい。

「他流試合は禁じられてます」

「他流ではない。高田稽古場の高田先生は、我が大久保稽古場の大久保師匠と同じ中野稽古場で学んだ兄弟弟子だ」

「……そう言うことなら」

 仕方なくそう答えたとき、祥三郞が後ろから袖を引いた。

「駄目です、夕輝殿。谷垣殿のいつもの手です。あの三人は高田稽古場の高弟で、必ずうちの師匠の留守の時を見計らって連れてくるんです」

 祥三郞が小声で言った。

 さり気なく周りを見ると、皆こちらの様子を窺っていた。祥三郞の言う通り、良くあることのようだ。

「大丈夫。適当に負けてやれば気が済むよ」

 夕輝は祥三郞に囁き返した。

「しかし……」

 まだ何か言いたそうな祥三郞を残して、夕輝は壁に掛かった木刀を手に取った。

 高田稽古場の高弟三人は、背が高く――夕輝よりは低いが――がっしりしている肌の浅黒い男が石川、中肉中背の狐みたいな顔をしているのが奥野、眠そうな目をしている少し小太りの男が麻生と言った。

 夕輝が木刀を持って稽古場の中程に立つと、他の門弟達が壁際に退いた。


       四


 最初の相手は石川だった。

 礼をして木刀を構えた瞬間、夕輝の頭から雑念が一切消えた。

 夕輝が青眼に、石川が八相に構えた。

 石川が足裏をするようにしてじりじりと間を詰めだした。

 一足一刀の間境の手前で石川が止まった。

 夕輝と石川は睨み合った。

 どれくらいの時間がたったのだろうか。

 不意に夕輝の剣先が沈んだ。

 誘いだった。

 石川が八相から振り下ろした。

 夕輝はそれを弾くと同時に二の太刀で小手を放った。

 石川はそれを弾くと鋭く突いてきた。

 夕輝は体を開いてよけると石川の胴の直前で木刀を止めた。

 二人の動きが止まった。


 次の瞬間、見ていた門弟達の間からわっと言う歓声が上がった。

「浅い!」

「まだだ!」

 谷垣と石川が声を上げるのが同時だった。

 門弟達が静まる。

「天満! 今のは浅い! 一本取ったうちに入らん! もう一回だ!」

「谷が……!」

 祥三郞が声を上げかけたのを夕輝が手を上げて遮った。


 あれじゃ駄目か。


 確かに椛を襲った相手には通用しなかった。


 それなら……。


 夕輝の頭からは谷垣のことも試合のことも消えていた。

 どうすればあのときの敵を倒せるかだけで頭の中は一杯だった。

 夕輝は再び稽古場の中程に立ち、石川と礼を交わすと木刀を下段に構えた。

 石川が上段に構える。

 今度は夕輝から距離を詰めていく。

 一足一刀の間境の半歩手前で止まると、石川の斬撃の起こりを待った。

 二人はそのまま睨み合った。

 石川の額から頬にかけて汗が伝った。

 その汗が落ちたとき、二人は同時に技を放った。

 夕輝は下段から逆袈裟に、石川は上段から真っ向へ。

 二人の木刀が弾き合う。

 夕輝は更に一歩踏み込んで突きを放った。石川の喉の寸前で止める。

 石川の木刀は夕輝の胴を払おうとしたところで止まっていた。


「浅い! もう一度!」

 谷垣が悔しそうに叫んだ!

 夕輝は再び木刀を構えた。

 夕輝は脇構えに、石川は上段に。

 タァッ!

 一足一刀の間境を越えると同時に石川が裂帛の気合いを発して真っ向に振り下ろしてきた。

 夕輝はそれを弾くと、そのまま石川の懐に飛び込んで小手の寸前で止めた。

 石川の動きも止まる。


 谷垣は悔しそうに夕輝を睨むと、

「お前達もいけ!」

 後ろを振り返って残りの二人に命じた。

「谷垣殿!」

 祥三郞が叫んだが、頭に血が上っている石川達は構わず夕輝に向かってきた。

 石川が脇構えから胴へ。

 奥野が上段から真っ向へ。

 麻生が青眼から突きを。

 夕輝は胴に来た木刀を払って小手を打つと、石川は木刀を取り落とした。

 そのまま身体を回し、頭を下げて突きをかわしながら一歩踏み込んで胴を打った。

 奥野が腹を抱えて蹲る。

 反転して麻生が二の太刀を繰り出す前に面を放った。

 頭を殴るのはまずいので右肩を叩く。

 麻生が右肩を押さえて膝を突いた。


「くっ! 天満!」

 谷垣が木刀を振りかぶって突っ込んできたとき、

「何をしておる!」

 師匠の声が響き渡った。

 外出先から帰ってきたのだ。

 谷垣が慌てて木刀を下ろした。

 稽古場へ入ってくると、

「当稽古場では他流試合は禁じてるはず」

 夕輝や谷垣達を睨みながら言った。

「師匠、これは……」

「申し訳ありません。俺が稽古をつけてくれるように頼みました」

 夕輝は祥三郞の言葉を遮って頭を下げた。

「お前達、ちょっとこっちに来なさい」

 夕輝と谷垣達は母屋に連れて行かれた。


 五人は母屋で師匠の前に座らされた。

「当稽古場では他流試合は禁じている事は知っているな?」

 師匠の大久保源斎が夕輝達を睨んだ。

 夕輝が畳に手をついて頭を下げた。

「申し訳ありません。高田稽古場の先生は師匠と同じ中野稽古場で修行をされた方と聞き、それなら他流試合にはならないかと思い、稽古をつけて欲しいとお願いしました」

「試合ではなく稽古だったと?」

「はい」

 大久保はしばらく黙って夕輝達を見ていた。

「勝負でなかったのなら勝敗もないと言うことだな」

「は、はい」

 谷垣が答えた。

「石川殿、うちの弟子に稽古をつけてくれたことには礼を言おう。しかし、二度とそれがしに無断でこんな事はしないでいただきたい」

「はっ」

 石川達が頭を下げた。

「もう行きなさい」

 大久保の言葉に夕輝達が礼をして立ち上がりかけたとき、

「天満は残りなさい」

 大久保が声をかけてきた。

 谷垣は一瞬、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 夕輝が再び大久保の前に座る。


 四人が行ってしまうと、

「何か得るものはあったか」

 と訊ねられた。

「はい」

「これからも精進しなさい」

「はい」

「行きなさい」

 夕輝は手をついて師匠に頭を下げた。


 夕輝が稽古場へ戻ると祥三郞が駆け寄ってきた。

「夕輝殿だけ叱られたのですか? 拙者が師匠に申し上げて……」

「師匠は言わなくてもお見通しだったよ」

「では、叱られなかったのですか?」

「これからも精進しなさいって言われた」

「では、破門にはならないのですね」

 祥三郞が安心したように言った。

「うん。心配してくれて有難う」


「祥三郞君、今日うちに来る?」

 稽古場の雑巾がけが終わると祥三郞に声をかけた。

「あ、申し訳ありません。今日は……」

 祥三郞が申し訳なさそうに謝った。

「そう、じゃ、また今度ね」

 夕輝はそう言うと稽古場を後にした。


 最近、祥三郞君来ないな。


 夕輝は稽古場の方を振り返りながら思った。

 学問指南所を開きたいと言っていた程の祥三郞が教えるのに飽きたとは考えづらかった。


 何か事情があるのかな。


 それ以上深く考えずに峰湯に戻った。


「兄貴、最近桐生様、来やせんね」

 太一が薪を抱えながら言った。

「忙しいんだろ」

 夕輝も薪を持って立ち上がった。

「なんに忙しいんでやしょうかねぇ」

 太一が意味深に笑った。

「なんだよ」

「この前見たんでやすよ」

「見たって祥三郞君を?」

「女将さんの使いに行ったときに、桐生様が可愛いお嬢さんと一緒に歩いてたんでやすよ」

「祥三郞君が?」

「女と遊ぶ方がこんなところでむさ苦しい男に学問教えるよりよっぽど楽しいでやすからね」

「下世話なこと言うなよ」

 夕輝は呆れたように言った。

「ほんとでやすよ」

「いいから仕事しろ」

 夕輝はそう言うと薪運びを始めた。


 祥三郞君が女の子と?


 太一にはああ言ったものの気にならないと言えば嘘になる。

 確かに、祥三郞の年なら勉強より女の子の方に興味を持って当然だろう。


 太一が嘘をつくわけないし。


 しかし、祥三郞が学問を放り出して女の子と遊び歩くとも考えづらかった。


 ま、気にしてもしょうがないか。


 夕輝は薪運びを始めた。


       五


「帰ぇれ!」

 夕輝が稽古場から帰ってくると、太一が十歳くらいの女の子に怒鳴っていた。

「太一」

「あ、兄貴。お帰りなさいやし」

「なに子供に怒鳴ってるんだよ」

「すいやせん」

 太一は夕輝に頭を下げると、

「とにかく帰ぇれ」

 と言って女の子を追い返した。

「今の誰?」

「なんでもありやせん」

 太一はそう言うと湯屋の手伝いに戻っていった。


 数日後、お峰の使いでお花の長屋に向かう途中だった。

 向こうから祥三郞が歩いてきた。同い年くらいの女の子を連れている。

「祥三郞君」

 夕輝は立ち止まって声をかけた。

「あ、夕輝殿」

 祥三郞も夕輝に気付いて止まった。

「葵殿。こちら同じ稽古場に通っている天満夕輝殿です。夕輝殿、こちら立花葵様です」

 祥三郞はばつの悪そうな顔で二人を紹介した。

「桐生様、天満様というと……」

「はい、拙者が学問を教えに行っている湯屋の方です」

「天満様、桐生様をお借りしてしまっていて申し訳ありません」

 葵が頭を下げた。

「え、いえ、その……」

 夕輝は訳が分からず祥三郞の方を見た。

 話した感じだと恋人同士ではないようだがどういう知り合いなんだろう。

「桐生様には暴漢に襲われているところを助けていただき、それ以来、警護をしていただいています」

「あ、そうなん……ですか」

「そういう訳故、夕輝殿、申し訳ありませんが長八殿にも詫びておいてください」

 祥三郞は頭を下げた。

「分かった。そう言うことなら気を付けて」

 暴漢に付け狙われてるのならあまり引き留めるのも悪いだろうと思い、夕輝は早々に会話を切り上げて二人と別れた。

 恋人という感じではなかったが、祥三郞は葵が好きなようだ。


 祥三郞君が葵さんと上手くいくといいな。


 峰湯に戻って小助に仕事があるか聞くと、ないというので太一とシジミ捕りに行くことにした。

 太一がどこにいるか聞こうと台所へ行くと、お峰の前で土下座していた。

「お願いしやす!」

「太一、どうしたんだ?」

 夕輝が驚いて声をかけると、太一とお峰が振り返った。

「あ、夕ちゃん」

 お峰が困った顔で夕輝の方を見た。

「太一がね、お金貸してくれって言うんだよ」

「お袋を医者に診せる為に金が必要なんです。お願いしやす!」

「お母さんの病気、重いのか?」

 て言うか、お母さんいたのか。

 以前、太一は家族はいないと言っていたが。

「へい」

 太一はうなだれた。

「そうか。お峰さん、前に橋本屋さんから貰ったお金……」

「いいのかい?」

「はい。食費にと言っておいてすみません」

「それはいいんだけど……」

 お峰はそう言うと部屋の隅にある小さな箪笥の引き出しを開けた。

 白い紙に包まれたものを取り出すと、太一に差し出した。

「これは夕ちゃんからだよ」

「兄貴、女将さん、すいやせん! 必ず返しやすので……」

「返さなくていいよ。それより早くお母さんのところへ持っていってやれ」

「しばらく休んでいいから、おっかさんについてておやり」

「すいやせん!」

 太一は何度も頭を下げると駆け出していった。

 夕輝が一人でシジミを捕りに行こうとしたとき、橋本屋から使いの者が来た。


 お里の送り迎えをして帰ってくると太一がいた。

「太一、何してるんだよ」

「峰湯の手伝いを……」

「お母さんについててやらなくていいのかよ。お峰さんだってしばらく休んでいいって言ってただろ」

「いえ、金を借りた上に仕事まで休むわけにはいきやせん」

 妙なところで律儀なヤツだな。

「この前来てた女の子、お前の妹?」

「へい」

 太一が働いてるなら夕輝も休んでいるわけにはいかない。

 夕輝は太一と一緒に働き始めた。


「夕輝、明日の夜いいか?」

 夕餉の席で平助が訊ねてきた。

「また捕り物かい?」

 お峰が顔をしかめた。

「東様のご指名なんだよ。夕輝は頼りになるからな」

「俺ならいいですよ」

 夕輝がそう答えると、

「親分、あっしにも手伝わせてくだせぇ」

 太一も名乗りを上げた。

「じゃあ、二人とも頼むぜ」


 翌日、稽古場から帰ってくると、お峰に呼ばれた。

「すまないけど、これ、お花さんに届けてくれるかい?」

「はい」

「太一も一緒に連れてってやっておくれ」

「太一、どうかしたんですか?」

「元気がないんだよ。夕ちゃんなら年も近いから話も合うだろ。励ましてやっとくれよ」

「分かりました」


 夕輝は太一を誘うと、お花の長屋に向かった。

 確かに太一は元気がなかった。

 きっとお母さんが心配なんだろうな。

 お峰には「分かった」等と言ってしまったが、どうすれば励ませるのか分からなかった。

 自分の親が重病だったら、何を言われても元気になどなれない。

 しかも、江戸時代の医療なんて、どう考えても当てにならない。


 聞くところによると、江戸時代は医師になるのに資格は必要なく、誰でもなれるのだそうだ。

 江戸時代の医学では勉強していたとしても心許ないのに、ましてや碌に学びもしないまま医師の看板を掲げているような人間が信用できる訳がない。

 まぁ、太一の母親がかかっているのが藪医者なのかどうかは分からないが。


「なぁ」

 せめて気を紛らわせようと、太一に話しかけた。

「へい」

「あれ、泥鰌どじょうって読むんだろ」

 夕輝は『どぜう』と書かれた看板を指した。

「そうでやすよ」

「あれも泥鰌だよな」

 今度は『どぢやう』と書かれている看板を指した。

「へい」

「なんで字が違うんだ?」

「あっち――どぜう――は泥鰌鍋で、あれ――どぢやう――は泥鰌汁なんでやすよ」

「なるほど」

「『どぢやう』だとどっちなのか区別がつかないから書き分けてるんでやす」

「ふぅん」


 どぢやうの後に『鍋』とか『汁』とか書けば、わざわざ書き分ける必要もないと思うのだが、それは野暮なんだろうか。

 夕輝は『ふなぎ』と書かれた看板を見た。あれは『うなぎ』なのだとこの前教わった。

 平仮名は必ずしも一字だけではなく、『う』一つとっても色々な字がある。どうやら明治維新後に一つに統一されたようだ。


 そうだよな。一つの方が分かり易いもんな。


 長屋に着くと、お花がお唯の両親の部屋から出てきた。

「お花さん、どうしたんですか?」

「お唯ちゃんのおっかさんがね、風邪引いてんだよ」

「大丈夫なんですか?」

「ただの風邪なんだけど、身体の弱い人だから……。お唯ちゃんがいなくなって気落ちしてるし」

「お医者さんには……」

「診てもらったよ。お唯ちゃんが売られたときのお金が少し残ってるからね」

 お唯が売られたときと聞いて、夕輝の胸が痛んだ。


 この時代に健康保険と生活保護制度があれば、お唯ちゃんが遊郭に売られるようなことはなかったのに……。


「そうですか……。あ、これ、お峰さんからです」

「いつも悪いね。助かるよ」

 夕輝はお峰から預かった物をお花に渡すと、長屋を後にした。


       六


「お峰さん、ただいま戻りました」

 台所でお峰に声をかけると、

「夕ちゃん、ありがとね。太一は?」

「あ、湯屋の仕事に戻りました。俺も湯屋を手伝ってきます」

 夕輝はそう言ったものの、お峰の前でもじもじしていた。

「どうしたんだい?」

「……あの……橋本屋さんから二度目に貰ったお金……」

 お峰は夕輝の言わんとしていることがすぐに分かったらしく、箪笥の前に行くと引き出しから白い紙に包まれたものを取り出した。

「太一のおっかさん、そんなに悪いのかい?」

「多分……」

「それじゃ、渡しておやり」

「すみません!」

 夕輝は深々と頭を下げた。

「何言ってんだい。元々夕ちゃんのお金じゃないか。夕ちゃんのしたいようにするといいよ」

「有難うございます」

 夕輝はもう一度深く頭を下げると太一の元へ向かった。


「太一」

「あ、兄貴」

「今日はもう仕事はいいよ」

「シジミ捕りに行くんでやすか?」

「そうじゃなくて……」

 夕輝は紙に包まれた金を差し出した。

「これ、お前に……」

「そんな! 二度も借りられやせん!」

 太一は頭を振った。

「これはお里ちゃんの護衛をした謝礼だ。お前も一緒にやっただろ。だから遠慮なく受け取れ」

「でも……」

「いいから早くお母さんのところに持っていってやれ」

「すいやせん!」

 太一は金を押し頂いて頭を深く下げた。


 しばらく母親に付いていろと言ったにもかかわらず、太一は暮れ六つ前に戻ってきた。

 夕餉を食べると、夕輝達は捕り物の支度をした。

 と言っても、夕輝がむしろにくるんだ繊月丸を持っただけなのだが。

 生け捕りにしないといけないから太一も匕首は持っていなかった。


 深川の外れの寂しい場所に小さな仕舞屋があった。

「今日捕まえるのは誰なんですか?」

 夕輝は平助に訊ねた。

「葛西の草太の尻尾をやっと掴んだのよ。今夜ここに例の盗賊達が集まるみてぇなんだ」

 だとしたら割と大掛かりな捕り物になる。

 そう思って見回してみると、かなり沢山の人間が集まっているようだ。

「武士がいるみてぇだから、そいつぁは頼んだぜ」

「はい」

「太一、お前ぇは外に逃げてくるヤツを捕まえろ」

「へい」

「お前ぇは素手なんだから無理すんじゃねぇぞ」

「へい」


 そんなやりとりをしているうちに、与力から合図があった。

 御用提灯に火が入り、一斉に掲げられた。

「行け!」

 その言葉と共に、仕舞屋を囲んだ捕り物人足達が仕舞屋に近付いていった。

 一人が戸口に手をかけるとすぐに開いた。

 人足達が仕舞屋に入っていく。

 夕輝も後に続いた。

 仕舞屋の中には男達が円坐になって酒を飲んでいた。

「なんだ、手前ぇら!」


 男達は湯飲みを蹴飛ばして立ち上がった。

 陶器がぶつかる音が響く。

 男は七人いた。

 立ち上がるときに刀を握ったのは三人だった。


 夕輝には太刀と長脇差の区別は付かないので、武士は多くて三人、と言うことしか分からなかった。

 男の一人が行灯を消したが、すぐに龕灯を持っている捕り方が部屋の中を照らし、打込燭台が打ち込まれてそこに蝋燭が立てられ、部屋は元の明るさを取り戻す。

 男達は雨戸を蹴破って外に逃げ出した。


 だが、すぐに足を止めた。

 外には御用提灯を持った捕り方達が取り囲んでいる。

 刀を持っている男達は鞘から抜き、それ以外の男は懐から匕首を出して構えた。

 周りを取り囲んでいた捕り方達も十手や刺又などを取り出して盗賊達に向けた。

「一人も逃すな! 行け!」

 与力が大声を上げると、盗賊を取り囲んでいた捕り方達が輪を縮めた。

「御用!」「御用!」とは言っているが、刀を持っている男が三人もいるせいか、捕り方達は腰が引けていた

「返り討ちにしてくれるわ!」

 刀を持った男の一人が叫ぶと、御用提灯を持った捕り方達に斬り込んだ。

 それにつられるようにして残りの男達も刀や匕首を構えて突っ込んでいった。

「待て!」

 夕輝は捕り方に斬りかかった刀の男の肩に、後ろから繊月丸を振り下ろした。

 男が振り返って繊月丸を受け止めた。

 夕輝と男は刀を押し合って同時に後ろに飛び退いた。

 夕輝が青眼に構えると、男も青眼に構えた。


 武士なのだろうか。

 剣術が出来るようだ。それも素人ではない。構えに隙がなかった。

 御用提灯で明かりは十分あった。

 男は貧相なひげをはやした、やせた男だった。はだけた着物の間からは肋骨の浮いた血色の悪い腹が覗いていた。

「御用!」

 十手を持った捕り方が男に飛びかかりそうな素振りを見せた。

 一瞬、男の視線が捕り方に流れた。

 その隙を逃さず、面を打った。

 男は繊月丸を弾こうとしたが間に合わず、夕輝の刀は男の右腕を打った。

 骨の折れる鈍い音がして、男が刀を取り落とした。

 すかさず捕り方がよってたかって男を押さえつけると縄をかけた。


 他の二人の武士(多分)がどこにいるのかと周りを見回した。

 町人(多分)は同心や捕り方達で何とかなるだろう。

 そのとき、向こうの方で刀を持った男の一人が太一に斬りかかろうとしているのが見えた。

「太一!」

 この距離では走っても間に合わない!

 とっさに、走り寄りながら繊月丸を投げつけた。

 繊月丸が男の背中に当たった。

 男がのけぞる。

 すぐに体勢を立て直した男はこちらを振り返ると、素手の太一に背を向けて夕輝の方に向かってきた。


 刀を振りかざした男がすぐそこに迫った。

「兄貴!」

 太一は夕輝の間近に迫った男を見ると、辺りを見回した。

「繊月丸!」

 夕輝が叫ぶと、繊月丸が手の中に戻った。

 振り下ろされた刀を繊月丸で弾く。

 男は素手のはずの夕輝が刀を持っていることに気付くと目を剥いた。


 夕輝は下段に構えると、素早い寄り身で男に近付いた。

 男がはっとして刀を構えようとしたが、その隙を与えずに逆袈裟に切り上げた。

 繊月丸が男の胴に決まった。

 男は腹を押さえて蹲った。


 あと一人!


 周りを見回すと、捕り物はほぼ終わっていた。

 町人三人と、夕輝が倒した武士二人は縄をかけられていた。

 残り一人は東が打ち倒したところだった。

 夕輝は繊月丸を下ろすと息をついた。

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