八月の空蝉
十和田 茅
八月の空蝉
かしましい蝉の声。
嗚呼、今年もまた夏がやってきました。
昭和27年、夏。
蝉は地中で七年すごす、と聞いたことがあります。ちょうど終戦の年に生まれ生き延びた蝉が、今年の夏を謳歌しているのですね。
「お兄様、紅茶がはいりました」
「ありがとう、もらおうか」
「探偵さんもどうぞ」
本日は珍しいお客様がいらっしゃっています。なんと探偵さんだそうです。
「や、おかまいなく」
優雅な午後のことでした。
窓からは緑を通した強い日差しが差し込んでいます。赤絨毯にシャンデリア。軍需景気に沸いたとはいえ敗戦からの傷がまだ癒えきっていない世間に比べて、この鷹司家の応接間はきらびやかなものです。
兄と同い年くらいの年若い探偵さんは、あまり上等とはいえない着物を身にまといトランクを持って下駄をつっかけ、この屋敷にやってきました。なんでも人捜しをしていらっしゃるとか。
まだ終戦の傷跡の癒えぬ昨今、人捜しは需要があるそうです。
そうしてこの人がうちを訪ねてきたのも「ある人」の消息を尋ねにいらっしゃったのでした。
「鷹司都さんにお尋ねいたします。丸山路子さんをご存じありませんでしょうか」
私は紅茶を手にしながら椅子に腰掛けたところでした。
丸山路子のことはよく知っています。
懐かしい名前です。
私は路子の家族と一緒に大陸から引き揚げてきたのですから。
家長たる兄が私に代わり答えました。
「都の、乳母の子ですね。引揚船の中で亡くなったと聞いています」
ええ、それは表向きのこと。
私は探偵さんに視線を送りました。
私と目があうと、その人は穏やかな微笑みを返しました。
優しそうな方。それなのに。
私にはその瞳がまるで射すくめるように恐ろしいものに見えました。
真実を暴こうとする目のなんと暴力的なこと。
ええ、探偵さん。貴方はそのためにここにいらしたのですものね。
私は大きく息を吸い。
背筋を殊更、真っ直ぐ伸ばします。
見ていてくださいな、と、お下げの少女の幻影に心の声を送って手元を見つめます。
さて皆様、ご照覧あれ。
これより始まるは断罪の時間です。
「いいえ、お兄様。私が路子をころしました」
兄が息を呑むのが聞こえました。
私は、手元の紅茶を見つめながら昔を思い出していました。目を細めると、湯気を立てる紅い水の向こうに、お下げの少女の幻影が揺らめいて見えます。
いつかこんな日が来ることを私は心の底でずっと待っていたのかもしれません。
あれは暑い夏のことでありました。
*
路子。
同い年の、私の乳きょうだい。
引揚船の中、あの地獄のような環境で命の火を灯すのをやめました。
乳母の八重は小さな私の体をしっかりと抱きしめて「お嬢様が悪いのではございません、このことは誰にも云ってはなりません。決して、云ってはなりません」と繰り返しました。
私は日本で生まれ、幼い頃両親と大陸へ渡りました。兄を日本に残して。
兄が一人、日本に残された理由を私は聞いてはおりません。ですが兄は鷹司家の跡取りですから、家族と共に大陸へやるよりも日本にとどまって教育を受けるべきだと誰かが考えたのかもしれません。
本来なら兄と共に母も日本へ残るべきだったのかもしれませんが、なにしろ母はたいそう情熱的な人でありましたので相思相愛だった父と離れるなど考えもしなかったのでしょう。そしてまだ母が恋しい赤ん坊の私も乳母の家族と共に海を渡りました。
両親は忙しく、乳母の家族がそのまま私の家族のようなものでした。
路子と私は背格好も似ていたのでまるで本当の姉妹のようだと、よく人に云われたものです。
おやつですよと呼ぶ乳母に、私たちは手を振り、応えます。
『母さん』
『八重』
なぜ二人とも同じ呼び方で八重のことを呼べないのか、子供の頃は不思議でした。
都は歴史と伝統ある鷹司家の娘で、路子は使用人の娘。
十ともなるとそんなことは当たり前になってしまいましたけれども。
戦争が始まって父は早々に帰国しました。やがて敗戦。母と私もいずれ引き揚げる予定でしたが、それより早くソ連軍が進軍してきました。本当は、路子の家族とはここで別の道をとる予定だったそうなのですが、そんなことを知らない私はいつものように路子たちについていきました。このとき別れた母は未だ行方が知れません。
大陸を出るまでは本当に思い出したくもない日々でした。日本人に対する略奪、暴行、連れて行かれたと思ったらぼろぼろになって帰ってきた女性たち。そんな中、足手まといでしかない子供二人を連れ、友蔵と八重の夫婦はどれだけ大変だったことでしょう。やっとの思いで船に乗り込めたときには、私はひどい下痢に苦しんでいました。赤痢だということでした。
お下げ髪のあの子は優しい子でした。私を気づかい、いつも少しだけ私に自分の分をくれました。下痢と栄養失調になっているのはあの子も同じだったのに。
そうして私は魔が差したのです。
あの子がいなくなれば、その分食べられる、と。
皮肉なことにあの子が最後に発した言葉は、私に向かって「幸せになってね」。本当に優しい子でした。
そして私は無事日本へ帰り何不自由なく暮らしております。ですが罪悪感はずっと私の胸にわだかまったままでした。
*
私はずっとうつむいたまま、手にした紅茶に口を付けることもなく、そこまで語りきりました。
兄が強い口調で何かを云いかけましたが、探偵さんの優しげな声がそれを止めました。
そうして私に向かって云ったのです。
「大変興味深いお話でした。ですが丸山路子さんは生きておられますよ」
と。
私は思わず顔をあげました。
路子が生きているはずがありません。友蔵がシーツにくるんで海に沈めたのです。ちゃんとこの目で見たわけではありませんが、水葬の汽笛を私は聞いています。
「嘘ではありません。生きておられますよ、ほら、そこに」
そう云って。
彼は丁寧な仕草で私にてのひらを向けたのです。
「都さん、今はそう名乗っておられますが、あなたが路子さんだ」
「何だって?」
気のせいでしょうか、兄の声が遠くから聞こえるような気がします。
「あなたの最初の表現は実に詩的でした。『路子』を『ころした』。おそらくは一生、自分が路子という名を名乗ることができない、そんな歪曲した表現でしょう。船の中で亡くなられた少女こそ鷹司家の娘、都さんでした。写真でも確認済みです。じゃああなたは誰なんでしょう?」
そうして彼が懐から取り出したのは古ぼけた写真。
今の私の面影のあるボロをまとった少女と、儚く微笑むお下げの少女。それを見た私の口からこぼれ出た言葉は
「お嬢様」
お下げの少女を、私はずっとそう呼んでいました。
*
都お嬢様は、母、八重に似た儚げな雰囲気から、よく私の姉に間違えられました。私はというと両親にこれっぽっちも似ていませんでしたから。
私がお嬢様を手にかけたというのは嘘です。あの方は私にわずかな食べ物も分け与えてくださり、隣で事切れていたのです。
そのことを知った母は私をしっかりと抱きしめて云いました。
「よくお聞き。今日からお前は鷹司都と名乗るんだよ」
母にしてみればお預かりした大切なお嬢様を道半ばで死なせるわけにはいかなかったのでしょう。
お嬢様を海に置き去りにして日本の土を踏み、敗戦の爪痕残る町を幾つも通り過ぎて、殺伐とした空気の中でやっと鷹司の屋敷にたどり着いたあの日。
ご当主はすでに亡く、一度も「路子」を見たことがなかった坊ちゃまが私を「妹」として温かく迎えてくださったあのときに。
ごめんなさい、お嬢様。私はこの先一生、鷹司都として生きようと決めたのです。
寒さに打ち震えることもなく、食べ物に事欠くことなく、思う存分学ぶことも出来て。
だけど罪悪感が私を苦しめる。
お嬢様の幻影はいつもつきまとっていました。恨み言のひとつでも云ってくださればいいのに、いつも微笑んで「幸せになってね」と臨終の言葉を繰り返します。
母、八重は、己が目の前で、私が鷹司都として振る舞うのに耐えかねたか早々に職を辞してしまいました。父、友蔵はずっと私を心配して側にいてくれましたが、体を壊して
兄が何度か見舞いに行ってくれたようですが、病状をそう根ほり葉ほり聞くこともできません。友蔵はもう赤の他人なのですから。亡くなったとき焼香に行くことさえ私にはできませんでした。
*
「だけど解せないことがひとつ」
探偵さんの台詞はまだ続きました。
「あなたはなぜ今、嘘の告白をしようとしました? 最初から、実は自分が路子で、死んだ都さんと入れ替わっていたと云えば済む話です。分かっていないはずがないと思いますが、あなたが『鷹司都』として過去『丸山路子』をころしたと自白すれば鷹司家の名に泥を塗ることになるのですよ」
罪を認め、警察に逮捕されれば、それは免れないでしょう。
では逮捕されなければ?
「いいえ、探偵さん。丸山路子はもうこの世にはおりません。あの海に置いてきた名です。今は、私が鷹司都です。わずか七年ばかりとはいえ鷹司家の令嬢として教育を受けました。私は誰かに、お前は罪人だと裁かれたかったのです。それに全くの嘘というわけでもありませんのよ。少なくとも私は、私の存在があの子をころしたのだと思っていますから」
それは真実。少なくとも私にとっては。
「奪った名と命は、同じ名と命によって贖わねばなりません」
私さえいなくなれば家名に傷が付くことを恐れる親族によって真実は闇の中へ葬られることでしょう。
「さようなら、お兄様」
微笑みかけました。
最後まであなたの妹の名を騙って去って行く私をお許しください。
私は手にした紅茶碗をあおりました。
「都さん!」
「都!」
手に持っていた紅茶碗と受け皿がすべり落ちてゆくのが分かりました。
まぶたの裏に浮かぶのは、最後まで私を心配してくださったお下げ髪のお嬢様の姿。
あなたの幸せが私の幸せ。
お嬢様、遅くなりました。
今、鷹司都の名をあなたにお返しいたします。
***
かしましい蝉の声。
真新しい墓石の前に、鷹司家の若き当主と、青年探偵が立つ。
人の背ほどあろうかという大きな墓石を探偵は見上げる。
「墓、新しく作ったんですね」
と探偵が云えば彼は
「都を、いや、路子を鷹司の先祖代々の墓に入れるわけにはいかないでしょう」
と苦笑した。
御影石に刻まれているのは鷹司都でも丸山路子でもなく、女性の戒名とおぼしき名のみ。
「表向きは、ここは私の妹、都の墓です。突然の病死ということになりました。世間の目を気にしなければならない家柄というのもこんなときは因果なものですね」
探偵はおもむろに云った。
「ご存じだったのでしょう?」
「は?」
「彼女が本当の妹御ではないということ」
「ああ。ええ、知っていました」
拍子抜けするほどあっさりと彼はその事実を認めたので、逆に探偵は目を丸くする。
「友蔵が死ぬ前に教えてくれました。『返してくれ、あんたが妹だと思っている子は、俺の娘なんだ』とね。その台詞のおかげで何かがふっきれたのは確かです」
微笑んで墓石に愛おしげな目を向ける。
「こんなことになるのなら、もっと早くに告げてやるべきでした。そうすれば彼女は今もまだ私の側にいてくれたかもしれません。おかしいでしょう? 私は、自分の妹だと思っていたあの子が愛おしくてたまらなかったのです」
探偵は目を伏せた。笑みを貼り付けたまま。
「私、あれから丸山八重さんに会ってきました」
「路子の母親に?」
「はい。今回の事件を報告すると八重さん、泣き崩れて、とんでもないことを教えてくださいました。おそらくは墓まで持っていくはずだった秘密です。亡くなったあの少女は、本当に、都さんだったんです。あなたと血の繋がった妹御だったんです」
彼は。
何をいわれたのか分からないといった顔で、探偵の顔を見た。
「おどろいたでしょう。八重さん、泣きながら十七年前の自分の罪を告白してくれました。自分の腕の中で泣く二人の赤子。一方は預かった金持ちの娘、もう一方は貧乏人の自分の娘。魔が差して二人の赤子をすり替えたのだそうです。その後十年、陰日向になり二人の娘を見守ってきた八重さんですが、引揚船の中で自分の娘『鷹司都』が亡くなってしまい心の底から自分の罪を悔い改めたのだそうです。そこで、それまで我が子として育ててきた鷹司家の娘『丸山路子』に、改めて『鷹司都』と名乗らせて日本に帰ってきた。
旦那さんの友蔵さんにも話せなかったそうです。だから友蔵さんは知らなかったんですよ。日本に帰ってきた『鷹司都』が、本当に、鷹司家の娘だということを」
ふと見ると、探偵の声を聞く彼は蒼白になっていた。
見開いた目を再度墓石に向ける。今度は愛おしさなど欠片も見いだせない目で。その目が語っていたのは驚愕。いや、恐怖か。
「まさか……!」
「紅茶を呷って亡くなった彼女が言ってましたね。お下げの少女は、儚げなところが八重さんにそっくりだったと。そうです、真実、八重さんの娘だったからです。そして乳母の子として育てられようと鷹司の血を引く彼女が、友蔵さん八重さんどちらにも似ていなかったのは道理です」
「あの子は……母に似て……いや、まさか!!」
「詳しくは八重さんに」
「……そんな……!」
彼は身を翻すと足早に立ち去っていった。その背を探偵は目をすがめて見送る。
「これで満足ですか?」
探偵は墓石へと振り向いた。
「あなたは『路子』のみならず『都』をも社会的に抹殺することに成功した。おそらくは最初からこういうおつもりだったのでしょう?
あなた、全部知っていた。
だから、私を『呼んだ』のでしょう?」
墓石は何も答えない。
だが、その後ろから現れた黒い影。
影は、死んだはずの女と同じ顔で満足げに微笑んだ。
さて女をなんと呼ぼうか。
丸山路子か。
鷹司都か。
名を失ったただの女か。
「お兄様を連れてきてくださってありがとうございました、探偵さん」
にっこりと女は微笑む。
紅茶を呷ったときよりも、したたかそうな微笑みで。
*
「あなた、うまくやりましたね。世間はだれも死んだ女と探偵がグルだなんて思いもよらないでしょうに」
「そりゃあもう。ちゃあんと、小芝居のできる本物の探偵を探して、と、執事に頼みましたもの」
つまり執事もグルである。
「ええ、私があなたを『呼んだ』のはまさに、お兄様をだましていただきたかったのですわ」
「あのあと僕はすぐ屋敷を追い出されましたから事情は分かりませんけれどね。この大きな墓石の下にはだれか別の死体でもあるんですか」
「ございませんわ。かかりつけ医も、檀家のお坊様も抱き込んでありますもの」
「なん……その人たちもグルだったんですか……」
「お二方とも私に大変、同情的でしたので」
女は目を伏せた。
「他にはなにか? ああ、検視の心配でしょうか? 警察など呼ぶはずがございませんわ。鷹司家の不名誉ですもの。殺人をおかした娘が自ら命を絶つ、などと醜聞なことこの上ない。お兄様はともかく親族のおじさま方ならば早々に形だけの葬儀をすませるものと踏んでおりましたの。もちろん棺を開けて挨拶、など、いたしません。ただ葬儀という儀式を終わらせるためだけのからっぽの棺が必要だっただけですもの。お骨? いいえ、鷹司の家のもので不名誉な娘の骨に触りたいと思う者など兄含めて一人もおりませんわ。
すべて予想通りになってくれて助かりました。おかげで執事の手によって私は家から逃れることができましたもの」
探偵は天を仰いだ。
なんとも穴だらけの、だが結果的にはうまくいってしまったトリック。
「……ひどい話だ。探偵小説なら反則も反則ですよ」
新聞あたりなら面白おかしく書き散らすのだろうか。
「八重は当時十の私に全てを告白しました。すり替えた事を『お嬢様が悪いのではございませんが、このことは誰にも云ってはなりません。決して、云ってはなりません』とね。そうして私は『鷹司都』に戻った。とはいえ、私のアイデンティティは永らく『路子』にありましたけれども。敬愛していた兄が、友蔵の死後、あのような振る舞いをなさらなければ『都』を消す必要もありませんでした」
「あのような?」
「ええ。女の口からはとても云えませんけれど。思えば、実の兄妹ではないと確信されたからこそ行動に移られたのでしょうね」
低い声で云う。そっと自分の体を包むように腕を回しながら。
青年探偵は気まずげに明後日の方向を見た。
「……それは……男の口からは何とも、かける言葉が見つかりませんが」
内心では、あの優男がどうして世間的には「妹」に手を出す真似をしたのかさっぱり分からなくて、あきれ果てていた。
「かかりつけ医の話では、たまに出るそうですの。その……同じ血を持ちながら惹かれ合う方々が。古くからの血が濃いせいでしょうか? 兄がまさか該当したとは思いませんでしたけれど先刻、墓石の裏で話を聞いていて納得できましたわ。友蔵の話を聞いて『自分たちが愛し合っても大丈夫だ』と喜ばれたのだと思います。私にとっては凌辱でも兄にとってあれは愛だったのですわ」
なるほど、執事と医者が彼女に同情的だったのは「それ」を知っていたからか、と探偵は納得する。
「でも、対外的にあなたは『妹』ですよね?」
「傷物にされてしまえば、どこにもお嫁にゆけませんでしょう?」
「うっわ……」
「いずれ尼にでもするおつもりだったようですけど。ええ、お坊様が私に同情してくださったのは、その折に事情が知れたためで」
「どうなってるんです、旧家、ってやつは」
全ての元凶は、あの兄ではないか。
「この爛れた関係を終わらせるにはどちらかがいなくなれば済む話です。その際、鷹司家の当主を消すより『都』がいなくなるほうが社会的損害が少なくて済むと考えましたの」
それは裏返すと、社会的損害が少なければ、実の兄を殺すのもためらわなかったということか。
紅茶の中に毒は入っていなかった。脈を取った探偵はそのことを承知で嘘を付いた。
「だとしても思い切りましたね」
「ふふ。ここらで『鷹司都』の名をあの子に返すのもよいと思ったのです。あの子は最後まで自分を『都』だと信じて逝ったのですから。……もしかしたら全部知っていて私を生かそうとしてくれたのかもしれませんが、それはもう誰にも分からないことです。かといって私はもう昔の路子には戻れません。路子がお仕えした、私のお嬢様はもういないのですから」
「今でもまだ見えますか、その、幻影とやらは」
「ええ。亡くなったときのまま、お下げ髪の少女のまま。でもお嬢様は私のことを『みちこ』とも『みやこ』とも呼んでくださいませんの。微笑んで『幸せになってね』と繰り返すばかり」
探偵はオカルトを信じない。だが今だけは、あってもいいのではないかと思う。
「真実、貴女の幸せを願われてるのだと思いますよ。貴女がどのような名前でも。どのような境遇にあっても」
「あら……お優しい探偵さんですこと」
貴族の血を彷彿とさせる、誇り高く美しい女は
「お嬢様の幸せが私の幸せでした」
と使用人の鑑のような台詞を心から告げた。
*
かしましい蝉の声。
墓場の、松林にこだましている。
「これからどうするんです? あなた戸籍なくなっちゃったでしょう?」
「……」
上目遣いに探偵を見る。探偵は片方の眉をあげた。
「なんだか嫌な予感がするのは気のせいですか」
「毒を食らわば皿までという言葉は、ご存じ?」
「いいえ、知りません。浅学なもので」
探偵はくるりときびすを返す。
その着物の袖をつかむ手があった。
「では袖振り合うも多生の縁という言葉は?」
「いえ全く。それでは私、こちらの道なもので。では」
「旅は道連れ世は情けという言葉は?」
夏の、色濃い影がふたつ。
深い緑の小径へと消えていった。
八月の空蝉 十和田 茅 @chigaya
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