モロッコの薔薇

十和田 茅

モロッコの薔薇

 十九世紀、フランス領アルジェリア、中心都市アルジェ。

 空は抜けるような蒼。地中海は黒々とした紺碧をたたえている。沿岸部はフランス人の姿も珍しくないが、大多数はアラブ人が占める乾いた国。

 ナツメ椰子の濃い緑の向こうにオスマントルコの影響を色濃く残した城塞カスバがそびえたっている。町をぐるりと取り囲む城壁の内は慣れぬものをこばむ巨大な迷宮都市であった。


   *


 迷宮のようなカスバの中を、ベールをかぶった少女が人々の間を急ぐように縫っていく。

「アッサラーム アレイコム」

「ワ アレイコム サラーム」

 すれ違う顔見知りと挨拶を交わす。入り組んだ狭い道、曲がりくねった坂とあちこちにある急な階段を、少女は慣れた足取りで進んで行く。

 辻を曲がったところは香料商の市場スークだった。

 色とりどりの香辛料、染料、石鹸に、乾燥させた薔薇のつぼみ、ビーズのように磨いた麝香や乳香の塊などがいたるところにあふれかえる。

 賑やかしの中を突き進む少女の目の前、目的地である店から、見かけない二人連れが罵声を浴びせかけながら飛び出してきた。

「馬鹿野郎、二度とくるか!」

 その強い口調に少女は身を固くする。

 二人の男達は少女に気づかず別の道を行った。彼らの姿が完全に見えなくなったあと、少女は店に飛び込んだ。

「ちょっと、今の、どうしたの? あんた何をしたのよ!」

 中に入ると少女はベールをとった。浅黒い肌に黒い瞳、後ろで一本に編まれた真っ直ぐな黒髪が現れる。しゃらりと金色の装身具が音を立てた。

 薄暗い室内には貫頭衣をまとい、顔まで白いターバンで覆った男が座っていた。

「なんだ、また来たのか」

 若い男の声。

 男の目の前には美しい細工の白い壺が四つ置かれており、そのうちのひとつの中からクサリヘビが鎌首をもたげていた。

 少女は思わず顔をこわばらせ、声を失いながらその蛇を指さす。男は何でもないようにいってのけた。

「ああ、これか。うちの商品はお気に召さなかったらしい」

 男はひょいとクサリヘビに手を伸ばして、その首をつかんだ。少女は真っ青になる。が、男はなんでもないように蛇を壺の中へと押し込めると蓋を閉めた。上に動物の彫像が乗ったような、凝った細工の蓋である。

「ど、毒は!?」

「毒牙は抜いてあるさ。でなければこんな危ない物、置くわけないだろう?」

 なんでもないことのように男はいった。

 少女は先ほどの二人の男達のことを思う。適当な気持ちでこの店に寄り、いきなり毒蛇を出されて驚かされたのだろう。誰でも香料商のスークでクサリヘビが出てくるとは思うまい。彼らがたまたま寄ったのがこの男の店であったという不運に、少しだけ同情を覚えないでもない。

「この根性悪」

「……ふふっ」

 男は少し肩を揺すった。

 薄暗い店内はよく見るとあちこちに妙なものが置かれている。スークはたいてい同じ物を扱う店が固まっているものなのに、ここは香料商のスークにありながら雑貨とまじないの品を一緒に置いているような、かなり怪しげな店だった。どこから仕入れてくるのやら、男は色々なものを取り扱う。見たことはないが後ろ暗いものも扱っているに違いない。


 少女は踊り子だった。

 最初にこの店を訪れたのは、目元を彩る化粧の粉を選ぶためで。

 いつのまにか化粧品よりもおしゃべりに興じるために通うようになった。

 店内にはトルコ渡りだという嘘臭い由来がついたアラベスク模様の絨毯が敷かれている。男は少し尻を持ち上げ、自分の下に敷いていたクッションのひとつを少女に投げてよこした。少女はそれを受けとって自分も絨毯の上に腰を下ろす。

「この壺、きれいね。蛇が入ってるなんてもったいない」

 異国風の細工が美しい、白い壺に手を伸ばす。雪花石膏アラバスターで出来ていると思われた。男はやはりなんでもないことのように、けろりとしていった。

「それはカノポス壺」

「ふうん?」

「エジプトでミイラの内臓入れに使われたものだ」

 少女は慌てて、手を引っ込めた。

 うかがうように男をみやる。だが男は、愛でるようなまなざしを白い壺に向けていた。本当に美しい物に対する敬意の目だ。少女はそんな男の態度を見、改めて壺に目を向ける。最初は気味が悪いと思ったが先入観なしで見ると、壺はとても美しかった。遠いエジプトの神話が耳元で聞こえてきそうな気もする。

 ふと何か思いついて、少女は男の顔を覗き込むように上目遣いで見つめた。

「ねぇ……私、実はエジプトから売られてきたの……っていったら信じる?」

 男は少し目を見張ってまじまじと少女を観察する。男の瞳は普通のアラブ人のそれより薄くて、透き通った金茶色をしていた。

 すぐにその瞳が優しく笑った。

「いいや、思わない」

「即答ね」

 少しつまらない。

「お前の言葉にはエジプト訛りがない。紛うことなきマグレブ方言だ。小さいころからここで育ったんだろう」

 少女は頬を膨らませた。男のいうことは理詰めすぎて面白くない。

「ねぇ……エジプトは、遠い?」

「遠いな。アルジェからだと海ぞいをずっとずっと東に行って、ナイル河に出くわせばエジプトかな」

「ふうん」

 そこで会話が一時、途切れた。

 さて、男は白いカノポス壺に手を伸ばして四つのうち三つまでを抱える。それから立ち上がった。それを持って付いてきな、と最後のひとつの壺を顎で指す。少女は側に置いた自分のベールを首にかけ、最後に残った壺を抱きかかえた。雪花石膏でできたそれは意外に重い。中からときどきシューシューと音がするような気がしたが少女はあえてそれを無視した。

 狭い店内はあまり奥行きがない。男の背中を追いかけて階段をのぼり小部屋に入ると、やはりそこにも色々なものがあふれかえっていた。巻いた絨毯が壁にいくつも立てかけられており、変わった形のランプや、水たばこの装置なども置いてある。

 男は隅っこにある棚の前に立ち、ゴトリと音を立てて真っ白なカノポス壺を置いていく。どうやらそこが定位置らしい。

「最後、ここな。落とすなよ」

「中に大事なものが入っているから?」

「よく分かってるじゃないか」

 あえて何が入っているか少女は考えないようにする。指し示されたところにそれを置くが、置き方が気に入らなかったのか男が自ら位置を直した。

 その隣に立ち、少女は男の横顔を見つめる。室内でもいつも顔を隠しているので彼の顔を見たことは一度もない。淡い瞳の色はアラブ人らしくない。肌の色も薄い。もしかするとヨーロッパの血が入っているのかも。この国は昔から様々な民族が支配を繰り返した地だ。自称アラブ人も元をたどれば色々な民族の血が混ざり合っている。

「あなた、どこから来たの?」

 と、思わず口をついて出た。

 男はその瞬間、わずかに目を見張ったように思えた。ゆっくりと、瞳だけを動かし、少女を見る。透き通った硝子玉のような瞳に見つめられて、少女は自分が何か悪いことをいってしまったと身をすくめた。

 一瞬の緊迫。

 ターバンで隠されて男の表情ははっきり分からなかったが、唯一見えている瞳は柔らかく笑った。身をすくめる小娘を脅えさせないように気づかっているのが少女にははっきり伝わる。そして大きな手で少女の頭をなでた。

「子供扱いしないで」

 少女はその手を振り払った。対等に扱ってもらえないのが、何かくやしい。男は面白がって小さく笑っている。

「女扱いされたくば、せめて男の前ではベールくらいつけろ。わかってるか? ん?」

 少女はぷいと横を向いた。

「私は踊り子だもの……」

 一番美しい姿を見せるのは夫の前だけという慎ましやかな市井の女と違い、不特定多数の男の前で顔をさらし、体をくねらせて踊るのを生業とする女だ。昼間は顔を隠していられるけれど夜になればそうはいっていられない。フランス人の前で踊ることもある。彼らは物珍しい猿をみるような目で異国の舞姫を眺めまわす。そんな生業をしている自分に、普通の女の幸せなど望むべくもない。

 この店で、この男の前で、ベールをかぶらないのはまた別の意味もあるのだけれど。

 けれど男はただ面白がって笑うだけ。そういえば、と何か思いついたようだった。

「いいものをやろうか」

 男が何かくれるというので少女はぱっと顔を輝かせる。

「いいもの!? 何、何? 美人になる薬? 不老の薬? それとも催淫剤!?」

「子供がそういうことをいうんじゃない」

「また子供扱いする!」

 男と少女は軽口の言い合いをしながら小部屋を出た。


 傍らにベールを置き、砂漠の民ベルベル人の村で織られたという暖かな絨毯のある部屋で待っていると、男は小さな薔薇色の瓶を持って現れた。小瓶はコルクでしっかり栓がされている。

「なぁに?」

 少女が覗き込む。男は端的に答えた。

「薔薇」

 男がコルクの栓に手をかける。

 栓を取ると、小瓶に閉じこめられた香りが一斉に解放される。辺り一面に何ともいえぬ甘やかな香りが広がった。蜂蜜に似た重厚な、野趣あふれる香り。何万という薔薇が一気に開花したような。

「いい香りだろう? そうだな、ある意味催淫剤といえなくもない。古来より薔薇の香りは男を惑わせるというからな。特にブルガリア、トルコ、モロッコなどで作られる薔薇は香水の材料として珍重される。これはモロッコの薔薇だ」

「……香水」

「いい香りだろう?」

 男はもう一度そういった。少女は何もいわなかった。いえなかった。言葉などいらなかった。その香りの心地よさに、子宮の奥からこみあげる恍惚と官能に、思わずうっとりと身をゆだねてしまう。

「俺がどこから来たのかと聞いたな。これと同じところから来たのさ」

「モロッコ?」

「そう。遠い国。アルジェからちょうどエジプトと反対側、ずっと西へ行った、今はスペインとフランスが奪い合いをしている美女だ」

 ジブラルタル海峡を挟んでスペインとは目と鼻の先。アラブからはアルジェリアを通してイスラームの匂いが入り、南のアトラス山脈を越えればベルベル人たちが住まうサハラが広がる。そして西は海。大西洋だ。

 砂漠の国。文化の交流地。薔薇の咲く国。

「香水を一瓶作るのに、一体どれほどの薔薇が必要になると思う? かご一杯摘んでやっと一滴だ。アトラス山脈から雪が溶け、春がやってきたほんのわずかな花の季節、香りの逃げぬ早朝に薔薇を摘む。そして花びらを蒸留して香気だけを集めて冷まして……そうやって作られた故郷の花さ」

 男の目はそこにありながら何を見ているのか、何を思うのか。

 遠いモロッコで咲いた薔薇は、ここアルジェのカスバの乾いた風にもよく似合う。

 まるで近くにあるように錯覚する異国の匂い。

 男がガラスの棒を小瓶の中にいれると、一滴、香りが凝縮した水がついてきた。男はそれを指にとる。

 指が、少女の耳たぶに触れた。

 しゃらり。

 金の耳飾りが音を立てた。

 耳たぶから冷たさが伝わる。ぞくり、と、思わず肌が粟立つ。香りの水で濡れたせいでいつもよりはっきりと指の感触を感じる。

 ひやりとした感覚は、指の感触と同時に肌の上を這う。

 あごの骨に沿いながら指が動く。

 脈を打つ場所、褐色の皮膚の上をゆっくりと指がなぞっていく。

 柔肌に温められて薔薇の香りが強くなった。

 男の指は、ゆっくりと、少女の首筋をつたう。下へ、下へ。

「……あ……」

 喉がからからに干上がった。

 頬が上気する。

 瞳孔が開く。

 体に小刻みに震えが走る。

 心臓が早鐘を打つ。

 触れられた部分が熱い。

 男の、指が、ゆっくりと鎖骨までおりてくる。

 そっと鎖骨をなぞり、大きく襟ぐりの開いたカフタンに触れることなく胸骨の真ん中へと、男の指がやや力をこめて移動する。香りをこすりつけるように。

 体の中央を真っ直ぐにおりてくる指の行き先に思い至り、少女は顔から火を噴いた。

「……や……!」

 少女の長い三つ編みが跳ねた。

 胸を覆い隠すように肩を抱き、少女は男の指から逃げる。

 嫌だったからではなく。

 ただ、恥ずかしくて。

 薔薇の香りが少女を取り巻くように強く香っていた。恍惚と、官能と、羞恥をすべて孕んで少女を包み込んでいた。少女はいつものように男の目を見られなかった。それどころか恥ずかしくて満足に顔をあげることもできなかった。

 だから少女には声だけが届く。怒ってもいない、笑ってもいない、厳かな男の声。

「お前はいずれ、このカスバで一番の踊り子になるだろう。そして砂漠の民の首長シャイフの妻になる。夫に愛され、お前は跡継ぎを含んだ、たくさんの子供を産むだろう。――それを神が望みたまうならば」

 頭から冷水を浴びせかけられたかと思った。

 それまで体を包み込んでいた恍惚は一瞬で失せ、少女は男の言葉に耳を疑う。

 男の言葉が何を意味するか。

 意味を一瞬で理解した少女の、次の行動は素早かった。傍らにおいてあった自分のベールをひっつかむと、それをかぶって駆けだした。早くここから遠ざかりたかった。

 男の言葉が何を意味するか。

 少女の淡い想いは永遠に成就しない、と云われたも同然だった。

 なにが悲しくて想う男に他の男との婚姻を宣告されねばならないのか。

 ただ、もう、どうしていいのか分からなくて。

 だから逃げた。

 逃げ出したかった。

 明日になればいつもと同じやりとりが繰り返されることを祈って。


 少女が駆けだしたあと、男はずっと戸口に目をやっていた。辺りにただよう残り香は故郷の薔薇。男は金茶色の瞳に苦い微笑を浮かべた。

「また明日。インシャーアッラー」

 それを神が望みたまうならば。

 未来は人のものではなく神の領域。人がどうあがこうとも神の意志には逆らえず、未来がどうなっているかはすべて神の御心のままに。


  *


 翌日。いつもと同じようにスークにやってきた少女は、店の前に人だかりが出来ているのを見た。知らない男達が戸口に固まっている。その雰囲気に、小娘風情が入っていくにいけず、しかたなく近くの店にいる女を捕まえて問うた。

「すいません、何かあったんでしょうか?」

「ああ、よくあの店に来ていた子ね。詳しくは知らないけれど、うちの亭主がいうには昨夜、強盗が入ったんですって」

 どうも怒らせてはいけない相手を怒らせてしまったらしい。少女の脳裏に、昨日の昼間見かけた二人連れが浮かんだ。

 夜、争うような声を聞いたという。店内は荒らされ、店にあった様々な珍しい品は壊されたり奪われたり。そして、周囲の人間がそれに気づいて店内に入ったとき。男の姿はどこにもなかった。

「無事に逃げたか、さらわれたか……もしくは考えたくないことだけれど、もう……」

 女の潜めた声に、少女は言葉を失った。

「本当に怖いこと。うちの亭主にも気を付けてというんだけれど。なにしろあそこは、怪しげな物も扱うって噂だったでしょう? 何か恨みでも買っていたのかしらって亭主と話していたの。カスバの中も最近は本当に治安が悪くなって……あら、あなた、顔色が悪いわ。大丈夫? まぁ、本当にひどいわ! 横になって休んでは? ね?」

 親切な女の声がまるで他人事のように遠くに聞こえた。

 薔薇が、香る。

 昨日、首筋についた薔薇の香りはベールにうつって、まだ芳香をとどめていた。もはや最初の鮮烈さはなりをひそめ、肌の香りと一体化して柔らかな香りに変化していた。それでも薔薇はあくまで薔薇で。

 薔薇の香りが昨日の出来事を思い起こさせる。

 夢ではなかったのだと主張する。

 そしてその一方で、目の前の出来事も夢ではないのだと、残酷なまでに告げる。

 薔薇の香はまだそこにあるのに、あのひとはもういない。

「あなた、大丈夫? 気分が悪いの?」

 気が付くと少女の頬を暖かなしずくが濡らしていた。涙がとまらなかった。

 薔薇よ、薔薇よ。

 未来はアッラーの望みたまうままに。


   *


 歳月が降り積もる。


 少女は長じて、美しい女になった。

 昔、『誰か』が告げたとおりに、女はカスバで名の知られた踊り子となった。

 幾人かの熱心な求婚者がつき、特に熱心だったのはトゥアレグ族の首長シャイフだった。白いひげを蓄えたシャイフにはすでに三人の妻がおり、女は彼に嫁いで四人目の妻となった。

 夫は街育ちの四人目の妻に心を配り、環境の厳しい砂漠の村ではなく水と緑あふれたオアシス(ワーハ)に女の住居を整えた。彼はらくだに乗って砂漠の向こうの村に帰る。村には三人の妻が待っている。妻を公平に扱えない者は複数の妻を持つ資格がない。たとえ住居が離れていても、夫はできうる限りの愛を彼女に与えてくれた。

 子供にも恵まれた。『誰か』は跡継ぎを産むといっていたが、さすがにこれだけは当たるまいと、女はたかをくくっていた。年老いた夫には、女とほとんど年の変わらない長男がいたからだ。だが長男の家には男が生まれず、結果的に女が産んだ最初の男子を養子にして跡を継がせることに決まった。

 なにもかも『誰か』の告げたとおりに。

 それでも、女はそれなりに幸せだった。普通の市井の女のように、美しく着飾って夫の訪れを待ち、子供達のため料理を作る。中庭パティオには薔薇を植えた。普通の女の幸せを噛みしめていた。


「母様、母様!」

 息子達が帰ってきた。女は顔をほころばせる。

「おかえりなさい、可愛い坊や」

 今日は外に市が立った。砂漠を行き交う遊牧民の商人が来ていた日だ。子供達はずっとこの日を楽しみにしていた。息子達はトゥアレグの青い衣をまとって外に出、娘達は一緒に家で留守番だった。おみやげを楽しみにしている。商人たちが運んできたのか、今日は砂漠からの風が強かった。

「楽しかった? 母様も妹達も帰りを今か今かと待っていたのよ」

「うん! 母様、これ、おみやげ!」

 そういって息子は両手を差し出してきた。

 赤い、硝子製の香水瓶だった。エジプト土産で有名なものである。

「母様が絶対喜ぶと思って!」

「まぁ素敵。実はね、母様にはエジプトの血が入っているのよ。ありがとう、嬉しいわ」

 それを見て一緒に出迎えにでた娘が、自分に土産はないのかと兄に対して頬を膨らませる。ほほえましい、愛すべき光景。

 赤い香水瓶を受け取ってから、それに中身が入っていることに気が付いた。

 エジプトの香水瓶は瓶そのものが美しいので価値があり、正直いうと密閉度がよくないので中身を入れて売ることはない。

「……これ?」

 思わず訝った声とは正反対に、息子が表情を明るくした。

「それね、母様が絶対に喜ぶからって、お店のおじさんがいってたよ!」

 女は首を傾げながら香水瓶の蓋をとった。

 その瞬間に。

 薔薇が、咲いた。

 何万という薔薇が一斉に。

 辺り一面に何ともいえぬ甘やかな香りが広がった。蜂蜜に似た重厚な、野趣あふれる香り。砂漠の風によって巻き上がる、一気に解放された薫り高い薔薇。

 この香りを知っていた。

 思い出が浮き彫りになる。遠い昔の光景が、鮮明な色を伴って蘇る。子宮の奥からわき上がる恍惚と、官能と、突かれるような胸の痛みと共に。あの男に触れられた部分、耳たぶが熱くなった。

「母様!?」

 涙があふれていた。

 あとからあとから、あふれるワーハの泉のごとく、とめどなく。

「……大丈夫。大丈夫よ。大人はね、嬉しくても涙が出るのよ……」

 口ではそういったけれど、自分でも喜んで泣いているのか悲しくて泣いているのかわからなくなっていた。蘇る想いはあまりに鮮明で、ただただ胸が痛かった。あのときは幼すぎて、想いを伝えることも、あのまま受け入れることもできなくて。


 あのひとが生きている。生きて、同じ町、同じ空の下にいる。だがもう手は届かない。


「ありがとう、嬉しいわ。これはね……」

 涙が止まらない。

「――母様が愛した、モロッコの薔薇よ」


 咲かなかった恋の花。


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モロッコの薔薇 十和田 茅 @chigaya

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